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第1章 あなたは誰

出会い⑤

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 彼の反応は、自分が思ったのとは随分と違った。

「駄目です。大事なものかもしれないので、指輪を売るのはやめておきなさい。記憶が戻れば後悔するはずですよ。生活に必要なものなら僕が全て用意してあげるから」

「それは、甘えすぎで申し訳ないわ」
「どうしたんですか、あなたらしくない?」

「だって無理言って部屋を借りるのに」

「それでしたら罪のない女性に対して怪我を負わせた僕からの謝罪という事にしましょう。今後、事ある度に足の話を持ち出されては困りますから」

「いいの?」

「ええ。このあと、一緒に買い物に行きましょうか。服が一枚もないのは流石に困るでしょうし」

「行く行く! 早く行きましょう」

「全く……。足が痛くて歩けないんじゃなかったんですか?」
「ふふっ、嬉しい事を言ってくれたから治ったわ」

「げんきんな人ですね。それより、大司教のガラス玉以外に、何か入っていないんですか?」
 冷めた口調の彼が、外套のポケットを見やる。

 そうだった。他にも何かあるかもしれないと、再び外套のポケットへ手を入れる。


「後は――」

 そうすれば、右手に薄い布地が触れた。
 何かなと思いながら、ガラス玉の下敷きになっているそれを、ずるずると引っ張り出す。

 透ける材質作られた袋は、口がリボンできゅっと縛られている。
 誰かへのプレゼントだろうか? 折りたたまれた布が透けて見えた。

「ハンカチだわ」

 袋から取り出し、パサリと一振りして皺を伸ばした。
 すると、白い紳士向けと思われるそのハンカチの角には、青い糸で刺繍が書かれてある。

「フィリ❁&ジュディ」

「名前はジュディですか。おそらく先に書いてあるのが、あなたの夫か恋人か、婚約者の名前ですね。親愛を意味するヒマワリの刺繍が、名前の後に描いてあるから間違いないですね」

「わたしは……ジュディ? 聞き慣れないわね」

「そのうちしっくりくるでしょう。他に身元が分かる物がないのでしたら、そういうことにしておきましょう」

「じゃあフィリって、どこにいる誰だろう……」

「そんな不安そうな顔をしなくても、僕が、ジュディがフィリという男に再会できるように、一緒に探してあげますよ。すぐに見つかるはずです」

 その言葉に心臓がドクンと大きく跳ねた。今の感覚は何? 何がわたしの心に触れたんだろう。

 すぐに見つかる? ……違う。
 一緒に探してくれる? ……違う。
 フィリ? フィリ……。これだ。

 フィリと音に出されると、胸がざわざわする。
 フィリのことは、決して何一つ思い出せない。

 それなのに、探してはいけない。近づいてはいけない気がしてならない。

 ――不思議だ……。

「親愛なるフィリのはずなのになぁ」
 どうして会いたい気持ちが、少しも湧き起こらないんだろう。

 逆に、彼から逃げたいとさえ思えてしまう。
 けれど、こんなハンカチがあるくらいなら、フィリはわたしのことを知っているのは、事実だろう。

「そのうち会えますよ。フィリもジュディを探しているはずですよ」

「フィリ……」

 やっぱりおかしい。その響きを聞くだけで、酷いめまいと吐き気がする。

「ぁぃ……くなぃ……。やだ。会いたくない!」

「何を言っているんですか。再会すれば、今の気持ちも変わりますよ。一刻も早くジュディは、フィリを見つけましょう」

「いや! 絶対に嫌な感じは変わらない。会っちゃ駄目だわ。わたし、ずっとここにいる。フィリなんて探さない!」

 その名前を聞くと鳥肌が立つ。会ってはいけないと、全身の毛穴が覚えているみたいに訴えてくる。

「我が儘を言うのはやめてください。ジュディがフィリを探そうと探さまいと僕には関係ないですが、この事務所からは、一か月を目途に出て行ってもらいますよ。早くアパートでも見つけてください」

「酷いわ……そんなぁ。我が儘なんて言わないから、一人にしないで」

「得体の知れない人物を、当面、受け入れると言っているのに文句を言われる筋合いはないですよ」

「わたし、ずっとアンドレと一緒にいたいの。お願いだから傍において」

 わたしの本能が彼の傍にいろと、しきりに訴えている。
 その理由は少しも分からない。けれど、彼が近くにいると妙に落ち着く。
 不思議だけど、彼と一緒にいれば記憶が戻る気がする。お願い。頼みを聞いて。

「無理です。一か月間も猶予を与えるんですから、それ以降はご自分で何とかなさい。僕は必要以上に、ジュディと関わる気はありませんから」

「そ、そんなぁ~。じゃあ、わたしに仕事をくれないかしら。そうじゃないと、アパートだって借りられないもの」

「ええ。当然それは考えていますよ」
 即答気味に答えるアンドレが、にやりとしたものだから、ある種の不安を覚える。

 何をさせられるのかとドキリとするわたしは、娼婦まがいのことではありませんようにと、おそるおそる下手に出て訊ねてみた。

「あのうぅ……。わたしに何をさせる気でしょうか?」

「ビビらなくても大丈夫ですよ。その型遅れのワンピース。ジュディの見た目からすると、何もできないお嬢様育ちじゃないでしょう。刺繍がうまくて手先は器用そうだし、ここの兵士たちの役に立つはずです」

「へ、変なことじゃないでしょうね」

「僕はカステン辺境伯のところで世話になり、そこで雑役をこなしていますからね。まあ僕は事務を担当しているだけの安月給の人間ですよ。ジュディにただ飯を食べさせる余裕はありません。ジュディも僕と一緒に軍で雑役兵として働いてもらいましょう」

「よかったぁ。それならできる気がするわ」

「よし、それなら一度事務所に寄ってから買い物に出る準備をしますか」
 彼から誘われ「うん!」と、弾む声が出る。

 とりあえず当面の暮らす場所は手に入れた。
 フィリ……。
 きっと、わたしの夫か恋人……。

 どうしてか、あまり会いたい気がしない。
 いいえ。それどころか、その名前に嫌悪感さえ覚える。

 何も知らないフィリ。彼とは再会しませんようにと心から願った。
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