真夜中の水族園

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秘密の話

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水族園に住んでいるシーラカンスは、水族園で暮らす動植物から「オサ」と呼ばれていた。
自分から名乗ったわけではないし、誰かに頼まれたわけでもない。
でも、彼女はここの長だった。

水族園の水槽で、ほとんど動かずに過ごしている。
名前はない、いや…遠い昔に誰かに呼ばれていた記憶はある。
しかし呼ばれないことで、一向に思い出せなかった。
名前を呼ばれなくても、彼女は困らない。
だって、呼んでくれる人がいないんだから。

彼女が優雅にスイーっと水槽を泳ぐと、張り付くように観察している人間が嬉しそうにする。
まだ、この化石が生きていること、活動をしていることを世に知らせたいらしい。
この人間が喜ぶから、時々気まぐれに泳ぐことを、彼女は繰り返していた。

今日も閉演時間が訪れ、静かに夜が降りて来た。
夜が深くなると、“オサ”の活動時間になる。

水槽の中を泳ぎながら、少しだけ力を入れると、そのまま水族園の中を泳ぐことができた。
文字通り、空間を泳いで優雅に進む。
だから、彼女は長と呼ばれていた。

誰が知っているのだろう?
真夜中になると、化石が園内を散歩しているなんて。
あの人間が知ったら、喜ぶのだろうか?

ふと、そんな考えがよぎる。
だがそのままいつも通りに、決められた順路を進んで行く。
…はずだった。

「やっぱり」
ふいに声が聞こえた。
泳ぐ中で、体を揺らし体をゆっくりと旋回させる。

そこには、いつも彼女の側で過ごす人間がいた。
名前は…。
「ようやく会えた。“初めまして”僕はホリノ」
そこには、毎日話しかけていたのだろう、聞き覚えのある耳障りの良い声が響いた。

“ホリノ”
毎日飽きもせず、彼女に話しかけて来た人間がにこやかにそう手を差し出した。
「あぁ、と言っても君は握手する気がないのかな?」
『いつもつれないからなぁ』そう呑気に言う声に、“心外”だと言わんばかりに握手を差し出す手の前に行き、体を旋回させる。

彼の手に触れることはなかったものの、手に沿うように体を滑らせた。
艶々の体が、一瞬ホリノの懐に入った。
ホリノは笑った。
嬉しそうに。

「ありがとう、君が少しでも友好的なのが知れて嬉しいよ」
そう、嬉しそうに言う声に、珍しく気持ちが揺れた。
水の中で空気が発生するように、コポリと音を立てた気がした。

この人間は、いつも気にかけていた。
日中の彼女の様子を。
そして動く度に嬉しそうに、そして高揚したように記録を取った。

この人間、いやホリノはどうしてそんなに一所懸命なんだろう?
決めたわけではないけれど、一緒に園内を散策する方向になった。

優雅に泳ぐ彼女のペースに合わせ、ホリノはついてくる。
長の活動は、園内の巡回がメインだった。
人間が普通に歩けば、2時間もかからない狭い園内。
でも、彼女はゆっくりと巡って行く。

水族園は、生き物と植物が住んでいる。
その全てに挨拶するように、彼女は進んで行く。
ホリノは、変わらずのんびりと付いて来た。

彼女が挨拶をするのと同様に、ホリノも動植物に挨拶を重ねて行く。
「シダの君は、葉が鮮明になってきたね。これも、貴重な生態系だ」
ホリノは静かに、1つ1つの存在を確認していた。
「あぁ、君はとても大きくなったね?順調に成長しているようで安心したな」
ホリノの声を聞きながら、ゆるりと進む時間。

「ねえ?ところで体調は大丈夫なの?」
聞かれた言葉を考え、尾ヒレを揺らす。
良好だと言う意味を込めて。
「そう?やっぱり、この園にいないと君の生命は維持できないのかな?」

ホリノの声に、再び尾ヒレを揺らす。
ここ以外に行く気はないという気持ちを込めて。
「だよね。じゃあ、やっぱりここは存続してもらおう」

「君は覚えている?ここよりも設備の整った、国の機関に移送された日を」
覚えていたような、覚えていないような。
曖昧な気持ちは、やはり尾ヒレに反映された。
思い出したくない気持ちが強く、曖昧な返事になった。

