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新しい日々
第28話 新しい日々 最終回
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宇石先生は玄関の鍵を外側から閉める。園さんとは昔からの知り合いらしく、この宇石先生にも鍵の貸し借りができるほど交流の深い相手がいるとは意外だ。
「さ、家まで送るわ。行きましょう計屋さん」
「家までって……部屋まで十歩もないけど」
「それでも、よ。一人では危険だから。なにせ――――」
僕がいるから危険、と言いたげな目配せが刺さる。
仲良い相手がいるとは意外、と表した理由がこれだ。
嫌悪を隠さず毒舌も止まらない、黙っていればともかく、そんな彼女の性質を知って近寄ろうとするのは余程の物好きか酔狂といったところか。
あるいは僕らのことより、他人に理解され難い宇石先生を慮ってこそ、園さんは今回の宅飲みを画策したのか。当の本人は酔い潰れてしまったので確かめようはないけど。
「記者のキャリアを教師として活かす、ね」
そう宇石先生が呟いたのは、共用廊下をそぞろに歩き出したときだった。前を行く日乃実ちゃんのすぐ隣で、僕が教師になった動機を反芻する。僕が宅飲みで話したことだ。
「そうですよ」
「元ジャーナリストならではの観点から生徒に教えられるモノがあると、そう言いたいわけね」
「そうですとも」
おとがいに指を添えて彼女はなにやら思案する。
その背を、正確には前を行く二人の背を見て、僕は気づいた。
考えに耽る合間さえ、彼女の足は生徒のゆったりした歩調に合わせて動いていることに。それは教師が生徒を気遣う所作に見えなくもない。
やがて宇石先生は観念したように長い息を吐き、両の肩を下ろした。
「ならば堂々とその信念を全うすることね」
真っ直ぐこちらを指す同僚の人差し指に目が吸い寄せられる。まるで、先ほどの言葉と僕の気持ちを試すようだった。
「貴方の働きが信頼に足るようなら、学校内で計屋さんとのことが問題として取り沙汰されても、私は貴方の味方でいてあげる」
人差し指は依然、僕を指している。信頼に足るなら、味方でいる。
私は味方だと、そう言ったのか。あんなにも拒絶していた僕に対して。
呆気に取られている僕の答えを待たずして、宇石先生は僕から目線を切った。
「じゃあ計屋さん、おやすみなさい。明日も学校だから早く寝るのよ」
「あ……おやすみ恵センセ。シンタローもおやすみなさいっ」
日乃実ちゃんが扉の向こうへ消えるのを見届けると、宇石先生は踵を返した。
僕への別れは日乃実ちゃんとは打って変わって素っ気ない。通りがかり際に「それじゃ」とだけ声をかけるのみで、僕の部屋を通り過ぎ、園さんの部屋を通り過ぎ、やがて自分の部屋へと入ってしまった。
(僕も部屋に戻ろう。…………でも、なんだかなあ)
外廊下から見渡す景色は、まだまだ朝日が遠いことが時計を見なくてもわかるぐらいには暗かった。このまま部屋に帰って、歯磨いて寝ても朝にはならないんじゃないかと錯覚する。
だからその場で夜風に当たることにした。少量とはいえ、酒が入って温まった身体に風の冷たさが心地いい。
そのときだった。背後でガコンと音がしたのは。
「計屋さん……どうした?」
「…………」
重たい扉を開けて、靴置きから向こうさえ見えない暗い部屋の向こうから日乃実ちゃんが這い出てきた。声をかけても応答がない。
