「月が、綺麗ですね。」

八尾倖生

文字の大きさ
上 下
7 / 21
第二章 執筆

夏①

しおりを挟む
2 夏

 月日は矢のようにあっという間に過ぎ、ていくことなどなかったが、奏さんと渋谷に行き、彼が本格的にあの小説を執筆することを決心したる春の一日から、無駄に長く感じた期末試験期間が終わり、明日からようやく夏休みだという快晴のような気分の現夏の一日までは、想像していたより経過するのが早かった。
 既に述べたように、奏さんはあれ以来、あの小説の執筆を進めている。それは私も確認済みで、と言うより、私もたまに執筆する奏さんの横に座り、ストーリーを模索する彼にアドバイスというか、そのまま私のアイデアが採用されるなど、要所要所で執筆に携わっている。ただ、今までの彼をかんがみると、執筆スピードがだいぶ落ちていることは気になったが、それでも着実に進んでいるようだったので、特に指摘することはなかった。
 ちなみに彼との「取材」は、あれ以来、何度か行なわれている。二、三週間に一度のペースで、渋谷以外の都心の街や、逆に都心から離れたのどかな国営公園、試験期間が始まる一週間前には、夏の日差しの兆しが照りつけているにもかかわらず、思いっ切り日中に大学の近くにある多摩動物公園に付き合わされた。彼の方は「取材」に慣れてきたようで、段々私を誘うときの文句が雑になってきた。そのうち、お互い別々で行かされるなんてこともあるかもしれない。
「じゃあね、夏目さん! お互い、楽しい夏休みにしようね!」
 春にも紹介した同じ学部で学科の友人と別れ、この瞬間から夏休み突入にもかかわらず、真っ先に通常授業週と同じように、部室に向かった。彼女とは特に、夏休み中に会う約束はしていない。サークル活動が活発になるらしく、私の方もサークル活動があると言ったので、無理に会おうなんて話にはならなかった。誤解を恐れずに言えば、たぶん、今のところその程度の関係なのだと思う。
 部室に入ると、珍しく奏さんはいなかった。確かに珍しいことだが、彼も一応大学生であるので、この時間は大方試験を受けているのだろう。奏さんがいないのなら、この部室にいても仕方がない。執筆のデータは奏さんのノートパソコンにしかないので、出版社の編集者のように作家とは別に確認作業ができるわけでもないし、何よりも、この部室には冷房がない。古い部室なので当たり前と言えば当たり前だが、そんな状態でただこの灼熱しゃくねつ地獄の中に身を置くのは、どう考えても正気の沙汰さたではない。
 そう思い、さっさと帰ろうと部室を出ようとした瞬間、不意にドアが開いた。
「あれ、誰かいるの?」
 その声は、間違いない。
「あ! 尊さん!」
 数ヵ月ぶりに再会した喜びに、私のテンションはうなぎ上った。

