鷹村商事の恋模様

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それは打算?

打算とは?

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「おはよーさん」
フロアに、チーフの声が聞こえる。
正確には、課長なんだけど。

もう、慣れでチーフと呼んでいる日常。
所々から、返事の挨拶が聞こえてくる。私もその中に、こっそり混ぜて「おはようございます」と小さく零す。
今朝は言えなかった、朝の挨拶を。

イライラしていても、体調が少し悪くても、2時間も仕事をしていたらそんなのは落ち着いてくる。
それはそうだ。
だって今日も、日常の繰り返しだから。

「和田」
呼ばれて無意識に「はい」と返事をする。
返事をしてしまってから、今日も負けを認める。
「何でしょうか、チーフ。じゃなかった、課長」
呼ばれていたことを思い出し、側に行く。
「これ、先にFAX送っておいて。その後でメール」
指示に対し、素直に従う。
「はい、分かりました」

いつも通りの返答に、表情の変わらないこの人はそれでもじっと私を見た。
「まだ、何かありますか?」
「いや、戻って良い」
一礼をして、席に戻る。
隣から、何とも言えない表情の同期がこちらを伺っている。

「何?」
「いや、何かあったのかと思ったけど、そうじゃないのかと思っていただけ」
小さな声に、何かはあったんだと思い出す。
でも、もうどうでも良くなっていた。
だって、それだけのことだったから。
「昼に話す」
「うん」

昼休みになり、外に出るかと立ち上がると後ろの席に座る同期も立ち上がった。
「真澄、今日は?」
「ごめん、今日は和田と一緒に外に行くね」
「…分かった」
今生の別れでもないくせに、盛大に肩を落とす同期に少しイラっとしながらも、同席を許可する。
「別に良いよ。大した話じゃないし」

私の言葉に、菊田はすぐに背筋を伸ばす。
「それクセ?」
「何が?」
「捨てられた犬のマネか何か?」
落ち込む様は、どう見てもご主人様に置いていかれた大型犬だ。
歩きながら話していると、こちらを見ている視線に気付いた。
気付いていながら、そのまま素通りする。

「良かったの?」
同じく気付いていた真澄が、こっそりと確認してくる。
「うん、良いの。どうせ帰ったら、話するんだし」
近くのカフェに入り、今日のランチを選択する。

「で?どうしたの?」
「今日の朝、私眠くて」
「あー」
話題がまずかったのでは、と真澄が言葉を濁す。しかし、私は気にしていない。
残された菊田が「どうした?」という表情を真澄に向ける。
3姉妹で育った私には、何でもない話題だけど、真澄には違うらしい。
真澄からの返答がなく、たっぷり待ってからようやく私に意識を向ける。

「何が?」
菊田の言葉に、イラっとが戻って来る。
「私、生理前なのか眠いの。いつも、生理前と生理中は、眠気が強いの」
言葉が直球過ぎたことで、菊田が固まる。
男兄弟に馴染のない環境だと、こういう反応なのか。
少し、面白い。

機嫌が回復したことで、一気に言う。
「尚さんには、いつものことながら、違いが分からなかったんだって」
私が生理で眠いのか、それとも寝不足で眠いのか。
「昨日の私が何時に寝たのか、夜中に起きたのか気付かなかったから。それでも、起きる時間に起きられなかったから、『どうした?言わなきゃ分かんないぞ』って」

女子にはあるでしょ?いや、男子にもあるか?
「菊田だって、意味もなくベッドでゴロゴロしていたい時とかあるでしょ?」
問いかけに頷く、大きい図体。
「そういう数分の中に、何かこう急かされているような気になって。『良いでしょ?少しほっといて?』って言ったら、それが面白くなかったのか『また機嫌が悪いのか』って、私いつもそんなに機嫌悪い?『また』って何だ?『また』って!」
感情の振り幅は、大きい方だと自分でも思う。

でも、少しのことでもイラっとしてしまうのは、確実に生理前じゃん。
「だから、予防で『ほっといって』って言ったのに、それにカチンと来たんでしょ?覚えとけよ菊田」
名前を呼ばれて、菊田がピクリと瞬きをする。
「可愛い真澄にだって生理はある。周期だってある。そういう時に、体調不良になった真澄に、菊田はどうやって接する?」
「え?…えーと?」
困る菊田に、顔を赤らめる真澄。

「何だこれ」
言っていて、急に馬鹿らしくなった。
最近くっついた、この同期2人。
くっついても、お互いを大事にしている。いや、少し違うな。菊田が少しだけ、ぎこちない時が出て来た。
真澄が、自分を好きなのが毎日夢みたいなんだとさ。
何だそのおとぎ話。
「何を見せられているのよ、私は」
照れる2人を見ていて、イライラは消えていった。

