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第1章/

第6話:美浜麻実、初めての夕食作り

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「ただいまー」
「あ、お帰りなさい!」
 帰宅して家の中に声を掛けたら、麻実の返事はキッチンから聞こえて来た。
 そう言えば今日は母さんの帰りが遅い関係で、麻実が夕飯を作ってくれるんだったな。

 ……。
 ……。
 ……。
 ……。
 ……。

「麻実、一緒に……」
 襲い来る不安に耐え兼ねてキッチンに行くと、麻実はエコバッグから取り出した食材をテーブルに並べて睨めっこをしている処だった。
 ちゃんと忘れずに買って来ていたらしい。
 食材は何かなと見てみると、玉ねぎとジャガイモに、ニンジンと豚肉。
 バッグはまだ少し膨らんでいるから何か残っているかも知れないけど、これは……。
「肉じゃがかな?」
「や、ダメ! 内緒なの! お兄ちゃんはリビングでゲームでもしてて!」
 声を掛けると麻実は急に慌てて、人の背中を押して無理矢理リビングに押し戻し、「ね?!」とソファに座らせた。
「あ、ああ」
 仕方が無いので頷いておく。
 ……そんなに慌てる事かとも思うけど、好きな様にやらせてみるか。
「ここで良い子で待っててね! 決して覗きませぬよう!」
 人が頷いたのを見た麻実は満足気な笑みを浮かべ、キッチンに戻って行った。
 …………鶴?
 そう言えば去年小学校の観劇会でどこかの劇団の鶴の恩返しを見たって言っていた。
 今の、袖で口許を隠した顔を逸らして少ししなりがら言ったのは、その時のお芝居の真似だろうか。
 心配ではあるけど、そこまで言うのなら任せてみよう。

 ……それにしても。
 『のんびりしてて』でも『テレビ見てて』でも無くて、『ゲームしてて』、か。
 ……と云う事は、麻実は食後にゲームを一緒にやりたいのかな?
 それならばと、学生鞄から数学の教科書とノートを取り出す。
 やる気スイッチを探す前に、取り敢えずやり始めてしまおう。
 食後にゲームをしたその後、すぐに勉強をする気にはならないだろうし。


 ……って言うかもう、二次関数ってなんだよ。

 ガターン!!!

 抑々、何で数学にxだとかyだとか、アルファベットが出て来るのさ。

 バシャーン!!!

 君達、越権行為じゃないのかね?

 チュドーン!!!

 数学のゲン先生は『仮に置き換えているだけだから、例えば、“x”じゃなくて“馬”とかでも良い』とか言っていたけど……。

「あ!! お米かすの忘れてた!!」

 ……『お米をかす』は名古屋弁で、お米をお釜に出してから炊飯器にセットする迄の、一連の流れの事。
 研ぐ事だけを意味したりと、地域差有り。
 少なくともお醤油みたいに、足りないからってお隣さんとシェアしたりとかって云う意味では無い。
 …………おっと。

 えっと、だからこれは『鹿=a馬2乗』で……。
 ……うん、書くのに時間が掛かるから、xとyで良いや……。
 先生の言いたい事も何となく分かったし。

「あれ? お米を洗うのは何洗剤? 食器用?」

 ……ねえ、これって本当に覗いちゃダメ?
 覗いたら、麻実はどこかに飛んで行っちゃうのかな?
 因みに、うちで買っているお米は無洗米。

   〇〇〇

「お兄ちゃん、出来たよ! お待たせ!」
 満面の笑みを浮かべた麻実がトレイを運んで来たので、「ちょっと待ってて」と教科書やノートを仕舞って、キッチンで布巾を絞って来てテーブルを拭く。
 ……ふう。
 麻実は「えへへ」と笑ってその場にしゃがみ、トレイをテーブルに置いた。
 ……仄かに漂って来ていた香りで気付いてはいたけど、肉じゃがではなくカレーだった。
「……時に麻実。このお米は、何で洗った?」
 残す心算は無いけど、一応確認はしておかないといけない。
「何かね、何で洗うのか書いてあるかなって袋を見たらわざわざ『洗って無いお米』って書いて有ってね。何だろうって検索してみたら『水を入れてそのままセットすれば良い』って出たから、洗って無いよ? 洗わなくて良いお米なんて有るんだね! お兄ちゃん、知ってた?!」
 ……セーフ。
 ただ麻実、『無洗米』は『洗って無い』のじゃなくて、『洗う必要が無い』のだよ……。

 カレーは、普通に美味しかった。
 ……ルーが甘口だった事と、隠し味に蜂蜜を入れているっぽい事を除けば。
 甘いカレー。
 母さんが作る様な、適度な辛さが有って玉ねぎの形が残っている様な食べ慣れたカレーとは違ったけど、これはこれで有りだ。
「玉ねぎ、どっか行っちゃった……。ちゃんと入れたのに……」
 麻実はそう言って落ち込んでいるけど。
「うん、玉ねぎの味がしっかりと溶け込んでいて、美味しいよ」
 口に残っていたのを飲み込んでから言うと、麻実はこっちを見て、パアッと顔を明るくした。
 玉ねぎを少しでも残すには、くし切りにすると良いんだったかな。

