花にひとひら、迷い虫

カモノハシ

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19.

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「はあ、はあ……。律って、意外とバイタリティあるよね……」
 度重なる方向転換で体力的にも精神的にも消耗した花音は、音楽室前でようやく足を止めた律の隣で荒い息をついた。
「うう。食べたばっかだからお腹苦しい……。ごめん。ちょっと休んでからでいい?」
 律に扉を開けてもらうと、花音は絨毯の敷かれた床に倒れ込んだ。音楽室は土足禁止だから、足は絨毯の外側に出しておく。
 横になったまま先ほどの光景を思い出す。眉間にしわを寄せたのが見えたわけではないだろうが、先に中に入っていた律が声を入り口まで戻ってきた。
「大丈夫? 具合悪くなった?」
「あっ……、大丈夫、ごめん! ちょっと考え事してただけ!」
 慌てて内履きを脱いで立ち上がる。
「? 考え事?」
「あ、や、たいしたことじゃない……。っていうか――」
 花音は笑ってごまかしかけたが、律が心配しているように見えて、仕方なく口を開いた。
「……ねえ、さっきのいたずら書きって、本当に暗号だと思う?」
「……うん。たぶん」
「そっか……」
 花音は小さく笑ってから付け足した。
「もしあれが……さ。あいつの仕業だとしたら、ちょっとシャレにならないなって思っただけ」
 真っ白な壁につけられたたった一つの汚点。こすって消える程度のものではなく、元通りにするには壁紙の張り替えが必要になるだろう。さらに、食事場所での虫の絵が気分の良いものでないことくらい、誰にだってわかるはずだ。
 実際、アルバイトの青年も困惑していた。父親のこういう、他人の迷惑を顧みないところが本当に嫌いだと、花音は再認識してしまう。
「……」
 気がつくと、律も難しい顔をして黙り込んでいる。思った以上に雰囲気が重くなってしまったので、慌てて笑い飛ばした。
「あはは。ごめん。こんなこと言われても困っちゃうよね。さ、次行こう、次!」
 花音は律の視線を逃れるように、黒板の方へ歩き出した。その背中に、律がぽつりと言った。
「花音が気に病むことじゃないよ」 
「……うん。ありがと」
 花音は小さく頷くと、気を取り直して律に尋ねる。
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