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第1話 分〈split〉裂

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「好きだ、睡蓮」
 その告白は、俺にとって本当に突然だった。親友だと思っていたその男は、今までに見たこともない真剣な表情をして、俺にそれを告げた。
何を言っているんだろう、こいつは。俺のことが好き? 聞き間違いかとも思ったが、そう言い張るにはかなりはっきりと聞こえてしまった。
 ツンと鼻腔を貫く鉄の匂い。手はじんじんと熱を帯び、頬は鈍痛がした。踏みつけているぐにゃりとした感触から足を離す。脈絡のないその言葉に俺は混乱と動揺で思考停止してしまい、今の俺には思ったことをそのまま発するしかできなかった。
「充、お前……タイミング考えろよ……」
 俺たちふたりの周囲には、二十人近くの血まみれの男たちが伸びて広がっている。死屍累々、とかいうやつだ。
 遍羅暴べらぼう高校の番格である俺は、相棒の充と共に屑ヶ谷くずがだに商業高校の連中からの喧嘩を買った。多勢相手に少しばかり苦戦しながらも勝利した直後、充からの愛の告白を受け、今に至る。
 俯いて痛む頬に手をやった。内側が切れているのか、口腔内では血生臭い嫌なにおいがしている。さするふりをしたが、本当のところは困惑した変な顔を充に見せまいと顔を覆ったのだ。そんな俺の心の中は、ひとつの思いだけで占めていた。
 ──いや、今じゃないだろ。
 タイミング、絶対に違うだろ。愛の告白ってのはもっとこう、ロマンチックなムードやら場所で行うモノじゃなかろうか。こんな血の匂いが充満した雰囲気もクソもない廃工場でその言葉はどう考えても似つかわしくない。ていうかこれ、この伸びてる奴らの誰かに聞かれてたらどうするつもりなんだよ。
 今日び同性愛への偏見なんて昭和の遺物だ。俺だって理解はあるつもりだが、まさか自分がそれの対象になるなんて思ってもみなかった。だって充は俺の親友で、相棒で、それ以上でもそれ以下でもない。そもそも充が同性愛者だなんて聞いたことがないし……いや、そもそもどっちかが女だとしてもやっぱりこのシチュエーションは間違ってる気がするが。
「……悪い。 困るよな、急にこんなこと言われても」
 ぐるぐると思考が巡っていたが、充の言葉でハッと我に返る。そうだよ、シチュエーション云々もそうだが、そもそも俺が充に告白されたことの方が重要だ。……でも、やっぱ気になるよな。この状況。
 充は柔らかそうな艶のある黒髪を鬱陶しそうに除け、目を伏せる。繊細で端正なつくりのその顔には痛々しく腫れた傷ができ、俺への告白を吐露した唇は切れて血が滲んでしまっている。そんな顔に湛えた表情はどこか哀しそうだった。
 だけど俺のテンションは充とは全く違う。告白されたことによるドキドキ感とかそういうのではなく、結局のところとにかく充のタイミングのセンスが気になって仕方がないのだ。
「うん……いや、もうちょい別のとこに驚いてんだけど」
 なんで今? と思ったままを口にすると、「……なんでだろうな」とはぐらかされた。いや、なんでお前がわかってないんだよ。
 少しの間沈黙が訪れる。普段なら黙っていても充となら心地いいはずなのに、こんな状況だからか静寂が耳に痛く、キーンという耳鳴りまでしてきた。誤魔化すために崩れた髪を後ろに撫で付け、充の言葉を待った。
「別にお前とどうこうなりたいとか……多少は思ってるけどよ」重苦しく開いた口からは予想通りの言葉が出た。
「思ってはいるんだな」
「そりゃまあ……でも、単に自分の気持ちにケリをつけたくて言っただけなんだ。 お前は気にしないでくれ」
 そう言って作った顔は、ずいぶん無理のある笑顔だった。今日はやけに、今まで見たこともない充の表情をたくさん見ている気がする。しかもそんな表情たちを見るたび、なぜか心臓の裏がじくじくと痛むのだ。不良に似つかわしくない、優しい性格のこいつは、自分のことをないがしろにしてしまうことがある。だからこんなことを言って、こんな顔をするんだ。
 充のこんな表情、見ていたくない。
