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主人公(本編)
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僕は今日も、フラフラと駅を歩いている。特に予定なんてない。気分転換も含めて、話のネタを探したかったからだ。僕は、駅の改札口周辺を忙しく行き交う人達を見る。
彼らの目は一人一人、違うように見えた。人々がすれ違う中で、目には見えない彼らの想いも錯綜している。彼ら一人一人、今、何を想い、どう考えているかなんて分からないけど。
彼らは彼らの人生を一生懸命生きている事だけは分かった。
「人間は一人一人、主人公であり、自分の人生においての主役である。」
僕は、不意にそんなふうに語った自己啓発本があったのを、朧気に思い出す。
もしもその言葉が本当なのだとしたら、僕の人生の脚本を書いた奴は馬鹿だ。こんな主人公、誰が好きになる。こんな物語の何が面白いんだ。
そう心の中で呟いて、僕はこの言葉を否定していた。
これまで人生において、主役になったことはほとんどないだろう。
今だってそうだ。主役とは程遠い。昔から、物語を考えるのが好きで、本が好きで、そしていつの間にか小説家を目指していた。
でも、なかなか売れない。売れなかった。
僕は売れない小説家で、ほぼフリーターと変わりない。小説がいつか売れるのを夢みて、アルバイトして。夢だけずっとずっと追いかけて現実を見ていない。
いや、本当は見ているのかもしれない。しかし諦めたくないから、それを考えないように、脳内から排除しているのだ。
この世には夢を叶えられる人間と叶えられない人間がいる。人間には限界がある。どう頑張っても出来ないことがあるのだ。頑張って努力して叶えられる人間は、主人公で、頑張っても叶えられない人間は、脇役だ。
僕は後者なのだろう。でも救いがない訳では無い。
本当に、物語の主人公のように目を輝かせて日々を生きている人もいれば、目の輝きを失い、意気消沈し、まるで現世を彷徨う亡霊のような気力の無い人も居る。でもそれは、あくまで僕のレンズで見た印象でしかない。実際にその人たちが主人公か脇役かなんて分からない。僕にとってその人たちはただ他人。脇役かキャストでしかないからだ。周りのいる人々がどのような思いを抱えて生きているのか。この時間、世界中の人々が今どう生きているのかなんて分からない。戦争や病気で苦しんでいる人もいれば、旅行や娯楽施設で、愉快活発に楽しんでいる人もいるだろう。実際にそこにいて、見て、聞いて、体験しないと知る由もない。仮に体験して知ったとしても、関わらなければ、キャスト(他人)はキャストでしかないのだ。
僕に、救いがあるとするならば、実際に彼らの話を聞き、関わることで、彼らの主人公たる人生を小説に書き記し、自ら体験した気持ちになることだろう。
彼らは彼らの世界において一人一人の主人公であり、主役として物語を紡ぐことが出来る。小説は、表現できる。
僕は、彼らの世界を描き、主人公にして物語を紡いでいた。
しかし、なかなか上手くは行かなかった。自分では面白い物語が作れたと思っていても、編集者にはひとつも響かず、僕が売れると思い、書いた夢の詰まった原稿はただの紙くずとなってしまった。編集者にとっても、僕はただのキャストでしかなく、有名作家を夢見るしがない小説家という脇役でしかないのだ。僕が何気なく、道を歩く時に、道端で死んでいる踏み潰された蛾や側溝に生えているこれもまた踏み潰された小さな一輪のたんぽぽに対して、僕は可哀想な事であるということを認知していても、気にもとめない。それらがどうなろうと、僕の人生において何も関係ないからだ。そしてその蛾やたんぽぽ達の立場が、編集者にとっての今の僕なんだと理解した。
何が足りないのか。何故この物語がほかの人に響かないのか。
視野偏狭の僕には、何一つわからず、考え抜いて、出した答えは、調査不足であったということだけだった。だから僕は今ここにいる。
丁度今、下校時間だろうか。駅のホームを賑やかにおしゃべりしながら歩く、高校生たちが居た。そんな青春を謳歌する彼らを見て、僕は僕自身の、学生時代について思い出していた。
僕は、昔から人間不信だった。
今の時代、全ての人間の悩みは人間関係によるものであると1人の心理学者が言ったように、まさに僕の人生は、常々に人間関係の悩みを抱えていた。特に学生時代は悩みが尽きなかった。僕は、誰ひとりとして、自分の想いをそのままに素直に打ち明けられることが出来なかった。心に掃き溜めを作って自分の想いを閉じ込めて、孤独で生き辛い人生を送ってきた。
僕は、それを小説という方法で、解放させたかったのかもしれない。
結局、どれだけ失敗しようとも、今の僕にとって、小説を書く以外の選択肢は残っていない。
だから今度は失敗しないために、編集者に響くようなものを作りあげてやると息巻いて、次の調査は、決して手を抜かないことを決意していた。
僕は今日もいつもの場所へ向かう。彼女もいつものように、同じ場所に立っていて、それに合わせて、僕も定位置へと移動しようとした。でももうそこには人だかりができていて、仕方なく僕は、別の位置へと移動する。その位置は、僕が初めて彼女を見つけた時と同じものであった。その位置から彼女を見ると、僕は初めて彼女に会った時のことがフラッシュバックして、記憶の断片が繋ぎ合わさっていくようにその時のことを思い出していた。
あの日の僕は、アルバイトの帰りだった。
今日と同じような、夕方6時前。夕方と言っても冬なのでもう当たりは暗く、夜と変わりない。ネオン街の光をバックに、ギターを弾きながら、気持ち良さそうに歌う彼女を見つけた。
僕と同じくいつか売れる日の夢を見て、自分が考えたであろう歌を歌う彼女に僕は親近感を覚えると共に、彼女のパフォーマンスの高さに魅入っていると、いつしか尊敬の眼差しを浮かべるほどになっていた。彼女の歌は、それほど魅力的なものだった。
一目惚れという感覚が、こうなのだろうか。直感的に、僕は彼女を取材したいと思った。彼女は、僕にとって、まさに理想のヒロイン像だったのかもしれない。
僕はまず、彼女が歌う日、歌う時間は何時辺りかを確かめることにした。取材をする上でアポイントメントを取ることが第一の前提条件であるからだ。
彼女はら平日、会社終わり、学校終わりの夕方5~7時あたり、火曜と水曜に歌うことが多かった。
頻度は1週間に2回ほど。
それを確かめるだけの要件で、遠くから確認する程度だったが、どうしても彼女の歌を聞くと、もっと近くで聞きたいと思ってしまい、何度も聞きに行ってしまった。それほど彼女の歌には魅力があった。
そのせいか彼女にいつしか顔を覚えられるようになっていた。1度も言葉を交わしていないのに、僕がこの場を訪れると、彼女は、目を合わせ、屈託のない優しい笑顔を浮かべてくれた。
そして今日も、いつもいる場所と違う僕に、彼女は笑いかけてくれるのであった。彼女に遂に取材をしようと決断した。顔を覚えられていて、今まで一度も話しかける素振りをした事は無かったので、急に話しかけるのは気が引けたが、これも仕事の1つと割り切れば楽にできる気がした。
「あ、あの、ちょっといいですか」
彼女が演奏を一旦終え、休憩に入ろうとした時、僕は声をかけた。
「は、はい」
彼女は、視線を送り続けていた楽器から僕の方へと向き直り、返事をした。大きく目を見開き、とても驚いた表情をしていて、僕は初めて見る彼女の顔に少しドキッとした。