「ほ、ホントですか!?」
 私の紅潮した声が、空調の効いた学食の一画に響く。
「まあ、とりあえずね」
「すごいです! ホントにすごいです!」
 久しぶりに大学に来たという尊さんは、半分は誰もいないと思いながら部室を訪れたそうだが、彼いわく、今最も会いたかった人に会えたと言ってくれた。それがお世辞だとわかっていても、正面切って言われると、やっぱり喜びを隠し切れない。
 そのまま少し話そうと言ってもらい、彼も冷房のない部室にはうんざりしていたので、空調の効いた学食のフリースペースまで移動してきた。
「まあでもこの業界、これからが勝負だからさ」
 私が今テンションを上げているのは、私に関する話ではない。彼の、尊さんの進路にまつわる話だ。
「でも、ホントにあのテレビ局なんですよね!?」
「まあ、そうだね」
「すごいです! あの、よかったらサインとか頂けませんか!?」
「おいおい、いつから朱美ちゃんまでボケ言うようになったんだよ」
 大方察している人もいるかもしれないが、私はたった今、尊さんの就職先を聞いた。一応内定出たから、これからは訊きたいことあったら遠慮なく訊いてくれていいよ~、と、いつも通りの柔らかい声で言ってくれたので、少々立ち入ったことだと懸念したが、思い切って尊さんの就職先を聞いた。
 すると返ってきた答えは、上京する前から、なんなら小学生のときから知っていた、東京の大手テレビ局の名前だった。漠然と気付いてはいたが、この人、こんなにすごい人だったのかと、もはや驚愕を通り越して感心した。
「そういえばあの小説、どんな感じ?」
 やはり彼も私と同じ、完成を待っている人間の一人だと思うと、先ほどの感心とは裏腹に、急に親近感が湧く。
「思ったより進んでると思います」
「そうなんだ。それはよかった」
 小学校の先生と生徒の個人面談のように、彼は優しく語りかける。
「一応、奏からもちょくちょく進捗は聞いてたんだけどね」
 彼がわざわざ私にも訊いてきたのは、何か意味があるのだろうか。
「朱美ちゃん、奏に付き合っていろんなとこ行ってくれたんだって?」
「え!? ああ、はい!」
 まさかそのことを尊さんに知られていたとは。少しだけ、恥ずかしい。
「朱美ちゃんがサークル入るって言ったとき、そんなようなこと言ってたからもしかしてって思ったんだけど、本当にやるとはな。やっぱり、大した娘だよね、君は」
「私はただ、執筆のお手伝いになるかと思って……」
「それでも、あいつに付き合ってくれるような人、この世にはほとんどいないと思うよ」
 ほがらかな笑い声が交じる。
「そういえば昨日、あいつとちょっと話したけど、なんか、若干雰囲気変わった気がする。なんて言うか、話しやすくなった」
「そう、なんですか?」
「うん。独りがりに話し続けることもなくなったし、俺の話聞くようになったし。やっぱりそれもこれも、朱美ちゃんのお陰なんだね」
「いえいえ! 私は何もしてませんよ!」
「そんなことないよ。そもそもあいつが本当にあの小説書き始めたのは、間違いなく君のお陰なんだから」
 そう言いながら、少しだけ意味深な表情を見せたのは、私の思い過ごしだろうか。
「尊さんはこれから、サークルには戻ってこられるのでしょうか?」
「うーん、それなんだけどさ、」
 ため息混じりに姿勢を変える。
「本当は俺も朱美ちゃんみたいに執筆の手伝いしたいんだけど、ちょっと俺の周り、既に色々動き出しててさ。だから大学来るのも、まだ限られるかもしれない」
 そう、なんですね。という言葉は出なかった。
「ごめんな。前は就活一段落したら協力するとか言ってたのに」
「いえいえ! 私たちのことは気にしなくていいので、尊さんは自分のことだけをやってください!」
「うん、ありがと。だけどまあ、四、五月頃よりはまだマシになったから、なんか用あったらいつでも言っていいよ!」
「はい! ありがとうございます!」
 私はこの人にあと何回「ありがとうございます!」と言えば、自分の足で立てるようになるのだろうか。
「俺、ちょっとこの後別のサークルにも挨拶行かないといけないから、こんな中途半端なタイミングで悪いんだけど、そろそろ行ってもいい?」
「あ、はい! 全然大丈夫です!」
「ごめんね、変に引き留めちゃって。またタイミング合ったら、奏と三人で飯でも行こう」
「はい! 楽しみにしてます!」
 ここまで本音で楽しみだと言えるのも、尊さんが相手だからだろう。
 そのまま二人で学食を出て、尊さんはサークル棟へ向かった。私も相変わらず辺鄙へんぴな場所にある部室に寄ってみたが、そこに奏さんの姿はなかった。


