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第3話 双〈twins〉子

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 十数年生きてきて、まさかセーラー服を着る日が来ようとは夢にも思わなかった。
 芍薬牡丹女学園の制服は形がちょっと変わっている。灰色のセーラー服が同じ色のスカートと繋がっているそれは、母さんに聞いたところ「セーラーワンピース」というやつらしい。ウエストのところでベルトを巻き、学年カラーのリボンをつける。アタシは二年生だから、水色のリボンだ。
 漫画に出てきそうなかわいらしいデザイン。スカートも膝丈だから清楚な雰囲気が出てて、制服目当てで入学する生徒も少なくないという。確かに、元が男のアタシから見てもかなりかわいい。
 でもやっぱり、自分には学ランがしっくりくる。番長に就任したときに、歴代番長たちから贈られた俺だけの学ラン。この世でたった一着だけだったのに、あの落雷の日に二着になってしまったせいで、特別感が一気に削がれた。
 ベルトを締めても少し緩い制服も、パステルカラーのリボンも、スカートも、本当のアタシはこうじゃないはずなのに。
「それにしても……」
 全身鏡を覗く。目の前に立つ自分の姿は、誰がどう見ても女子だ。それも男の時に比べると明らかに顔面のクオリティが違う。確かにこれだと目の傷があるのはかなりもったいないかもしれない。
「結構かわいいじゃねえの」
 スカートの裾をつまんで広げたり、身体をひねったりしてポーズをとってみる。
 こうして見るとアイドルとかに間違われてもおかしくねえんじゃねえの? その辺の芸能人よりよっぽどマブイぜ。元が男なんて自分でもちょっと信じられねえな。でもスカートってなんかスースーするな、不安すぎる。よくよく考えたらこれって腰に布巻いてるだけだもんな……風とか吹いたら簡単にめくれちまうし。
「……なにしてんの?」
 そんなことを考えていると、後ろから睡蓮の声が聞こえた。驚いて振り向くと、呆れた視線だが妙に歪んだ口角の上げ方をしている睡蓮がドアに寄りかかってアタシを見ていた。
「なっ……んでも、ねえよ!」
「ふ~ん?」
 笑いを堪えるような声色の睡蓮は背を向けると、「かわいいぜ~、ね・む・り・ちゃん♡」と手を振って階下に下がっていった。髪を適当に束ねて留め、睡蓮の野郎ぶっ飛ばしてやる、と意気込みながら階段を降りていく。
 ダイニングテーブルには朝飯が並んでいた。トーストとベーコンエッグ、サラダ。いつも通りのメニューだ。トーストからはまだ湯気が立っていて、香ばしい香りも漂ってくる。親父はもう出かけたのかマグカップに半分だけ残ったコーヒーと雑に畳まれた新聞が置かれていた。睡蓮はもう食べ始めていて、シバくのは後にしてやろう、とアタシも椅子に座った。
「睡ちゃん、食べる前にちょっとおいで」いざ食べようと手を合わせた瞬間母さんに呼ばれ、タイミングの悪さに小さく溜め息を吐いた。
 呼ばれた方に向かうと、母さんはいくつか化粧品を机に並べていた。一体なにをする気だろう、と思いながら「ここに座って」と促されるまま座る。
「目の傷を隠してあげようと思ってね」
「別に良いのに……大体、化粧なんかしてっていいわけ?」
「学校に訊いたら、傷隠すくらいならいいって言われたのよ」
 前髪をピンで留められ、目を瞑るように言われる。なにされるんだろう、と思いつつ目を瞑ると、冷たいなにかがペトペトと瞼に触れた。驚いて一瞬肩を揺らすと、母さんが「あぁ、ごめんごめん」と笑う。
 塗られたなにかを塗り広げられる。それの冷たさと母さんの指の温かさが混ざり合って、なんだか変な感触だ。一度指が離れるが、まだ待ってね、と言われて目を瞑ったまま待っていると、今度はふわふわしたものが触れた。それに撫でられながらしばらく待っていると、ようやく「いいよ」と言われて目を開けることができた。渡された鏡に顔を映すと、驚いたことに傷が消えていた。
「えっ! なんだこれ、すげえ!」
