黄昏食堂。

雪月海桜

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 片付け自体は、その後一日で終わった。何分狭いお店だ。それでも元の状態に戻すにはわたしたちだけでは難しくて、どうしようかと悩んでいたところで、様子を見に来てくれた常連さんたちが手伝ってくれた。

 寧々子さんは店の内装を持ち込みの小物で可愛く飾り付けしようとして、シンプル思考の木綿樹さんと対立してわいわいと賑やかで、壊れた椅子やテーブルはアキラくんと河田さんが修理してくれた。
 天狗の松明さんは小天狗たちを引き連れて、駄目になった物たちの処分や、必要な食材なんかの買い出しを手伝ってくれた。
 騒動を知らなかった木津根さんは店の惨状に驚いていたけれど、無事でよかったと泣きながら抱きしめてくれた。
 鑼木さんは、吸血未遂から少し気まずいのかしばらく顔を出さなかったものの、数日経った頃には様子を見に来てくれた。あの日落としていったリボンを返すと、照れたように笑っていた。

 他にも、多くの常連さんが気にかけてくれた。この店は本当に愛されているんだと、何だか誇らしかった。

 こうして店長不在の間にリニューアルした『黄昏食堂』は、みんなの想いがこもった、以前よりも大切な場所になった。

「皆さん本当にありがとうございます! 店長はまだ戻らないんですけど……よかったら、食べて行ってください!」

 普段は食事の提供や店の中の仕事をメインにしていたから、たまに任される一品料理や、閉店後の限られた修行だけでは、お父さんの味にはまだ追い付けない。
 それでもわたしは感謝の気持ちを込めて、手伝ってくれた皆に簡単な丼料理を振る舞った。
 それぞれの好みは把握しているから、基本は一緒でも味付けやトッピングを変えて。
 木津根さんには甘いお揚げ、河田さんにはキュウリ、寧々子さんには鰹節……ひとりひとりを想って作る料理は、こんなにも楽しいのだと、改めて実感した。

 前よりも綺麗になった店内で、皆が笑顔で食べてくれるのを見ながら、ふと気付く。
 ここ数日、一番傍で頑張ってくれた彼の好みを、わたしは知らなかった。

「ねえ、アキラくんの好きな食べ物は?」
「……何だろう。何でも好き……椿姫さんの作るもの、全部美味しいし」

 記憶喪失だから、好きなものを聞いてもわからないと言うのは予想出来ていた。それでも、この返答はずるい。

「……、今日の賄いは大盛りにしておくね……」
「やった」

 皆の好物の、余った食材全部乗せ丼。今のこの店の象徴みたいなそれを美味しそうに食べてくれる様子を眺めながら、この心地よく温かな日々がいつまでも続けばいいなと、わたしはぼんやりと考えていた。


*******


 店長不在の間、わたしが厨房と接客のサポート、アキラくんがメインの接客で、以前のようにはいかずとも何とか店を回していた。
 お客さんは基本常連さんばかりだ、甘えてしまっている自覚はあったけれど、時にはお冷やを運んだりテーブルを拭いたり、簡単な業務はお客さんが手伝ってくれることもあった。

「食べ終わった食器、カウンターまで下げとくで~」
「わ、木綿樹さんありがとうございます!」
「ええって。あきらくん、今寧々子さんに捕まって動かれへんし」
「え!?」

 リニューアルオープンしてから、もうすぐ二週間になる。
 今までこんなにも店を空けたことのなかったお父さんが心配だったけれど、鬼が何かの危険に巻き込まれることは早々ないはずだ。
 わたしは、目まぐるしい忙しさの中で、店を守ろうと必死だった。

 だから、気付かなかったのだ。この愛しい日々に、終わりが近づいていたことに。


*******


「椿姫、戻った」
「……! お帰りなさい!」

 お父さんが帰って来たのは、リニューアルしてからちょうど一ヶ月経った日の夜だった。
 その頃には大分店を回すのにも慣れていたけれど、お父さんの姿を見て、安心と、肩の荷が下りた気がして涙が滲む。
 店長が帰還したのだ、これで、今日からは『黄昏食堂』も通常営業を再開出来る。

