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最後の日
第23話 最後の日 5/5
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新幹線の改札手前で、初めて入場券というものを購入した。それは文字通りホームに入るためだけの券で、新幹線に乗るための乗車券とはまた別物だ。
ドラマや小説なんかで、車体のドア口を隔てて手を振り合う別れのシーンがよくある。やがて二人の間のドアが閉まって新幹線は発車し、車窓から、駅のホームからお互いを見送るあのシーン。
「乗らない側の人はそもそも改札を通れないよな」と子供ながらにいつも不思議がったものだ。まさか主人公は見送りのためだけに高い乗車券を買ったのかと疑問だった。
疑問が解消されたのは、高校を卒業して間もないある日。
僕の上京を両親が見送ってくれたあの日だ。予め用意しておいた僕の切符と、両親が駅で買った券が異なっていたから。
両親が購入したそれこそが入場券だった。ドラマの主人公も裏でこれを買っていたのかと、そのときに知った。
そして僕はいま、ドラマで言うところのホームから見送る役になる。
「おーふく券ですっ。ご精査をっ!」
日乃実ちゃんは学割の効いた往復券を元気よく駅員に提示し、僕はすぐ横の改札に入場券を投入し構内へ吸い込まれる。
ほとんどの世間にとって今日はゴールデンウィーク最終日なので、新幹線で遠出してきたらしい観光客が多く見受けられる。時間が少し違えば混雑していたかもしれない。
ちなみに、わざわざほとんどの世間、なんて言い方をしたのは、ゴールデンウィーク中にも関わらず労働尽くしな悲しきサラリーマンも存在するからだ。
仕事カバンを携え、腕時計に目を落とし、せかせかとどこかへ歩いて行く。
(あの人…………ゴールデンウィーク初日の待ち合わせの日も見たような)
僕らが出会ってから今この瞬間までに起こった出来事が、一度読んだ漫画のストーリーをぼんやりとそらんじるように思い出された。
ホームに出て、二人そろってベンチで一休みする。
特に日乃実ちゃんは、何十リットルもありそうなデカいリュックを降ろしては「ふぅい~」とくたびれた息を吐いて座り込んだ。
「大きな荷物を背負ってたこともだけど、この五日間を通してという意味でも、お疲れさま」
「うんっ、ありがとっ。学校みれたしー、宿題もほぼ終わったしー、どーもありがとうございましたっ」
日乃実ちゃんの屈託ない笑顔は、夕焼け前の太陽に劣らない眩しさを放つ。
その輝きが、彼女にとってこの五日間がどんなものだったかを表しているようで、心の底で油断なく張り詰めていた糸が僕の胸中をほろりと降りていく。
日乃実ちゃんにとって、価値のある五日間で本当によかった。
「でも」
彼女は切り出す。
「一つだけう~んって感じ。解消できない問題が残ってるんだよね~」
問題がある。胸をなでおろした矢先に聞くセリフにしては穏やかでなく、僕はぎょっとする。
新幹線の到着予定まであと十五分ほどしかない。どうかその猶予だけで何とかなる事柄であってほしい。
「進路希望調査書、まだ書けないや」
日乃実ちゃんはそう笑った。呆れやら嬉しさやら判別が難しそうな感情を覗かせて。
「提出期限は?」
「ゴールデンウィーク明けから順番にやる面談までにって。無理じゃない?」
「仕方ない、アウトだな。甘んじて担任に ってもらえ、な」
諦めて僕も笑ってやった。新幹線が来るまでに進路を決めるなんてとんでもないなと。
「シンタローの場合は? ぶっちゃけどうやって記者? ライター? になったのっ?」
「僕は……成り行きかな」
「ぶっちゃけたねっ!?」
色々な企業に応募して採用されたのがいまいる編集社だった。という一行二行で済む顛末を伝える。
「もとから記事を書きたかったわけじゃないんだ?」
「まるで全然。でも今日まで続いたよ」
来年どうなるかはわからないけど。とは言わなかった。
「月並みな言い方になるけど、希望通りじゃなくても楽しいと思える仕事だってあるかもよ」
調理師じゃなくても、というニュアンスの振りに日乃実ちゃんは、そうだねともいやいやとも応じない。
答えられるはずはなかった。答えがあるなら、進路希望調査書に空白など出来ない。
余計なことを口走った、と下りた沈黙が僕に知らせて来る。
ゆっくり考えて決めればいいんだよと言葉を継ごうとしたけれど、僕が放った余計なことについて、日乃実ちゃんはすでに真剣な顔に手を当てて考え込んでいたのでやめた。
「私の楽しいことと言えば……」
言えば?
