吉祥寺行

八尾倖生

文字の大きさ
上 下
32 / 33
終章

18時

しおりを挟む
3 18時

「ねえ、今日ずっと思ってたこと言ってもいい?」
 横を歩く男に、女が問いかける。
「え? 俺なんかやらかしてた?」
「違うけど。いや、やっぱそうかも」
 軽いジャブを浴びせたつもりだったが、女の予想外の返答に、男は思わず身構えた。
 無理もない。この二人にいたっては、会うのは今日でまだ三回目である。どんなことが相手の気にさわり、どんなことが相手の過去に触れ、どんなことが相手を傷つけるのか、まだまだ試行錯誤の段階と言える。
「なんでそんな厚着なの?」
「は? え?」
 しかし、これだけははっきりしている。二人の心に、壁はない。
「横でそんなに厚着してるもんだから、暑くないのか気になって、ハーフタイムにタヌキのマスコットの写真撮るの忘れちゃったんだ」
「なんじゃそりゃ」
 真っ正面から思ったことを言い合える、それが二人にとってのパートナーだった。
「もしかして、寒がり?」
「別に改まって言うほどのことじゃねーだろ」
「隠してたけど、実は私も」
「寒がりに隠す要素あるか?」
 吉祥寺を歩く二人は、周りから見れば、本当にその辺にいるような普通のカップルだった。
 だが、世界はその関係性を否定する。二人の間には、好きや付き合おうという言葉も、ましてや手を繋ぐこともない。
 「受け入れる」、それだけがお互いを肯定する言葉だった。
「たぶん、俺が六月生まれだから寒がりなんだって、母ちゃんが言ってた」
「え、克月くん、六月生まれなの?」
「そうだけど」
「双子座?」
「双子座」
「気を付けてね……。双子座って、来週運勢最悪らしいから」
「え、ガチ?」
「嘘」
「ええ加減にせえよ」
 もう一度言おう。二人の心に、壁はない。
 ではこの関係をなんと表現するべきなのか。それは神のみぞ知る。
 いや、この二人なら、きっと知っている。
「彩花って、地味に新崎と同レベルの感性持ってるよな」
「それって、褒め言葉?」
「好きに受けとって。個人的には褒めてねーけど」
「いい加減に生きてみなって言われたんだ。すごく、尊敬してる人から」
「その人、すごい、い人だね」
「うん。本当に、善い人たち」
 二人が歩く末広すえひろ通りも、夜に従って街の明かりが灯りつつある。
 家系ラーメン店、高級寿司屋、駐輪場、そして舗装された道路が、自然と二人の道標みちしるべになっている。
「じゃあさ、一つだけ、ホントに気になったこといてもいい?」
「なにさ」
「相手チームの選手紹介のときにさ、なんで一人だけ拍手されてたの?」
「お、ホントにちゃんとした質問だった」
 末広通りを抜け、駅の中心に近付いてきた。目の前にそびえ立つ大きな駅ビルに、調布と吉祥寺しか東京を知らない女は、心の中で感嘆の声を発した。
「あの選手、前はウチのチームにいたんだよ。それでまあ、これからも頑張れよ、今日以外の試合で、的な」
「へー。そういうのって、なんかいいね」
「人によってだけどね。人によってはめっちゃブーイングされる選手もいるし」
「え、なにそれ。めっちゃ面白そう」
「そういうの好きなタイプだったんだ」
 駅ビルには入らず、もう少しだけ外を周った。休日の夕方だけあって、すれ違う人も、同じ方向に進む人も、たくさんいた。
 吉祥寺に休日が訪れる限り、たくさんいた。
「あ」
 ふと女が声を上げる。
「どした?」
 男が尋ねる。
「ううん、なんでもない。ちょっと、知ってる人見かけただけ」
 そう言うと女は、小さくまとめた後ろ髪を触った。
「……ねえ。克月くんは、前のポニーテールの方が好きなんだよね?」
 突然浴びた心をくすぐる質問に、男は再び身構えた。