「僕、実は、小説家をやっておりまして、売れない作家ではあるんですけど、良ければ貴方を題材に物語を書きたくて。取材をさせて頂けないでしょうか」
僕は、自分が彼女に何を言っているのか。頭が真っ白になって、いい終わったあと、何を言ったのか覚えておらず、ちゃんと言えたのかどうか不安になった。
「、、、」
返答はすぐ帰っては来ず、彼女の方を見ると、更に驚いた表情で、口を大きく開け、手で塞いでいた。目は点になっているといった感じだった。そして間を開けて、
「はい!是非!!!」
彼女は元気な声で、了承の返事を返してきた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「すみません、取材費の方、出せなくて」
僕は、アルバイト生活で資金のやり繰りはいっぱいいっぱいだった。情けない話、とても取材費を払える経済力は無かった。
「いえいえ!大丈夫ですよ」
彼女は、取り繕って明るくそう言った。どうしても申し訳ない気持ちになった。彼女もまた、売れることを目指している1人のシンガーソングライター。お金には困っているはずだ。
「あ、すみませーん、」
「はーい」
「アップルティーを1つください、ええと」
「あ、僕は、ホットコーヒーで」
「アップルティーとホットコーヒーおひとつですね!かしこまりました!」
店員が明るく注文を受け取って、そのあと静かな沈黙が流れる。
僕達は、駅の落ち着いた色を基調としたカフェに来ていた。店には、仕事終わりのサラリーマン、学校終わりの女子高生達などが居た。
「それで、、取材って?」
「あ、、ええっと、その、私は、小説家をやっていて、、」
「あ、それはさっき聞きましたよ」
彼女は、口に手を当てて、小さく感じよく微笑みながら言った。この言葉を聞いて、僕は、ついさっきこの文句で彼女を取材に誘ったことを思い出した。
「あっ、そうでしたね、すみません」
「いえいえ、でも、なんで私なんかの取材をするのかなって、気になって」
彼女は、謙遜しつつ、純粋な目で興味深そうな声色でこう呟く。
「そうですね、、僕は、普段音楽をあまり聞かないんですが、そんな僕でもこの歌は凄いというか、惹かれたんです」
いつも言葉に詰まる僕が、珍しく吃らずに、スラスラと言葉を発した。
「ホントですか!?初めてです!そんなふうに言われたの」
彼女は嬉しそうに、黒髪に隠された綺麗な青髪をひらつかせながら、そう言った。
「なんというか、初めて聞いた時、耳にすっと入ってきて、心が洗われる感覚というか、、いつの間にか悩みも忘れて、聞き入るようなそんな素敵な歌でした」
「、、、あははっ、流石は小説家さん!褒め方に文才溢れてるというか、お世辞言うの上手いですねー!」
彼女は照れながらそう言う。
でも、僕の言いたいことは、伝わってないような気がした。外面的では無く、もっと内面的な内容を伝えたかった。
「えっと、僕は、あなたの歌で、少し心が軽くなってると言うか、救われたんですよ」
「えっ?」
僕の言葉に彼女は驚きの表情を浮かべていた。そんな反応だった。
「お待たせ致しましたー!」
彼女の反応から間髪入れずに、明るい声の定員さんが、注文したホットコーヒーとアップルティーを持ってきてくれた。
そこで会話は途切れ、少しまた沈黙が訪れる。
注文したホットコーヒーを飲みつつ、カフェの古めかしい時計に目を向けると、時刻は、6時30分。いつ店に入ったのかは覚えていなかったが、彼女と何時間か話し込んだ感覚があった。店内は少し薄暗い照明とノスタルジックなインテリアでジャズ音楽がかかり、この店には時間を忘れさせてしまうような雰囲気があった。
「それで、具体的な取材の内容なんですけど、、」
僕は、何分かの沈黙の後、遠慮がちに話し始める。
「はい」
彼女もアップルティーを少し飲んで、頷いた。
「まず、歌っている経緯というか、目的は、ありますか?」
「そうですね、、」
そう言ってたから彼女は顎に手を当てて、少し俯いて、考えこんでいるようだった。そしてしばらくしてから返答した。
「元々は歌手になりたいって気持ちで始めたんですけど、今ではそれが叶ったので、気分転換、ですかね」
「叶ったんですか?」
「はい。まだ売れない歌手ですけど、一応」
はにかんで、照れながら遠慮がちにそう言う彼女。
「それでも、すごいと思います」
夢を叶えた彼女に僕は心底、すごいと思って自然とこの言葉が出ていた。その言葉を言われた彼女はとても照れていた。
「次に、路上ライブの歌は、自作の歌なんですか?」
「あー、一応、そうですね」
「なるほど。歌う曲全部ですか?」
「いえ、何個かはカバーもありますけど、さっき歌っていた曲とかは私の曲ですよ」
「なるほど。さっきのバラード調の?」
「そうですそうです!」
「普段からああいう曲調の歌ばかりを作曲してるんですか?」
「まぁ、どちらかと言えば、そうですかね」
「なるほど、ありがとうございます」
「最後になんですが、なぜ歌手になろうと?」
「歌が好きだからですね。私、昔から、思い詰めて悩むタイプで、そんな時、ある人の歌で勇気を貰って、私もこんな歌を歌って誰かに勇気を与えられたらいいなって」
真剣な顔で、瞳を輝かせながら彼女はそう語った。
「素敵ですね」
と僕は答えた。明るく元気な印象が強かった彼女だったが、取材を続ける中で、彼女の受け答えは、とても真面目で静かな信念を持った誠実さの面を感じさせられた。
「ありがとうございます」
「いえこちらこそ。突然なのに、快く受け入れてもらってありがとうございました」
僕はそう言って、取材の締めに入った。
「どうですか?いいの書けそうですか?」
「はい、とても参考になりました」
「ところでなんですが、どういった作品を書くんですか?」
「えっと、それは、」
僕は思わず口篭る。
「あっ、単なる興味本意で聞いただけなので、お答え出来なければ全然!」
「いえ、大丈夫ですよ」
「そうですね、、僕は、夢を追いかける1人の歌手の話を書こうかと思ってて、、」
「えっそれってつまり、私が主人公みたいなもんってことですか!?」
途端に、彼女から驚き嬉しさを隠しきれないような声が漏れる
「えぇっと、、はい、そうです」
「マジですか!?嬉しいです!!!」
満面の笑みで彼女は大きな声でそう言った。
「上手く表現できるか、、分からないんですけど、あなたはとても輝いて見えて、主人公にぴったりだなって思ったんです。」
「ありがとうございます。褒めても何も出ませんよ?」
彼女ははにかんでそう言った。
「でも、そういうことなら、もう一度取材、受けましょうか?」
そして、次の取材を自ら提案してくれた。
「い、いいんですか、、、?」
とてもそれは僕にとって嬉しい提案であったから、思わず恐れ多いというような、遠慮がちな声色で、それでいて嬉しさを隠しきれていないトーンで、このような言い方になってしまった。
「もちろんですよ。なんせ、主役なんで!」
そんな僕の言葉に、彼女はドヤ顔と笑顔をいり混ぜた表情で声に自信を滲ませながらそういった。
「本当にありがとうございます」
僕は心の底から彼女に感謝の意を述べた。
「その代わりといってはなんですが、」
ひと呼吸おいて、彼女が何かを呟こうとしていた。
「はい?」
僕は何かと思い、素っ頓狂な声を上げてしまう。
それから彼女は、にやりと笑って上目遣いでこう呟いた。
「必ず、完成させてくださいよっ?」
「が、頑張りますっ。」