「ひょっとして、園さんの部屋に忘れ物したとかかいね?」
「…………」
日乃実ちゃんは、なおも口で答えようとしない。ただ、彼女の目はどこか不満げな色だけを湛えていて。
「……計屋さん?」
「………………………………………………………………」
どこか不満げ。彼女に呼びかけたとき、その『どこ』が気に食わないのかがわかった気がした。
「……日乃実ちゃん?」
「無理に下の名前で呼ばなくていいよっ?」
「えぇ……一向に応えてくれなかったけど?」
「……ゴメン。呼び方とか、シンタローが部屋に来るのもナシって言い出したのも、シンタローなりに考えてのことだって頭ではわかってたんだけど」
そう言って、僕の横に並び立つ。顔は僕と同じく暗い夜を向く。
今、日乃実ちゃんにこの夜景はどう映るのだろう。そもそも、どうして外に出て来たのか。
僕と同様、何か今日をやり残した気分のせいで眠れないのか。
「こんなこと聞くまでもない、って自分でも思うけど」
日乃実ちゃんの口が、目の前に渡る夜より静かに動き出す。
「私を部屋に上げなくなったこととか、呼び方がよそよそしくなったことって……やっぱり私のため、なんだよね?」
日乃実ちゃんのためと、そう思いたかった。けど訊ねる彼女はあまりに心細そうで、現状の自分をこそ疑いたくなる。
「シンタローそういうトコロ、生徒のためにって思いはさっ、きっと恵センセも同じなんだと思うよっ!」
「僕を詰問したり、殺すって脅すことがかいね?」
「そう! 物騒な言い方だけどそうだよっ」
日乃実ちゃんのために僕を問い詰めてころ……自分のこと○す○すってあまり言いたくないな。
「完全に危険因子扱いじゃないか、僕は」
「でも誤解だってわかったから、恵センセも最後はああ言ってくれたんじゃんっ?」
たしかに。味方になってあげる、か。
「私、なんとなくわかったんだ。シンタローが来る前、恵センセに色々聞かれて疲れたってゆったけど。それって私を心配してるってことじゃん? そういうのってちゃんと伝わるもんだよっ。だから……」
日乃実ちゃんが口ごもると夜の静けさが舞い戻る。普段、言い淀むことない彼女が珍しくもじもじしている。
もどかしいけど急かさず、夜空と夜景をじっと眺めて次の言葉を待った。
「だからゴメンっ、ごめんなさいっ!」
あまりに唐突な言葉に景色から目を外した。見れば彼女はこちらにうなじを晒していた。
「私のためだとわかってたのに。最近、すれ違っても無視っぽくしたりとか……呼ばれる度に不貞腐れたり」
「それはほら、僕からそうするように言い渡したからで……頭上げて、ほら」
「それでもっ……わがままだったと自分でも思うのっ、ごめんなさい」
どうすればいいのか。ひどい仕打ちをしたのは僕の方のはずだった。僕が謝るならまだしも、日乃実ちゃんに頭を下げさせるなんて思ってもいなくて。
「僕の方こそ、つらい思いをさせて悪かった。身勝手だったのは僕だ」
「それはお互い様。むしろこーいうのは、言い出す側の方がよっぽどつらいモノでしょっ。だから――――」
頑なに下に向いたまま、なおも謝罪を続けさせてしまう。
日乃実ちゃんはいつも、見ていてこっちまで笑えるほど喜びや嬉しさをこれでもかと体現してくれる。
それは謝意でも同じだった。わかっていたことだけど、一度こうすると決めた日乃実ちゃんはなかなかブレない。
申し訳なさそうに地面を見つめる。そのせいで丸まる背中は小さく頼りない。