 だからつい、「少し考えさせてくれ」なんて、余計な期待を持たせてしまうような返事が口をついて出てしまったのかもしれない。

  *

 俺の通う遍羅暴高校は、地元じゃ名の知れた偏差値三十八のド底辺ヤンキー校だ。
 どう贔屓目に見ても堅気には見えない奴らばっかりだし、男子校だから女子の目を気にしないせいで喧嘩は日常茶飯事。窓ガラスは毎日割られるから開き直ってラップを貼り付けているだけだし、壁には卑猥な言葉がお経のようにひたすら羅列されている。体育館なんて喧嘩賭博とかいう清い学び舎には絶対あってはいけないようなイベントの会場にされてしまっていて、高校というよりもどっちかと言えばスラムとかに近いかもしれない。
 俺はそんなカスみたいな高校の番長をやっている。カスたちの頂点ということは本当の意味でのカスなのだが、俺だって好きでやっているわけじゃない。人よりなまじ喧嘩が強いだけなのだ。それだけでなぜか前番長に気に入られ、その人が卒業した時に次の番長だなんだと押し上げられ、体面を保つために(楽しいからという理由もまああるのだが)喧嘩に明け暮れている。
「杢葉さん! 昨日屑ヶ谷の奴らをノしたって聞きましたよ!」
「さすが俺たちの番長です!」
「一生ついていきます!」
 今日もまた、むさ苦しい自称舎弟たちが俺の席を取り囲んでいる。こんなんじゃおちおち居眠りもできねえし、第一なんか酸素が薄い気がする。臭いし。
「オイやめろ、たいして持ち上げられるようなもんでもねえんだからよ」
 構われたくなくて、顔を隠すために学帽を目深に被った。それでも奴らはわいわいと囃し立ててくる。
「謙遜しないで下さいよ! やっぱり杢葉さんと日野ひのさんはベラ高の希望です!」
 日野。充の苗字であるそれを聞いて、俺は反射的に昨日のことを思い出してしまった。
 充の熱を孕んだ瞳は、確かに俺を捉えていた。今まで何人かに似た視線を向けられたことはあったが、見つめられているこちらまで燃えそうな激情の宿った瞳は見たことがない。
 昨日はタイミングの悪さに気を取られていたが、よくよく考えると親友と思っていた奴から告白されるなんて、それだけでかなり情報量が多い。昨日は帰った後、ずっとその事実に脳の普段は使わない部分も使って処理したためか、なんだか眠くて仕方ない。……あぁクソ、でも今のでまた思い出しちまった。
「朝っぱらからずいぶん暑苦しいな」
 悶々としていると、昨日ぶりに聞いた声が隣にやってきた。帽子の隙間から見えたその声の主はやっぱり充で、俺と違って愛想のある表情を周囲の奴らに振りまいていた。
「日野さん! お疲れ様です!」
「なんかここ酸素薄くないか?」
 同時に頭を下げたクラスメイトたちを押し退け、俺の隣の席に腰を下ろした充は、いつもと変わらない様子で「おはよう、睡蓮」と軽く口角を持ち上げた。昨日負った傷を白いガーゼや絆創膏が覆っているが、それくらいしかいつものと違いはない。
 あっけにとられながらも努めて俺もいつも通りに「おう」と返すが、声が裏返ってしまった気がしてならない。
 白い歯を見せて爽やかに笑った充はやっぱり改めて見てもイケメンだ。その甘いマスクは相当女にウケが良さそうだが……だけどこいつ、俺のことが好きなんだよな。そう思うと、今まで湧いたことのない変な気分になってくる。
 そんな正体のわからない感情を誤魔化すために、「もうほとんど昼じゃねえか」と憎まれ口を叩いた。だけど充はそれもそうだ、と眉を下げてまた笑うだけだった。それを見るとまた変な感情が一段階強くなり、いたたまれなくて席を立った。
「あれ睡蓮、どこ行くんだ?」
「うるせー、クソだよ」
「お供します!」
「いらねえよ! なんだお前!」
「便所流し係の米井こめいです!」
「そんなのを任命した覚えはねえが」
 ぎゃあぎゃあと騒ぎ本当に適当な理由をつけてついてこようとする奴らについてくんなと中指を立て、ようやく教室を出た。慕われるのは気分がいいが、番長はこういうふうに常に周りに人が寄ってくるところが厄介なのだ。おちおちひとりで用も足せない。
 ひとりになる口実が欲しかっただけなので、便所をスルーして屋上に向かう。サボりなんていつものことだ。
