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第一章 失恋・左遷・コールセンター
1.必要のない存在
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「ごめん、もうお前と続けてく気になれない」
優佑の言葉に、直は沈黙を返すしかなかった。
なにを口にしても、嘘になりそうで。
確かに、そんな予感はあった。
休日に連絡がつきづらいとか、疲れていると言って電話を早々に切られてしまうとか。
そんな日が続いた後に、こんな夜更けに呼び出されたのだ。
今夜、決定的なことを言われるだろうと、それくらいはわかっていた。
心の奥底では、なにか事情があっただけで、これからまたやり直せるかもしれないと期待する気持ちもあったけど。
最初から優佑とは不釣り合いだった。
派手好きで自尊心が高く、でも、言っただけのことはやる人。会社でもやり手だと評判だったし、付き合ってみてもその印象は変わらなかった。
だから、なぜ自分なんかを好きになったのだろう、と思うことはあった。それでも、恋人になったからにはずっと好きでいて貰えるよう頑張ろうと思っていたのに。
長い沈黙の後に、直は胸に詰まった憂鬱の圧力を逃そうと、小さな息を吐いた。
「あの……いまさらかもしれないけど、私のなにがいけなかったのか、教えてほしいな」
確認してもどうしようもないけれど、尋ねずにはいられなかった。
なんにも聞かずにさよならするには、一年間の交際期間は長すぎる。
ちょうど一年前の春だ。
新入社員が入った直後の歓迎会、ようやく社会人二年目に突入した直を送っていくと言い出したのは、直属の上司である優佑の方だった。
その帰り道で、優佑の方から直に告白してきた。
断られるなんてこれっぽっちも思ってないような、堂々とした態度で。
肩で切りそろえた直の髪を、骨ばった男の指でかきあげながら。
頑張り屋で一生懸命で、思いやりに溢れてる……そんな直のぜんぶが好きだと。
今、あの時と全く変わらず、優佑は自信に満ち溢れている。
だけど、直に対する態度は百八十度変わってしまった。
優佑は視線を逸らし、吐き捨てるように呟く。
「聞いたよ。お前の親、離婚してるんだって? 付き合うだけならまだしも、結婚考えるならそんな相手、無理だろ」
直のぜんぶが好きだと口にした男は、もうどこにもいなかった。
●〇●〇●〇●〇●
プライベートのうまくいってない日には、仕事だってやる気は起こらない。
起こらなくても、仕事はせねばならない。お金がなければ生きてはいけないのだ。
それに……振られたことが、会社を休むほどショックだったなんて、優佑には絶対に思われたくなかった。
一日布団の中で前夜のことを思い返すよりは、なにかしていた方が気が紛れるというのもあったが。
空虚な心を抱え、直はパソコンに向かう。
昼間のオフィスは、雑音でいっぱいだった。
同僚の電話の声、キーボードをたたく音。壁の向こうの車のエンジン音。
誰も直の心には無頓着で、気にされないことは、むしろありがたい。醜い今の自分の気持ちなんて、誰にも知られたくはない。
半分機械的に手を動かしていた直の背中に、軽い振動が伝わった。
誰かが、椅子の背を軽く叩いたらしい。
「煙咲さん、聞いてる? ちょっと話があるんだ」
「わっ……えっ、瀬央部長代理?」
振り返った直の顔を覗き込んでいたのは、営業二部の部長代理、瀬央仁誉だった。
元彼である優佑――社内的には、佐志波部長――と瀬央部長代理は同期に当たる。
二十八歳、若手の中でも出世の早い二人と評判だ。
押しの一手で売り通す佐志波と、お客様に寄り添ってファンを増やす瀬央。
やり方は真逆だが、売り上げ社内競争のツートップだ。
営業一部を率いる優佑と、瀬央が部長代理を務める営業二部。
この若さで管理職に就いているのもあって、社内の女性人気も二分していたりする。顔がいいのももちろん、大きな要因だが。
同期同士の絆というよりは、好敵手と言っていいだろう。
いや、むしろ立場が似すぎて、同じ椅子を争う敵同士と言うべきか。