僕を試すかのように見つめてそう言う彼女に、、僕はたじろぎながらそう答えた。
「お会計でーす。」
あっと、彼女と目を合わせる。それからすぐ、考えないうちに僕はバックから財布を取り出そうとまさぐっていた。
「あ、さすがにここは払いますから」
取材料も払えず、店の料金も払わないのはさすがに彼女に申し訳ない。
しかし、バックをいくら漁っても財布が見つからない。
「大丈夫ですか?」
慌ててバックの中を探す僕に対して、彼女は心配の目を向けてきた。
「すみません、、」
「いいんですよ。人って助け合いですから!」
「今度は絶対に払うので、、すみません。」
「気にしないでください。今度は、お願いしますね?」
「あっ、はい」
「では、また」
「また」
彼女に軽く手を振ってから別れた。
結局、彼女にカフェの代金を支払って貰った。僕はいつまで経っても、こんな感じで煮え切らない。もはやそれが普段通りすぎて、安心感さえ覚えてしまうようになってしまっている自分にむしゃくしゃして、彼女に申し訳ないと思った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
彼女の取材から数日経ち、小説の作成へと机に向かった。彼女の次の取材へはまだ2週間ほど間がある。
その間、僕は、ある程度完成まで小説を仕上げて、補足したいところを詳しく聞くようにしたいと思っていた。
彼女を見本とした主人公は、本当に生きているかのようにリアリティのある感情表現が出来た。
僕の小説人生、今までにない感覚で、とても手応えを感じていた。
夢を追いかけて奮闘している主人公を描いていくストーリーまでは良かったが、途中で壁にぶち当たり、葛藤をするシーンで、筆が止まった。トラウマが脳裏によぎる。葛藤して悩んで乗り越えれなかったあの時が。葛藤をする辛い状況の主人公を自分と重ねながら、苦しい思いをしてなんとか書くことは出来たけど、そこからどう主人公がそれを乗り越えていくか、どのような心情かを描ききることが出来なかった。僕には、その感情が分からなかった。
一向に進まずに、時間だけが過ぎていく。そんなかけ離れな理想と現実にムカついて、頭を悩ませた。何度も何度も書き直して消しゴムの消した後で黒くなった作文用紙も何枚もぐしゃぐしゃにして適当に投げ捨てた。食欲も無くて、目が疲れたのか、いつの間にか机に突っ伏していることが多かった。
そんな時、思い通りに行かなかった学生時代を思い出していた。あの頃の記憶が、あの時の記憶が蘇ってくる。
一生忘れないだろうと思っていたが、今となって忘れかけていることに気づいた。それでも、どこか心の中にあって今の僕を作り、苦しめているのだろう。
あの時のトラウマの火は消えていない。変わらなきゃいけないと思いつつも、まだ悩んでしまう。
人に信じられず、裏切られることが自分にとっていちばん辛いことで。
あのころの僕は、ずっと闇の中をさまよっていた。もしかしたら、僕のことを見ていて、信じてくれていた人もいるかもしれない。でも、たぶん見て見ぬふりをしていたんだと思う。かつて自分が彼にそうしていたように。
そんな過去を思い出した僕はいてもたってもいられず、外へ飛び出していた。
必死で、忘れたくて、消したくて、心の突っかかりを取りたくて、周りの目も忘れて道を駆けていく。
そうしているといつの間にかそこへ着いていた。
僕がこの状況を打破するには、ここに来るしか無かった。無意識無自覚でここに足を運んでいて、まるでそうなるように神様が仕向けたようだった。
僕は、ここで色んなことがあって、どうしていいかわからなくなった日や無理やり何かを決意した日もあった。
その辛い日々があって今の僕、今の脇役で、このまま人生、理想のように上手くいかないと諦めている自分がいる。その時の決意は、いつの間にか消えうせてしまったからだ。壁に当たって、足は、挫けて、立ち上がれなくなってしまったんだ。
苦虫を噛み潰したような顔をして、微睡む記憶の中、僕の頭の中に、色々な思いが駆け巡ってくる。
今回も、僕は辛い日々から何かを決意するんだろう。そして、いつの間にか忘れてしまうのだろう。そのしなくてもいい決意をするには、過去を振り返らなければならなかった。
あの時悲劇が起こったんだ。僕は弱かった。受け入れられない悪夢のような現実から逃げたくて、僕はあの世へ逃げようとした。僕は底の見えない濁った闇の中へ飛び込んだ。この瞬間また大きな音が聞こえて、大きな影が見えた。その後の記憶はない。だけど、僕は彼に助けられたということは分かった。僕は、僕自身のために彼に助けの手を差し伸べず、見捨てたのに、彼は僕のことを見捨てていなかったのだ。最後の最後で君は僕のことを助けてくれたんだ。でも、君はもう居ない。僕はその現実に立ち直れなかったんだ。本当なら彼の気持ちを受けて、強く生きなきゃダメだったんだ。いや、自分もそうしようと決意しようとしたけど、どうしても無理だった。彼を失った喪失感という負の感情に負けてしまった。僕の決意は挫けてしまった。
思い出した。あの時の気持ちを。そして、今回と前回の違いを。
今度は僕は挫けなかった。
取材を続けようと思った。
挫けたとしても、立ち上がれる気がした。
何故かって、彼女の言葉が脳裏に過ったんだ。
「必ず、完成させてくださいよ?」
僕はもう、ひとりじゃない。
今の僕ならできるはずだ。
あの時も、決意した。もう逃げない。逃げずに戦って、正面から障壁に向き合おうと、これまでの犠牲や辛い経験を清算して、自分を変えていこうと。
無理に前向きな言葉で、自分を鼓舞していたんだ。
それは今も同じかもしれないけど、でも、あの時より、絶対に心は強く、信念を持って、やろうという新しい感覚があった。それは彼女のおかげでもあると思う。
僕は確実に、自分の足で、前の道に踏み込んで、足跡が残る感覚があった。
家に帰って僕はすぐに寝た。
そして次の日から、僕は机に向き続けた。今まさに、自分の葛藤を乗り越えて、次のステップへ進もうとしている自分を作品の主人公に投影させて、主人公が困難を乗り越えていくその先のストーリーを書いた。僕もこのように乗り越えていけると良いなと思った。
そして、2回目の取材の日を迎えた。この取材では、自信に満ち溢れていた。僕は、もう逃げないと決めたから。乗り越えていけるという新たな感覚が僕の中にあったから。
そんな面持ちで、僕は2度目の取材を迎えた。この取材では、乗り越えていくためのステップで具体的な内容を聞くつもりであった。
待ち合わせは、前取材をした時とおなじ、あのこじんまりとしたカフェだった。
僕は取材予定時間の30分早く来て、先に席に座って待っていた。なにか注文しないとまずいので、先にまたあの時と同じホットコーヒーを頼んだ。
2週間ぶりに彼女に会う、この2週間、色々なことがあって長いように感じたが、今となってみれば短かったようにも思える。彼女はこの2週間どう過ごしてきたのだろう。いつもの通りの2週間だったのか、それとも僕みたいに何かが変わった2週間だったのか。もちろん彼女の方はただの取材で、彼女にとってこの取材で何かが変わるわけではないのだろうが。
カランカランと店のドアの鈴がなった。
そちらを見ると彼女が入ってきた。2週間ぶりに見る彼女だったが、様子は変わらず、眩しいオーラを放っていて、輝いていて、真っ直ぐとしいる瞳がこちらを捉えた。
「お久しぶりです」
「お久しぶりですね、どうぞ、座って下さい」
「結構、待ってました?」
「あー、いえ、ほんの数分くらいなので」