 よく見るとうっすら痕は見えるが、ぱっと見ただけじゃ傷の有無なんてわからない。どうやったのかと興奮気味に母さんに聞くと、「コンシーラーとファンデーションで隠したのよ」と言われる。こんなに綺麗に消えるものかと感心して鏡に食い入るように隠された部分を見つめた。
「とりあえずお母さんのでやったけど……今度ちゃんと睡ちゃんにあったもの買いに行こうか」
 そう言いながらアタシの後ろに回った母さんは、せっかく結んだ髪を解いてしまう。抗議の意味を込めて声を上げると、「せっかくだから髪もちゃんとしましょうよ」と髪に櫛を通し始めてしまった。
 別段嫌な理由もないし、と頭を預ける。病院で目覚めたときにアタシの頬を撫でた母さんの手は、あの時と同じように優しさに満ちた手つきだった。そんな手で撫でられる頭皮はくすぐったいはずなのに、どこか心地良いとすら感じる。
「はい、できたよ」
 高いところでひとつにまとめた髪は制服のそれと同じ水色のリボンでくくられた。傷が隠れたおかげもあって、正直かわいさが増したように見える。
「すげぇ、母さんありがとう!」
 微笑んだ母さんを見て、そういえば昔、「女の子も欲しかったのよ」と言っていたな……なんてことを思い出した。
 今のアタシは、そんな母さんの願いを叶えられているのだろうか。ガラにもなくセンチメンタルにそんなことを考えていると「早くご飯食べちゃいなさい」と現実に引き戻される。
 食卓に戻ると、睡蓮がアタシの分にも手を出そうとしていたので思いっきりぶん殴った。

 *

「はよ、充」
「おう」
 玄関を出ると、充が立っていた。朝に弱いから普段は早くても一時間目の途中から登校してくるくせに、今日は珍しく早い。睡蓮がそのことを問えば「お前ら、病み上がりだろ? 心配でさ」なんてかっこつけたことを言ったが、目が少しぼやっとしているのがわかる。それに、なんだか顔も少し赤い気がする。
 なんとなく睡蓮の後ろに隠れる。さっきまで自分のことをかわいいと思い込んでいたが、充の前に来てみると急速に自信が縮小していくのがわかったのだ。
「ん……睡?」
 だけどすぐに気付かれて覗き込まれる。一瞬目を丸くした充は、、ぽかんと口を開けてアタシを見つめた。
「……ンだよ、なんか文句あんのか」
「あ……いや、似合ってんじゃん」
 似合ってる、という充の言葉に対して、心臓の奥底に小さな圧迫感が生じた。少し息が苦しくなるような、だけど嫌じゃない、そんな変な感覚。無理矢理心臓を抑えつけるように胸元を掴み、「男に女モノが似合うって言われてもなぁ」なんて苦し紛れに返事をしてしまう。
 ぼそっと今は女だろ、と呟いた睡蓮を睨み付けると、後ろから母さんの声が飛んできた。
「あら、充くん!」
「おはようございます」
 学帽を軽くあげて爽やかにはにかむ充。母さんは「本当わざわざありがとうね」とアタシと睡蓮そっちのけで充に話しかける。
 充はうちの親からかなり信頼されている。というのも、イケメンで愛想もよく裏表のない好青年だからだ。初めてうちに連れてきたときには「悪童の睡蓮がこんな真面目そうな子を連れてくるなんて!」と睡蓮(アタシ)と充の間に割り入ってあれこれ質問攻めしていた。
 その日からしょっちゅう、耳にタコができるほど「睡蓮みたいな悪ガキに充くんみたいな良い友達ができるなんて」と一言余計な言葉つきで言われている。おまけにあの落雷の日に迅速に救急車を呼んでくれたのもあって、入院中から両親には「充くんはあんたたちの命の恩人なんだからね」としきりに言っていた。
「そういえば、睡の傷って……」
「あぁ! お化粧で隠したのよ、傷があったら怖いでしょう?」
「まぁ、芍薬牡丹の子たちには警戒されるでしょうしね」
「隠しでもしなきゃ、お嫁のもらい手もないからねえ」
 いつまで余計なことをくっちゃべってるつもりなんだろう。そもそも男なんだから嫁のもらい手もへったくれもあるかよ。
 もう行こうぜ、と充の腕を引こうとしたとき、母さんが手を叩いた。
「充くんのお嫁さんにして貰えれば安心なんだけどねぇ」
 …………嫁?
