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プロローグ
プロローグ
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――その日がとてもいい天気だったことは、よく覚えている。
抜けるような青空の下、坂の上の我が家を目指して、エミリアは懸命に駆ける。
石畳の道沿いにずらっと並んだ家々の壁に、パタパタパタと軽やかな足音がこだました。
新しく買ってもらった皮製の靴は、実を言うとエミリアにはまだ大き過ぎた。
でもそんなことは気にもならない。
背中に羽根が生えたかのように体が軽い。
飛ぶように駆ける小さな体を追いかけて、背中まである栗色の巻き毛も、ふわふわと風に靡く。
(お母さん、喜ぶかな?)
走りながら、右手に大切に持っていた紙の筒を、ぎゅっともう一度握り直した。
赤い切り妻屋根が坂の頂上に見えて来たなら、そこからさらに加速する。
白い木柵を飛び越え、緑の芝生を駆け抜け、石階段を上がって、金色の鐘がついた大きな扉を勢いよく引き開けた。
「ただいまあー」
カランカランという鐘の音と共に、開いた扉の向こうはうす暗かった。
――今日はエミリアの七歳の誕生日。
『エミリアの好きなもの、いーっぱい作って待ってるからね』
今朝、満面の笑顔で学校へと送り出してくれた母は、まだ買いものから帰ってきていないのだろうか。
「お母さーん?」
大きな声で呼んでみても、家の中で誰かが動きだすような気配もない。
「いないのー?」
居間、台所、寝室と順に中をのぞきこんでみて、ようやく父の仕事部屋で、画布の前にうな垂れて座る大きな背中を見つけた。
「お父さん、ただいまー。ねぇお母さんは? ……いないの?」
弾かれたようにエミリアをふり返った父は、以前自分で描いた母の肖像画を手にしていた。
――新鋭画家の父が、これまでで一番の傑作だと胸を張り、いつもは居間の暖炉の上に飾ってある母の絵。
「エミリア……」
父の穏やかな茶色の瞳には、みるみるうちに涙が浮かんだ。
「……どうしたの?」
嫌な予感をひしひしと全身で感じながら、エミリアは尋ねた。
父はまるでため息を吐くかのように小さな声で、辛い言葉を吐きだした。
「……お母さんは故郷に帰ったんだよ……」
「……故郷?」
エミリアはぼんやりとくり返した。
父の仕事部屋は、保管してある絵が光で変色しないようにと、もともと窓を少なく造ってある。
うす暗がりの中、お互いがどこにいるかくらいならわかるが、表情まではよく見えないので、思いがけない言葉を耳にすると、何を言われたのだかよくわからない。
「そう……遠い遠い国だよ。もうここには帰ってこない……」
「お母さんが? ……もうこの家には帰ってこない……?」
ふいにエミリアの視界の中で、全ての光景がぐにゃりと歪んだ。
小さな胸がぎゅっと痛む。
木の床をしっかりと踏みしめていたはずの足からは、どんどん力が抜けていく。
「……そうだよ」
静かな父の声は、まるで遠い世界から聞こえてくるかのようだった。
あまりにも信じられない内容のせいで、とても現実のものとは思えない。
しかし、いつもならとっくに夕食の支度を始めている時間に、台所に母の姿がないこと。
朝、母が庭に干した洗濯ものが、まだ取りこまれずに風にはためいていること。
それらは全て、父の言葉が確かに現実のものであることを告げている。
なにより――ときに冗談を言うことはあっても根は真面目な父が、こんなに真剣な顔でエミリアに嘘など吐くはずがない。
「お父さん……!」
よろめきながら駆け寄ってきた娘を、父は両手を広げてしっかりと抱き止めた。
栗色の頭を胸の中に強く抱きこんで、何度も何度も呟く。
「ごめん。ごめんよエミリア……でもどうすることもできなかったんだ……!」
さっきまでエミリアが立ち尽くしていた場所には、小さな手から落ちた紙の筒だけが、ポツンと寂しく転がった。
それは、この秋入学したばかりの初等学校でエミリアが初めて描いた、大好きな母の似顔絵だった。
抜けるような青空の下、坂の上の我が家を目指して、エミリアは懸命に駆ける。
石畳の道沿いにずらっと並んだ家々の壁に、パタパタパタと軽やかな足音がこだました。
新しく買ってもらった皮製の靴は、実を言うとエミリアにはまだ大き過ぎた。
でもそんなことは気にもならない。
背中に羽根が生えたかのように体が軽い。
飛ぶように駆ける小さな体を追いかけて、背中まである栗色の巻き毛も、ふわふわと風に靡く。
(お母さん、喜ぶかな?)
