苦手な君と異世界へ

波辺 枦々

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悩める男子は着替えが遅い

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タイムカードを押して、油の匂いが染みついたTシャツを脱ぐ。
少し清々しい気分だ。
しかし、それも束の間、すぐに自分の髪から同じ匂いが漂ってきて、せっかくの清々しさはどこかへ行ってしまった。

(居酒屋バイトの宿命だから、しょうがないんだけどさ)

入野智也いりのともやがバイトしている焼き鳥居酒屋「鳥義賊」では、冠として掲げている焼き鳥よりも、揚げ物メニューが多い。
智也はホール担当だけれど、仕事終わりにはいつも体から油の匂いがしている。
嫌いな匂いではない。
ただ、好きな匂いでもなかった。
いかにも食べ物屋でバイトしてます感が気になる智也は、他のバイト仲間が上のTシャツだけを着替える中で、珍しく上下を着替える派だった。

上を着替え終えたところで、スマホを手に取った。
バイト中もずっと気になっていたからだ。

(まだダウンロードしただけだから、誰からも連絡ないのは分かってるんだけど…)

意を決してダウンロードした、そのアプリを眺める。
いわゆるマッチングアプリだ。
しかも男同士の。

この世に生を受けて二十一年、智也は恋愛経験が皆無だった。
同性が好き、というせいもあるかもしれないが、単純に恋愛に対して消極的な性格が影響しているのは確実だ。

今まではなんとなくやり過ごせていた。
しかし、大学生活も折り返し地点を過ぎて、周りのほとんどの友人達に恋人がいて、すったもんだありながらも楽しそうな様子を間近に見ていると、これまで通りにはいかなくなった。
消極性を淋しさが上回ってしまった。

最近までは、智也だって理想を持っていた。
学校でもバイト先でも、場所はどこでも良い。
ドラマのようなきっかけから素敵な人と出会って、素敵な恋がしたい。
けれど、そんなことが起こる兆しはいつまで経っても来なかった。

身体的にも限界だった。
ここ最近、毎日のように夢に見ている。
誰かに抱かれる夢だ。
日に日にリアルに感じて、それだけ自分の欲求が高まっていることに恐ろしさを感じるようになった。

出来れば「最初」は好きな人とが良かった。
そういう行為は相思相愛の相手とやるべきものだ、と疑わずに生きてきた。
けれど、それは智也にとっては叶わぬ夢だと最近になってようやく諦めがついた。
だんだん、頑なに理想を抱いている自分が可哀想になってきたのだ。

数日かけて評判の良さそうなアプリを調べて、思い切ってダウンロードしたのがバイト前。
登録して実際にアクションを起こすのはこれからだ。

アプリのアイコンをなんとなく眺めている時、智也だけだったロッカー室に人が入ってきた。

「…っす」

そっけない挨拶。
後輩の鍛治田拓海かじたたくみだった。
体格が良いせいか、狭いロッカー室の人口密度が一気に高くなったような気がする。

「お疲れ様」

言った後の沈黙。
いつもの光景だ。

拓海が半年前に入ってきて以来、智也は先輩として距離を縮めようと試みてきたけれど、全くの徒労に終わった。
親しげに話しかけても「…す」「…すか」「…すね」という反応と呼べるのかも疑わしい反応しか返ってこない。
だから、いつのまにか仲良くすることを諦めてしまった。

智也は割と誰にでも愛想を振りまくタイプだ。
実際に八方美人と言われたこともある。
そんなタイプを嫌う一定の層がいることは分かっている。
きっと拓海もそのうちの一人なのだろう。

ただ、挨拶だけはしてくれるし、拓海はキッチン担当だから接する頻度が少ないのが救いだ。

今日も無理に話しかけるのはやめておく。
それに、智也の頭の中はアプリのことで一杯だ。

「…すいません」
「っえ!?」

驚いた。
拓海がすぐ後ろにいたからだ。
とっさに避けると、智也のロッカーの隣を拓海が使おうとしていた。

「そっか。前のロッカー、壊れたんだったね。邪魔してごめん」
「…す」

拓海は元々、別のロッカーを使っていたが、鍵穴が壊れたらしい。
そこにタイミング良く、智也の隣を使っていたバイト仲間が卒業したため、移ってきたのだった。

(やっぱり気まずいんだよな、この空気。苦手だ…)