「そうですか、よかった」
そう呟き、彼女はほっと胸を撫で下ろすような仕草をした。
「それで、、早速なんですけど、今日の取材なんですが」
「あっ、ちょっと待ってください」
僕が取材の内容を切り出そうとすると、彼女は何かを思い出したかのようにかそう言った。
「は、はい」
「先生の事少し、伺ってもよろしいでしょうか?」
「僕のこと、ですか?」
僕自身のことを聞かれると思わず、驚いたトーンの声でそう聞き返した。
「はい。どうしても気になってることがあって」
「なんでしょう?」
「あの、、その、、」
彼女は、少し戸惑うような仕草をして、話を打ち明ける。
「先生は、なにか悩んでること、とかありますか?」
「悩んでることですか、、、いっぱいありますよ」
「例えば?」
「小説がなかなか上手く書けないとか、ですかね?」
「なるほど、、」
「私に何か助けられる事、無いですか?」
「えっ」
助けられることという言葉が彼女の口から出ることに僕は心底驚いた。彼女にはもう、僕は助けられっぱなしで、心の支えにすらなっていて、僕が言うべき答えはもう出ていた。
「もう充分助けられてますよ。この取材のおかげで、とても今までにないやる気になって、上手くかける気がするんです」
「そうですか、、それは良かったです」
彼女は深い笑みを浮かべてしんみりとした声でそう呟いた。
「すみません、、取材の途中で」
「大丈夫ですよ、逆に心配してくれたんですよね。僕なんかのことを、それだけで嬉しいというか」
「僕なんかって、、、あの、、もっと自信を持たれてもいいと思いますけど!」
「は、はい」
そうして、彼女は、拳を握りしめて前のめりになるように僕に語りかけてきた。
「私、先生のこと、凄く尊敬してるんですよ。自分の小説のことにすごく熱心で、何かを変えたいというかそういう気持ちとか、相手を思いやる気持ちっていうのがすごい伝わってきて。なんか、将来、凄い作家さんになるんじゃないかって、、だからそのっ、、!もっと自分に自信を持ってください!!自分なんてって、自分を卑下しないでくださいっ!!!」
「あっ、、!すみません。私ったら、お節介を!」
彼女は、ハッとした表情で口を押えて、照れながら縮こまるように押し黙った。
「いえ、、!その、ありがとうございます」
彼女は、僕を明らかに励まそうとしてくれていた。言い表すのも躊躇われるようなそんな彼女の人柄の良さと心の暖かみを感じた。僕は、そんな彼女を心底尊敬して、僕の方こそ、彼女は物凄い歌手になって、色々な人を元気付けられるような人になるんだろうなと思った。そして何よりも僕はまた、そんな彼女の言葉に、本当に救われていた。感謝しか無かった。
「それで、取材の内容って?」
空気を読んでくれたのか、彼女の方から取材の内容を切り出してくれた。
「そうですね、、、最後に一つだけ聞きたいことがあるんです。これさえ聞ければ、僕は、本当に完成できる気がするので」
「なるほど、、」
「あの、挫けそうになった時とかは、ありますか?その、あったらどう乗り越えてきたか、教えてください」
「そうですね、、、」
彼女は俯いて、少し考えたあと、ゆっくりと話し始めた。
「正直、挫けそうになったことは何度もあります。全然出来なくて、どうすればいいか、分からなくなって、迷って、私にはやっぱり無理なんじゃないかなって。ココ最近まで、、でも、正直な自分の心の内を聞くと、やっぱり歌が好きだし、それで誰かを幸せにしたい、やりたいっていうのが素直な気持ちだって気づいて、どんな時でも続けて頑張ってみようって、そしたら届いたんです。」
「なるほど、、本当にありがとうございました」
僕は、彼女に深深と頭を下げた。
「これだけで、いいんですか?」
彼女が驚いた顔で、驚いた声でそう聞く。
「はい。もうこれで、大丈夫です」
「あの、これ、取材料の代わりと言ってはなんですが、、」
「なんですか、これ」
「自分が、初めて出した本の登場人物が描かれている記念のしおりです。」
「えっ、いいんですか!」
「はい。逆に、こんなものしかなくてすみません」
「いえいえ!ありがとうございます」
「じゃあ、もう今日で、取材は最後ってことですよね?」
「そうですね。いろいろと本当にありがとうございました」
「いえ、こちらこそ!ありがとうございました。作品完成、頑張ってください!」
「ありがとうございます。僕も、応援してます。歌手活動、頑張ってください」
そう互いに言い合って店を出た。
「では、また」
彼女は、そう言って手を振っていた。
僕もまた、と振り返した。
彼女が向き直った後も、僕はその場を離れなかった。
ただ、遠ざかる彼女の背中をぼんやりと見つめ、その場に立っていた。
僕はその後、必死で机に向かい、執筆活動を続けた。何度も頭に彼女のことが過ったが、今彼女も頑張っているのだろうから自分も頑張ろうと自分にハッパをかけた。だからそれ以降彼女とは連絡を取らなかった。行き詰まっていた展開が嘘のように僕は書き進めていった。
春を迎え、暖かな季節が訪れた。満開の桜を見ながら、僕は桜並木を歩く。
片手には茶封筒。レンズ越しに見る太陽がすごく眩しくて、吹き抜ける風が清々しく、風で舞う桜の花びらがとても綺麗だった。
僕はついに小説を作りあげた。
僕の書きあげた小説は、最初の数年、売れ行きはあまり良くなかった。注目されていなかったのだろう。
しかしその小説は後になって色んな賞を取って、みるみると売れていき、僕は一気に有名作家となっていった。
正直ここまでまわりに受け入れられるなんて思いもしなかった。
僕が取材される立場になるなんて。
そしてまた数年が経とうとしているとき、映画化することが決まった。それに先立って打ち合わせが行われることになっていた。
これまでも賞の授賞式などで、表に出たが、映画化の打ち合わせとなると、大人数と関わることが予想されていたので少し緊張しながら、僕は打ち合わせに出向いていた。
あの時あれほど悩んでいたのが嘘みたいだったように、売れてからは生活が充実していて(忙しくて)あっという間だった。この物語を書こうと思い、決意して、今までで10年弱。あの時の僕と、今の世界はだいぶ変わっていて、変わっていないものが少なくなって、自分は成長しているはずなのに、変わって得たものよりも、失ったもの方が何故か多く感じて悲しくなった。それでも僕の心の中には、確固たる自信と充実感が芽生えていた。僕は、そこで初めて脇役から主人公になれた気がしたんだ。
打ち合わせの場所へ向かうと、映画監督やスタッフなどが居て、映画化の内容等について色々な話を進めていく中、こんな話が上がった。
「先生、この映画の主題歌なんですけど歌手を目指す内容でもありますし、挿入歌、主題歌共に同じ人物で、今大人気の、売れている歌手の方に依頼させて頂きました。」
「そうなんですか、ありがとうございます」
「それでですね、是非とも先生に会いたいと仰られてるんですよね」
「えっ、私に?」
「はい、なので今からその歌手の方をお呼びしてもよろしいでしょうか」
「はい、大丈夫ですけど」
そう言うと、スタッフは、奥の扉へ下がっていった。
しばらくしてから、そのドアが開き、先程のスタッフともう1人の影が見えた。
整った目鼻立ちと綺麗な髪。そのオーラに懐かしさを少し感じて、心がきゅっと締め付けられるような感覚がした。