 自分が女になったと知ったときと同じくらいの衝撃だった。母さんのその発言に、アタシも睡蓮も充もバカみたいに口を開けて固まるしかできなかった。
 嫁って、普通にあの嫁だよな。夫婦の女側の方。え、今母さん、充の嫁にとか言った?
 よめ、と一言発した充の声で一瞬早く正気に戻ったアタシは、「バカ言ってんじゃねえよ母さん!」と無理矢理母さんを家の中に押し込み、未だに固まっている二人の肩を叩いた。
「お前ら、起きろ」
「んッ……あ、あぁ」
 学帽を深く被り直した充の口角はわずかに上がっていて、もしかしてこいつ、まんざらでもねえのか、なんてアホなことを考えてしまう。
 だいたい嫁ってなんだよ、母さんめ。充にだって好みってモンがあるだろうし……いやでも、充って睡蓮(アタシ)のことが好きなんだよな? でも今のアタシは女だし……そもそも充は『睡蓮』が男だから好きなのか? それとも、性別は関係ないのか……?
「オイ睡、なにボーっとしてんだ」
 パン、と乾いた音が目の前で鳴った。睡蓮がアタシの目の前で手を叩いたのだ。ハッとして顔を上げると信号が青になっていて、慌てて歩き出した。
「なに、さっきの本気にしてるわけ? お前」アタシにしかに聞こえないくらいの声で睡蓮が囁く。さっきの、とはどう考えても母さんの「嫁」発言だろう。
「は……いや、何言ってんだよ。 んなわけ……」
「フーン……ま、どっちにしろ元に戻っちまえば関係ねえさ」
 なんだか様子がおかしい。こういうとき、『睡蓮』なら茶化すようなことをひとつふたつ言うはずなのに、今の睡蓮はやけに眉間に皺を寄せて口元を結んでいる。どことなく、不機嫌そうに見えるのだ。
 自分だからこそ、アタシはその妙な態度の睡蓮に違和感を抱いた。少なくとも、睡蓮はあの発言を面白がっていない。むしろ牽制するかのようにアタシに「関係ない」と言ったようにさえ見える。
 先程とは違う、心臓の血が逆流するようなざわざわとした感覚を抱えながら、ふたりの歩幅に合わせて歩き出した。

 *

 芍薬牡丹女学園。私立の女子校であるこの高校は、名前に劣らず品行方正・才色兼備な生徒たちが通っている、いわゆるお嬢様学校というやつだ。漫画みたいに「ごきげんよう」なんて挨拶するし、上級生に「お姉様」と話しかける生徒まで見かける。漫画好きのクラスメイトが読んでた、女しか出てこない漫画を思い出した。なんというか、フィクションの世界に飛び込んだ気分なのだ。
 品行方正、才色兼備。喧嘩と博打のことしか頭になかった厳つい顔の野郎ばかりだったベラ高に比べると、かなり風紀の整った学校だ。
 ──と、昼休みになるまでは思っていた。
秀麗しゅうれい高校の奴さぁ、生徒会だって言うし顔も好みだったんだけど、デートしてたらマジックテープの財布取り出してきたからトイレのフリして逃げたわ」
「え、なんそれクソウケるんだけど」
「ねー部活の新しいコーチがさ、オッサンなんだけどめっちゃ目つきがやらしいの」
「セクハラじゃん、訴えて慰謝料とったれ」
「はーマジ次の授業ダル」
「課題多すぎんよねあの先生」
 教師や男に対する愚痴から悪口、さらには口に出すのが憚られるような下ネタまで教室のあらゆるところから聞こえてくる。脚はがっつり開いて下着が見えてもおかしくないし、暑いからと胸元を開ける奴もいる。そもそも品行方正とはほど遠い口調の会話が飛び交っている時点で、だいたいお察しなのだ。
 いや、知っていたはずだ。女子校は異性の目がない分オープンな生徒ばかりだというのは聞いたことがあった。だけどお嬢様校と聞いていたから、もしかしたら、という淡い希望を持ってしまった。期待したアタシがバカだったのだ。