沈黙が流れる部屋。
ロッカーは隣同士。
着替え中でなければ、部屋の端にでも行きたい気分だ。

そんな智也に対して、拓海は特に何も感じていないようだ。
着替える姿はいつもどおり、実に堂々としている。

(拓海君の方が歳下だけど良い体してるんだよなぁ…っていかん、いかん!ジロジロ見るのはマナー違反だ)

視界の端に入り込む拓海の体を、つい意識してしまう。
何かスポーツをやっていたらしく、背中まで綺麗な筋肉がついている。
同じ男として羨ましい気持ちもあるし、恋愛対象としても理想の体だ。
ただ、拓海が恋愛対象かというと違うような気がする。
智也は昔から、年下には興味が持てなかった。
いつも淡い恋心を抱いたのは、年上だった。

(って勝手に対象外にするなんて拓海君に失礼だよな。いや、俺から恋愛対象にされるのもそれはそれで微妙か…)

たまにバイト仲間との飲み会で「彼氏にするなら誰が良いか」とかいう下世話な話になるが、一番人気は拓海だ。
今時珍しい硬派な見た目と性格が、バイト仲間の女の子達に好評らしい。
確かに仕事ぶりも真面目だし、そんなに口数は多くないけれど気遣いが出来るタイプのようだ。
誰それが拓海を狙っているらしい、という噂話も幾度となく聞いたことがある。

ちなみに、智也はというと「愛玩動物としか思えない」だとか「国民の弟」というさんざんな評価だった。
流石に年下の子から「甥っ子みたい」と言われた時には、少し傷ついたし、今でも納得出来ていない。

(しまった!ズボン着替えてないや。モタモタするんじゃなかった)

まだ着替えが終わっていなかった事を思い出し、拓海からじんわり離れつつ背を向けてズボンを脱いだ。
あまり着替えるところは見られたくない。
男らしくない貧弱な見た目、というのもあるが、単純に他人がいるところで着替えることが昔から恥ずかしい。

脱いだズボンを畳もうとしたら、スマホが滑り落ちた。
背後にいた拓海に驚いた時に、尻ポケットに突っ込んだままだったのを忘れていた。
運が悪いことにスマホは拓海の足元に落ち着いた。

智也が拾おうとするよりも早く、拓海が手に取った。
こちらを向く拓海の視線が一瞬、智也の足元で止まったような気がした。

(もやしみたいな足とか思ってるんだろうな…)

未だズボンを履いていない間抜けな状態に、咎めるような視線が刺さる。
しかし、気のせいだったのか、すぐに拓海は何事もなかったようにスマホを差し出してきた。

「ご、ごめん!ありがと」
「…す」

スマホを受け取ろうと手を伸ばすと、軽く拓海の指に触れた。


その瞬間だった。


智也と拓海の周りを、青い光の輪が包む。
目が開けられないくらい眩しい。
さらに、強い風が二人の周りだけを取り囲むように吹き荒んでいる。

「これ何!?」

混乱するしかなかった。
爆発か何かが起きたのかと思って周りを見渡しても、部屋の中は変化がなかった。
智也と拓海の周りを除いては。

とにかく光の輪の中から出ようとしてもがいてみるけれど、上下左右に吹き荒ぶ風で体が上手く動かせない。

「入野君、危ない!」

バランスを崩して宙に浮く智也を、拓海が腰に腕を回して支えた。

光と風は弱まることなく、むしろ強くなっていった。
恐怖で拓海の体に縋り付いた。
拓海が何かを伝えようとしているが、風音で聞こえない。

ますます強くなる光と風に、目も開けられなければ、息も出来なくなってきた。
次第に、光と風を感じなくなった。
重力がなくなったかのように、体がふわりと浮き始めた。

(死ぬのか、俺)

遠のく意識の中で最後に残った感覚は、智也を強く抱きしめる腕の感触だった。

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