走りながら、右手に大切に持っていた紙の筒を、ぎゅっともう一度握り直した。
赤い切り妻屋根が坂の頂上に見えて来たなら、そこからさらに加速する。
白い木柵を飛び越え、緑の芝生を駆け抜け、石階段を上がって、金色の鐘がついた大きな扉を勢いよく引き開けた。
「ただいまあー」
カランカランという鐘の音と共に、開いた扉の向こうはうす暗かった。
――今日はエミリアの七歳の誕生日。
『エミリアの好きなもの、いーっぱい作って待ってるからね』
今朝、満面の笑顔で学校へと送り出してくれた母は、まだ買いものから帰ってきていないのだろうか。
「お母さーん?」
大きな声で呼んでみても、家の中で誰かが動きだすような気配もない。
「いないのー?」
居間、台所、寝室と順に中をのぞきこんでみて、ようやく父の仕事部屋で、画布の前にうな垂れて座る大きな背中を見つけた。
「お父さん、ただいまー。ねぇお母さんは? ……いないの?」
弾かれたようにエミリアをふり返った父は、以前自分で描いた母の肖像画を手にしていた。
――新鋭画家の父が、これまでで一番の傑作だと胸を張り、いつもは居間の暖炉の上に飾ってある母の絵。
「エミリア……」
父の穏やかな茶色の瞳には、みるみるうちに涙が浮かんだ。
「……どうしたの?」
嫌な予感をひしひしと全身で感じながら、エミリアは尋ねた。
父はまるでため息を吐くかのように小さな声で、辛い言葉を吐きだした。
「……お母さんは故郷に帰ったんだよ……」
「……故郷?」
エミリアはぼんやりとくり返した。
父の仕事部屋は、保管してある絵が光で変色しないようにと、もともと窓を少なく造ってある。
うす暗がりの中、お互いがどこにいるかくらいならわかるが、表情まではよく見えないので、思いがけない言葉を耳にすると、何を言われたのだかよくわからない。
「そう……遠い遠い国だよ。もうここには帰ってこない……」
「お母さんが? ……もうこの家には帰ってこない……?」
ふいにエミリアの視界の中で、全ての光景がぐにゃりと歪んだ。
小さな胸がぎゅっと痛む。
木の床をしっかりと踏みしめていたはずの足からは、どんどん力が抜けていく。
「……そうだよ」
静かな父の声は、まるで遠い世界から聞こえてくるかのようだった。
あまりにも信じられない内容のせいで、とても現実のものとは思えない。
しかし、いつもならとっくに夕食の支度を始めている時間に、台所に母の姿がないこと。
朝、母が庭に干した洗濯ものが、まだ取りこまれずに風にはためいていること。
それらは全て、父の言葉が確かに現実のものであることを告げている。
なにより――ときに冗談を言うことはあっても根は真面目な父が、こんなに真剣な顔でエミリアに嘘など吐くはずがない。
「お父さん……!」
よろめきながら駆け寄ってきた娘を、父は両手を広げてしっかりと抱き止めた。
栗色の頭を胸の中に強く抱きこんで、何度も何度も呟く。
「ごめん。ごめんよエミリア……でもどうすることもできなかったんだ……!」
さっきまでエミリアが立ち尽くしていた場所には、小さな手から落ちた紙の筒だけが、ポツンと寂しく転がった。
それは、この秋入学したばかりの初等学校でエミリアが初めて描いた、大好きな母の似顔絵だった。
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