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第四章 誘惑者

友情と嫉妬

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 円条辰夫の心の中には、ドロドロとした淀み渦巻く感情が芽生え始めていた。
 その感情が何なのかはまだ辰夫は気が付いてはいない、そしてその感情に恐れを抱いていた、飲み込まれたら2度と戻ってこれない気がして。


 今日もいつものように登校している慧、みどり、辰夫の3人。昨日と違うのは表情は明るくないこと、原因は昨夜の怪物。
「慧ちゃん、辰夫くん、昨日のアレは何だったの?」
「……」
 何も答えることが出来ない辰夫。恐怖のあまり、みどりに情けない姿を見せてしまったので。
「解らない、でも鉄パイプで殴ったとき、感触があったんだ。幽霊じゃないのは間違いない」
 怪物を撃退し、みどりを守ったのは慧。
『あの技は……』
 自分にしかに聞き取れない、小さな小さな声。廃墟で怪物を撃退したとき、慧の使った技。以前、一度だけ、祖父に見せてもらったことのある円条流の上級者の使う、刀法の技の一つによく似ていた。
 辰夫も慧も刀法においては、基本中の基本の技しか教えてもらっていないはずなのに。
『ひょっとして、じっちゃんは慧にだけ、あの技を教えたんじゃないか……』
 慧も意図して出したものではない、みどりを守ろうとして、偶然に出した技。
 頭の中では理解できていても、どうしても疑惑は膨れ上がっていく。
「でも辰夫にもみどりちゃんにも怪我がなくて、本当に良かったよ」
 優しい微笑み。悪気無し、みどりと辰夫に怪我がなくて嬉しいだけ。しかし、辰夫の心には突き刺さる。
 そんな慧を見ているみどりの眼差し。
「……」
 拳を握りしめる。皮膚が破れ、血が滲み出てきそうな力で。
 そんな辰夫に気が付くこともなく、3人は道の角を曲がる。
「あっ」
 走り出す慧。
 道端に1人の女性が倒れていた、歳は若い。
 倒れている若い女性の様子を診る。医者の息子なので、見様見真似でも多少の心得はある。
「息はあるけど、ひどい怪我だよ。早く救急車を呼ばないと」
 診察通り、女性はひどい怪我を負っていた。意識もあり、慧たちを見つめている。その瞳にあるのは不安。
 慧はスマートフォンを取り出し、119を押そうとしたら、
「だ、だめ、病院は“奴ら”に見張れている。だから、救急車は呼ばないで、お願い……」
 それだけ言って、女性は意識を失ってしまう。
「救急車を呼ばないでって、で、でも、このままじゃ、この人、死んじゃうよ。どうしょう、慧ちゃん」
 慌てふためく。みどりの言うことは正しい、素人が見ても命に係わるほどの大怪我。女性の訴えは必死ではあったが、このままにはしては置けない。
「父さんに連絡を取ろう。“奴ら”って、何のことかはか分からないけど、うちなら個人医院だし、きっと大丈夫だと思う」
 慧は家に電話をかける。
「そうね、それがいいよ、流石は慧ちゃんね」
 ホッとして慧にすり寄るみどり、笑顔。それを何も言わすに見つめている辰夫。


 授業が終わり、今日は稽古もないので、まっすぐ慧は家に帰った。
「ただいまー」
「お帰りなさい、お兄ちゃん!」
 今日も抱きついてくる恵美。彼女は女性のことは知らない、ただの急患だけとしか聞かされていない。
「ごめん、恵美、ちよっと、お父さんに話があるから」
 ぶーぶー言っている恵美に謝りつつ、若い女性の寝ている病室へ。
 病室では浩一と母親の栄美が若い女性の治療を行っている。まだ、意識は戻ってきていない様子。
「父さん、どう?」
「手術は成功だ、命に別条ない。いずれ意識は戻るだろう」
 命に別条ない、それを聞いて、よかったと、胸を撫でおろす。
 どこの誰かも解らない赤の他人でも、人の命が助かるのは嬉しいこと。
 若い女性は身を明かすものを何一つも持てはいなかった。
 病院は“奴ら”に見張れている。そう言った時の彼女の顔は何かに怯えているもの。
「多分、この人、何かの事件に巻き込まれたんじゃないかしら」
 栄美の言ったことと、慧も浩一も同じ考え。