「う、うん、そうだけど」
「私、絶対前みたいに戻るから、前以上になるから、だから、その──」
 今度は女が身構えた。
 思いがけず数ヵ月ぶりに見かけた憧れのその姿に、女は少しだけナーバスになった。
「私よりずっと可愛いポニーテールの人が急に現れても、見捨てたりしないでね?」
 目の前にいるこの男が、突然いなくなるのではないか。
 朝の訪れと共に、姿をくらませる月のように。
「俺、そんな風に見える?」
「見え、なくも、なくもない」
「どっちだよ」
 そのとき、女は気付いた。朝の月は消えるのではない。
 姿は見えなくとも、どこかで見守ってくれていると。
「……それは、俺のセリフだよ」
「え? 何か言った?」
「何も」
 そのとき、男は気付いた。
 花には寿命がある。人を愛し、愛される、寿命が。
「だけど、ちょっと寒くなってきたね」
「ちゃんと頼むなら、これ、貸してあげようか?」
「いいけど、返す気ないよ?」
「頼む気すらねーじゃん」
 一つ一つの会話で、空白だらけだった画用紙の隙間が埋められていく。純白なページを、無数の線が埋めていく。それは何の秩序もない、小学生の落書きのようだった。
 だが少なくとも、何かで埋められた。何かが描かれた。
 誰も触れることのない無意味な白は、可能性の白へと変わった。全てを有耶無耶うやむやにする狼狽ろうばいの灰は、無垢むくな白へと変わった。
「月、綺麗だなあ」
 男からせしめた大きめのコートを着ながら、女はそう呟いた。
「ちょうど今、半月か」
「うん」
 一週間後の満月の日、おそらく二人の答えが出る。
「ねえ、克月くん」
「なに? 彩花」
 生きていくのか。それとも、死んでもいいのか。
「私たちが初めて会ったの、いつか憶えてる?」
「英語の最初の授業のときじゃないの?」
「ぶぶー、残念。なんで間違えたか、明日まで考えといてください」
「……なんかムカつくなその言い方」
 また、新しい空白が埋まろうとしている。
「じゃあヒントあげる。うーんと、入学してすぐにゼミ決める日あったでしょ? あれ思い出してみて」
「それ、答えじゃない?」
「あ、やば」
 だがもしかすると、空白のままの方がいいこともあるかもしれない。
「え? てことはその日? 嘘だあ。俺、その日は今のゼミの人にしか会ってないよ」
「しょうがないなあ。じゃあ、大大、大ヒントね。その日、そのゼミに申し込んだ人、もう一人いたでしょ?」
「え、それって──」
 それが二人の、本当の色ならば。
「痛って」
 言葉に詰まる男の後頭部に、何かが当たった。
「どうしたの?」
「っ!? い、いや、なんでもない……」
「ねえ、もしかしてそれって──」
「え……?」
 女は笑った。
 胸の中で、彼女の悪戯いたずら心が爆発しそうになった。
「その紙ヒコーキ、私知ってるよ。中に変なサインと絵が書いてあって、確か、Kと月だったかなー」
「Kと月……。はは、まさかね」
「誰が書いたんだろうなー。不思議だなー」
「ちょちょ、よく見ろって! 他にもいろいろ描いてあるよ!?」
 男は反撃を試みた。
 その様子に、女は余計によろこびを覚える。
「たぶんこれ、花と、鳥と、風と、月だ。おおすげえ! これ、めっちゃ風流じゃん!」
「その中で、どの絵が一番好き?」
 どんなに鈍い男でも、質問の意図は明白だろう。
「花、かな」
 即答だった。その瞬間、女は男の手を握りしめた。
 月が綺麗な合図は、いよいよ二人に色を付けようとしている。
「克月」
 それでも、二人には白が似合う。
 何も描かれていない透き通った白こそが、何よりも二人の歩幅を表しているのだから。
「これからも、一緒に居ようね」
「うん」
 人はそれを、「日常」と呼ぶ。
しおりを挟む

処理中です...