   〇〇〇

「「ご馳走様でした!!」」
 食べ終えて、声を揃えて満足の声を上げる。
 トレイにお皿を乗せて、一緒にキッチンに持って行った。
「あ、お兄ちゃん! 私が洗うからゲームしてて!」
「一緒にさっさと片付けて、ゲームは一緒にやろうよ」
 どれだけゲームしたいのかと苦笑しながらもそう言ってやると、麻実は諸手を上げて喜んだ。
 トレイの上で、お皿が音を立てて激しく揺れる。
 ……おっと危ない。
「ほら、危ないぞ」
「えへへ、ありがと」
 反射で押さえた僕に、麻実ははにかんでトレイを持つ手をゆっくりと下ろした。

 キッチンは、調理中に発していた音にしては思っていた程も散らかっては居なくて、普通に料理を終わらせた後と云った感じだった。
 割れ物とか焦げとかを想像していたけど、杞憂だったか。
 ……とすると逆に、あの音は何だったんだろうか。
 そういう思いも有ったけど、ホッと、何だか良く分からない溜め息が出た。
「それで、この後は何のゲームやる?」
 生ゴミの処理をしている麻実に、洗い物をしながら声を掛ける。
 ……うん、今ちらっと見えたジャガイモを向いた皮、結構厚かったな。
 お兄ちゃんは見過ごしませんよ。
 だって、お兄ちゃんだから。
「昨日と同じ、ハンターのやつ!」
 相変わらずの、弾ける様な良い笑顔。
「うん、分かった。……なあ、麻実」
「ん? なぁに?」
「今度料理をする時は、一緒にしないか?」
 ハッキリと言うのは傷付けてしまうかも知れないけど、見せる事で気付いてくれる事も有る筈だ。
 ……別に、皮を薄く剝いて賞賛されたいからじゃ無いんだからね。

   〇〇〇

「ただいまー! マミ、ご飯作ってくれたー?!」
 母さんは4個程クエストをクリアした処で帰って来て、疲れた声を上げた。
 今日もお仕事、お疲れ様です。
「あ、カレー?」
 リビングに入って来た母さんは、陶酔した表情で鼻をひくつかせた。
「凄い! 正解! お兄ちゃんは美味しいって言ってくれたよ!!」
 母さんに駆け寄って、嬉しそうに報告をする麻実。
 美味しいのは美味しいけど、好みも分かれそうだし、無駄にハードルを上げる必要は無いと思う。
「あら、そうなの? 楽しみね」
 笑顔で言う、母さん。
「それでね、お母さん」
 手を後ろに組み、モジモジする麻実。
「ん?」
「お母さんは、今度帰るのが遅くなるのは、いつ?」
 ――って、おい!
 一緒に料理するのを楽しみにしてくれているのは嬉しいけど、そんな事言ったら、母さん泣いちゃうんじゃないか?
 案の定、母さんは顔を少し歪め、「ええぇ……」と複雑な声を出した。

 麻実と交わした約束を説明して落ち着いた母さんはダイニングで食べると云う事で、昨夜と同じく、リビングのテーブルで麻実と二人で勉強を始める。
「麻実、今日は分からない所は有るか? ……昨日みたいなのじゃなくて、ちゃんとした中身的な所で」
「ええっとねぇ……。……うん、今の処は大丈夫かな」
 世界史のノートを出しながら訊いてみると、麻実はテーブルに綺麗に並べた五教科の教科書を見比べながら答えた。
 ……出すのは、必要なやつだけにしておいた方が良いんじゃないかな……。
「そっか。何か疑問点が出たら、遠慮なく訊いてくれよ」
「ありがとう、お兄ちゃん!」

 ピンポーン――。

 その時、インターホンが鳴った。
「……誰だろうこんな時間に」
「あ、私が出るよ。お兄ちゃんは続けてて」
 立ち上がろうとした僕を制して自分が立ち上がった麻実は、「はーい!」とインターホンのモニターに寄って行き、通話ボタンを押して再び「はーい!」と呼び掛けた。
 ……1回目の「はーい!」は、要るのだろうか。
 ――っと、折角麻実が出てくれたんだし、対応は任せて、始めるか。
 えっと、『賽は投げられた』は、属州に居たカエサルが総督の任を解かれ、ローマに戻る際にポンペイウスを倒そうとルビコン川で言った言葉、……っと。
 状況は違うけど、『敵は本能寺に有り』と言った、明智光秀と同じ様な気持ちだったのだろうか。

「あれ?! ことりちゃん?!」

 ――何だっけ。
 ……ああ、『賽は投げられた』は、属州に居たカエサルが――。
「うん、お兄ちゃん? 居るよ?」
 麻実は、そう言ってこっちを見た。
 ……母さん、頼むから耳をそばだてないで。

 急いで玄関に行って扉を開けると、ビクッと震えたことりと目が合った。
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