 はぁーと深い溜め息を吐き、額をこする。……あ、しまった。化粧で傷隠してんだっけ。慌てて手を確認すると、少しばかりファンデーションが付着してしまっていた。
 せめて崩れてないといいけど、と急いで鏡を見ようとしたとき、目の前の席に座るクラスメイトのひとりが話しかけてきた。
「ねえ、杢葉さんてきょうだいいたりしないの?」
 朗らかに話すこの女子は、確か……澤邑さわむら、とか言ったか。他の奴らの下世話な会話に混ざらず、だけど笑顔で接する明るい子だ。黒いボブショートヘアにつけている赤いヘアピンがよく似合う。
「うーん……一応、双子の兄貴がいるけど……」
 アタシのその言葉に、周囲にいたクラスメイトたちがわっと群がってきた。
「え、杢葉さんお兄さんいるの⁉」
 さっきまで自分たちの会話に夢中だったのに、急になんだ、と思いながらも、その勢いに圧倒されて「う、うん」とぎこちなくも頷いてしまった。
「え~! 紹介してよ!」
「いや、そんな紹介できるような奴じゃ……」
「イケメンなの⁉」
「は? いや……そんなことは……」睡蓮は自分でもあるが、イケメンと聞かれたら怖すぎる顔立ちな気がする。だからといってブサイクなわけでもないと思うが……
「でも杢葉さんのお兄さんなら絶対かっこいいでしょ!」
 うんうん、と何人かが頷く。理由を尋ねると「だって杢葉さんかわいいもん!」と言われる。多少気恥ずかしくなりながらも、「いや、本当……ろくな奴じゃないから……」と手を振った。
 え~という声がみんなから沸いたと同時にチャイムが鳴る。全員自分の席に戻っていくのを見て、ほっと安堵の息を吐いた。
 だけど澤邑さんはまだアタシの方を向いていた。あんまりじっと見つめてくるもんだから、まさかさっきので傷が見えたのか? と内心焦りながら「なんか顔についてる?」と聞いてみる。
「……杢葉さんのお兄さんって、もしかして遍羅暴高校?」
「え? うん、そうだけど」
 一体どうしたんだろう、急に睡蓮のことを聞いてくるなんて。知ってそうな口ぶりだけど、彼女の顔に見覚えはない。けっこう整った顔をしているし、そもそも芍薬牡丹の生徒なんて向こうから寄ってこない限りは関わりがないから、記憶に残りやすいと思うのだが。
 分裂してからのことだとしても、退院して今日が初めての登校だから、会う確率は低いはずだ。
「えっと……もしかして、知り合い?」
「だって杢葉って、遍羅暴高校の番長の人と同じ苗字じゃん」気を遣ってくれているのか小声で返される。「あ、親戚のお兄ちゃんがあそこに通ってたの」と人差し指を唇に当てて付け加えた。
 ほっと安堵の息をひとつ吐き、「そうなんだ」と胸を撫で下ろした。
「……お兄さんとはあんまり似てないの? カッコいいって聞いたけど」
「カッコいいかはわからないけど、似てないのはそうだね……アイツは父親似だから」
「へえ。 ──それにしても、睡ちゃんってすごいかわいいよね」
 ずい、と顔を近付けた彼女はアタシの瞳を覗き込む。からかっているわけではない、というのはその目でわかった。このまま口説かれるんじゃないかと本気で思ってしまうような、そんな表情をしている。
 そんな彼女の様子や、突然『睡ちゃん』と呼ばれたことに対して狼狽える自分が映る彼女の黒い瞳が澄んでいるのがやけに気になってしまって、そのことばかり考えてしまう。
 扉が開く音がする。教師が入ってくると同時に号令の合図をかけた。
「ごめんね、変なこと言っちゃって」
 そう言って澤邑さんは元気な笑顔を見せ、前を向き直した。
 頬杖をついて窓の外を見ると、少し疲れの募ったアタシの胸中とは裏腹に、空は雲ひとつない快晴だった。


 全部の授業が終わり、ようやく終わった、と脱力しながら校舎を出た。クラスメイトたちに絡まれる前に帰ろうと校門まで急いでいる途中、「門のところにかっこいい人がいる」という声をちらほら耳にした。