 けれど少し窶れたお父さんは、早々に今日の店じまいを告げて、わたしとアキラくんを店の奥へと誘導する。
 不思議に思いながらも、久しぶりの再会に募る話もあるのだろうと、皆も納得して帰っていった。

「……この一ヶ月、どこで何してたの?」
「ああ……ちいとばかし、ややこしいことになってたな」
「ややこしいこと?」

 わたしとアキラくんはバックヤードのソファーに並んで腰掛けて、正面に座るお父さんの話を聞くことにした。どこか重苦しい雰囲気に、何となく落ち着かない。

「あの海坊主の話によると、どうやら、店のまじないがイカレちまったらしくてな」
「え!? うそ、みんな普通に来てくれてたし……あれから変な一見さんもこなかったよ!?」
「通常手順を踏む分には普通に来られるんだ。だが、どういうわけか、別ルートでも来られるようまじないが歪んじまっててな。海坊主の野郎もその非正規ルートで来たらしい」
「……非正規ルート……」

 何やら予想外の展開に、わたしは固唾を飲む。お父さんはこの一ヶ月、まじないの修復作業と、その間の正規ルートの確保、それと同時に非正規ルートで来る客から情報を得ては追い返す作業を繰り返していたらしい。

「大変そう……」
「ああ、これ以上店に被害を出す訳にゃいかねぇから、一刻も早く何とかしたくてな。一ヶ月も留守にしちまって悪かった」
「ううん。アキラくんも、皆も手伝ってくれたから。お父さんこそ、本当にお疲れ様」

 帰ってこられたということは、今は何とかなったのだろう。一先ず安心して、一息吐く。
 わたしはこの一ヶ月で出来た思い出、作れるようになった料理、リニューアルした店内のこだわり。いろんなことを話したかった。
 けれど、次がれた言葉に、その何もかもが吹っ飛んでいった。

「それでなぁ……どうやら、まじないを歪めちまったのが、お前さんのようなんだ。アキラ」
「……え?」

 これまで黙って聞いていたアキラくんの横顔を盗み見る。彼は、わたしのように動揺するでもなく、真っ直ぐにお父さんを見据えていた。

「お前さんは、ルールを曲げた。辿り着くためのまじないは、店の安全のための最初のルールだ。常連だって、信頼できる奴にしか教えん。それでも変なのはたまに居るんだ。……それを、どんな意図であれ、誰でも入れる形に歪めちまった」
「ちょっと待って、お父さん……何を言って……」
「アキラ。お前さんは、本来店に来ることの出来ない存在。違うか?」
「お父さん! アキラくんは、この一ヶ月誰より頑張ってお店を支えてくれたんだよ!? それなのに……」

 わたしが庇おうとすると、アキラくんは小さく首を振った。そして、わたしの方を見て、困ったように眉を下げて微笑む。

「……椿姫さん。前に、海坊主と対峙した時言ってたよね。『何とかしなきゃって夢中で、覚えてない』って」
「え、うん……?」

 いきなり何の話だろう。戸惑うわたしに対して、彼は言葉を続ける。

「俺も、そう。椿姫さんを、何とか連れ戻さなきゃって、夢中で……ずっと彷徨って、出会えた瞬間、忘れちゃってたんだ」
「……どういう、意味?」

 アキラくんの言葉に、思わず戸惑う。けれどその真っ直ぐな眼差しから、視線を逸らすことは出来なかった。

「あの日、俺のネックレスに、椿姫さんの血が付いた時……それを見て、思い出したんだ。俺は、椿姫さんを取り戻すために、ここに来た」
「……、取り戻す……?」
「うん。あの吸血鬼も言ってただろ。椿姫さんは……、俺たちは……『人間』なんだ。この店に立ち寄れる『あやかし』じゃない、ただの人間」

 頭の中が真っ白になるとはこのことだ。アキラくんの言葉が、上手く処理出来ない。
 わたしたちが『人間』?
 店のお客さんがいつも愚痴を溢す、高慢で害悪で醜い、誰かの好きな食べ物にすら嫌な顔をする、本来の姿を見られようものなら迫害するという、野蛮な『人間』。