その人は、かつて僕を、救ってくれて、心の支えになっていて、尊敬の念まで抱くようになっていた相手。この人のおかげで、僕はこの作品が書けた。僕にとって大事な人。時が経てば経つほど、感謝を伝えたいと言う気持ちが募っていって、ずっと心の中で会いたいと思っていて、陰ながら応援していた人。
そのような人物が、僕の目の前にたっていた。
「お久しぶりですね、先生」
実に10年振りに聞く彼女の透き通った声が耳に入ってきた瞬間、僕は思わず、涙を零しそうになった。
彼らの目は一人一人、違うように見えた。人々がすれ違う中で、目には見えない彼らの想いも錯綜している。彼ら一人一人、今、何を想い、どう考えているかなんて分からないけど。
彼らは彼らの人生を一生懸命生きている事だけは分かった。
「人間は一人一人、主人公であり、自分の人生においての主役である。」
僕は、不意にそんなふうに語った自己啓発本があったのを、朧気に思い出す。
もしもその言葉が本当なのだとしたら、僕の人生の脚本を書いた奴は馬鹿だ。こんな主人公、誰が好きになる。こんな物語の何が面白いんだ。
そう心の中で呟いて、僕はこの言葉を否定していた。
これまで人生において、主役になったことはほとんどないだろう。
今だってそうだ。主役とは程遠い。昔から、物語を考えるのが好きで、本が好きで、そしていつの間にか小説家を目指していた。
でも、なかなか売れない。売れなかった。
僕は売れない小説家で、ほぼフリーターと変わりない。小説がいつか売れるのを夢みて、アルバイトして。夢だけずっとずっと追いかけて現実を見ていない。
いや、本当は見ているのかもしれない。しかし諦めたくないから、それを考えないように、脳内から排除しているのだ。
この世には夢を叶えられる人間と叶えられない人間がいる。人間には限界がある。どう頑張っても出来ないことがあるのだ。頑張って努力して叶えられる人間は、主人公で、頑張っても叶えられない人間は、脇役だ。
僕は後者なのだろう。でも救いがない訳では無い。
本当に、物語の主人公のように目を輝かせて日々を生きている人もいれば、目の輝きを失い、意気消沈し、まるで現世を彷徨う亡霊のような気力の無い人も居る。でもそれは、あくまで僕のレンズで見た印象でしかない。実際にその人たちが主人公か脇役かなんて分からない。僕にとってその人たちはただ他人。脇役かキャストでしかないからだ。周りのいる人々がどのような思いを抱えて生きているのか。この時間、世界中の人々が今どう生きているのかなんて分からない。戦争や病気で苦しんでいる人もいれば、旅行や娯楽施設で、愉快活発に楽しんでいる人もいるだろう。実際にそこにいて、見て、聞いて、体験しないと知る由もない。仮に体験して知ったとしても、関わらなければ、キャスト(他人)はキャストでしかないのだ。
僕に、救いがあるとするならば、実際に彼らの話を聞き、関わることで、彼らの主人公たる人生を小説に書き記し、自ら体験した気持ちになることだろう。
彼らは彼らの世界において一人一人の主人公であり、主役として物語を紡ぐことが出来る。小説は、表現できる。
僕は、彼らの世界を描き、主人公にして物語を紡いでいた。
しかし、なかなか上手くは行かなかった。自分では面白い物語が作れたと思っていても、編集者にはひとつも響かず、僕が売れると思い、書いた夢の詰まった原稿はただの紙くずとなってしまった。編集者にとっても、僕はただのキャストでしかなく、有名作家を夢見るしがない小説家という脇役でしかないのだ。僕が何気なく、道を歩く時に、道端で死んでいる踏み潰された蛾や側溝に生えているこれもまた踏み潰された小さな一輪のたんぽぽに対して、僕は可哀想な事であるということを認知していても、気にもとめない。それらがどうなろうと、僕の人生において何も関係ないからだ。そしてその蛾やたんぽぽ達の立場が、編集者にとっての今の僕なんだと理解した。
何が足りないのか。何故この物語がほかの人に響かないのか。
視野偏狭の僕には、何一つわからず、考え抜いて、出した答えは、調査不足であったということだけだった。だから僕は今ここにいる。
丁度今、下校時間だろうか。駅のホームを賑やかにおしゃべりしながら歩く、高校生たちが居た。そんな青春を謳歌する彼らを見て、僕は僕自身の、学生時代について思い出していた。
僕は、昔から人間不信だった。
今の時代、全ての人間の悩みは人間関係によるものであると1人の心理学者が言ったように、まさに僕の人生は、常々に人間関係の悩みを抱えていた。特に学生時代は悩みが尽きなかった。僕は、誰ひとりとして、自分の想いをそのままに素直に打ち明けられることが出来なかった。心に掃き溜めを作って自分の想いを閉じ込めて、孤独で生き辛い人生を送ってきた。
僕は、それを小説という方法で、解放させたかったのかもしれない。
結局、どれだけ失敗しようとも、今の僕にとって、小説を書く以外の選択肢は残っていない。
だから今度は失敗しないために、編集者に響くようなものを作りあげてやると息巻いて、次の調査は、決して手を抜かないことを決意していた。
僕は今日もいつもの場所へ向かう。彼女もいつものように、同じ場所に立っていて、それに合わせて、僕も定位置へと移動しようとした。でももうそこには人だかりができていて、仕方なく僕は、別の位置へと移動する。その位置は、僕が初めて彼女を見つけた時と同じものであった。その位置から彼女を見ると、僕は初めて彼女に会った時のことがフラッシュバックして、記憶の断片が繋ぎ合わさっていくようにその時のことを思い出していた。
あの日の僕は、アルバイトの帰りだった。
今日と同じような、夕方6時前。夕方と言っても冬なのでもう当たりは暗く、夜と変わりない。ネオン街の光をバックに、ギターを弾きながら、気持ち良さそうに歌う彼女を見つけた。
僕と同じくいつか売れる日の夢を見て、自分が考えたであろう歌を歌う彼女に僕は親近感を覚えると共に、彼女のパフォーマンスの高さに魅入っていると、いつしか尊敬の眼差しを浮かべるほどになっていた。彼女の歌は、それほど魅力的なものだった。
一目惚れという感覚が、こうなのだろうか。直感的に、僕は彼女を取材したいと思った。彼女は、僕にとって、まさに理想のヒロイン像だったのかもしれない。
僕はまず、彼女が歌う日、歌う時間は何時辺りかを確かめることにした。取材をする上でアポイントメントを取ることが第一の前提条件であるからだ。
彼女はら平日、会社終わり、学校終わりの夕方5~7時あたり、火曜と水曜に歌うことが多かった。
頻度は1週間に2回ほど。
それを確かめるだけの要件で、遠くから確認する程度だったが、どうしても彼女の歌を聞くと、もっと近くで聞きたいと思ってしまい、何度も聞きに行ってしまった。それほど彼女の歌には魅力があった。
そのせいか彼女にいつしか顔を覚えられるようになっていた。1度も言葉を交わしていないのに、僕がこの場を訪れると、彼女は、目を合わせ、屈託のない優しい笑顔を浮かべてくれた。
そして今日も、いつもいる場所と違う僕に、彼女は笑いかけてくれるのであった。彼女に遂に取材をしようと決断した。顔を覚えられていて、今まで一度も話しかける素振りをした事は無かったので、急に話しかけるのは気が引けたが、これも仕事の1つと割り切れば楽にできる気がした。
「あ、あの、ちょっといいですか」
彼女が演奏を一旦終え、休憩に入ろうとした時、僕は声をかけた。
「は、はい」
彼女は、視線を送り続けていた楽器から僕の方へと向き直り、返事をした。大きく目を見開き、とても驚いた表情をしていて、僕は初めて見る彼女の顔に少しドキッとした。