「……お料理っ」
まず。
やはり。
何と言ってもこれしかないとばかりに料理を挙げた。
「あとはなんだろ……シンタローっ」
「ここで僕かいね。どうした?」
「シンタローは家事ってすきっ?」
突然だな、と思いつつ家事に対する胸の内を率直に述べてやる。
「洗濯とか掃除は……習慣はあるけど、好きより面倒だな。自炊は言わずもがな」
「ふーん……じゃあ帰ったらおかーさんのお手伝いしてみよっかなっ」
質問が薮なら結論は棒だった。進路希望についての話題はいつの間にか家事へと舵を切られる。
まさか将来の夢は親の家事手伝いとか? それはないよな。日乃実ちゃんに限って。
「それでさっ、もしお掃除お洗濯を、それも料理と同じくらいすきになれたらさ! それって立派な――――」
立派な、なんだ。自宅警備員いわゆるニートいわゆる無職にはなって欲しくないぞ。
続きを聞かなくても、見ればわかった。僕のこんな思考は杞憂だと。
その先を語ろうとする日乃実ちゃんは純粋なカオをしていた。
「お嫁さんじゃないっ!?」
捉えようによっては無職と変わらないのでは、とか一瞬でも思い浮かべた自分を消去した。独身の自分と中学生の彼女とでは見据えるお嫁さんのシルエットが異なる。
「家政婦とかならイメージできなくもないね」
「えー、お嫁さんはっ? どう?」
「どうと聞かれましても……」
わからない。独り身なので。
出発予定まであと十分ほど。遠くの駅で混雑しているのか、この時点でも新幹線はやってこない。
それからは、
私がシンタローのお嫁さんになったげよっか。
とか、
でーもシンタローはさや子さんを狙ってるんだもんね…………。
など。からかわれ続けて出発の五分前になった頃、予定の新幹線が到着した。
気づけば周りにはかなりの人がいた。日乃実ちゃんと同じく都心から地方へ帰ろうとする人だかり。
そして着いた新幹線からはそれ以上の人だかりが大挙して吐き出された。
「うわぁ~、トーキョースゴッ」
これから地方に帰省する勢力が人、人、人なら、いわゆるUターンラッシュの勢いは人ひとヒト、人ひとヒト、人ひとヒト……という具合だ。
「日乃実ちゃんがこっち来るときもこんな様子じゃなかったかいね?」
「あのときは朝早かったから、ここまでじゃなかったよっ!」
うおぉ、スゴイスゴイと日乃実ちゃんはスポーツ観戦のごとく拳を握っている。
ただの客移動だけど、動く大勢の気配が静まるまで彼女はエキサイトしていた。
「そんなに珍しかったかいね?」
「いやもうちょーすごいよねっ!」
日乃実ちゃんは都心がいかにすさまじいかを、都心住みの僕に語りまくる。ひとしきり捲し立てられた頃、人がはけた新幹線の清掃がほど終わったらしい。
僕たち以外の乗客は、開きっぱなしの乗車口に列を作って吸い込まれていく。
それを追いかけようとリュックを背負う衣擦れ音が隣から飛んできた。
よっこらせっ、と。
ホームに残っているのは僕たち二人だけになる。膨らんだリュックを前に背負って、いかにも「乗ります!」な格好の日乃実ちゃんと、乗れない券でホームにやってきた僕。
乗車口のそばで名残惜しそうにこちらを振り向く。名残惜しそうに見えるのは、そう思っている僕の錯覚かもしれないけれど。
「お世話になりましたっ。ありがとっ」
「それは……どういたしまして」
数歩の距離で言葉を交わす。新幹線が発車すれば、この距離はあっという間に離れてしまうので、ここが最後のやり取りになる。
どんな言葉をかけるべきなのか。僕は上京するときでさえ、両親と大した挨拶は交わさなかったように思う。
「外食ばっかじゃなくて、ちゃんと自分で体に良いもの作るんだよっ」
「了解」
「自炊がマンネリ化したら私がレシピ授けたげるから。連絡することっ」