「こういうセラピーあったんだ」
カップルセラピー、場合によっては(私以外の)相手が暴徒と化すかもしれない。
なんとも紙一重のセラピーだ。
「2人を見ていて落ち着くな。そっか、今度から、こうやって2人に癒してもらお」
そう決めた。
「和田、からかっているの?」
「ううん、あんたたちのキラキラを搾取しているの」

それで回復するのなら、お安い御用でしょ?
そう、きっかけは些細なこと。でも、一緒にいると嫌でも出てくる、そういう積み重ね。
昼食を機に、私の機嫌は回復した。
家に帰っても、変わらないだろう。

今日は私の方が、先だった。
「ただいま」
帰って来たチーフ、じゃない課長になった尚さんが変わらない表情で帰宅した。
「おかえり」
迎える私も、変わらないはずだった。
「どうしたの?」
問う声に、尚さんは少し顎をかき「もう怒ってないか?」と聞いた。

「うん。だって、元々怒ってないもん」
私の言葉に、尚さんは何とも言えない顔をした。
見覚えのある、納得のいっていない表情。私が告白した時も、そんな顔してたっけ。
「どうしたの?」
「いや、怒らせたのかと思ってたから」
そうだ、いつもこのやり取り。
私が一方的に、尚さんに怒っているかのような言い方。

「尚さん」
「ん?」
「私が怒っているとしたら、それは尚さんの言葉や行動で怒っているって思って」
「分かった。気を付ける」
このやり取りも、何百回目だろう。
それでも、日常は繰り返される。

夕食の準備をして、たわいもない話をして。
「そうだ、思い出した」
さっきの尚さんの表情を思い出して、少しの文句が顔を覗かせる。
「何を?」
「私が告白した時も、尚さん言ったんだっけ?」
「あー」
気まずいと察し、尚さんは言葉を飲み込んだ。

「『俺と付き合っても、良いことないぞ。打算的になるな』って」
「だから、悪かったって。ただ、俺の言い分も聞けよ?」
「『22歳のお前は、まだ十分若い。俺とお前は、8歳も違うんだぞ。だから、お前は年上に血迷っているだけだって』でしょ?それから何年?現在、一緒に暮らしている尚さん、それを踏まえた上でどうぞ?」
何度やり取りしたか覚えていないが、確実に精度は上がっている。
毎回一言一句間違えずに言える私は、もはや人間レコーダーだ。
「…だから、悪かったって。反省しているよ」
「反省は、もう良いから。それを踏まえた上で、どうぞ」

「お前も大概、根に持つね」
ほら、これだ。
いつだったか、同期が言っていた。
相手を「お前」とか「おい」と呼ぶ相手とは関係を断つと。
女子とか男子とかじゃなくて、相手を尊重していない感じが腹が立つんだと。

私は、そうは思わないけど。むしろ、尚さんに呼ばれるお前は好きだ。
と、どうでも良いや。そんなこと。
「根に持つね、以上でしょうか?」
「だから、怒らせているんだったら」
「怒ってないよ。怒らせキャラにしたいの?私のこと」
「いや、機嫌の取り方が分からないんだよ」

「謝ってほしいわけじゃないの」
でも、どうしたら良いのかな?
真澄と菊田を見ていると、どうしてもこの関係が、あのキラキラとは無縁で。
そう、悲しくなるんだ。
「尚さんと、一生平行線のままなのかな?」
意思の疎通も取れない、私と尚さんの距離感。
変に落ち着いてしまったことで、こうなってしまったんだろうか。

反応の鈍い私に、尚さんはあまり構ってこなかった。
それで、良いと思った。今は、尚さんの関わり方が、少し辛い。
今までは平気だったのに、何でだろう。
生理だから?
お年頃だから?
違う。
あの2人に、引き摺られているからだ。

そう気付いたら、少し血の気が引いた。
これこそ、尚さんの言う「打算」ってヤツじゃん。
2人を「良いなあ」と思って、そうしてくれない彼氏にイライラしている。
自己分析していて、心の狭い私に引いてしまう。
でも、「良いなあ」は「私もそうしてほしい」と同じじゃない。

違うんだ。
私と尚さんの関係性に、少し悲しくなってしまったんだ。
そう気付いてしまったら、何だか視界が滲んでくることが増えた。
尚さんに、不満があるわけじゃない。
一緒にいて心地良いこと、距離感が好きなこと、尚さんの人柄が温かい、私を気にかけてくれる、私が思う尚さんの好きなところを羅列して、自分を落ち着けようとする。

でも、少しのすれ違いと、解消法が見つからないことで、ぼんやりしていることが多くなった。
違う。
決して、尚さんが嫌いなわけじゃない。
きっと私がいけないんだ。
尚さんに、分かってほしいと思う私が我儘すぎる。
一緒に過ごしてくれる尚さんに、感謝しないといけない。
でも、1回「違う」と思ってしまったことで、修正が効かないようになってしまったのだろうか?