本当は僕のせいなのだ。これ以上そんな姿をしてほしくないのに。
――――そうだ。
「じゃあまた今度、日乃実ちゃんに料理を作ってもらうとかどうよ?」
ようやく顔を上げてくれた。くるっと目をむく素っ頓狂な面持ちはあまりに素直で彼女らしく、自然と自分の顔もほころんでいく。
「あとあれだ、自炊生活で成長した僕が料理を振る舞うとかでもいいな」
なんで、と問いたげな視線とぶつかった。
「お互いに非があったなら、お互い詫び合って手打ちにするってことだよ。後腐れないように」
「……それいいっ! けどいいの? またシンタローの部屋にお邪魔して」
「それは駄目だ」
「ダメなんっ!? 和解する流れだったじゃんっ!」
「夜に教師と生徒が二人でなんて駄目だ駄目だ。そのかわりと言っちゃあなんだけど――」
強引な提案だとは思うけど。
「――……――――……ってすれば文句は出ないだろ?」
「そうかな? でもまぁ、ちょー楽しそうだしいっかっ!」
夜は相変わらず静かだけど、朝が来ないかもなどという錯覚は、日乃実ちゃんと話し込むうちにいつしか消えた。
思い通りの朝が来ると今なら感じられる。
「おはようございます、島先生」
「ああ、おはようござ……ん?」
職員室のデスクから振り返れば、声の主は立っていた。ただその人は昨日まで僕のことを決して『先生』と呼称しなかったはずだ。
「間抜け面ね。教師を先生と呼ぶのはおかしなことでもないはずだけれど」
「ああいや、おはようございます、宇石先生」
先生と呼ばれ、味方になると告げられたことを思い出す。それは僕を信頼できるならという条件付きではあるけど、フルネーム呼びよりは認められている感じがする。
それきり宇石先生は始業前の準備に勤しむ。だけど今の僕は、分かり合えそうな同僚ともう少し言葉を交わしたい気分だった。
昨日の昼食兼打ち合わせではお互い目の敵にしていたのが噓のようだ。少なくとも僕の中で宇石先生のイメージは変わっていた。
「そうだ。日乃実ちゃん……ウオッほぉん! ではなくて、計屋さんから聞きましたよ」
「それは業務連絡かしら? 私は見ての通り仕事中なのだけど」
こちらに目もくれず、溜息を混ぜて彼女は発した。準備の手を止めてはくれないが、耳だけはこちらに向けてくれている空気があるので、構わず続ける。
「いろいろと問い詰められたけど、心配してくれているのが伝わる、と。昨夜、そう教えてくれたんです」
「昨夜ですって? それ、口ぶり的に私が消えてからの話よね? 随分コソコソと密会してくれたものだわ」
聞き捨てならない。ギラリ。槍の如き厳しさで目を剥く。けど、もうそれを恐ろしいとは感じない。
むしろ頼もしく思う。要するに宇石先生は根が生徒思いなのだ。
胸の底深い部分で薄々直感していたけど、彼女を疎ましく思うばかりで気づけなかった。
だけど昨日、日乃実ちゃんと改めて話が出来て、宇石先生とも正しく向き合えて、ようやく心が晴れたのだ。
「あれから園さんはどうです。頭がガンガンするとかで泣きつかれたりとか」
そうそう、宅飲みに誘ってくれたのは園さんだった。
こうして宇石先生と気兼ねなく会話ができるのも、日乃実ちゃんとの不和が解消されたのも、全てあの人のおかげと言っても過言じゃない。
「泣きつかれるのを見越して会わないようにしたわ。あと、昨夜についての話をそらさないで頂戴」
どこで出会って何をしていたのかしらそもそもなぜ部屋へ帰ったあの子がわざわざ貴方に会いに来たの?