「ああ」
「……さや子さんとも仲良くしてね?」
「もちろん」
――ピロロロロロ。アナウンスが響く。新幹線はもうじき発車するらしい。
もちろん、日乃実ちゃんが乗る予定の、目の前に停車中の新幹線が、だ。
「……日乃実ちゃん、時間が」
「あー……だね」
ゆっくりと言い聞かせるような、自分の気持ちに踏ん切りをつけるような足取りで、日乃実ちゃんは乗車口の向こう側へと渡った。
あとは時間になり次第、乗車口のドアが閉まって予定通りに運行してもらうだけになる。
「気をつけて帰るんだぞ」
「うん、ダイジョーブ」
「降りる駅、寝過ごさないようにな」
「私が寝過ごしたら、早起きさせて玉子焼き手伝わせたシンタローのせいってことで」
「……かもしれない」
愛らしい反撃に僕がやれやれと頭を搔くと、日乃実ちゃんは機嫌よく笑いを上げる。
「それとシンタ――」
『○○線、ドアが閉まりますーご注意くださいー。えー、当線は△△行き――』
アナウンスは無情にも日乃実ちゃんの声を遠ざけ、閉まるドアは容赦なく僕たちを隔てる。
やがて新幹線は動き出した。見送る側になるのは初めてのことで、視線を憚らず大きく手を振るべきか、別れを叫ぶべきか悩んだ。
悩むうちにもドア窓越しに映る日乃実ちゃんの双眸は遠のいていくので、僕はその両目を何も言わずに見つめることにした。
ほどなくしてビル群に埋もれる車両を黙って見送った。
その後、僕はホームで一人放心していたと思う。
座席は空いていただろうか。新幹線が到着してからずいぶんあとに乗り込ませてしまったから、ただでさえくたびれてるのに一時間近く立ちっぱなし……なんてことにならないだろうか。いや平気か。学割の切符が指定席券だったことがふと思い出される。
じゃあもう気にすることなんてないか。
部屋に帰ろう。
冷蔵庫に残る食材を丁度よく使いきれるメニューを教わったので、それ用の食材を買ってから。それに今日はお酒も欲しい。
うつろな頭で階段を下り、その足で駅構内に併設されたコンビニへと向かう。
野菜コーナーで袋のきゅうりを手に取った瞬間や、同じ野菜同士を見比べる一瞬の隙を見て、否が応でも日乃実ちゃんとの日々が脳裏に蘇る。
たとえばこのきゅうり。指先に刺さるほど新鮮なイボと張りがある表面。持てばずっしりとした重みがあり多分な水分がギッシリ身に詰まっているとわかる。これを買って帰ろう。
と、日乃実ちゃんが教えてくれた。一緒に買い物をする際、僕は他の食材はともかく、きゅうりにだけは密かに目利きしていたから忘れられるわけない。
だからこれからも、品物のきゅうりを手に取るたびに彼女との日々を思い出すのだろうか。
一人きりの買い物でその仕打ちは、きっと寂しい。
食材を選び終えて酒類コーナーを物色する間さえ、気を抜けば彼女が脳裏をよぎる。
よぎれば刹那、心の温度が酒を冷蔵するための空気より冷えた。
どうにか現実に思考を引き戻し、食材といくらかの缶ビールをレジに持ち寄る。
驚いたことにレジに立つその人はお隣さんだった。コンビニの制服を身にまとい、「島さんやないですかー、今朝振りっすね」と気前よく会計をしてくれた。
そこから先の記憶は曖昧だ。とりあえず自室に帰り着いているので、おそらくは迷わず帰って来れたのだと思う。
「明日から通常営業だというのに、この調子じゃマズいよな……」
まだ飲んでもいないのに、自室廊下の何でもないところで思わず座り込みそうになる。
心は呆然に支配されていた。何十年来の友人と久々に出会い、遊ぶなり飲み会するなりして帰宅する。その何倍もの呆然が一人暮らしの部屋に充満する。
彼女は最後、僕になんて伝えようとしただろうか。圧倒的な距離が離れたいま、思索しても栓のないことだとわかるけど。