 夕食の時間、慧と恵美が隣同士、浩一と栄美が隣同士。今晩のメニューは鮭の粕汁、具は鮭の他は大根と人参、油揚げ。
 慧と恵美と栄美は葱を入れ、浩一は葱と七味を入れた。
「美味しい」
 一口食べ、慧は素直な感想を口にした。
「えっへん、今日は私も手伝ったんだよ」
 自信満々に胸を張る。
「それはそれは、きっと、恵美はいいお嫁さんになれるよ」
 それを聞いた途端、頬を膨らませる。
「私はお兄ちゃんのお嫁さんになるの、前にも言ったよ。これは決定事項!」
 そんなこと言われて、慧は照れたり戸惑ったりしてしまう。なんと反論すればいいのやら。
「あらあら」
 思わず微笑んでしまう栄美、それにつられて浩一も微笑む。
 暖かい一家団欒。


     ☆


「ひゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」
 恐怖のあまり辰夫が悲鳴を上げ、床を這いずって逃げ出す。
 辰夫が顔を上げると、みどりが見下ろしている、その隣には慧。寄り添うように立っている2人の目は冷たい。
 情けない辰夫をあざ笑う慧とみどり。

 目が覚めた辰夫は、布団から飛び起きる。
 息は荒い、汗で髪がべっとり。
『ふん、何が出てきても俺がぶちのめしてやる』
 そう言ってカッコイイつけた結果がこれだ。昨日まで辰夫自身、こう思っていた、俺は強くて勇ましいと。
 怯える辰夫を尻目に、強く勇ましく慧は怪物を撃退した。
 辰夫の中で小さかった慧の姿が、大きく、自分よりも大きくなっていく。


     ☆


 早朝、抜き足差し足忍び足、こっそりと慧の部屋の前に来る恵美。
「えへへ、お兄ちゃんの寝顔、写メで撮っちゃおう」
 ドアのノブに手をかけようとしたら、独りでに開いた。
「何をしている、恵美」
 パジャマ姿の慧が出てくる。
 罰の悪そうな顔をする恵美。
「あーっと、えーっと、そうだ、顔を洗わなくちゃ」
 いそいそと廊下を走り去っていく。
 登校時間、慧と恵美は一緒に家を出た。
「お兄ちゃん、私、決めたよ。来年、お兄ちゃんと同じ高校を受ける」
 そう言って、元気よく手を振りながら、自分の学校へ向かう。


 昼休みを告げるチャイムが鳴り響く。
『体育館裏にきてほしい』とメールが届き、慧は体育館裏に急いだ。後を尾行している辰夫には気かつかずに。

「みどりちゃん、何か用なの?」
 体育館裏で待っていたみどりは、あのねとか、そのとか、何度も繰り返しながら、もじもじして、話しにくそうにしていた。
 このままでは、昼休みの時間が終わってしまう。そのことにみどりは気が付き、決心を固めるようため、大きく深呼吸をしてから、真剣な顔でしっかりと慧の目を見つめた。
「私、慧ちゃんのことが好き」
 最初、何を言われたのか理解できなかったので、ポカンとした顔を慧はしていた。やがて言葉の意味を理解した途端、体温が上昇、真っ赤な顔になる。
「廃墟で助けられたときに、気が付いたの。ずっとずっと、慧ちゃんのことが好きだったってことに」
 最初は慌てふためいていた慧も大きく深呼吸して、気持ちを落ち着ける。
 みどりが冗談でこんなことを言わないのは、100も承知している慧。
 真剣に告白したからには、慧も真剣に答えなくてはならない。
「返事、待ってもらえるかな。僕自身、真剣に考えて、答えを出したいんだ」
 まだ自分自身の中で整理が付いていない。それでも、しっかりと答えを出さなくてはならない、男として、人として。
「うん、私、待ってる。慧ちゃんが真剣な答えを出してくれるのを」
 今はそれで十分。自分の本当の気持ちを慧に聞いて欲しかった。
 物陰で、一部始終を見ていた辰夫。心の中にあった“何か”に亀裂が走る。


 道場で慧と辰夫は練習試合。
 放たれる辰夫の拳を慧は払う、すぐさま放たれる二撃目の攻撃も払う。
 激しい攻撃を繰り出す辰夫。その攻撃を防御する一方の慧。
『今日は、いつもより力が入っているな』
 いつもと何かが違う、慧は感じていた。
 突然、辰夫は足払いを掛けてきた。辰夫らしくない、不意打ちに足を取られてしまい、慧は床の上に転ぶ。
 倒れた慧に馬乗りになった辰夫は、拳を振り上げた。
 いつの間にか、傍にきていた剛三が辰夫の手を掴んで止める。その目はとても厳しい。
 その目で辰夫は正気に返ることが出来き、剛三が手を離すと、慌てて慧から飛び退く。
「憎しみに飲み込まれれば、破滅しか待ってはおらぬ。憎しみに打ち勝ってこそ、真の強さを手に入れることが出来るのじゃ」
 厳しくも諭すような言葉。
「……」
 何も言い返させない辰夫。
 師匠、剛三の言葉は慧にも、重く届いた。
「本日はここまでじゃ!」
 剛三にしては珍しく、声を荒げて道場を出て行く。