 この学校はどこに行っても喧噪だらけで、おまけに番長である俺を見かけるとみんな挨拶と称して声をかけてくる。こいつらも『番長』を慕ってくれているだけなので、無下にするのも気分が悪い。今日もまたそういうのに適当な返事をして目的地に向かう。
 自分の教室から一番離れた階段。空き教室や使われていない準備室ばかりが周りにあるそこには、『立ち入り禁止』のテープが張り巡らされている。それをくぐって階段を登り切り、辿り着いたのは屋上につながる扉の前だ。
 ドアに向かって二列目、左端から三番目。誰にも見られていないことを確認し、そこのタイルを剥がすと、埋められた鍵が出てくる。言わずもがな屋上の鍵である。
 うちの学校は屋上の立ち入り禁止なのだが、それは屋上の鍵をなくしたことを隠したい教師たちによる誤魔化しだ。まあ事の発端はその鍵を盗んだ何代か前の番長がここに隠したからなのだが、生徒も生徒なら教師も教師である。同じ穴の狢……いや同じ穴のクソだ。
「番長だってひとりの人間……全校生徒からの期待を一身に受けているわけだが、時々息苦しくなっちまう。 一瞬でも、自分の立場を忘れられる場所が必要なんだぜ」
 ここに来るたび、去年卒業した俺の一代前の番長である図部幸之助ずべこうのすけさんに言われたその言葉を思い出す。決して軽いとは言えない羨望や期待は、時に俺たちにとっては重い枷となる。この場所は代々受け継がれてきた、番長のための秘密の休息所なのだ。だから、充にすらこの場所のことは話していない。
 施錠を外して鍵を元に戻し、ギギィ、という錆び付いた音を立てながらドアを開く。暑苦しかった校舎内とは違い、屋上は空気が涼しく澄んでいる。ボロくなってところどころタイルが剥がれている床の上を進み、端の方に設置された綿が飛び出たソファに寝転んだ。いつものことだが、クッションがヘタっているせいで骨が刺さってちょっと痛い。
 日よけ・雨よけのためのイベント用テントまで施されたそれも歴代の番長たちが持ち寄り、この憩いの場ができた。ちなみにエロ本もあるが、昭和のセンスなせいか俺の股間には響かないため、一度目を通したことがある程度だ。
 目を瞑ればさらにひとりの世界だ。いつもならこのまま十分ともたずに眠りにつけるのだが、今日はなんだか落ち着かなかった。そわそわと貧乏揺すりをし、身体の向きを変えてみたり……というのも、気を抜くと昨日の充とのことを思い出してしまうからだ。
 充は俺の相棒で親友だ。出会った時からまっすぐで男前な性根で、俺やこの学校には似つかわしくない奴だった。その気性に抗えず中学卒業間際に暴力沙汰を起こし、決まっていた高校からはじかれてここにきたらしい。
 一方俺はガキの頃から乱暴者で無法者。年齢が上がるにつれて持て余した体力を喧嘩で発散していた。勉強がまったくできねえわけじゃねえが、地元じゃ悪童で通ってた俺を入れてくれる学校なんてここしかなかった。状況は違えど、俺と充は似た者同士だったのだ。
「でも、ベラ高に来て良かったよ。 睡蓮に出会えたんだから」
 昔の話をしてくれた時に充が言った言葉だ。あの時は運命の出会いに感謝しろよなんて軽口を叩いたが、今考えるとなんだか別の意味にも思えてくる。
 自慢じゃないが、俺は友達がいない。本当に自慢じゃない。充は俺にとって唯一の友達で、相棒だ。だから傷付けたくないのだが、俺の答え如何ではアイツを傷付けてしまうのも事実だ。勇気をもって告白してきたアイツの思いを無下にはしたくないが、そもそも俺はヘテロだし、なにが答えなのかわからない。
 大体、男同士ってどう付き合うんだ? 大まかなところは異性同士とそう変わらないだろうが、情事の際はどうするんだろうか。ケツを使うとか聞いたことがある気がするが、あそこはどう考えても出口としてしか設計されてないはずだろ。仮にそうなったとして、俺と充のどっちがどっちなのか……
 ………………
「いや……いやいやいや」起き上がってバチンと自分の頬を軽く叩いた。
 思わず想像してしまったが、ファンタジー過ぎたせいか俺の想像力ではうまくいかず、強制的に脳内に流れた映像が止められた。同性愛に偏見があるわけではない……が、いざ自分がそれに関わるとなると話は別だ。これは当人にしかわからないと思うが。