 最初に聞いたとき、謎の胸騒ぎがアタシを襲った。そして校門に向かう道でそれを聞くたびに嫌な予感は増していき、気付けば走り出していた。
 昇降口から出て曲がると校門が見える。確かに男の影らしきものが見え、近付くとそれがふたりだということに気付いた。同い年くらいのそいつらは学ランに学帽を被っている。
 最悪だ、と口の中で呟く。今日び学帽を被る学校なんて珍しいせいで、胸騒ぎが的中したのを悟ってしまった。
 そこに立っていたのは、紛れもなく睡蓮と充だったのだ。こっちの気も知らないで、和やかに談笑してやがる。ベラ高だからと遠巻きにする生徒もいるが、大体みんな一回は足を止めてふたりに(正確には充の方だと思うが)見惚れている。
 そこから少し離れたところで、女子たちがきゃあきゃあと騒いでいる。それに押されるまま、ひとりの女子があのバカ共に近付いて行ったのに気付き、すぐに駆けだした。きっとものすごい形相だったのだろう、ぶつかりそうになった子たちはみんな驚いた様子でアタシに道を譲ってくれた。
「おい‼」
 アタシの声に顔を上げたふたりは、「おー」なんてのんきに手を振っている。
「おー、じゃねえよ! なにしてんだ!」
 ふたりの背中をぐいぐいと押してようやく学校を出る。周囲の女子たちはみんなぽかんとした表情でアタシたちを見ていたが、構っていられない。あ、だけどクラスメイトも何人かいた気がする。明日は面倒なことになりそうだ……
「だって心配だったからよ」
 やっと学校から遠くなった頃に改めて問いただすとそう返された。「余計なお世話だっての!」と言うと、「充が言い出したんだぜ」と投げやりに答えられる。
「……充?」
「いや、まあ……でも心配だったんだよ、ごめん」
 眉を下げて子犬のような表情をする充。クソ、どんな顔してもイケメンが崩れねえなんて、イケメンてマジで得な生き物だな、と内心毒づきながら「……でもありがとう」と告げた。そしたら今度は照れたように歯を見せて笑うもんだから、なんだか心臓に悪くて目を逸らした。
「ん……ゴホッ」
 充が口元を押さえてひとつ咳をする。続けて二、三度ゴホゴホと喉を鳴らすと、ううん、と首を傾げた。
「なんだよ、風邪か?」
「なんかずっと咳してたよな、大丈夫かよ」
「んー……昨日から調子悪くてさ」
 でも大丈夫、と言って充は一歩踏み出すが、ふら、と足がもつれて電柱にぶつかる。ゴスッという鈍い音に驚き、アタシも睡蓮も「大丈夫じゃねえじゃん!」と充に駆け寄った。
「ちょっと触ンぞ」
 睡蓮が充の頬に触れてすぐ、「お前めっちゃ熱あるじゃねえか!」と叫んだ。
 当の充は「大丈夫だって……」と立ち上がろうとするが、それを支えた時に布越しに感じた体温は確かに異常だった。学帽が地面に落ちる。
「このまま送ってくぞ」
「いや、いいって……」
「バカヤロ、大丈夫なワケあるか。 悪化したらどうすんだ」
 充を背負った睡蓮は「カバン持って来てくれ」と顎で示して歩き出す。地面に放り出された二人分のカバンと充の学帽を抱え、アタシも急いで追いかけた。
 軽々持てたはずの鉄板入りカバンは、今の腕にはずいぶん重かった。

 *

 充の両親は共働きで、日中はあまり家にいないらしい。兄貴が二人いるが、その二人も会社員でそれぞれ一人暮らしをしているらしく、家では普段からひとりのことが多い、と前に聞いたことがある。
 実際、充を運んだ家には誰もいなくて、熱でぼーっとしている充が貸してくれた鍵で上がらせてもらった。
 睡蓮は充をベッドに転がすと「ちょっといろいろ買ってくるわ」と薬局に走っていった。
 その間に熱を測ってやろう、と充から場所を聞いて拝借した体温計が、ピピピピと高い機械音を立てた。充が重怠そうにのろく腕を動かしながら体温計を確認する。