いくら根掘り葉掘りしたところでもはや地雷は埋まっていないので、洗いざらい真っ向から答えてやった。
あと、園さんへのお礼は改めてしよう。
「――――で、僕らは詫び手料理を振る舞い合うことになりましたとさ。おやすみなさい……これで全部ですよ?」
「認められないわ」
ことの顛末に事件性はないはずだった。この女、やはり生徒思いとかじゃなく僕が気に食わないだけなのでは。
「やり取り自体は無問題よ。ただ、詫び手料理? これを作るのに二人きりというのは看過できないわね」
「ああ、なんだそんなことか」
教師生徒が一対一で会うのは世間一般でやましい判定。だがその問題は、僕から日乃実ちゃんにした強引な提案によって解決済みだった。
「――――そこで、よ。さや子の部屋の使用を許可するわ。夕飯時なら私もいるでしょうから、監視の目があるもの」
そう。宇石先生が宅飲みを黙認したように、人を巻き込めば二人きりにはなり得ない。
よって、やましくない判定。それこそが僕が日乃実ちゃんにした強引な提案だった。
「なんなら私の部屋でもいいわよ。監視カメラを取り付けてあげるから、せいぜいあの子の前で教師としての誇りを失わないことね」
だのに、なんで宇石先生の口から同じ提案が出てくるのか。
「……僕と似たようなことをお考えなんですね、宇石先生も」
「職員会議が始まるわ。それと何なの、似ている? あなたと私が? 不愉快な微笑みは直ちに消しなさい、貴方も教師ならね」
「宇石先生」
言って、宇石先生に右手を真っ直ぐ差し出す。この手に彼女の手が重なれば、それは握手の形になる。
「改めましてよろしくお願いします、副担任の島慎太郎です。怪しくないので、よろしく」
「握手ね……。セクハラで訴えてもいいと警告したはずよ」
僕は彼女へ、さらに手をずいと押し出……せるはずがなかった。宇石先生はそそくさと会議の席に着く。
(まぁ今更いらないわな。記者だった頃ならともかく)
職員会議は平穏無事に終わり、教員はそれぞれホームルームを始めに移動する。
会議中、僕は他クラスの教員の面々を一通り眺めて気づいたことが二つあった。一つは日乃実ちゃん絡みで、もう一方は、日乃実ちゃんとは関係のない単純な疑問。
「宇石先生。これは組み合わせに文句があるとかではないんですが……」
「まだるっこい前置きね」
「どうして新人同士で担任副担任なんですかね。普通新人は、ベテランの先生方と組むものだと勝手に思ってましたけど」
顔ぶれを見るに、各クラスの担任副担任はベテランと新人の教師で組むのが通例らしく、新人同士で組まされたのは僕たちだけ。これが単純な疑問だった。
訊くや否や、彼女が鼻を鳴らしたのが背中越しにもわかる。
「愚問ね。期待されているからに決まっているわ。私と………………島先生が」
相当な自信がないと出ないセリフだろう。口にしてなお、堂々と廊下を行く宇石先生。その歩みに動揺の色が浮かばないあたり本心なのだろう。
それにしても、彼女が言うには僕も期待されているらしい。
「元記者として生徒のために目指したい教師像があるのでしょう。上にも伝わるものよ、そういうの」
「宇石先生……」
ちゃんと伝わっていたのにあんな態度取ってたんですかいね?
それとこれとは別よ。くだらないこと言う口は閉じなさい。もうすぐ生徒の前よ。
そしてもう一つ。これは日乃実ちゃんとのこと。
担任副担任の奇妙な組み合わせに気づくと同時に、職員会議に参加する先輩教員方をじっくり見回したが、彼女について口を滑らした僕を訝しむような白い目は一つとしてないように思えた。
日乃実ちゃんのことで僕を警戒していたのは、最初から宇石先生ただ一人で、その他の心配事は大体僕の杞憂らしいとこのとき知った。
