師弟の旅

火吹き石

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第一章

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 その場所は、森にある空き地だった。一方には高い岩壁がそびえ立ち、残りは木々に囲まれている。崖の一部は崩れ、その下に生えていた太い木々をいくつもへし折っていた。崖崩れが起こったのは、きっとしばらく前のことだろう。飛び散った石塊いしくれや土砂は、すでに背の低い草で覆われ、若い灌木が枝を伸ばそうとしていた。

 空き地には、大きく開いた林冠りんかんを通して、朝日がさんさんと降り注いでいた。春の木漏れ日に当てられ、あたりの空気は暖かかった。

 その空き地は、人里から離れた山間やまあいにあった。最寄りの村までまる一日の距離があり、主要な街道には面しておらず、村々を結ぶ小道にも繋がってはいない。操業している鉱山が近くにあるわけでもない。人里から離れたそこは、鳥獣虫魚の四類の住まうべきところだった。

 それにもかかわらず、空き地には二つの人影があった。一方は小柄で、もう一方は巨躯の持ち主だった。ふたりはまっすぐな杖を手に、打ち合っている。杖術の稽古をしているのだった。

 大きなほうの人物は、短衣を諸肌もろはだに脱ぎ、上半身を晒していた。歳の頃は三十と少しといったところだろうか。その背丈は高く、この人物に並ぶ者は、町々を探しても簡単には見つけることができないだろう。体つきも逞しく、鍛えられた筋肉の上に脂が乗り、まるで巨岩のような印象だった。

 対して小さなほうは、もとから腰布を巻いているだけで、半裸だった。精悍だがどこか幼さの残る顔立ちに、低い背丈を併せ持ち、ともすれば少年とも見間違えそうだった。だが、その肉体はよく鍛えられていた。胸は膨らみ、腹にも割れ目が浮かび、四肢は太い。歳の頃は二十代の手前、すでに若者の仲間入りを果たしていた。汗に濡れた肌は日に焼けており、磨かれた銅のように輝いていた。

 もしも見知らぬ者がこの稽古の様子を見たら、心配し、あるいは止めようとしたかもしれない。ふたりとも防具を身につけていないからだ。杖は刀剣のような刃物と比べれば、流血の危険こそ少ないが、その打撃力は小さくない。骨を折ることはもちろん、頭蓋を砕くことも難しくはない。そのうえ、ふたりは寸止めもせず、ほんとうに肉体を打ち合っていた。

 いまもまた、小さなほうが杖を跳ね上げられ、防御を崩された。すかさず大柄な闘士が、肩にしたたかに一撃を喰らわせた。大きく鋭い音が鳴った。小さなほうは呻いたが、しかし杖を取り落しもしなかった。

 小柄な人物は肩を落とし、杖をつくと、顔を拭った。半裸の体は汗でびっしょりと濡れ、焼けた肌にはいくつも赤い筋が浮かんでいた――打たれた痕だ。しかし、息を整えようとしばし手を止めてはいるものの、若者の目には闘志が宿っていた。

「どうだ、ダイチ。もうおしまいにするか。」

 大柄なほうが、からかうような調子で言った。こちらも汗をかいてはいるものの、打たれた後はどこにもなかった。実際、稽古がはじまってこのかた、こちらは一本も取られてはいなかった。

 ダイチと呼ばれた小柄な若者は、短く陽気な笑声を上げた。

「まさか。まだまだこれからだ。今日こそは、師匠から一本取るんだ。」

 ダイチはそう言うと、杖をふたたび持ち上げて、相対する大柄な人物、カザンに向けて打ちかかった。

 稽古は朝から続いていた。ダイチはすでに何度も何度も負かされ、全身をしたたかに杖で打たれ、あるいは突かれていた。常人であれば、すでに気を失ってもおかしくはないほどの打撃を受けていた。

 いましも、カザンに腹を突かれた。ダイチの体はよろめき、地面にばたんと倒れた。だが、すぐに跳ねるようにして起きると、カザンに打ってかかった。

 こんなことが可能なのは、ダイチが常人ではないからだった。

 若者は、魔力を持った呪術師だった。魔力とは、異界へと見えざる根を伸ばし、元素を引き出す天性の能のことだ。

 ダイチはその名のとおり、地の元素を引き出す術を身につけていた。地の魔術によって、ダイチの肉体はまさに岩のように堅固となり、その腕力をも大いに増していた。

 だが、魔力は、それを持つ者にとって災いにもなる。ごく幼い頃、ダイチの身に魔力が現れた。それは急速に幼子の健康を害した。本人は覚えていないものの、四肢が固まり、体中が強く緊張していたという。

 ダイチが迎えられた村には、まじない師がいなかった。村人の知る薬草の知識が役立つことがないのは、明らかだった。すぐに幼い子どもは町に連れられ、秘術師の手に渡された。しかし、そこでも助けは得られなかった。物心ついていれば魔力を御するための修行をはじめられるし、魔力が弱ければ生き延びることができる。だが、ダイチは修行をはじめるにはあまりにも幼く、身に宿した魔力はあまりに強力だったのだ。

 そうしてダイチは村に連れ帰られた。もはや祖先のもとに返す――すなわち死を待つ――しかないと、村人はみな諦めていた。ちょうどそんな時に、後に師となるカザンが村をたまたま訪れたのだった。

 カザンは優れた戦士であり、旅の呪術師であり、また薬師でもある。幼いダイチを見ると、引き取ることを申し出た。ずっと身近にいて看病すれば、死を免れ、やがては魔力を制する術を身につけることができるのだと。村人たちは、旅人に子どもを任せた。

 それから、カザンはダイチを連れて旅をするようになった。もちろん幼い子どもを連れて旅するなど、難しいはずだった。だが、どれだけ歩みが遅くなろうと、カザンは子を連れて行った。もともと、先を急いではいなかったのだ。カザンが歩いているのは、終わることのない旅だった。

 カザンの使う呪術は、法術だった。法術を身につけるためには、高度な精神修養とともに、人生そのものを特定の目的に捧げる、厳粛な誓いや、強い専心が必要となる。

 そしてカザンはといえば、やがて足を運ぶことができなくなるまで旅を続けることを誓っていた。どうしてそんな大変な誓いをしているかは、ダイチも知らなかった。

 そうして、ダイチは旅人の看護を受けて育った。必要に応じて呪薬を与えられ、死を免れた。物心がついてしばらくすると、呪術の手ほどきを受けた。そして、呪術を身に着け、魔力を操ることができるようになると、武術を教わった。

 以来、ダイチはときに師の仕事を手伝い、ときに力仕事をして食い扶持を稼ぎ、そして師によって心身を鍛えてもらいながら、旅を続けていた。
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