宿屋の下働き

火吹き石

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 若者は大きな盃を両手で三つほど抱えながら、ちらと店の戸口から外を覗き見た。もう外は真っ暗になりそうだった。あともうひと踏ん張りしたら、店じまいの時間だった。

 一日の仕事が終わりに近づき、若者は小さく溜め息をついた。

 若者が働いているのは宿屋だった。とはいえ、泊り客が来ることはほとんどなかった。あまりに薄汚れた、場末の店だったからだ。

 宿に金を払えるほどに余裕のある旅人は、たいていは、多少とも高くついても、きれいで危険の少なく見える宿をこのむものだ。だから、この宿はほとんど酒屋として地元では通っていた。

 店の空気は、酒と料理の匂いと、松明と炉の煙、それにすえた体臭が混じり合って、頭をくらくらさせるようだった。それに音も大変なものだ。喋り声、どなり声、いびき、乾杯の音頭、甲高い金属の音、机を叩く乾いた音。そういった、人が立てる音が洪水のように頭に流れ込み、脳を揺さぶるようだった。

 もっとも、若者はもう、そうした一切合切に慣れっこになってはいたのだったが。

 若者は人でいっぱいの店の中を歩き、立って飲んでいる人混みを掻き分けて進んだ。そうしているあいだにも、そこここから声が上がり、給仕を呼んだ。若者はそれに声を張り上げて答えつつ、なんとか壁際の席に辿り着き、机に酒を置いた。

 そこでは三人の酔っ払った客が、ろれつの回らぬ舌で話し込んでいた。若者が勢いよく盃を置いたせいで、いくらか中身が溢れたが、客たちは気づかず、それどころか若者が注文を運んできたことにすら気づいた様子もなく、仲間たちと話し続けていた。

 若者は気にせずに客たちに背を向け、また別の机に向かった。

 そうして若者が人混みを歩き回り、騒音の中でなんとか注文を聞き、大声で親方に注文を伝え、忙しく働いているあいだに、客の数は徐々に減っていった。やがて最後まで残って酔いつぶれていた客たちに水を飲ませ、立たせてやり、料金を頂戴すると、店の中はようやく静かになった。

 若者は、長々と溜め息をついた。椅子が転がり、机は酒と食べ零しで汚れ、食器が机にも土の床にも転がっていた。まだ仕事は残っていたが、少なくとも汚れや散乱した食器はどなったり喚いたりしないし、隙を見て体に手を伸ばそうともしないから、楽ではあった。

 調理台の向こうにいた親方が、手をぱん、ぱん、と叩いた。

「おつかれさん、若いの。」

 若者は親方に、非難めいた目を向けた。

「お願いだから、もう一人見習いを雇ってくださいよ。おれ、こんな大変なのが続いたら、いつか出ていっちまいますよ。」

 親方は笑みを浮かべ、弛んだ顔に深い皺が刻まれた。

「おれだって若い時はいつもそうやって愚痴を言ったもんだ。おれの先輩もそうだった。その前もそうだったろうな。若い時分に言うことは、みんな一緒だな。」

 親方の言葉を聞いて、若者はおこったように鼻を鳴らしたが、口元は笑っていた。若者自身、別に本気で腹を立てているわけではなかったのだ。ただ、愚痴の一つでも零さなければやっていられない、というだけだった。

 それから、若者は親方と話しながら、店の片付けをはじめた。食器を拾い集め、机を拭き、椅子を片付けていく。調理台のところでも、若者の二人の先輩たちが洗い物をしたり、ごみ捨てをしたりしていた。親方は机の一つに難しい顔をして腰掛けて、硬貨を数え、帳簿をつけていた。

 そうしていくらか片付けが進んだときに、店の扉が開いた。若者はそちらに顔を向けた。

 扉のところには、見習いとそれほど年が変わらない若者が立っていた。腰には剣を下げている。流れの戦士だろう、と若者は思った。ありふれてはいないが、珍しいものでもない。雇いの剣を必要とすることは、ままあるものだった。

「まだ泊まれるかな。それと、飯はあるかい。」

 言いながら、若い戦士は中に入ってきた。背は見習いと同じくらいだったが、体は細かった。灯りの中で見ると、どうも年はいくらか上のように見えた。

 親方が腰を上げた。

「泊まれますよ。食事ももちろんあります。」

「ああ、よかった。どこもみんな閉まってるみたいなんだよ。」

 見習いは片付けの済んだ机に客を連れて行った。親方は調理台のそばの料理人に向かって、食事を用意するように言いつけていた。

 それを聞きながら、見習いは灯りを手に、二階に続く、細くてぎしぎし音を立てる階段を登っていった。登りきったところは廊下になっており、右手の壁に二つの扉があった。

 見習いはいちばん手前の部屋に入った。そこは、若者が普段寝ている部屋だった。本来は客室なのだが、宿泊客があまりに少ないから、若者にあてがわれているのだった。

 実のところもう一つの部屋も本当なら客室のはずだったが、そちらは先輩たちが使っていた。親方はと言うと、一階の奥に私室を持っているのだった。

 客室には寝台が一つと、小さな机が一つあるだけだった。狭いから、寝台のせいで部屋の半分以上が占められているほどだ。若者は灯りを机に置くと、寝台の掛け布を取り払い、寝台の下にある箱から新しい布を取って、取り替えた。

 それから、数少ない私物を収めた小箱と着替えを一緒に抱え、灯りを手に、隣の部屋に入った。そちらは少し広かったが、寝台が二つ入っており、しかも先輩たちの私物があるせいで、いっそう狭苦しい。

 若者は自分の荷物を、とりあえず寝台の上に置いた。

 これで、いちおう客室の準備はできた。今夜は、若者は先輩たちと一緒の部屋で寝なければならないが、一晩だけの辛抱だった。それに、先輩らと夜を過ごすのは、はじめてでもなかった。

 見習いは最後にもう一度自分の客室に入り、少なくとも一目で失礼に思われるほどには乱れていないことを確認すると、ふたたび階下に戻っていった。
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