「頭ではわかっているから、あとは……気持ちを切り替えるだけで……」
そうだ。仕事のメールを確認しよう。内容によって、それはそれで頭を抱えたくなる可能性もあるけど、今に限っては助かる。
PCと共用の仕事用メールボックスを確認するべく、スマホを点ける。
目に飛び込んで来たのは記事原稿の納期を早める連絡、ではない。
同僚から、記事ネタを催促するメール。
でもなかった。
『やっぱりすごいよねっ、トーキョーっ!』
「日乃実ちゃんから……」
もう仕事メール確認なんて後でよかった。日乃実ちゃんとのメッセージ画面に指を跳ねさせる。
『やっぱりすごいよねっ、トーキョーっ!』
『って 最後のは言いたくなったのでした(^∞^)ノノ』
「東京のことだったか……日乃実ちゃんらしいな。最後まで」
なんて返すべきか。ほんの少し逡巡してから『家まで気を付けてね』と送っておいた。
「さて、じゃあ飯でも作って――」
『家といえばさシンタロー』
「さすが現代っ子はレスポンスがいい」
――――ブブンッ。メッセージは続く。
『シンタローんちのカギ』
「鍵? がどうしたんだ」
僕の部屋の鍵。以前日乃実ちゃんがお隣さんにお世話になったのは、僕が彼女に鍵を渡し忘れたからこそだった。
その後、たしか日乃実ちゃんは自分の財布に鍵を取り付けたらしかったが、今更それが何なのか。
「――――あっ」
次に届くメッセージに僕は唖然とした。
『返し忘れてた』
ドラマや小説なんかで、車体のドア口を隔てて手を振り合う別れのシーンがよくある。やがて二人の間のドアが閉まって新幹線は発車し、車窓から、駅のホームからお互いを見送るあのシーン。
「乗らない側の人はそもそも改札を通れないよな」と子供ながらにいつも不思議がったものだ。まさか主人公は見送りのためだけに高い乗車券を買ったのかと疑問だった。
疑問が解消されたのは、高校を卒業して間もないある日。
僕の上京を両親が見送ってくれたあの日だ。予め用意しておいた僕の切符と、両親が駅で買った券が異なっていたから。
両親が購入したそれこそが入場券だった。ドラマの主人公も裏でこれを買っていたのかと、そのときに知った。
そして僕はいま、ドラマで言うところのホームから見送る役になる。
「おーふく券ですっ。ご精査をっ!」
日乃実ちゃんは学割の効いた往復券を元気よく駅員に提示し、僕はすぐ横の改札に入場券を投入し構内へ吸い込まれる。
ほとんどの世間にとって今日はゴールデンウィーク最終日なので、新幹線で遠出してきたらしい観光客が多く見受けられる。時間が少し違えば混雑していたかもしれない。
ちなみに、わざわざほとんどの世間、なんて言い方をしたのは、ゴールデンウィーク中にも関わらず労働尽くしな悲しきサラリーマンも存在するからだ。
仕事カバンを携え、腕時計に目を落とし、せかせかとどこかへ歩いて行く。
(あの人…………ゴールデンウィーク初日の待ち合わせの日も見たような)
僕らが出会ってから今この瞬間までに起こった出来事が、一度読んだ漫画のストーリーをぼんやりとそらんじるように思い出された。
ホームに出て、二人そろってベンチで一休みする。
特に日乃実ちゃんは、何十リットルもありそうなデカいリュックを降ろしては「ふぅい~」とくたびれた息を吐いて座り込んだ。
「大きな荷物を背負ってたこともだけど、この五日間を通してという意味でも、お疲れさま」
「うんっ、ありがとっ。学校みれたしー、宿題もほぼ終わったしー、どーもありがとうございましたっ」
日乃実ちゃんの屈託ない笑顔は、夕焼け前の太陽に劣らない眩しさを放つ。
その輝きが、彼女にとってこの五日間がどんなものだったかを表しているようで、心の底で油断なく張り詰めていた糸が僕の胸中をほろりと降りていく。