 尊さんと再会した日、すなわち夏休みが始まってから、三週間が経過した。その期間、私はバイト以外、ほとんど何もしていない。奏さんからの呼び出しもなく、というか連絡一つないため、動き出す機会がなかった。
 今日も11時過ぎに起き、そのままボーっとしながら午後に突入し、14時くらいから約一時間半、漫然と本を読みふけっている。サークルの合宿に行った先輩の代わりにシフトに入り、昨日までバイトが四連勤だったこともあり、体は一丁前に疲弊している。その見返りに今日から一丁前に三連休を貰ったのだが、かと言ってすることもない。本当は奏さんの執筆の状況を確認したかったが、さすがに冷房のない部室で執筆しているとは思えず、だからと言って彼の家まで押し掛けるのもどうかと思い、結局、何も動き出せずにいた。
 すると季節相応にうるさせみの声に混じり、私のスマートフォンの着信音が鳴っていることに気付いた。もしかしてと思って相手の名前を見ると、それはもしかしての対象から外れた、候補の十番目くらいにいる人の名前だった。
「はい、もしもし」
「あー! 朱美ちゃん! ひっさしぶりー!」
 久しぶりに聞いた人を魅了するその声に、思いがけず緊張する。心なしか、私の知っているそれより、一段も二段も甘ったるくなっているように聞こえた。
「西野さん、久しぶりだね」
「もー! やめてよ西野さんなんて! 美月って呼んで!」
 彼女、こんなキャラだったっけ? そう思ったのもつかの間、今度はなんで急に電話なんてかけてきたんだろうという疑問が、頭の中央で湧いた。
「それより、急にどうしたの? 美月、ちゃん」
「卒業式の日さ、いつか東京で会おうって言ったじゃん? だからさ、会えないかなーって急に思っちゃって!」
 なるほど、確かに言われた。ただ、腑に落ちない点が一つある。
 彼女、こんな衝動的に行動するタイプだったっけ?
「うん。私は暇だから全然いいよ」
「ホント!? やったー! じゃあさ、これからどう?」
「これから? ってことは、今日?」
「うん! どうかな? さすがに当日はきつい?」
「ううん! 全然大丈夫!」
「よかった! じゃあさ、私ちょっと行ってみたい喫茶店があるんだけど、渋谷とかまで来れたりする?」
「うん! いいよ!」
「ありがと! じゃ、また後で!」

「久しぶりー! 元気だった!?」
「うん! 美月ちゃんは?」
「もちろん! むしろ高校のときより元気!」
 彼女の言葉は、相変わらず嘘がないように聞こえる。それくらい今の彼女の風貌は、多少気圧けおされるほど、元気をまとっていた。
「朱美ちゃん、そのワンピース、すごい可愛いじゃん!」
「えー、そんなことないよー。ていうか、美月ちゃんの服、すごいオシャレだね」
「またまたー」
 私が可愛いではなくオシャレという言葉を選択したのには、彼女が身に付けているコーディネートが、あまりにも私の趣味からかけ離れたものだったことに原因がある。
 と言うより、まさか目の前にいるこの女性が、本当にあの西野さんなのかと疑ってしまうほど、今の彼女はだった。
「髪型も変えて、なんかすごく都会って感じ!」
「そう? えへへ、朱美ちゃんからストレートにそんなこと言われると、なんか照れちゃうな」
 道行く人々は、もはや着慣れてきたいつもの黄色いワンピースを着て眼鏡をかけた私ではなく、肩を思い切り出した真っ赤なブラウスと、下手すれば高校の制服の半分ほどの短い丈のスカートというコーディネートで、堂々と肌を露出する彼女の姿に、目を焼き付ける。髪型も、胸くらいまであった黒のストレートヘアから、肩くらいの茶髪のセミロングに変え、さらにカールと呼ぶのだろうか、雑誌で見るモデルのように、髪型が巻いた感じになっている。
「なんか私たち、ずっとこっちに住んでるって感じになってきたねー!」
「えー、美月ちゃんはともかく、私は全然だよー」
「ううん、そんなことないよ。今の朱美ちゃん、ホントに綺麗だよ」
「そ、そうかな」
 この人も尊さん同様、正面切って言われると、たとえお世辞でも真に受けてしまいたくなる魅力を携えている。
「それで、行きたいお店って?」
「あ、そうだった! じゃ、行こっか! 空いてるといいけど」
 隣を歩く彼女の周りは、まるでファッションショーのように、光り輝いていた。