「大した事ねえよ……」
「何度?」
「んん……? あ、三十八度二分……」
「充分大したことあるじゃねえか、バカ」
 渡された電子体温計には充の言った温度が機械的な文字で表示されている。その体温計も充の熱で少し温まっていて、さっきよりも熱が上がっているように感じられた。
「あー……風邪なんて中一の時以来だぜ……」
「今睡蓮が薬とかスポドリとかいろいろ買ってくるらしいから。 もう少し待ってろよ」
「うん……」
 熱で真っ赤に火照らせた充は辛そうに眉を下げている。いつもはキザな感じの充のそんな表情は珍しくガキっぽくて、なぜか無性に頭を撫でてやりたい、という思いが腹の底から湧いてきた。むずむずするようなこの感じが、まさか母性とかいうやつなのだろうか。
 いや、やばい。このまま母性なんかに囚われたら、男に戻った時いろいろと支障が生じてしまいそうな気がする。
 落ち着くためにいったん外に出よう、と立ち上がる。
「んん……? 睡、どこ行くんだよ……」
「いや、ちょっと外に出ようと思ってさ」
 その言葉が気に食わなかったのか、むっと唇を尖らせた充はアタシの腕を掴んで自分の方に引いた。不意だったからなのか力が入らず、引っ張られるまま充のベッドに飛び込むような形で膝をついてしまう。
「うわっ!」
 ぼふ、と飛び込んだ布団越しに、充の身体とぶつかる。布団を隔ててもわかるくらい硬くてゴツゴツとした充の身体は、嫌でもアタシに『男』を感じさせた。距離が一気に縮められた顔は熱のせいで紅潮していて、じんわりと汗ばんでいる肌に黒い髪が張り付いている。そのせいで、変な色気みたいなのが醸し出されている気がする。
「行くなって……寂しいんだよ、なんか。 わかるだろ……?」
 耳元で囁かれた言葉と、それを運んでくる吐息が熱い。唇にかかったそれのせいで、キスでもされるんじゃないか、なんて脳裏によぎってしまった。
 汗に混じって充のにおいがする。いつもは石鹸のような爽やかで落ち着くにおいのはずなのに、やけに甘ったるい香りとしてアタシの鼻腔に届いた。腕を掴む充の体温に影響されてか、アタシまで身体が熱くなってくる気がした。
 いつの間にか激しくなりつつある心臓の鼓動に気付かれたくなくて、わかったから、とできるだけ平静を装いながら身体を離した。
「暑い……」
 布団をどかそうともがく充を押さえ、はだけたところにまたかけ直した。
「なんだよ、暑いんだって……」
「こういう時はちゃんと布団被ってねえとダメだって言うだろ。 なんだっけ、カンダンズソクだか……」
「頭寒足熱じゃなくて?」
「それだわ」
 充は噴き出すように笑い、顔を両手で覆っている。ツボに入ったのかあんまり笑うもんで、「笑いすぎだっての」と熱い額を叩いた。その手の温度がちょうどよかったようで、手のひらを勝手に氷嚢代わりにしようと押さえつけられる。少し触れた髪は汗に濡れても柔らかくさらさらとしている。
「あー、めっちゃ気持ちいいわ。 冷たくて」
「女になってから手足がちょっと冷たくなったんだよな」
「女子って冷え性なの多いらしいしな」
 もう片方の手で首にも触れてやる。触れた瞬間はくすぐったそうにしていたが、そのうち冷感の気持ちよさにそのまま身を委ねてきた。次第に充はうとうとと眠気に誘われ、朝のように目が眠そうに瞬きを始めた。
「もう寝ろよ」
「ん……睡、どこにも行くなよ……」
 その声に行かねえよと答えれば、充は瞼を閉じて眠りについた。
 睡蓮が来るまでこうしておいてやろう、という慈愛のような心持ちで、子供みたいな充の寝顔を眺めていた。
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