 思わずお父さんに視線を向けるけれど、否定も肯定も、何の返事もしてくれなかった。

「俺たちの本当の出会いは……十年以上前。家庭の事情で引っ越してきた、家庭環境に問題ありの俺と、愛情いっぱいの家庭で過ごしてた、つばきちゃん」
「え……」
「どう見てもサイズの合ってない死んだ父さんのお下がりなんて着せられて、いつもぼろぼろの俺に声をかけてくれたのは、椿姫さんだけだった」

 待って、そんなの、記憶にない。
 十年以上前。店に立つより、前。お父さんに、拾われる前。
 店に初めて出してもらったあの頃の記憶は、今も確かにわたしの中に存在している。でも、その前の記憶は、ひどく朧気だ。

「親の反対を押しきって、何度か遊んでる時に……俺たちは偶然、この店に来るまでの手順を踏んでいたあやかしを見掛けた。それで、新しい遊びだと思って、見様見真似でついて行ったんだ」
「!?」
「……でも、俺は、うっかり落とした父さんの形見のネックレスに気を取られて、手順を失敗した」

 彼は首に下げられたネックレスのトップを握り締めて、眉を寄せる。

「椿姫さんを見失って、焦った俺は振り出しに戻って、記憶を頼りに挑戦し続けた。……手順を踏むと鴉が飛ぶとか、片足のない猫が通るだとか、同じ現象が必ず起こるんだ。途中から、これが遊びでも何でもないことはわかってた」

 遊びのつもりから一転、遊んでいた女の子がはぐれて神隠しにでもあったようなものだろう。
 わたしより年上、それでも当時まだ十歳にも満たないであろう彼の焦りや絶望を思って、胸が苦しくなる。

「怖かった。それでも、何がなんでも椿姫さんだけは見付けて、家に帰さないとって……椿姫さんには、俺と違って帰るべき家が、待っている家族が居たから」
「アキラくん……」
「でも挑戦し続ける内に、何か別のまじないの手順を踏んだのか、エラー制限にでも引っ掛かったのか……俺は、気付くと振り出しに戻るんじゃなく、あの店に至るまでの長い霧の中から、抜けられなくなっていた」
「え……?」
「真っ白な霧の中を彷徨って、誰かの気配を感じて振り向いても、正しい手順を踏んだ客とは、きっとズレて存在してたんだろうな。時折影は見掛けても、姿を見ることすら出来なかった……」

 今まで過ごしてきた店を取り巻くまじないは、変な客を寄せ付けないための、守りのものだと思っていた。
 それが、長い時間彷徨ってしまう程に危険なものだなんて、思っていなかった。

「その内時間の感覚もなくなって、方向もわからなくなって、何をしていたのかも、わからなくなっていった。自分のことも、椿姫さんのことも忘れそうになって……小石で何度も傷をつけて、ネックレスに名前を掘ったんだ」
「そんな……」

 改めて見せてくれた、銀色のネックレス。表には、小石で精一杯刻んだのであろうアキラくんの名前。そして、裏には『つばき』と、漢字のわからない子供の字で、確かに刻まれていた。

「わたしの、名前……」
「……本来店に来られない『人間』の椿姫を招き入れたのは俺の落ち度だ。それでも、椿姫をもう店から出さないとしたなら、それはそれで良かったんだろう……だが、アキラは彷徨い続けて、まじないは誤作動を繰り返し続けた。それが歪みの発端だろうな」

 それまで黙って聞いていたお父さんが、ぽつりと呟く。『落ち度』という単語に、胸が締め付けられる。
 十年以上前から、そもそもわたしがこの店に辿り着いた頃から、歪みは始まっていたのだ。

 わたしは店に立って十年間、店員としても外の世界に出ることはなかった。仕入れも店長の仕事だったから、必要もなかった。
 お客さんたちから毎日のように外の世界の愚痴を聞かされていたから、出たいと思ったこともない。