「いっそ女だったら、こんな事で悩まなかったのかな……」
 もう普通に寝ちまおう、と改めて横になる。身体を丸めて帽子をアイマスク代わりにし、無理矢理夢の世界に向かった。だけど眠りにつくまで、何度も充の顔が脳裏にちらついた。

  *

 目を覚ますと、かなり時間が経っていた。
 寝てる間に梅干しをかじったのかと思うくらい垂れまくっている涎を拭う。寝ぼけ眼でつけたスマホには最終下校時間を過ぎた時刻が表示されている。学校中の喧噪は体育館の方に集まっていて、恐らく今日の賭けのためだろうと推察できた。それを聞きながら、この学校は最終下校なんて概念ほぼねえけど、なんて考える。
 俺が寝ている間に灰がかった色の雲が天蓋となっていた。屋上に来たときと違う湿気った空気のにおいも相まって、今にも雨が降り出しそうだった。
 改めてスマホを確認すると、充から「なげえクソだな」という情緒皆無なメッセージが一通だけ届いている。こっちはこいつのせいで一日の脳味噌の使用量を超えているというのに、無責任なヤローだ。
 だが俺は何も返信せず、誰にも気付かれないうちにひとりで帰ることにした。いつもは充と帰るのだが、さすがにこの時間になれば帰っているだろう。
 入ってきたときと同じように周囲の気配を気にしながら屋上を後にする。校舎内にはもう人がいなくて、普段の荒れた様子からは想像できないくらい静寂に包まれていて、俺ひとりの渇いた足音が廊下に響く。
 雨が降ったら厄介だから早く帰った方がいいのはわかっているが、いかんせん寝起きのせいか焦燥感が鈍っている。ふあ、と欠伸をひとつすると、涙腺が痺れて視界が滲んだ。
 教室にも人はいない。充が待ってたらどうしようと思ったが、やっぱり先に帰ったのかもしれない。昨日の今日だし、アイツもアイツで気まずいだろうし。
 鉄板を一枚仕込んだだけのカバンを拾い上げ、教室から出た。鉄板なんていつの時代だよ、と充にからかわれたことがあるが、防御にも攻撃にも使える優れものだ。まあ教科書が入らないから通学カバンとしてはなんの意義も意味もないのだが、そもそも教科書を使う事なんてないんだから気にしてはいけない。
 そこからはもうかなり平和で、誰に会うこともなく学校を出られた。
 だが校門から出ると数名の女子たちが俺の姿を見て驚きの声を上げる。そうしてバタバタと慌てた様子で駆けていった。制服を見るに近所のお嬢様学校である芍薬牡丹しゃくやくぼたん女学園の生徒だろう。半分好奇の混じった表情から見るに、冷やかしのために来たみたいだった。はしゃいだような声たちの中に、下劣、野蛮、犯されるなんて言葉が混じっている。
「クソ、見世物じゃねえンだぞ」
 きゃあきゃあと笑い声を上げるあいつらの背中を眺めながら帽子の鍔を下げて舌打ちをする。確かにうちは品性の欠片もない野蛮な奴らしかいないが、あんなじゃじゃ馬たちの好奇心を満たすための場所じゃない。
 イライラを抱えながら歩いていると、今度は声をかけられた。
「オイ、お前さっきあの学校から出てきただろ」
 うちの奴らと張り合えそうなくらいガラの悪い数人の男たちだった。濃紺のブレザーに灰色のスラックス……屑ヶ谷の制服だ。昨日の連中のツレだろうか。あからさまに敵意のある声色で「あそこの杢葉睡蓮ってクソボケ知ってるか」と訊かれる。
 普段だったら気分が乗らない限りは適当にはぐらかすのだが(大体相手してやるけど)、イライラしているところにクソボケ扱いされて俺のストレスは最高値に達してしまった。せっかくなので、こいつらに責任をとってもらおう。
「……さっきあそこの路地に入ってったぜ」
 バカどもは適当に指で示したそこに素直に入っていく。だがそこは袋小路になっているから人が通るわけないのだ。俺は全員がそこに入っていったのを確認すると、音を立てずに近付いた。
「いねえじゃねえか」
「あのガキ騙しやがったな」
「まだその辺にいるはずだ。 とっ捕まえて杢葉の場所吐き出させるぞ」