さっきまで、気持ちを汲んでくれていたはずなのに、ホリノは気付かなかったみたいだ。
「健康体のはずなのに、君の命が脅かされた」
ホリノの声が、少し悲しさを帯びる。
「国の研究者が、国立の教授が、匙を投げたあの日」
『許されないことだ』

君の固有種は、世界に誇れる。
なのに、存続させることに力は入れられない。

“存続”という言葉に彼女は覚えがあった。
人間は、こちらの都合を考えていない。
気が付いたら、彼女はこの水族園にいた。
いつの間にか、連れて来られた。

しかし、連れて来られたはずの生活は肌に合っていた。
日がな、時間の経過がゆっくりな、世間から隔離されたような空間を、彼女は気に入っていた。
そう、気に入っていたのだ。
毎日、来園者なんて数えるくらい。
側に来られても、騒がしくされることがない生活。

夜になると訪れる、静かな空間。
凛とした空気。
自然も多いことで、彼女は思いの外イキイキしていた。
見た目には変化がなかったが…。

そんな日常に、思わぬことが起きた。
彼女の存在を知った機関が、彼女の生育権を無理に持って行こうとした。
“後世のために”という理由で、仰々しくその日が訪れた。
“この水族園にいることは悪”とでも言わんばかりの、自分たちを正当化するための攻撃。

勿論、彼女を知る人間は、それを拒否した。
繊細な身体機能のため、環境の変化についていけない、そう繰り返したが相手にされなかった。
まるで引き渡さないことが罪のように、責め立てられた。
相手は国の機関、かたや個人が所有する小さな水族園。
世間の意思は、国に傾いた。

貴重な固有種を、存続するために。
そんな名目の元で、彼女の移送日が勝手に決められた。
きちんとした設備で、彼女は管理されるべきだと判断された。
最後まで抗ったのは、彼女をここに連れて来た人間の血縁者のみだった。

「僕には、祖父みたいな力はまだないから」
そう悲しそうに、悔しそうに言う言葉。
ホリノは、自分の力が及ばなかったことをずっと悔いていた。

そんなホリノの嘆きに呼応するように、彼女も不安になった。
だから、急に環境が変わった生活に、体が耐えられなかったんだろう。

設備は整っていたのかもしれないが、それは何の役にも立たなかった。
移送した直後、鮮やかだった濃紺の体の色がくすんでいった。
艶々していた表面が、まるで砂のようになっていく。
そして壊死していくように、みるみる内に灰色の皮膚に変化していった。
人間たちは、側で騒ぎ立てた。

彼女は、朦朧とする意識の中でそれを気に入らないと強く思った。
延命措置をすることが不可能と知ると、人間たちが急に掌を返した。
それに、1人抗ったのが…。
そうか…だから彼は、今でもここにいるのか。

すぐに、この水族園に彼女は戻された。
彼女も、この世を去るのなら、あの水族園が良いとぼんやりと考えた。
彼がその気持ちを、汲んでくれたんだろう。

彼の単独行動のおかげで、彼女は帰って来れた。
彼が1人で戦ってくれたから、彼女の心地良い空間が取り戻せた。
移送した仰々しさはナリを潜め、ひっそりと隠れるように。
戻ってからの日々は、やはり、ぼんやりとしか覚えていない。

水の中は、どこも同じだ。
酸素が満ち、常に循環されている。
常に管理され、温度も適温だ。
それでも、彼女は“ここが“心地良いことに気付いた。

灰色の皮膚は少し残った。
ヒレの数か所に、影のようにそこに存在していた。
まるで、あの時のことを忘れないとでも言うように。
人間たちに忘れさせないと、言わんばかりに。

だけど、濃い紺色はより鮮やかになった。
数週間後に新聞でひっそりと、彼女の延命に成功したことが世に知らされた。
それから、ホリノはずっと側にいた気がする。

それと同じ頃、彼女は水族園を自由に動けるようになった。
理由は分からない。
でも、この園内を水槽の中だけではなく、空間も動けるようになったことで、他の種から「オサ」と囁かれるようになった。

あれから、その機関がどうなったのか。
貴重な固有種が、生命の危機にさらされた。
そんなことを世界に訴えた声が届いたようで、その釈明に追われているらしい。

難しい話は、彼女には縁がなかった。
だけど、ホリノがする話はどことなく覚えている。
毎日、飽きもせずここに居続けた結果が、彼女の中に記憶されていた。

「だから、僕がこの園の継承権をもらったんだ」
急に言われた言葉に、彼女は停滞するようにくるりと旋回した。
「やっぱり、持つべきものはご先祖様の、大切な想いだよね」