「うわー、すごいオシャレ……!」
「でしょ? 他のお客さんも、みんなデキるビジネスマンって感じだよね」
 彼女が連れてきてくれたお店は、私と奏さんでは店の場所を教えられても辿り着けないような、「輝く人限定」という裏コンセプトがあると錯覚してしまうような、そんなお店だった。平日の夕方というのもあるが、周りの人も彼女の言う通り、皆、年収一千万円を超えていそうなビジネスマンだらけだった。明らかに、私だけが場違いである。
「こういうお店、よく来るの?」
「そんなわけないじゃん! だから朱美ちゃん誘ったんだよ! 朱美ちゃんとなら、初めて行くようなお店でも大丈夫かなーって」
「そ、そうなんだ」
 その根拠は、いまいちわからない。彼女は私に、何を期待しているのだろう。
「橋本さんとは、今も連絡取ってるの?」
「うん、一応。昨日も電話で話したよ」
「へー、そうなんだ。やっぱりいいなあ、そういう関係」
「美月ちゃんは、高校のときの娘たちとは連絡取ってる?」
「ううん、全然。ラインもほとんどしてない」
「え、そうなんだ」
 正直、意外だった。
 光るグループだった彼女たちは今でも、定期的に集まっているのだと思っていた。
「だから、前も言ったでしょ? 朱美ちゃんと橋本さんみたいな関係、羨ましいって」
「う、うん」
「正直さ、あの頃からわかってたんだよね。あの娘たちとはもう接する機会なくなるんだろうなー、って。大学の友達もあんまりいないし、正直、今こっちで頼れるのって、朱美ちゃんぐらいなんだ」
 彼女の目は、本気で訴えている。何か、言わなくては。
「さ、サークルとかは、やってるの?」
「最初はやってたけど、色々トラブル巻き込まれちゃって、一ヵ月で辞めちゃった」
「そ、そうだったんだ」
 巻き込まれたというトラブルの原因が、自然と想像できる。
「朱美ちゃんは?」
「一応入ってるところはあるけど、人数少ないから、ほぼ廃部状態なんだ」
「そっか。お互い大変だね」
 風貌は変わっても、変わらない彼女の美しく真っ直ぐな瞳は、本当にそのように映し出している。派手な出で立ちの裏に、美人専用の葛藤が、彼女のその服装の動機に闇を感じさせる。その動機だけは、決して触れてはならない気がした。
「そういえばね、この前──」
「う、うん」
 その後も色々話した。大学の講義の話や、住んでいる家の話、私のバイトの話、最近見た映画や小説など、なるほど十代の女子が二人で話すような話題をたくさん消費した。
 それでも、この年代の女子が最も気にするであろう異性関係についての話題は、意図的に題材から外されていたように、一切登場しなかった。と言うより、彼女が意識して避けていたようにも思える。きっと、色々あったのだろう。色々と。
「これとか美味しそうだけど、すごく高そうだよね」
「確かに! あ、でも遠慮しないで頼んでいいよ! 今日は私が出すから!」
「え?」
「だって、今日は私が誘ったんだし、朱美ちゃん、家遠いのにわざわざ渋谷まで出てきてくれたし、こんぐらいやって当然だよ!」
「で、でも……」
「いいの。ほら、遠慮しないで頼みな? あ、すいませーん!」
 そのまま彼女は店員を呼び、私の制止に目もくれず、今話題に出た高級チーズケーキを注文した。
「あ、でも食べ物はほどほどにしとかないとね。夜ご飯食べられなくなっちゃうし」
「あ、そうだね」
「それでさ、朱美ちゃん、よかったらでいいんだけど、ディナーも付き合ってくれない? もう一個行きたいとこあって」
「うん、いいよ」
 このとき、良い予感と悪い予感が交互にした。今日の彼女の言動を見ていると、薄々察しが付く。
「やった! ありがと! じゃあ、さっきの食べ終わったら出よっか!」
「うん!」
 しかし私は、彼女の本能に勝てなかった。