一人勝手な空回りに走ること。悪い癖だけど性分でもあるのだろうな、こればかりは治せる気がしない。
でも、向き合うことはできる。
いくらか騒がしかった教室が静まり、宇石先生が三組の点呼を始める。
一人、また一人と、返事をした生徒の顔が上がる。
そのひとつひとつと、真摯に向き合っていこう。
生徒の中には当然、日乃実ちゃんもいる。
日乃実ちゃんも長いこと自分で自分を見つめた。料理が好きで調理師になりたい自分と、そう上手くはいかないかもしれない未来とを見比べただろう。
今でこそ普通科であるこの学校に進学したが、これはいわば道の途中だ。
高校卒業後の進路希望調査書になんと記述するかまで決まってしまったわけじゃあないから。
そうだ、ここにいる全員の進路をこの目で見届けよう。彼ら彼女らの未来に立ち合おう。
かつて、日乃実ちゃんにしてあげたときと同じ気持ちで。
やがて宇石先生の点呼が終わる。入学式から翌日の今日。生徒全員、一人として欠けることなく出席していた。
『進路希望は僕の部屋!? ~四十代後半独身男性僕の部屋に急遽居候するJCの学歴形成を手伝うことになったゴールデンウィーク~』
―了―
「さ、家まで送るわ。行きましょう計屋さん」
「家までって……部屋まで十歩もないけど」
「それでも、よ。一人では危険だから。なにせ――――」
僕がいるから危険、と言いたげな目配せが刺さる。
仲良い相手がいるとは意外、と表した理由がこれだ。
嫌悪を隠さず毒舌も止まらない、黙っていればともかく、そんな彼女の性質を知って近寄ろうとするのは余程の物好きか酔狂といったところか。
あるいは僕らのことより、他人に理解され難い宇石先生を慮ってこそ、園さんは今回の宅飲みを画策したのか。当の本人は酔い潰れてしまったので確かめようはないけど。
「記者のキャリアを教師として活かす、ね」
そう宇石先生が呟いたのは、共用廊下をそぞろに歩き出したときだった。前を行く日乃実ちゃんのすぐ隣で、僕が教師になった動機を反芻する。僕が宅飲みで話したことだ。
「そうですよ」
「元ジャーナリストならではの観点から生徒に教えられるモノがあると、そう言いたいわけね」
「そうですとも」
おとがいに指を添えて彼女はなにやら思案する。
その背を、正確には前を行く二人の背を見て、僕は気づいた。
考えに耽る合間さえ、彼女の足は生徒のゆったりした歩調に合わせて動いていることに。それは教師が生徒を気遣う所作に見えなくもない。
やがて宇石先生は観念したように長い息を吐き、両の肩を下ろした。
「ならば堂々とその信念を全うすることね」
真っ直ぐこちらを指す同僚の人差し指に目が吸い寄せられる。まるで、先ほどの言葉と僕の気持ちを試すようだった。
「貴方の働きが信頼に足るようなら、学校内で計屋さんとのことが問題として取り沙汰されても、私は貴方の味方でいてあげる」
人差し指は依然、僕を指している。信頼に足るなら、味方でいる。
私は味方だと、そう言ったのか。あんなにも拒絶していた僕に対して。
呆気に取られている僕の答えを待たずして、宇石先生は僕から目線を切った。
「じゃあ計屋さん、おやすみなさい。明日も学校だから早く寝るのよ」
「あ……おやすみ恵センセ。シンタローもおやすみなさいっ」
日乃実ちゃんが扉の向こうへ消えるのを見届けると、宇石先生は踵を返した。
僕への別れは日乃実ちゃんとは打って変わって素っ気ない。通りがかり際に「それじゃ」とだけ声をかけるのみで、僕の部屋を通り過ぎ、園さんの部屋を通り過ぎ、やがて自分の部屋へと入ってしまった。
(僕も部屋に戻ろう。…………でも、なんだかなあ)