 俺に声をかけたのがリーダーらしい。そいつに指示された下っ端たちが路地の出口まで戻って来るのを見て、カバンを後ろに引いた。先頭のひとりが出てきた瞬間、俺は自分のカバンを思い切りその顔面に叩きつけた。鈍い音が響き、たまらずのけぞったそいつは鼻血を噴き出しながら他の奴らを巻き込んでドミノのように倒れ込む。
「て……テメエ、さっきの……!」
「誰がクソボケだって?」
 帽子をとり、カバンとともに地面に放った。巻き込まれて倒れたひとりが起き上がると、俺を指さして「こいつが杢葉だ!」と叫んだ。その場の全員が腰をかがめ、戦闘態勢に入る。
 七対一。ひとりはさっきの一撃で戦闘不能になったから六対一だが、それでも喧嘩慣れしてるであろう奴ら相手にこれは少し厳しい。
 だけど俺は滾っていた。遠慮なく明確な殺意を向けてくる多勢をたったひとりで捻り潰すからこそ、喧嘩は楽しい。興奮でふつふつと沸く血が俺の体温を上昇させた。学ランを脱いでも、腹に巻いたサラシのせいか身体は熱い。はたまた別の理由があったかもしれないが、とにかく怒りを興奮が超えていた。
「後悔させてやるぜ」
 その俺の言葉が、ゴング代わりになった。

  *

「はい、チーズ♡」
 身分証を持たせて写真を撮る。被写体たちの顔はボコボコに腫れ上がっていて、我ながら男前にしてやれたと思う。さっきまで恨めしそうな声色で俺に呪詛を吐いていた奴らはすっかり戦意喪失し、うなだれているか気絶している。全員の写真を念のため一通り撮った後、身なりを整えて袋小路を出た。
「いてて……」
 痛む脇腹をさする。俺としたことが、狭い場所のせいで自分のリーチが狂って隙を作ってしまった。相手の蹴りを避けきれずモロに食らってしまったものの、なんとかゴリ押して勝てた。
 だけど昨日の今日でダメージが蓄積されてしまっている。明日くらいは大人しくしていようか……というかそもそも、充がいれば連携できたからあんな雑魚の蹴りを食らわずに済んだかも──……って、また充のこと考えちまってる。充のことを考えると、自然と昨日のことを思い出してしまう。思い出さないように頭を横にぶんぶんと振る。
 意気込むように強い一歩を踏み出したその時、腕に冷たい何かが落ちてきた。空を見上げると、どんよりとした雲から冷たい雨が降り始めていることに気付く。その雨は地面にもぽつぽつと模様を作り始めていた。
 やばい、濡れネズミになる前に早く帰ろう。鞄を傘代わりにして走り出した。もう既に雨で濡れはじめ、喧嘩で火照った身体は温度が下がり始めている。身体を動かすと傷がさらに痛んだ。
「クソッ、今日はツイてねえなぁ……」
 傷をかばいながらも走るが、雨は次第に強くなってくる。しばらく走ると公園が見えた。普段は通らないのだが、この雨だからか人もいないし、ショートカットのためだ、突っ切ってしまおう。
 公園に一歩足を踏み入れると、ゴロゴロ……という音が頭上のさらに上から聞こえた。雷だ、と焦りながら足を早める。もう濡れることも厭わずバシャバシャと水溜まりを溢れさせながら走る。靴の中に入った水がぐじゃぐじゃと音を立て、感触といい冷たさと良い、気持ちの良いものでは決してない。それでも早く帰らねえと、と気にせずむしろ足を速めた。
 公園の出口まであと少し、というところで、突然俺の真上に閃光が広がった。
 その瞬間、考える暇も驚く暇もなく俺の身体に衝撃が走った。全身がビリビリと激しく痺れ、皮膚が燃えるように熱い。目の前はチカチカと点滅し、やばい、これは、と直感的に死を覚悟した。
 一瞬のようにも永遠のようにも感じられたその衝撃からようやく解放されると、そのまま身体は傾いた。抵抗する力もなく、地面に向かって倒れていく。
 まだ痺れている脳の隅に浮かんだのは、充の顔だった。


「……れん……睡蓮、睡蓮……!」
 大雨が降りしきる公園。申し訳程度に雨よけできる屋根の下で、充が俺に喋りかけていた。
 身体中が痛くてたまらない。特に右目は開けることすらできず、痛いを通り越して熱いまである。血が出ているらしく、触れるとぬるりとした液体があふれ出しているのがわかった。
 充の声が聞こえるが、言葉が頭に入らない。雨なのか涙なのか、はたまた血なのかはわからないが、視界がじんわりと滲んでぼやけている。