「あの……」
「ん? どした?」
 何でもないような声で、彼女は訊き返す。
「こんなところ、本当に私、来てよかったの……?」
 気になったのは、悪い予感の方だった。
「もちろん! 言ったでしょ? 私が出すって。あ、でもそっか、朱美ちゃんが気にしてるの、そっちじゃないよね」
「え?」
「確かに私たち、ちょっと、浮いてるかもね」
「ううん! 私はそうだけど、美月ちゃんはピッタリっていうか、ホント、すごい似合ってる!」
「えー、そんなこと言ってもらうために、一緒に来てもらったんじゃないんだけどな」
 彼女のその言葉は、全く嫌味には聞こえない。
 相変わらず、本当にそういう意味で言っているように聞こえる。
「私、朱美ちゃんに楽しんでもらうために来てもらったのに、居心地悪いなら、ホントにごめんね?」
「ううん! 違うの! すごい楽しいし、雰囲気も最高だよ! ただ、」
「ただ?」
 確かに今、私たちがディナーをたしなんでいるこのお店は、誰がどう見ても高級店だ。周りはまさにの人ばかりで、身なりや年齢を含め、私たちは先ほど以上に浮いていた。
 ただ、それ以上に気になることが一つあった。それは──
「お金、本当に大丈夫なの?」
 それ以上でも、それ以下でもない。
「ああ、それね」
 さっきより、少しトーンが低くなったように聞こえた。
「そういえば、話してなかったよね。私実は、ちょっと変わったバイトやってるんだ」
 そう。私たちがさっきしたバイトの話は、「私の」バイトの話だけだった。
「まあでも、その話は後でにするよ。今はとりあえず、料理楽しも!」
「う、うん。そうだね」
 確かに、料理はとても美味しかった。ただでさえ夜ご飯一食ですらどのように節約しようか考える日々を送っている私にとって、今日みたいな日はまるでボーナス支給日である。
 でも、悪い予感はきっと、そんな動機が生んだ罪悪感ではない。
「すごいよ美月ちゃん! これ、本当に美味しい!」
「ふふっ、喜んでもらえてよかった。あ、実はそれね──」
 彼女は高級料理について、やけに詳しかった。私が必要以上に警戒していたマナーや作法も、やんわりと訂正して、なんとか空気に同化できるようはからってくれた。
「本当にいいの……?」
「うん! 今日はなんたって、朱美ちゃんと久しぶりに会えて、しかもこんなに付き合ってくれて、ホントに楽しかった! だから、そのお礼だよ!」
 何食わぬ顔で、その青さには似合わない万札を、何枚もスタッフに手渡している。その仕草も、どこか手馴れていた。
「付き合ってあげると、こんなにしてくれるもんなんだ……」
「ん? どうかした?」
「ああいや、なんでもない!」
 誰のことを連想したのかは、一目瞭然だろう。いくら「取材」でも、こんな店に来ることなど一生ないと断言できる。
「本当に、ご馳走ちそう様です」
「どういたしまして。また来ようね」
 スタッフの人にも一礼し、手を繋ぐように、二人並んで店を出た。
 夏の夜は涼しげな空気を適度に循環させており、無意識のうちに開放的な気分になる。そんな風情ふぜいに任せて、彼女に訊きたいことを訊いてみようかと思ったが、一旦様子を見た。
「朱美ちゃん、私のバイトのこと、やっぱり気になる?」
 珍しく、勘がえ渡る。ただ、私の内面をくすぐろうとしていることは、想定外だった。
「う、うん。でも、嫌だったら話さなくても──」
「話すよ。だって、朱美ちゃんだから」
 彼女はそう言って立ち止まった。
 夜に従い、人の往来が減ってきた高架の歩道は、私たちの存在を邪魔にはしない。
「私ね、実は、あるアプリに登録してるの」
「アプリ?」
「うん。まあ、マッチングアプリみたいなやつなんだけど」
 聞き覚えがある。まだ全く独りのときの、尊さんや奏さんと出会う前の、入学式の日を思い出す。結局、式には行かなかったあの日だ。
「それでね、男の人とマッチングすると、お金貰えるんだ。それも、結構な額」
「お金……」
「その後は、ご飯行ったり、動物園とか遊園地行ったり、この時期だと、海とかプールとかも多いかな。行くとこによって額は変わるんだけど、海とかプールは結構すごい」
「そう、なんだ」
「この服もね、そういうときのために買ったんだ。こういう格好すると、だいたい男の人は喜んで、設定以上に出してくれたりもするし」
 訊いてはならない、絶対に。訊いてしまえば、彼女を傷つけてしまうかもしれない。
 だがその言葉が、滝のように喉に押し寄せてきている。
「もしかして、援助交際、ってやつ……?」
「……」
 やはり、彼女を黙らせてしまった。だが、後悔してももう遅い。ここにいる彼女は、入学式の日の彼女たちとは違うと、心の中では思っている。思っている、つもりなのだ。
「世間の人は、そう、言うのかもしれない」
 私に背中を向けながら、手すりにもたれかかる。その背中は、明らかに震えていた。
「でも、は絶対行かせないし、一応今までは、デートだけでほとんどの人が納得してくれてる」
 背中の震えが、だんだん強くなる。声も少しずつ大きくなる。
 それに対して、私は、ほとんどフリーズしていた。
「今、私、すごく充実してる。お金もたくさん持ってるし、楽しい体験もたくさんさせてもらって、こんな街にも、似合う人間になってきてる。だから──」
 彼女は力強く、こちらを振り向いた。
「私、間違ってないよね!?」
「間違ってるぞ」
 私ではない、聞き覚えのある早口気味の声が、突然、私の背後から現れた。
しおりを挟む

処理中です...