『だからこれからも、よろしくね』
そう言われても、彼女には変化がなかった。
ここは、県でも珍しくない水族園だ。

個人が所有する敷地に、水の生き物と水の植物が配置された、変哲のない空間。
自然が多いことで、家族連れが時々ピクニックに来る、この地域の人間なら必ず1度は来たことがあるような園。
立ち上げた人間は、彼と眼差しがそっくりだった。
声も、どことなく似ている気がする。

『君は、とても綺麗だな』
かつて言われた言葉を、ふと思い出した。
そうだ、彼はいつも褒めてくれた。
自分はただ、そこにいるだけだったのに。

それを見ていた幼い瞳は、それを日常に吸収していた。
「綺麗だね」
幼い声で、そう言う声が毎日のように聞こえていた。
見様見真似で、きっと彼の言葉を繰り返していたんだろう。

何で忘れていたんだろう。
だからホリノは「はじめまして」と言ったのだろうか。
薄情なようで、少しの居心地の悪さを感じた。

そうだ、その声は確かに、毎日自分に向けて言われていた。
「綺麗だね」
成長と共に、その声は自分の意志で言われるようになった。
かつて、共にあった彼がこの世を去っても、その気持ちは遺っている。
自分の中に積もっていた時間の中の、片鱗があちこちに顔を覗かせる。

「おじいちゃんが、うわ言のような遺言を残していくから…」
ホリノの独り言は、空に吸い込まれた。
彼女はそれを聞きながら、また泳ぎを再開させた。

真夜中の散歩は、ゆっくりと進行していた。
ホリノは、彼女のレポートを提出し、海外の教授と交流をしていると言っていた。
毎日側でじっとしていたのは、ホリノの仕事だったのかもしれない。
でも、それにしても、飽きもせず水槽の中にいるだけの彼女を眺めるのは、普通の人間には苦痛のはずだ。

「君といると、時間の経過がゆっくりなんだ」
『だから、これからも、君の生態は僕が責任を持って守って行くから』
彼の決意のような言葉に、尾ヒレを少し揺らして応えた。
気が付いたら、元の水槽に戻って来ていた。

「ラティ」

言われた言葉が、とてもクリアに聞こえた。
その言葉は、知っている。
遠い昔に、彼が呼ぶ私の名前だった。

「君はいつでも綺麗だね」
ホリノも思い出したように、そう呟いた。
「分厚いガラスを隔てない君は、本当に綺麗だ」

まるで、かつての彼のように、そうしみじみと繰り返した。
「もう、水槽に戻ってしまう?」
ホリノの声に反応するように、尾ヒレを揺らしてゆるりと水槽の前で旋回する。
長の仕事は、毎日のことだから。

「そう?でもまた明日もするもんね?」
ホリノの言葉は、ラティには理解できなかった。
まるで明日も、一緒に園内を巡る約束をするような言葉。
「僕はお飾りの園長だから、日中に昼寝をしていても、幸い文句は言われないんだ」

『だから、明日もこの時間で良いかな?』
ラティには、時間の概念がない。
夜が降りて来て、園の植物が眠りにつく頃。
そう思っていた。

返答のしようがなくて、水の中で尾ヒレを揺らす。
「少しくらいの時差は許してね?必ず来るから、だから待っていてね?」
ホリノには、きちんと伝わったようだ。
「夜更かしは研究で慣れているし、ちゃんと来るから置いていかないでね?」
ホリノの必死な言葉に、待っているという意思を込めて、ゆるりと旋回した。

「明日も一緒に、散歩をしよう?」
ホリノの提案に、賛同の意味を込めて尾ヒレを揺らす。
散歩ではなく長の仕事なんだと、どう言えばホリノに伝わるのだろう。
言う声が嬉しそうなことで、それはどうでも良いことに気が付いた。

「やった、また明日」
ホリノが本当に嬉しそうに笑うから、思わず応えてしまった。
くるりと旋回するのは、水の中では久しぶりだ。
でも、ホリノが笑っているから、それで良いだろう。
久しぶりに戻ってきた名前が嬉しかったことを、ラティなりに伝える。

「だから、明日からもよろしくね?ラティ」
真夜中の水族園は、不思議なことが起こる。
化石が動きだしたり、空を飛んだり。
固有種と人間が散策することは、世間には知られない方が良いだろう。
人が来ない日常が、ラティの好みだから。
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