「僕、実は、小説家をやっておりまして、売れない作家ではあるんですけど、良ければ貴方を題材に物語を書きたくて。取材をさせて頂けないでしょうか」
僕は、自分が彼女に何を言っているのか。頭が真っ白になって、いい終わったあと、何を言ったのか覚えておらず、ちゃんと言えたのかどうか不安になった。
「、、、」
返答はすぐ帰っては来ず、彼女の方を見ると、更に驚いた表情で、口を大きく開け、手で塞いでいた。目は点になっているといった感じだった。そして間を開けて、
「はい!是非!!!」
彼女は元気な声で、了承の返事を返してきた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「すみません、取材費の方、出せなくて」
僕は、アルバイト生活で資金のやり繰りはいっぱいいっぱいだった。情けない話、とても取材費を払える経済力は無かった。
「いえいえ!大丈夫ですよ」
彼女は、取り繕って明るくそう言った。どうしても申し訳ない気持ちになった。彼女もまた、売れることを目指している1人のシンガーソングライター。お金には困っているはずだ。
「あ、すみませーん、」
「はーい」
「アップルティーを1つください、ええと」
「あ、僕は、ホットコーヒーで」
「アップルティーとホットコーヒーおひとつですね!かしこまりました!」
店員が明るく注文を受け取って、そのあと静かな沈黙が流れる。
僕達は、駅の落ち着いた色を基調としたカフェに来ていた。店には、仕事終わりのサラリーマン、学校終わりの女子高生達などが居た。
「それで、、取材って?」
「あ、、ええっと、その、私は、小説家をやっていて、、」
「あ、それはさっき聞きましたよ」
彼女は、口に手を当てて、小さく感じよく微笑みながら言った。この言葉を聞いて、僕は、ついさっきこの文句で彼女を取材に誘ったことを思い出した。
「あっ、そうでしたね、すみません」
「いえいえ、でも、なんで私なんかの取材をするのかなって、気になって」
彼女は、謙遜しつつ、純粋な目で興味深そうな声色でこう呟く。
「そうですね、、僕は、普段音楽をあまり聞かないんですが、そんな僕でもこの歌は凄いというか、惹かれたんです」
いつも言葉に詰まる僕が、珍しく吃らずに、スラスラと言葉を発した。
「ホントですか!?初めてです!そんなふうに言われたの」
彼女は嬉しそうに、黒髪に隠された綺麗な青髪をひらつかせながら、そう言った。
「なんというか、初めて聞いた時、耳にすっと入ってきて、心が洗われる感覚というか、、いつの間にか悩みも忘れて、聞き入るようなそんな素敵な歌でした」
「、、、あははっ、流石は小説家さん!褒め方に文才溢れてるというか、お世辞言うの上手いですねー!」
彼女は照れながらそう言う。
でも、僕の言いたいことは、伝わってないような気がした。外面的では無く、もっと内面的な内容を伝えたかった。
「えっと、僕は、あなたの歌で、少し心が軽くなってると言うか、救われたんですよ」
「えっ?」
僕の言葉に彼女は驚きの表情を浮かべていた。そんな反応だった。
「お待たせ致しましたー!」
彼女の反応から間髪入れずに、明るい声の定員さんが、注文したホットコーヒーとアップルティーを持ってきてくれた。
そこで会話は途切れ、少しまた沈黙が訪れる。
注文したホットコーヒーを飲みつつ、カフェの古めかしい時計に目を向けると、時刻は、6時30分。いつ店に入ったのかは覚えていなかったが、彼女と何時間か話し込んだ感覚があった。店内は少し薄暗い照明とノスタルジックなインテリアでジャズ音楽がかかり、この店には時間を忘れさせてしまうような雰囲気があった。
「それで、具体的な取材の内容なんですけど、、」
僕は、何分かの沈黙の後、遠慮がちに話し始める。
「はい」
彼女もアップルティーを少し飲んで、頷いた。
「まず、歌っている経緯というか、目的は、ありますか?」
「そうですね、、」
そう言ってたから彼女は顎に手を当てて、少し俯いて、考えこんでいるようだった。そしてしばらくしてから返答した。
「元々は歌手になりたいって気持ちで始めたんですけど、今ではそれが叶ったので、気分転換、ですかね」
「叶ったんですか?」
「はい。まだ売れない歌手ですけど、一応」
はにかんで、照れながら遠慮がちにそう言う彼女。
「それでも、すごいと思います」
夢を叶えた彼女に僕は心底、すごいと思って自然とこの言葉が出ていた。その言葉を言われた彼女はとても照れていた。
「次に、路上ライブの歌は、自作の歌なんですか?」
「あー、一応、そうですね」
「なるほど。歌う曲全部ですか?」
「いえ、何個かはカバーもありますけど、さっき歌っていた曲とかは私の曲ですよ」
「なるほど。さっきのバラード調の?」
「そうですそうです!」
「普段からああいう曲調の歌ばかりを作曲してるんですか?」
「まぁ、どちらかと言えば、そうですかね」
「なるほど、ありがとうございます」
「最後になんですが、なぜ歌手になろうと?」
「歌が好きだからですね。私、昔から、思い詰めて悩むタイプで、そんな時、ある人の歌で勇気を貰って、私もこんな歌を歌って誰かに勇気を与えられたらいいなって」
真剣な顔で、瞳を輝かせながら彼女はそう語った。
「素敵ですね」
と僕は答えた。明るく元気な印象が強かった彼女だったが、取材を続ける中で、彼女の受け答えは、とても真面目で静かな信念を持った誠実さの面を感じさせられた。
「ありがとうございます」
「いえこちらこそ。突然なのに、快く受け入れてもらってありがとうございました」
僕はそう言って、取材の締めに入った。
「どうですか?いいの書けそうですか?」
「はい、とても参考になりました」
「ところでなんですが、どういった作品を書くんですか?」
「えっと、それは、」
僕は思わず口篭る。
「あっ、単なる興味本意で聞いただけなので、お答え出来なければ全然!」
「いえ、大丈夫ですよ」
「そうですね、、僕は、夢を追いかける1人の歌手の話を書こうかと思ってて、、」
「えっそれってつまり、私が主人公みたいなもんってことですか!?」
途端に、彼女から驚き嬉しさを隠しきれないような声が漏れる
「えぇっと、、はい、そうです」
「マジですか!?嬉しいです!!!」
満面の笑みで彼女は大きな声でそう言った。
「上手く表現できるか、、分からないんですけど、あなたはとても輝いて見えて、主人公にぴったりだなって思ったんです。」
「ありがとうございます。褒めても何も出ませんよ?」
彼女ははにかんでそう言った。
「でも、そういうことなら、もう一度取材、受けましょうか?」
そして、次の取材を自ら提案してくれた。
「い、いいんですか、、、?」
とてもそれは僕にとって嬉しい提案であったから、思わず恐れ多いというような、遠慮がちな声色で、それでいて嬉しさを隠しきれていないトーンで、このような言い方になってしまった。
「もちろんですよ。なんせ、主役なんで!」
そんな僕の言葉に、彼女はドヤ顔と笑顔をいり混ぜた表情で声に自信を滲ませながらそういった。
「本当にありがとうございます」
僕は心の底から彼女に感謝の意を述べた。
「その代わりといってはなんですが、」
ひと呼吸おいて、彼女が何かを呟こうとしていた。
「はい?」
僕は何かと思い、素っ頓狂な声を上げてしまう。
それから彼女は、にやりと笑って上目遣いでこう呟いた。
「必ず、完成させてくださいよっ?」
「が、頑張りますっ。」
僕を試すかのように見つめてそう言う彼女に、、僕はたじろぎながらそう答えた。
「お会計でーす。」