日乃実ちゃんにとって、価値のある五日間で本当によかった。
「でも」
彼女は切り出す。
「一つだけう~んって感じ。解消できない問題が残ってるんだよね~」
問題がある。胸をなでおろした矢先に聞くセリフにしては穏やかでなく、僕はぎょっとする。
新幹線の到着予定まであと十五分ほどしかない。どうかその猶予だけで何とかなる事柄であってほしい。
「進路希望調査書、まだ書けないや」
日乃実ちゃんはそう笑った。呆れやら嬉しさやら判別が難しそうな感情を覗かせて。
「提出期限は?」
「ゴールデンウィーク明けから順番にやる面談までにって。無理じゃない?」
「仕方ない、アウトだな。甘んじて担任に ってもらえ、な」
諦めて僕も笑ってやった。新幹線が来るまでに進路を決めるなんてとんでもないなと。
「シンタローの場合は? ぶっちゃけどうやって記者? ライター? になったのっ?」
「僕は……成り行きかな」
「ぶっちゃけたねっ!?」
色々な企業に応募して採用されたのがいまいる編集社だった。という一行二行で済む顛末を伝える。
「もとから記事を書きたかったわけじゃないんだ?」
「まるで全然。でも今日まで続いたよ」
来年どうなるかはわからないけど。とは言わなかった。
「月並みな言い方になるけど、希望通りじゃなくても楽しいと思える仕事だってあるかもよ」
調理師じゃなくても、というニュアンスの振りに日乃実ちゃんは、そうだねともいやいやとも応じない。
答えられるはずはなかった。答えがあるなら、進路希望調査書に空白など出来ない。
余計なことを口走った、と下りた沈黙が僕に知らせて来る。
ゆっくり考えて決めればいいんだよと言葉を継ごうとしたけれど、僕が放った余計なことについて、日乃実ちゃんはすでに真剣な顔に手を当てて考え込んでいたのでやめた。
「私の楽しいことと言えば……」
言えば?
「……お料理っ」
まず。
やはり。
何と言ってもこれしかないとばかりに料理を挙げた。
「あとはなんだろ……シンタローっ」
「ここで僕かいね。どうした?」
「シンタローは家事ってすきっ?」
突然だな、と思いつつ家事に対する胸の内を率直に述べてやる。
「洗濯とか掃除は……習慣はあるけど、好きより面倒だな。自炊は言わずもがな」
「ふーん……じゃあ帰ったらおかーさんのお手伝いしてみよっかなっ」
質問が薮なら結論は棒だった。進路希望についての話題はいつの間にか家事へと舵を切られる。
まさか将来の夢は親の家事手伝いとか? それはないよな。日乃実ちゃんに限って。
「それでさっ、もしお掃除お洗濯を、それも料理と同じくらいすきになれたらさ! それって立派な――――」
立派な、なんだ。自宅警備員いわゆるニートいわゆる無職にはなって欲しくないぞ。
続きを聞かなくても、見ればわかった。僕のこんな思考は杞憂だと。
その先を語ろうとする日乃実ちゃんは純粋なカオをしていた。
「お嫁さんじゃないっ!?」
捉えようによっては無職と変わらないのでは、とか一瞬でも思い浮かべた自分を消去した。独身の自分と中学生の彼女とでは見据えるお嫁さんのシルエットが異なる。
「家政婦とかならイメージできなくもないね」
「えー、お嫁さんはっ? どう?」
「どうと聞かれましても……」
わからない。独り身なので。
出発予定まであと十分ほど。遠くの駅で混雑しているのか、この時点でも新幹線はやってこない。
それからは、
私がシンタローのお嫁さんになったげよっか。
とか、
でーもシンタローはさや子さんを狙ってるんだもんね…………。
など。からかわれ続けて出発の五分前になった頃、予定の新幹線が到着した。
気づけば周りにはかなりの人がいた。日乃実ちゃんと同じく都心から地方へ帰ろうとする人だかり。