外廊下から見渡す景色は、まだまだ朝日が遠いことが時計を見なくてもわかるぐらいには暗かった。このまま部屋に帰って、歯磨いて寝ても朝にはならないんじゃないかと錯覚する。
だからその場で夜風に当たることにした。少量とはいえ、酒が入って温まった身体に風の冷たさが心地いい。
そのときだった。背後でガコンと音がしたのは。
「計屋さん……どうした?」
「…………」
重たい扉を開けて、靴置きから向こうさえ見えない暗い部屋の向こうから日乃実ちゃんが這い出てきた。声をかけても応答がない。
「ひょっとして、園さんの部屋に忘れ物したとかかいね?」
「…………」
日乃実ちゃんは、なおも口で答えようとしない。ただ、彼女の目はどこか不満げな色だけを湛えていて。
「……計屋さん?」
「………………………………………………………………」
どこか不満げ。彼女に呼びかけたとき、その『どこ』が気に食わないのかがわかった気がした。
「……日乃実ちゃん?」
「無理に下の名前で呼ばなくていいよっ?」
「えぇ……一向に応えてくれなかったけど?」
「……ゴメン。呼び方とか、シンタローが部屋に来るのもナシって言い出したのも、シンタローなりに考えてのことだって頭ではわかってたんだけど」
そう言って、僕の横に並び立つ。顔は僕と同じく暗い夜を向く。
今、日乃実ちゃんにこの夜景はどう映るのだろう。そもそも、どうして外に出て来たのか。
僕と同様、何か今日をやり残した気分のせいで眠れないのか。
「こんなこと聞くまでもない、って自分でも思うけど」
日乃実ちゃんの口が、目の前に渡る夜より静かに動き出す。
「私を部屋に上げなくなったこととか、呼び方がよそよそしくなったことって……やっぱり私のため、なんだよね?」
日乃実ちゃんのためと、そう思いたかった。けど訊ねる彼女はあまりに心細そうで、現状の自分をこそ疑いたくなる。
「シンタローそういうトコロ、生徒のためにって思いはさっ、きっと恵センセも同じなんだと思うよっ!」
「僕を詰問したり、殺すって脅すことがかいね?」
「そう! 物騒な言い方だけどそうだよっ」
日乃実ちゃんのために僕を問い詰めてころ……自分のこと○す○すってあまり言いたくないな。
「完全に危険因子扱いじゃないか、僕は」
「でも誤解だってわかったから、恵センセも最後はああ言ってくれたんじゃんっ?」
たしかに。味方になってあげる、か。
「私、なんとなくわかったんだ。シンタローが来る前、恵センセに色々聞かれて疲れたってゆったけど。それって私を心配してるってことじゃん? そういうのってちゃんと伝わるもんだよっ。だから……」
日乃実ちゃんが口ごもると夜の静けさが舞い戻る。普段、言い淀むことない彼女が珍しくもじもじしている。
もどかしいけど急かさず、夜空と夜景をじっと眺めて次の言葉を待った。
「だからゴメンっ、ごめんなさいっ!」
あまりに唐突な言葉に景色から目を外した。見れば彼女はこちらにうなじを晒していた。
「私のためだとわかってたのに。最近、すれ違っても無視っぽくしたりとか……呼ばれる度に不貞腐れたり」
「それはほら、僕からそうするように言い渡したからで……頭上げて、ほら」
「それでもっ……わがままだったと自分でも思うのっ、ごめんなさい」
どうすればいいのか。ひどい仕打ちをしたのは僕の方のはずだった。僕が謝るならまだしも、日乃実ちゃんに頭を下げさせるなんて思ってもいなくて。
「僕の方こそ、つらい思いをさせて悪かった。身勝手だったのは僕だ」
「それはお互い様。むしろこーいうのは、言い出す側の方がよっぽどつらいモノでしょっ。だから――――」
頑なに下に向いたまま、なおも謝罪を続けさせてしまう。
日乃実ちゃんはいつも、見ていてこっちまで笑えるほど喜びや嬉しさをこれでもかと体現してくれる。