 血で汚れた手で充の胸に触れると、白いシャツが俺の手形にべっとりと付いてしまう。だけど手のひらに感じる充の心音やじんわりと広がる体温が泣きそうになるくらい心地よくて、気にすることもできなかった。そんな充の体温とは真逆に、雨はシトシトと冷たく俺たちの上に降ってくる。
 何が起きたのかうまく思い出せない。確か雨が降り始めて、急いで帰ろうとして……その時、雷が近くで落ちて……最後の記憶は、身体を潰されるような衝撃と、燃えるような熱さだった。
「み、つる……」
「よかった……生きてるよな? 今、救急車呼んだから」
「俺、何が……」
 どうにか上体を起こすと、「無理に動くな」と言いながらも、充は俺の身体を支えてくれた。充のにおいがする。香水とも石鹸とも違う、充特有のそのにおいが好きなのだが、俺の血のにおいと混ざったせいで変な感じになってしまっている。
「……いいか睡蓮、落ち着いて聞け」
 充が神妙な顔つきで口を開いたその時、俺の視界にあるものがちらついた。
 そこで初めて気が付いたのだが、俺の隣に誰か寝ている。充の言葉よりも、そっちのほうに気を取られてしまう。
 俺と同じようなケガをしているそいつは、どうやら女のようだった。身体が痛むのか、「うぅ……」と低く呻いている。サイズの合っていなさそうな黒い服を着て──その着ている服に、俺は覚えがあった。
 学ランだ。それも、睡蓮の花が裏地に刺繍されている洋ラン……俺が今着ているそれと全く同じものである。俺の学ランは特別に誂えた一点物のはずなのに、どうして……
「睡蓮?」
「充……なんで、あの女……う、俺の学ラン、着て……」
 やっぱ聞いてなかったか、とため息を吐いた充は、「もう一度話すから落ち着いて聞け」と念を押した。
「お前の上に雷が落ちたんだ。 正直死んだと思ったよ……」
 だけどお前が倒れこんだ時、と充が言葉を続けようとした瞬間、女が起き上がった。学帽が落ちて露わになった髪の色は、俺と同じような茶髪だった。母親に似て色素の薄い俺は、普通の奴よりも幾分か髪色が明るい。その髪がだらりと垂れ、ぬかるんだ地面について泥だらけになっている。
「なんだ、俺……」
 俺、なんて大概女が使わない一人称だ。だけど俺はそんな一人称とは別のどこか、この女の存在そのものに違和感を抱いていた。身体の痛みもつい忘れてしまうほどの強い疑問。
「それで、な……お前に雷が落ちた時、お前の身体が裂けたんだよ。 いや、裂けたというよりも……『分裂した』んだ」
 充の遠慮がちな声で、信じがたい言葉が聞こえてきた。
 分裂? 分裂ってあの、ひとつのものが分かれて増えるあれのことだろうか。にわかには信じ難いが、まさか充の言ってることが本当だとしたら──俺が分裂して、この女ができたということか?
こちらを向いた女の顔には、俺とは逆の目に裂けたような傷があった。俺と同じような傷で、同じように血を流している。お互いに片方しか見えていない目が合うと、突如傷に痺れるような痛みが走った。咄嗟に目をおさえる。
「うぐっ……!」
「ゔぁあッ……!」俺とほぼ同時に、女の方もかばうように目を手で覆った。
 そんなあまりに鋭い痛みに、また意識が朦朧として、息が苦しくなってくる。だが一瞬だけ踏ん張り、どうにか口を開くことができた。
「おい、名前……おまえ、誰……だ」
 肩を弾ませながら息をする。同じように苦しむ女の空いた腕を掴むと、女の身体は俺の方に倒れてきた。間近に迫った女は痛みのせいか俺を睨みつけ、呻くように名乗った。
「睡蓮……杢葉、睡蓮……」
 なんだ、それ。それは俺の名前のはずなのに。
 まだ聞きたいことがある。なのに、あぁ、だめだ。瞼が重くて仕方ねえ……
「睡蓮? おい……おい、睡蓮!」
 指の先が痺れてきて、揺さぶられる感覚だけが鮮明にわかる。充が俺の名前を呼ぶ声が遠く感じて、そのさらに向こうからは、救急車のサイレンが聞こえてきた。ずっと冷たいはずの雨なのに、頬に落ちてきた数滴の雫はやけに暖かい。
 ──俺、死ぬのかな。どうせ死ぬんなら……ちゃんと充に向き合えば良かった…………
 そんなことを思ったのを最後に、俺は意識を手放した。
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