私って、こんなに頭固かったっけ?
これが、年を取るということ?
あれ、尚さんの年寄りキャラ、私にも感染しているじゃん。
私だって、成長しているはずなのに。

「和田、これ。悪いけど確認してほしい」
菊田が、後ろから資料を寄越す。
営業で使う資料の、データ表だ。
ざっと目を通し、問題ないと思うことを返答する。
顔を上げ、胡乱な表情をしてしまう。

「おい、資料確認してんの、誰だよ」
緩んでいる菊田に、低い声を出す。
菊田は、私の隣に座る真澄に一途に視線を送っていた。
見られている真澄は照れもせず、「どうしたの?」なんて返答している。
菊田は、真澄に一生恋をしているんだろう。
“式を挙げるのは、2人の方が早いかな?”

思わず浮かんだ考えに、また血の気が引いた。
違う、そうじゃない。
あれだけ打算じゃないと言い続けた私に、打算という言葉がチラつく。
「菊田の用事相手は、真澄だったか?」
じゃ、真澄に聞けや、とオラついて私たちの間にいる菊田を睨み上げる。

「すまん。つい」
「つい、で仕事放棄すんな」
少し乱暴に、資料を突っ返す。
「和田は、乱暴だな」
「菊田は、少しくらい私にも興味を持て」
私の言葉に菊田は、少し考え「すまん」と真顔で謝った。

「1ミリも、興味がないと?」
私の問いに、菊田は答えに困りおろおろする。
「和田、あまりいじめないであげて」
「菊田も。和田、最近少し疲れているの。だから優しくして」
真澄の平坦な声に、イライラも萎れていく。
これが、カップルセラピーの力。

「あー、チーフとは?」
少し小声になったものの、問いかける顔も表情も、同情の色は全くない。
「私が、悪いとでも?」
「そんなこと、言ってない」
菊田の言葉に、少し溜飲が下がる。
この場だけでも、私の味方がいることに安心したからだ。

この同期は、いつでも馬鹿正直すぎる。
入社したばかりの頃、真澄とは違う同期が黄色い声を出しながら菊田の追っかけをしていた。
菊田は甲子園に出ていたとかで、少し顔が売れていたから。
しかも、会社の縁故入社と言う肩書で、年下にも関わらず私達の年上からも熱い視線を送られていた。
しかし、それは菊田自身によって鎮火される。

大学に入学したものの、父親の体調が悪くなり入退院を繰り返していたことで、祖父に相談し祖父と繋がりのあった人の伝手でこの会社に入社したこと。
父親は手術を繰り返し、今は無事に社会復帰しているが、その当時から馬鹿正直に生きていたのだろう。
菊田は大学を中退してまで、本気で家計を助けようとしたらしい。
私には、絶対に真似できない。

女子と男子では違うのは勿論だが、自分を犠牲にしてまで築けるものが、私にはあっただろうか。
菊田は、自分の人生を曲げてまでそれを選んだ。
でも、結果論で言ったらそれで良かったのかもしれない。
だって、運命と言っても過言ではない相手と、同期として入社できたんだから。
本当だったら出来たであろう、年齢という溝をスタートの時点で埋めていたんだから。
思い出せば、菊田と真澄は、研修の時点で少し雰囲気が異なっていた。

はっきりとした輪郭で仲が良いわけではなかったが、そこかしこに共鳴するような、お互いを求めあうような空気が漂っていた。
本当にうっすらと漂っていたのに、第三者ははっきりと感じていた。
だけどこの2人は、付き合うことを選ばなかった。
同期として、そこに居続けた。

だから、私を始めとする同期も、何なら会社中の恋に浮かれる人間が2人を見守っていた。
小さな恋の物語を、リアルに視聴していた。
純愛とはまた様子の違う、2人のなるべくして進むなりゆきを温かく応援していた。
それが6年越しに叶うのは、何だか感慨深い。

「かすみ」
「何ー?」
尚さんの呼ぶ声で、現実に戻って来る。
「どうした、機嫌が良いな」
「あの2人、ようやく収まるところに収まったのが、地味に嬉しいらしい」
「相変わらず、菊田は青春してるよな」
「羨ましい?」
「眩しさは羨ましいな、あと若さもか」