それは謝意でも同じだった。わかっていたことだけど、一度こうすると決めた日乃実ちゃんはなかなかブレない。
申し訳なさそうに地面を見つめる。そのせいで丸まる背中は小さく頼りない。
本当は僕のせいなのだ。これ以上そんな姿をしてほしくないのに。
――――そうだ。
「じゃあまた今度、日乃実ちゃんに料理を作ってもらうとかどうよ?」
ようやく顔を上げてくれた。くるっと目をむく素っ頓狂な面持ちはあまりに素直で彼女らしく、自然と自分の顔もほころんでいく。
「あとあれだ、自炊生活で成長した僕が料理を振る舞うとかでもいいな」
なんで、と問いたげな視線とぶつかった。
「お互いに非があったなら、お互い詫び合って手打ちにするってことだよ。後腐れないように」
「……それいいっ! けどいいの? またシンタローの部屋にお邪魔して」
「それは駄目だ」
「ダメなんっ!? 和解する流れだったじゃんっ!」
「夜に教師と生徒が二人でなんて駄目だ駄目だ。そのかわりと言っちゃあなんだけど――」
強引な提案だとは思うけど。
「――……――――……ってすれば文句は出ないだろ?」
「そうかな? でもまぁ、ちょー楽しそうだしいっかっ!」
夜は相変わらず静かだけど、朝が来ないかもなどという錯覚は、日乃実ちゃんと話し込むうちにいつしか消えた。
思い通りの朝が来ると今なら感じられる。
「おはようございます、島先生」
「ああ、おはようござ……ん?」
職員室のデスクから振り返れば、声の主は立っていた。ただその人は昨日まで僕のことを決して『先生』と呼称しなかったはずだ。
「間抜け面ね。教師を先生と呼ぶのはおかしなことでもないはずだけれど」
「ああいや、おはようございます、宇石先生」
先生と呼ばれ、味方になると告げられたことを思い出す。それは僕を信頼できるならという条件付きではあるけど、フルネーム呼びよりは認められている感じがする。
それきり宇石先生は始業前の準備に勤しむ。だけど今の僕は、分かり合えそうな同僚ともう少し言葉を交わしたい気分だった。
昨日の昼食兼打ち合わせではお互い目の敵にしていたのが噓のようだ。少なくとも僕の中で宇石先生のイメージは変わっていた。
「そうだ。日乃実ちゃん……ウオッほぉん! ではなくて、計屋さんから聞きましたよ」
「それは業務連絡かしら? 私は見ての通り仕事中なのだけど」
こちらに目もくれず、溜息を混ぜて彼女は発した。準備の手を止めてはくれないが、耳だけはこちらに向けてくれている空気があるので、構わず続ける。
「いろいろと問い詰められたけど、心配してくれているのが伝わる、と。昨夜、そう教えてくれたんです」
「昨夜ですって? それ、口ぶり的に私が消えてからの話よね? 随分コソコソと密会してくれたものだわ」
聞き捨てならない。ギラリ。槍の如き厳しさで目を剥く。けど、もうそれを恐ろしいとは感じない。
むしろ頼もしく思う。要するに宇石先生は根が生徒思いなのだ。
胸の底深い部分で薄々直感していたけど、彼女を疎ましく思うばかりで気づけなかった。
だけど昨日、日乃実ちゃんと改めて話が出来て、宇石先生とも正しく向き合えて、ようやく心が晴れたのだ。
「あれから園さんはどうです。頭がガンガンするとかで泣きつかれたりとか」
そうそう、宅飲みに誘ってくれたのは園さんだった。
こうして宇石先生と気兼ねなく会話ができるのも、日乃実ちゃんとの不和が解消されたのも、全てあの人のおかげと言っても過言じゃない。
「泣きつかれるのを見越して会わないようにしたわ。あと、昨夜についての話をそらさないで頂戴」
どこで出会って何をしていたのかしらそもそもなぜ部屋へ帰ったあの子がわざわざ貴方に会いに来たの?