あっと、彼女と目を合わせる。それからすぐ、考えないうちに僕はバックから財布を取り出そうとまさぐっていた。
「あ、さすがにここは払いますから」
取材料も払えず、店の料金も払わないのはさすがに彼女に申し訳ない。
しかし、バックをいくら漁っても財布が見つからない。
「大丈夫ですか?」
慌ててバックの中を探す僕に対して、彼女は心配の目を向けてきた。
「すみません、、」
「いいんですよ。人って助け合いですから!」
「今度は絶対に払うので、、すみません。」
「気にしないでください。今度は、お願いしますね?」
「あっ、はい」
「では、また」
「また」
彼女に軽く手を振ってから別れた。
結局、彼女にカフェの代金を支払って貰った。僕はいつまで経っても、こんな感じで煮え切らない。もはやそれが普段通りすぎて、安心感さえ覚えてしまうようになってしまっている自分にむしゃくしゃして、彼女に申し訳ないと思った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
彼女の取材から数日経ち、小説の作成へと机に向かった。彼女の次の取材へはまだ2週間ほど間がある。
その間、僕は、ある程度完成まで小説を仕上げて、補足したいところを詳しく聞くようにしたいと思っていた。
彼女を見本とした主人公は、本当に生きているかのようにリアリティのある感情表現が出来た。
僕の小説人生、今までにない感覚で、とても手応えを感じていた。
夢を追いかけて奮闘している主人公を描いていくストーリーまでは良かったが、途中で壁にぶち当たり、葛藤をするシーンで、筆が止まった。トラウマが脳裏によぎる。葛藤して悩んで乗り越えれなかったあの時が。葛藤をする辛い状況の主人公を自分と重ねながら、苦しい思いをしてなんとか書くことは出来たけど、そこからどう主人公がそれを乗り越えていくか、どのような心情かを描ききることが出来なかった。僕には、その感情が分からなかった。
一向に進まずに、時間だけが過ぎていく。そんなかけ離れな理想と現実にムカついて、頭を悩ませた。何度も何度も書き直して消しゴムの消した後で黒くなった作文用紙も何枚もぐしゃぐしゃにして適当に投げ捨てた。食欲も無くて、目が疲れたのか、いつの間にか机に突っ伏していることが多かった。
そんな時、思い通りに行かなかった学生時代を思い出していた。あの頃の記憶が、あの時の記憶が蘇ってくる。
一生忘れないだろうと思っていたが、今となって忘れかけていることに気づいた。それでも、どこか心の中にあって今の僕を作り、苦しめているのだろう。
あの時のトラウマの火は消えていない。変わらなきゃいけないと思いつつも、まだ悩んでしまう。
人に信じられず、裏切られることが自分にとっていちばん辛いことで。
あのころの僕は、ずっと闇の中をさまよっていた。もしかしたら、僕のことを見ていて、信じてくれていた人もいるかもしれない。でも、たぶん見て見ぬふりをしていたんだと思う。かつて自分が彼にそうしていたように。
そんな過去を思い出した僕はいてもたってもいられず、外へ飛び出していた。
必死で、忘れたくて、消したくて、心の突っかかりを取りたくて、周りの目も忘れて道を駆けていく。
そうしているといつの間にかそこへ着いていた。
僕がこの状況を打破するには、ここに来るしか無かった。無意識無自覚でここに足を運んでいて、まるでそうなるように神様が仕向けたようだった。
僕は、ここで色んなことがあって、どうしていいかわからなくなった日や無理やり何かを決意した日もあった。
その辛い日々があって今の僕、今の脇役で、このまま人生、理想のように上手くいかないと諦めている自分がいる。その時の決意は、いつの間にか消えうせてしまったからだ。壁に当たって、足は、挫けて、立ち上がれなくなってしまったんだ。
苦虫を噛み潰したような顔をして、微睡む記憶の中、僕の頭の中に、色々な思いが駆け巡ってくる。
今回も、僕は辛い日々から何かを決意するんだろう。そして、いつの間にか忘れてしまうのだろう。そのしなくてもいい決意をするには、過去を振り返らなければならなかった。
あの時悲劇が起こったんだ。僕は弱かった。受け入れられない悪夢のような現実から逃げたくて、僕はあの世へ逃げようとした。僕は底の見えない濁った闇の中へ飛び込んだ。この瞬間また大きな音が聞こえて、大きな影が見えた。その後の記憶はない。だけど、僕は彼に助けられたということは分かった。僕は、僕自身のために彼に助けの手を差し伸べず、見捨てたのに、彼は僕のことを見捨てていなかったのだ。最後の最後で君は僕のことを助けてくれたんだ。でも、君はもう居ない。僕はその現実に立ち直れなかったんだ。本当なら彼の気持ちを受けて、強く生きなきゃダメだったんだ。いや、自分もそうしようと決意しようとしたけど、どうしても無理だった。彼を失った喪失感という負の感情に負けてしまった。僕の決意は挫けてしまった。
思い出した。あの時の気持ちを。そして、今回と前回の違いを。
今度は僕は挫けなかった。
取材を続けようと思った。
挫けたとしても、立ち上がれる気がした。
何故かって、彼女の言葉が脳裏に過ったんだ。
「必ず、完成させてくださいよ?」
僕はもう、ひとりじゃない。
今の僕ならできるはずだ。
あの時も、決意した。もう逃げない。逃げずに戦って、正面から障壁に向き合おうと、これまでの犠牲や辛い経験を清算して、自分を変えていこうと。
無理に前向きな言葉で、自分を鼓舞していたんだ。
それは今も同じかもしれないけど、でも、あの時より、絶対に心は強く、信念を持って、やろうという新しい感覚があった。それは彼女のおかげでもあると思う。
僕は確実に、自分の足で、前の道に踏み込んで、足跡が残る感覚があった。
家に帰って僕はすぐに寝た。
そして次の日から、僕は机に向き続けた。今まさに、自分の葛藤を乗り越えて、次のステップへ進もうとしている自分を作品の主人公に投影させて、主人公が困難を乗り越えていくその先のストーリーを書いた。僕もこのように乗り越えていけると良いなと思った。
そして、2回目の取材の日を迎えた。この取材では、自信に満ち溢れていた。僕は、もう逃げないと決めたから。乗り越えていけるという新たな感覚が僕の中にあったから。
そんな面持ちで、僕は2度目の取材を迎えた。この取材では、乗り越えていくためのステップで具体的な内容を聞くつもりであった。
待ち合わせは、前取材をした時とおなじ、あのこじんまりとしたカフェだった。
僕は取材予定時間の30分早く来て、先に席に座って待っていた。なにか注文しないとまずいので、先にまたあの時と同じホットコーヒーを頼んだ。
2週間ぶりに彼女に会う、この2週間、色々なことがあって長いように感じたが、今となってみれば短かったようにも思える。彼女はこの2週間どう過ごしてきたのだろう。いつもの通りの2週間だったのか、それとも僕みたいに何かが変わった2週間だったのか。もちろん彼女の方はただの取材で、彼女にとってこの取材で何かが変わるわけではないのだろうが。
カランカランと店のドアの鈴がなった。
そちらを見ると彼女が入ってきた。2週間ぶりに見る彼女だったが、様子は変わらず、眩しいオーラを放っていて、輝いていて、真っ直ぐとしいる瞳がこちらを捉えた。
「お久しぶりです」
「お久しぶりですね、どうぞ、座って下さい」
「結構、待ってました?」
「あー、いえ、ほんの数分くらいなので」
「そうですか、よかった」
そう呟き、彼女はほっと胸を撫で下ろすような仕草をした。