 部屋の中で辰夫は寝っ転がって、携帯ゲームをしていた。どうしても、もやもやして気が晴れず、すっきりしない。
「くそっ」
 携帯ゲームを布団の上に投げ出し、トレーナに着替える。こんな時は、くたくたのへとへとになるまで走って疲れて、深く眠るのが一番の特効薬。

 外に出て走る。ただ、がむしゃらに走り続けた。
 走って走り回る。何も考えずに力の限り。
「あっ、ここは」
 足を止めた。ここは怪我をした女性を見つけた場所、いつの間にか、こんなところにきていた。
 まだ道路に血痕が残っているかもしれないが、アスファルトの色と夜の闇に紛れ、確認できず。
 今、慧のところにいる若い女性は何者なんだろうか。そんなことを考えていると、
「そこの人~、ちょっと、いいですかぁ。聞きたいことがあるのですがね~ぇ」
 いきなり声をかけられた辰夫が振り向くと、視線の先に灰色のトレンチコートを着た、病的なまでに青白い顔のひどく痩せた男が立っていた。
「何者だ、お前」
 こいつは危険だ。武闘家を目指している辰夫の直感が教えてくれた。構えを取る。
「こんな人、見ませんでしたか~ぁねぇ~」
 辰夫を気にすることなく、1枚の写真を出す。そこに写っているのは、道端で倒れていたあの若い女性。
「あっ」
 思わず声を出してしまう。
「ほぉぉぉぉっ、知っているようですねぇ」
 図星を突かれ、知っていることを表情で証明してしまう。
「だから、なんなんだ!」
 開き直ることにした辰夫。
「あなた、いい目をしてますねぇ、実にいい目です。気に入りました~ぁ」
 青白い顔を近づけられ、
「な、何だよ、おっさん!」
 警戒を強め、距離を捕る。
「あなたは~ぁ~、自分自身の感情を恐れていますね~ぇ」
 心の中で渦巻く、どす黒いもの。
「しかしぃぃぃぃぃぃですね~ぇ、恐れることなどないのですよ。それは人が人として当然にいぃ、持っているものなのですからね。当たり前のことなのです。恥じることなどありませ~ん」
 そのセリフは凍える水のような冷たさで、辰夫の心に染み込んでいく。
「ますます、いい目になりましたねぇ。あなたのこと気に入りました。あたくしと手を組みませんかぁ?」
「手を組むだと?」
 誘いの言葉、辰夫の理性は危険信号を発している。
「あたくしの協力者になれば、望むものは全て手に入りますよ。金、権力、女も。そして、この世界でさえ、あなたのものになります」
 “女も”の言葉に、辰夫は反応を示す。
 それをしっかりと見て、いかにも愉快そう。
「お前、頭は大丈夫か」
 口ではそう言いながら、男の言っていることは本当のことのような気がしていた。以前、みどりが話していたメフィストフェレスの物語を思い出す。
「あたくしの話は真実です。間違いなく、真実なのです。あたくしと手を組めば、全ての願望が叶いますよぉ。正しぃぃ、こちらにも条件があります」
 再び顔を近づけてくる。辰夫は構え解かない、いつでも攻撃できる体制にもかかわらず、拳を放てない。
「魂を売れと言うのか」
 いつの間にか辰夫は男の話を信じ、そして魅せられていた。 
「いいえ、そんなものに興味はありませぇぇぇん。ただ、写真の女の居場所を教えてくれるだけでいいのです~。実に簡単なことでしょ」
 倒れていた若い女性が言った“奴ら”とは、こいつのことだと、辰夫は解った。
 全身から危険信号を放っている、こんな奴に話せばどんなことが起こるのか、匿っている慧の家がどうなるのかは見当はつく。辰夫の心の中を負の感情が支配していく。
 ゆっくり構えを解き、拳を下す。
「確かに、その女の居場所を知っている……」
 裏切ったのは慧が先だ。みどりに告白するのを手伝うと言っておきながら、あいつが悪いんだ。辰夫の心の中で繰り返される自己欺瞞。
 男の顔に薄気味悪い微笑みが浮かぶ。
「もうし遅れました、あたくしめはブーガと申します」


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