いくら根掘り葉掘りしたところでもはや地雷は埋まっていないので、洗いざらい真っ向から答えてやった。
あと、園さんへのお礼は改めてしよう。
「――――で、僕らは詫び手料理を振る舞い合うことになりましたとさ。おやすみなさい……これで全部ですよ?」
「認められないわ」
ことの顛末に事件性はないはずだった。この女、やはり生徒思いとかじゃなく僕が気に食わないだけなのでは。
「やり取り自体は無問題よ。ただ、詫び手料理? これを作るのに二人きりというのは看過できないわね」
「ああ、なんだそんなことか」
教師生徒が一対一で会うのは世間一般でやましい判定。だがその問題は、僕から日乃実ちゃんにした強引な提案によって解決済みだった。
「――――そこで、よ。さや子の部屋の使用を許可するわ。夕飯時なら私もいるでしょうから、監視の目があるもの」
そう。宇石先生が宅飲みを黙認したように、人を巻き込めば二人きりにはなり得ない。
よって、やましくない判定。それこそが僕が日乃実ちゃんにした強引な提案だった。
「なんなら私の部屋でもいいわよ。監視カメラを取り付けてあげるから、せいぜいあの子の前で教師としての誇りを失わないことね」
だのに、なんで宇石先生の口から同じ提案が出てくるのか。
「……僕と似たようなことをお考えなんですね、宇石先生も」
「職員会議が始まるわ。それと何なの、似ている? あなたと私が? 不愉快な微笑みは直ちに消しなさい、貴方も教師ならね」
「宇石先生」
言って、宇石先生に右手を真っ直ぐ差し出す。この手に彼女の手が重なれば、それは握手の形になる。
「改めましてよろしくお願いします、副担任の島慎太郎です。怪しくないので、よろしく」
「握手ね……。セクハラで訴えてもいいと警告したはずよ」
僕は彼女へ、さらに手をずいと押し出……せるはずがなかった。宇石先生はそそくさと会議の席に着く。
(まぁ今更いらないわな。記者だった頃ならともかく)
職員会議は平穏無事に終わり、教員はそれぞれホームルームを始めに移動する。
会議中、僕は他クラスの教員の面々を一通り眺めて気づいたことが二つあった。一つは日乃実ちゃん絡みで、もう一方は、日乃実ちゃんとは関係のない単純な疑問。
「宇石先生。これは組み合わせに文句があるとかではないんですが……」
「まだるっこい前置きね」
「どうして新人同士で担任副担任なんですかね。普通新人は、ベテランの先生方と組むものだと勝手に思ってましたけど」
顔ぶれを見るに、各クラスの担任副担任はベテランと新人の教師で組むのが通例らしく、新人同士で組まされたのは僕たちだけ。これが単純な疑問だった。
訊くや否や、彼女が鼻を鳴らしたのが背中越しにもわかる。
「愚問ね。期待されているからに決まっているわ。私と………………島先生が」
相当な自信がないと出ないセリフだろう。口にしてなお、堂々と廊下を行く宇石先生。その歩みに動揺の色が浮かばないあたり本心なのだろう。
それにしても、彼女が言うには僕も期待されているらしい。
「元記者として生徒のために目指したい教師像があるのでしょう。上にも伝わるものよ、そういうの」
「宇石先生……」
ちゃんと伝わっていたのにあんな態度取ってたんですかいね?
それとこれとは別よ。くだらないこと言う口は閉じなさい。もうすぐ生徒の前よ。
そしてもう一つ。これは日乃実ちゃんとのこと。
担任副担任の奇妙な組み合わせに気づくと同時に、職員会議に参加する先輩教員方をじっくり見回したが、彼女について口を滑らした僕を訝しむような白い目は一つとしてないように思えた。
日乃実ちゃんのことで僕を警戒していたのは、最初から宇石先生ただ一人で、その他の心配事は大体僕の杞憂らしいとこのとき知った。
一人勝手な空回りに走ること。悪い癖だけど性分でもあるのだろうな、こればかりは治せる気がしない。
でも、向き合うことはできる。
いくらか騒がしかった教室が静まり、宇石先生が三組の点呼を始める。
一人、また一人と、返事をした生徒の顔が上がる。
そのひとつひとつと、真摯に向き合っていこう。
生徒の中には当然、日乃実ちゃんもいる。
日乃実ちゃんも長いこと自分で自分を見つめた。料理が好きで調理師になりたい自分と、そう上手くはいかないかもしれない未来とを見比べただろう。
今でこそ普通科であるこの学校に進学したが、これはいわば道の途中だ。
高校卒業後の進路希望調査書になんと記述するかまで決まってしまったわけじゃあないから。
そうだ、ここにいる全員の進路をこの目で見届けよう。彼ら彼女らの未来に立ち合おう。
かつて、日乃実ちゃんにしてあげたときと同じ気持ちで。
やがて宇石先生の点呼が終わる。入学式から翌日の今日。生徒全員、一人として欠けることなく出席していた。
『進路希望は僕の部屋!? ~四十代後半独身男性僕の部屋に急遽居候するJCの学歴形成を手伝うことになったゴールデンウィーク~』
―了―
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