「それで、、早速なんですけど、今日の取材なんですが」
「あっ、ちょっと待ってください」
僕が取材の内容を切り出そうとすると、彼女は何かを思い出したかのようにかそう言った。
「は、はい」
「先生の事少し、伺ってもよろしいでしょうか?」
「僕のこと、ですか?」
僕自身のことを聞かれると思わず、驚いたトーンの声でそう聞き返した。
「はい。どうしても気になってることがあって」
「なんでしょう?」
「あの、、その、、」
彼女は、少し戸惑うような仕草をして、話を打ち明ける。
「先生は、なにか悩んでること、とかありますか?」
「悩んでることですか、、、いっぱいありますよ」
「例えば?」
「小説がなかなか上手く書けないとか、ですかね?」
「なるほど、、」
「私に何か助けられる事、無いですか?」
「えっ」
助けられることという言葉が彼女の口から出ることに僕は心底驚いた。彼女にはもう、僕は助けられっぱなしで、心の支えにすらなっていて、僕が言うべき答えはもう出ていた。
「もう充分助けられてますよ。この取材のおかげで、とても今までにないやる気になって、上手くかける気がするんです」
「そうですか、、それは良かったです」
彼女は深い笑みを浮かべてしんみりとした声でそう呟いた。
「すみません、、取材の途中で」
「大丈夫ですよ、逆に心配してくれたんですよね。僕なんかのことを、それだけで嬉しいというか」
「僕なんかって、、、あの、、もっと自信を持たれてもいいと思いますけど!」
「は、はい」
そうして、彼女は、拳を握りしめて前のめりになるように僕に語りかけてきた。
「私、先生のこと、凄く尊敬してるんですよ。自分の小説のことにすごく熱心で、何かを変えたいというかそういう気持ちとか、相手を思いやる気持ちっていうのがすごい伝わってきて。なんか、将来、凄い作家さんになるんじゃないかって、、だからそのっ、、!もっと自分に自信を持ってください!!自分なんてって、自分を卑下しないでくださいっ!!!」
「あっ、、!すみません。私ったら、お節介を!」
彼女は、ハッとした表情で口を押えて、照れながら縮こまるように押し黙った。
「いえ、、!その、ありがとうございます」
彼女は、僕を明らかに励まそうとしてくれていた。言い表すのも躊躇われるようなそんな彼女の人柄の良さと心の暖かみを感じた。僕は、そんな彼女を心底尊敬して、僕の方こそ、彼女は物凄い歌手になって、色々な人を元気付けられるような人になるんだろうなと思った。そして何よりも僕はまた、そんな彼女の言葉に、本当に救われていた。感謝しか無かった。
「それで、取材の内容って?」
空気を読んでくれたのか、彼女の方から取材の内容を切り出してくれた。
「そうですね、、、最後に一つだけ聞きたいことがあるんです。これさえ聞ければ、僕は、本当に完成できる気がするので」
「なるほど、、」
「あの、挫けそうになった時とかは、ありますか?その、あったらどう乗り越えてきたか、教えてください」
「そうですね、、、」
彼女は俯いて、少し考えたあと、ゆっくりと話し始めた。
「正直、挫けそうになったことは何度もあります。全然出来なくて、どうすればいいか、分からなくなって、迷って、私にはやっぱり無理なんじゃないかなって。ココ最近まで、、でも、正直な自分の心の内を聞くと、やっぱり歌が好きだし、それで誰かを幸せにしたい、やりたいっていうのが素直な気持ちだって気づいて、どんな時でも続けて頑張ってみようって、そしたら届いたんです。」
「なるほど、、本当にありがとうございました」
僕は、彼女に深深と頭を下げた。
「これだけで、いいんですか?」
彼女が驚いた顔で、驚いた声でそう聞く。
「はい。もうこれで、大丈夫です」
「あの、これ、取材料の代わりと言ってはなんですが、、」
「なんですか、これ」
「自分が、初めて出した本の登場人物が描かれている記念のしおりです。」
「えっ、いいんですか!」
「はい。逆に、こんなものしかなくてすみません」
「いえいえ!ありがとうございます」
「じゃあ、もう今日で、取材は最後ってことですよね?」
「そうですね。いろいろと本当にありがとうございました」
「いえ、こちらこそ!ありがとうございました。作品完成、頑張ってください!」
「ありがとうございます。僕も、応援してます。歌手活動、頑張ってください」
そう互いに言い合って店を出た。
「では、また」
彼女は、そう言って手を振っていた。
僕もまた、と振り返した。
彼女が向き直った後も、僕はその場を離れなかった。
ただ、遠ざかる彼女の背中をぼんやりと見つめ、その場に立っていた。
僕はその後、必死で机に向かい、執筆活動を続けた。何度も頭に彼女のことが過ったが、今彼女も頑張っているのだろうから自分も頑張ろうと自分にハッパをかけた。だからそれ以降彼女とは連絡を取らなかった。行き詰まっていた展開が嘘のように僕は書き進めていった。
春を迎え、暖かな季節が訪れた。満開の桜を見ながら、僕は桜並木を歩く。
片手には茶封筒。レンズ越しに見る太陽がすごく眩しくて、吹き抜ける風が清々しく、風で舞う桜の花びらがとても綺麗だった。
僕はついに小説を作りあげた。
僕の書きあげた小説は、最初の数年、売れ行きはあまり良くなかった。注目されていなかったのだろう。
しかしその小説は後になって色んな賞を取って、みるみると売れていき、僕は一気に有名作家となっていった。
正直ここまでまわりに受け入れられるなんて思いもしなかった。
僕が取材される立場になるなんて。
そしてまた数年が経とうとしているとき、映画化することが決まった。それに先立って打ち合わせが行われることになっていた。
これまでも賞の授賞式などで、表に出たが、映画化の打ち合わせとなると、大人数と関わることが予想されていたので少し緊張しながら、僕は打ち合わせに出向いていた。
あの時あれほど悩んでいたのが嘘みたいだったように、売れてからは生活が充実していて(忙しくて)あっという間だった。この物語を書こうと思い、決意して、今までで10年弱。あの時の僕と、今の世界はだいぶ変わっていて、変わっていないものが少なくなって、自分は成長しているはずなのに、変わって得たものよりも、失ったもの方が何故か多く感じて悲しくなった。それでも僕の心の中には、確固たる自信と充実感が芽生えていた。僕は、そこで初めて脇役から主人公になれた気がしたんだ。
打ち合わせの場所へ向かうと、映画監督やスタッフなどが居て、映画化の内容等について色々な話を進めていく中、こんな話が上がった。
「先生、この映画の主題歌なんですけど歌手を目指す内容でもありますし、挿入歌、主題歌共に同じ人物で、今大人気の、売れている歌手の方に依頼させて頂きました。」
「そうなんですか、ありがとうございます」
「それでですね、是非とも先生に会いたいと仰られてるんですよね」
「えっ、私に?」
「はい、なので今からその歌手の方をお呼びしてもよろしいでしょうか」
「はい、大丈夫ですけど」
そう言うと、スタッフは、奥の扉へ下がっていった。
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そのような人物が、僕の目の前にたっていた。
「お久しぶりですね、先生」
実に10年振りに聞く彼女の透き通った声が耳に入ってきた瞬間、僕は思わず、涙を零しそうになった。
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