そして着いた新幹線からはそれ以上の人だかりが大挙して吐き出された。
「うわぁ~、トーキョースゴッ」
これから地方に帰省する勢力が人、人、人なら、いわゆるUターンラッシュの勢いは人ひとヒト、人ひとヒト、人ひとヒト……という具合だ。
「日乃実ちゃんがこっち来るときもこんな様子じゃなかったかいね?」
「あのときは朝早かったから、ここまでじゃなかったよっ!」
うおぉ、スゴイスゴイと日乃実ちゃんはスポーツ観戦のごとく拳を握っている。
ただの客移動だけど、動く大勢の気配が静まるまで彼女はエキサイトしていた。
「そんなに珍しかったかいね?」
「いやもうちょーすごいよねっ!」
日乃実ちゃんは都心がいかにすさまじいかを、都心住みの僕に語りまくる。ひとしきり捲し立てられた頃、人がはけた新幹線の清掃がほど終わったらしい。
僕たち以外の乗客は、開きっぱなしの乗車口に列を作って吸い込まれていく。
それを追いかけようとリュックを背負う衣擦れ音が隣から飛んできた。
よっこらせっ、と。
ホームに残っているのは僕たち二人だけになる。膨らんだリュックを前に背負って、いかにも「乗ります!」な格好の日乃実ちゃんと、乗れない券でホームにやってきた僕。
乗車口のそばで名残惜しそうにこちらを振り向く。名残惜しそうに見えるのは、そう思っている僕の錯覚かもしれないけれど。
「お世話になりましたっ。ありがとっ」
「それは……どういたしまして」
数歩の距離で言葉を交わす。新幹線が発車すれば、この距離はあっという間に離れてしまうので、ここが最後のやり取りになる。
どんな言葉をかけるべきなのか。僕は上京するときでさえ、両親と大した挨拶は交わさなかったように思う。
「外食ばっかじゃなくて、ちゃんと自分で体に良いもの作るんだよっ」
「了解」
「自炊がマンネリ化したら私がレシピ授けたげるから。連絡することっ」
「ああ」
「……さや子さんとも仲良くしてね?」
「もちろん」
――ピロロロロロ。アナウンスが響く。新幹線はもうじき発車するらしい。
もちろん、日乃実ちゃんが乗る予定の、目の前に停車中の新幹線が、だ。
「……日乃実ちゃん、時間が」
「あー……だね」
ゆっくりと言い聞かせるような、自分の気持ちに踏ん切りをつけるような足取りで、日乃実ちゃんは乗車口の向こう側へと渡った。
あとは時間になり次第、乗車口のドアが閉まって予定通りに運行してもらうだけになる。
「気をつけて帰るんだぞ」
「うん、ダイジョーブ」
「降りる駅、寝過ごさないようにな」
「私が寝過ごしたら、早起きさせて玉子焼き手伝わせたシンタローのせいってことで」
「……かもしれない」
愛らしい反撃に僕がやれやれと頭を搔くと、日乃実ちゃんは機嫌よく笑いを上げる。
「それとシンタ――」
『○○線、ドアが閉まりますーご注意くださいー。えー、当線は△△行き――』
アナウンスは無情にも日乃実ちゃんの声を遠ざけ、閉まるドアは容赦なく僕たちを隔てる。
やがて新幹線は動き出した。見送る側になるのは初めてのことで、視線を憚らず大きく手を振るべきか、別れを叫ぶべきか悩んだ。
悩むうちにもドア窓越しに映る日乃実ちゃんの双眸は遠のいていくので、僕はその両目を何も言わずに見つめることにした。
ほどなくしてビル群に埋もれる車両を黙って見送った。
その後、僕はホームで一人放心していたと思う。
座席は空いていただろうか。新幹線が到着してからずいぶんあとに乗り込ませてしまったから、ただでさえくたびれてるのに一時間近く立ちっぱなし……なんてことにならないだろうか。いや平気か。学割の切符が指定席券だったことがふと思い出される。
じゃあもう気にすることなんてないか。
部屋に帰ろう。