「また老いネタ?」
「ネタとか言うな」
「もう飽きたよ。尚さんの年寄りアピール」
「真面目に聞けよ。俺だってもう36だぞ?」
言うほど真剣みのない声に、先を促す。
「だから?」
「もう、昔ほどの元気はないってことだ」

「嘘じゃん。尚さん、30歳の時と変わってないもん」
私が入社した時の尚さんと、今の尚さんの違いが分からない。
「大丈夫、本人が気にする程、他人は見ていないから」
「お前も、言葉がきついな」
「嫌だった?ごめん」
「謝るなよ。俺が狭量みたいじゃんか」

「え?尚さん、めちゃめちゃ心広いじゃん」
「俺には良いけど、もう少し回りには優しくしてやってくれ」
「それは、チーフとしてのお言葉かな?」
「いや、かすみが誤解されたまま生きていくのを我慢できないから、かな」
こういう所で、尚さんの懐の広さを感じる。
私のことなんて、勝手に「お局BBA」とでも呼ばせておけば良いのに。
裏でも表でも言われていることを、私は十分知っている。

「菊田には、きつくなっても仕方ないかな?」
「何で?」
「あのヘタレ、真澄からの告白を待っていたみたいな感じになったから、真澄に告白する機会でも作らせようかと」
「真澄が望んでるのか?」
「いや、もう態度と言葉でいっぱいもらったから、全然気にしていない…って」
「なら、良いんじゃないのか?」
「何で?」

「いや、だって俺も告白らしい告白してないし」
「尚さんは良いの。だって、おじさんにはきついんでしょ?」
「またお前…」
「菊田の場合は、真澄に言わせたことを後悔していて、それをどうにかしたいって菊田が悩んでいるから」
「…かすみ」
「何?」

「じゃ、お前はどんな告白が嬉しい?」
「私のは、参考にはならないでしょ?」
「何で?」
「真澄は、日常を宝物とか言っている人間で、私にとっての宝物は本当に鑑定書がある現物を言うから」
根本が違う、と付け足すと、尚さんは難しい顔をした。
そのまま、私は菊田でも気持ちを伝えやすい方法はないかと考え、結果手紙でどうかと無難な返答をした。

「恩に着る」
「着なくて良いから、現物支給か現金支給な」
私と菊田の仲を誤解されても困るので、社食で一緒になった際に、手短に伝えてやり取りを終了させる。
「現物支給って?」
食事する私に、困ったような顔をした菊田。
「菊田の告白がどうやって展開されて、どういう結果になったかのレポート」
「レポ…」

言葉を失う、菊田が本当に愚か。
人に助言を求めたら、その結果は返すべきなんじゃないの?
「別に、吹聴して回るわけじゃないんだから」
真澄は言葉が足りないのは可愛いとかぬかすけど、可愛いのは真澄に特別なフィルターがかかっているからそう感じるだけ。
私には、言葉の足りない人間とやり取りするだけの気持ちがない。
「じゃ、お先」

固まる同期を残して、先にフロアに戻る。
尚さんとは、表面上なんともないフリをしている。
私の生理が終わったことで、尚さんも落としどころを見付けたんだろう。
日常の会話も、私がつっかからない方向を見出して、どうにか生活している。

「祖父の縁故で入社したのは確かですが、俺自身が使えるコネは1つもありません」
歓迎会の挨拶で、そう述べた菊田はお姉さま方のターゲットから無事に免除された。
それが、もう6年も前のこと。
「時間の経過って、早いもんだわ」

私の言葉に、真澄はふっと笑う。
この同期も、全く読めない。
真澄は、流行に乗っているOLを擬態しているだけだ。
流行の物を好きそうな雰囲気、今時を意識している姿形、化粧。
でも、そんなのは本当は関係ない。
自分の世界と日常が崩れなければ、それで良いという善良な人間だ。

私は違う。
流行の物は本当に知りたいし、波があるならいつでも乗りたい。
だから、真澄が擬態しているのを知っていながらも、巻き込んでいく。

真澄は同期の中でも、フラットな状態でいられる相手だ。
適度に気を遣い、そこそこ踏み込めるような。
アフターを一緒に過ごしても、問題のない相手だ。
友達と言うほどの距離感ではないものの、ざっくりと相手の人生に関わるくらいのゆるやかな親密度。

だからなのかな?
この2人に意識を移して、私のあの日の気持ちには気付かないふりをしている。
それで落ち着いたら、話をしよう。
今後の、私たちの関係を。
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