 入店に必要な複雑で小難しい手順も、知識として知ってはいるものの、外に出るための退店時の手順は、知らなかった。何しろ、見送りは店の出口までなのだ。

 そして、わたしを求め彷徨い続けていた霧の向こうの彼に、十年以上気付かなかった。

「歪みが顕著になって、一定の隙間が出来た。その隙間から、抜け道が出来てお前さんや海坊主みたいのが入り込んで来たんだろうなぁ」
「……俺のせいです。すみません」

 頭を下げるアキラくんから、視線が離せない。
 彼は見知らぬ場所で、まじないによる時間のズレはあったかもしれないけど、わたしの時間でいう十年以上彷徨って。記憶をなくす程苦しんで、そうまでして、たった一人でわたしを探していてくれた。
 そんなことも知らずに、わたしはぬくぬくと過ごして、お父さんとお客さんとの日々を楽しく暮らしてきた。
 罪悪感や、申し訳なさ、いろんな気持ちでいっぱいになる。

「謝らないで……アキラくんは、何も悪くないじゃない。わたしが……わたしの、せいで……」
「椿姫さんも、悪くない。俺は、家にも学校にも、ずっと居場所がなかった……唯一、笑顔を向けてくれる椿姫さんに救われたんだ」

 人一倍傷つき苦しんでいたであろう彼のどこまでも優しい言葉に、涙が止まらなかった。
 初対面で守ると言ってくれた彼は、もっと長い間、会えない間もわたしを守ろうとしてくれていたのだ。

「今回の件は、これで理由がわかった。だが、理由はどうであれ、ルールを歪めて店に被害があったとなりゃ、罰を与えない訳にはいかねぇ」
「……罰って……店を荒らしたのは海坊主さんで、アキラくんはわたしを守ってくれた! それに、元はといえば、わたしのせいで……!」
「海坊主は出禁にしたし、あやかしのルールは絶対だ。慣習に馴染めねぇ奴が、仲間意識の強い住処を追われ、人間に紛れなきゃならねぇくらいにはな」
「そうかもしれないけど……でも!」
「だから罰として……アキラ。椿姫を連れて、人間の世界に帰れ」
「……、……え?」

 お父さんからの予想外の言葉に、一瞬呼吸が止まる。
 わたしは震える声で、聞き返した。

「……連れて、帰る? どうして?」
「それが罰だ」
「待って、歪みっていうのは、もう直ったんだよね? そうしたら、もう、大丈夫なんでしょ? だったら、アキラくんと、三人でお店を……」
「ここは、あやかしのための店だ。そこに、『異物』である人間が二人だなんて、これからどんな障害が起きるかわからない」
「でも、ここは人間社会に疲れたあやかしの来る店でしょう!? もう人間社会に居場所のないわたしたちが居てもいいじゃない!」
「人間社会に疲れて癒しを求めに来てるのに、そこに人間が居る時点で問題しかねぇだろうが!」

 普段温厚なお父さんが、声を荒げる。思わずびくりとして、立ち上がりかけたわたしは再びソファーに沈んだ。

「元々、アキラは十年以上椿姫を探してたんだろうが。願ったり叶ったりだろう」
「それは……」
「ほら、わかったらさっさと荷物纏めて来い」
「……、……お父さんは、わたしのこと、もう邪魔なの? それがルールだから?」

 わたしを実の子のように、大切に育ててくれたお父さん。その優しさを、愛情を、わたしは知っている。
 お客さんを家族のように、店を大事にしてきた店長。その思い入れを、ここに至るまでの信念を、わたしは知っている。

「……」
「……、わかった」

 この罰は、その両方で板挟みになった結果、出した答えなんだろう。

「わたし、出ていくね。……店長。今まで、お世話になりました」
「椿姫さん……でも」
「いいの。アキラくんが、こんなに頑張って迎えに来てくれたんだもん。……人間は人間の住む世界に、帰らなくちゃ」
「……、椿姫さん……」

 正面に座っているお父さんの顔が、涙で見えない。テーブル越しの近くて遠い距離に、手を伸ばすことも出来なかった。


*******


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