冷蔵庫に残る食材を丁度よく使いきれるメニューを教わったので、それ用の食材を買ってから。それに今日はお酒も欲しい。
うつろな頭で階段を下り、その足で駅構内に併設されたコンビニへと向かう。
野菜コーナーで袋のきゅうりを手に取った瞬間や、同じ野菜同士を見比べる一瞬の隙を見て、否が応でも日乃実ちゃんとの日々が脳裏に蘇る。
たとえばこのきゅうり。指先に刺さるほど新鮮なイボと張りがある表面。持てばずっしりとした重みがあり多分な水分がギッシリ身に詰まっているとわかる。これを買って帰ろう。
と、日乃実ちゃんが教えてくれた。一緒に買い物をする際、僕は他の食材はともかく、きゅうりにだけは密かに目利きしていたから忘れられるわけない。
だからこれからも、品物のきゅうりを手に取るたびに彼女との日々を思い出すのだろうか。
一人きりの買い物でその仕打ちは、きっと寂しい。
食材を選び終えて酒類コーナーを物色する間さえ、気を抜けば彼女が脳裏をよぎる。
よぎれば刹那、心の温度が酒を冷蔵するための空気より冷えた。
どうにか現実に思考を引き戻し、食材といくらかの缶ビールをレジに持ち寄る。
驚いたことにレジに立つその人はお隣さんだった。コンビニの制服を身にまとい、「島さんやないですかー、今朝振りっすね」と気前よく会計をしてくれた。
そこから先の記憶は曖昧だ。とりあえず自室に帰り着いているので、おそらくは迷わず帰って来れたのだと思う。
「明日から通常営業だというのに、この調子じゃマズいよな……」
まだ飲んでもいないのに、自室廊下の何でもないところで思わず座り込みそうになる。
心は呆然に支配されていた。何十年来の友人と久々に出会い、遊ぶなり飲み会するなりして帰宅する。その何倍もの呆然が一人暮らしの部屋に充満する。
彼女は最後、僕になんて伝えようとしただろうか。圧倒的な距離が離れたいま、思索しても栓のないことだとわかるけど。
「頭ではわかっているから、あとは……気持ちを切り替えるだけで……」
そうだ。仕事のメールを確認しよう。内容によって、それはそれで頭を抱えたくなる可能性もあるけど、今に限っては助かる。
PCと共用の仕事用メールボックスを確認するべく、スマホを点ける。
目に飛び込んで来たのは記事原稿の納期を早める連絡、ではない。
同僚から、記事ネタを催促するメール。
でもなかった。
『やっぱりすごいよねっ、トーキョーっ!』
「日乃実ちゃんから……」
もう仕事メール確認なんて後でよかった。日乃実ちゃんとのメッセージ画面に指を跳ねさせる。
『やっぱりすごいよねっ、トーキョーっ!』
『って 最後のは言いたくなったのでした(^∞^)ノノ』
「東京のことだったか……日乃実ちゃんらしいな。最後まで」
なんて返すべきか。ほんの少し逡巡してから『家まで気を付けてね』と送っておいた。
「さて、じゃあ飯でも作って――」
『家といえばさシンタロー』
「さすが現代っ子はレスポンスがいい」
――――ブブンッ。メッセージは続く。
『シンタローんちのカギ』
「鍵? がどうしたんだ」
僕の部屋の鍵。以前日乃実ちゃんがお隣さんにお世話になったのは、僕が彼女に鍵を渡し忘れたからこそだった。
その後、たしか日乃実ちゃんは自分の財布に鍵を取り付けたらしかったが、今更それが何なのか。
「――――あっ」
次に届くメッセージに僕は唖然とした。
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といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
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