二人は仲が悪く、会議の場以外ではほとんど会話をしないという噂も立つほどだ。
もちろん、直はその噂が本当であることも知っている。
瀬央の話が出るたびに、優佑は苛立ちを隠さず直に当たる。だから、プライベートでは一切名前を出さないように気を付けていたのだ。
そんな人が直に話しかけてきている状況は、不可解だった。
優佑と付き合っていたことは知らなくとも、優佑の部下であることは瀬央だって知っているはず。
自部署ではなく、わざわざ隣の部署の部下に、瀬央が声をかける理由がわからない。
「あ、あの……なんのご用で?」
「ここじゃ話せない。ミーティングスペースへ行こう」
ますます普通じゃない話になってきた。
優佑に了解を得るべきだろうかと、デスクの方をちらりと見る。その視線で、瀬央は直の意図に気付いたらしい。
「佐志波には先に伝えてある。問題ないよ」
「……そう、ですか」
不可解ではあるけれど、優佑と会話しなくて済むのはありがたいかもしれない。
しかも、間違いなく優佑が不愉快になる報告だ。口にしたくない。
「わかりました、すぐいきます」
先にミーティングスペースに向かった瀬央の後を、筆記用具を持って直は追いかけた。
薄く開いた窓も、半分開いたままのパーティションの入り口も、男女が二人きりになることに気遣ってだろう。瀬央はそういう点に気の回る男だ。
細身のスラックスに、柔らかそうなグレイのカーディガンを羽織った瀬央が、くせっけ気味の髪を春風になびかせながら、どうぞと直に椅子を勧めた。
テーブルに自販機のコーヒーが並んでいるのは、どうやら気をまわした瀬央の奢りらしい。
直が着座した後、瀬央はしばし躊躇ってから口を開いた。
「まあ、コーヒーでも飲みながら、落ち着いて聞いてほしい――いや、見てほしいんだけれど」
「……? はい」
目の前の紙コップに手を伸ばしつつ、直は頷いた。
瀬央はそんな直をじっと見つめ、そして手元の書類ファイルから一枚の紙を取り出した。
『辞令 煙咲直 四月一日をもって、営業二部より、お客様サポートコールセンターへの異動を命ずる』
A4判の紙に、簡素な文章で記されている。
直はその紙をじっと見ながら、今日の日付を思い出そうとしていた――四月一日。
「……あの、瀬央部長代理」
「なんだい?」
「これが正式な辞令として……今日から私が異動になるとして……その、お尋ねしたいことが二つほどあるのですが……」
「僕から言おうか?」
苦笑を浮かべた瀬央が、人差し指を立てて答えた。
「一つ、なぜ上司の佐志波ではなく、僕が君に話すことになったか。答えは簡単、新しい部署の上司が僕だからだよ」
「それは、あの――瀬央部長代理も異動になったってことですか?」
「その通り。まあ、異動と共に昇進したから、今日からは代理でなく、ただの部長になるけれど」
「それはおめでとうございます」
「……めでたいかどうかは、もう一つの問題を片付けてから判断してくれればいいよ」
瀬央は、皮肉げに唇を歪め、立てていた人差し指に中指を足した。
「二つ目、お客様サポートコールセンターとはどんな部署か」
「どんな部署、というか……そんな部署ありましたっけ?」
「ないね」
あっさりと認めた瀬央は、手元のコーヒーを引き寄せ、一息に煽った。
放り投げた紙カップが、見事ゴミ箱にゴールするのを見届けてから、今度はお客様向けの爽やかな笑顔で直に向き直る。
「お客様サポートコールセンターは、四月一日をもって新設された部署だ。所属するのは僕と君――はは、申し訳ない。僕の左遷に君を付き合わせる格好になってしまった」
「左遷……? あの、昇進、なのでは」
「できたばっかりの、管理職含めて人員が二人だけの部署なんて、普通は左遷って呼ぶものだよね」
いたずらっぽい顔でウィンクされたが、直にはもう、そんな瀬央の表情は見えてはいなかった。
左遷――思い当たる原因なんて、ただ一つしかない。
つまり、直は優佑から、「お前は必要ない」と、公私ともに判断された、ということだった。
優佑の言葉に、直は沈黙を返すしかなかった。
なにを口にしても、嘘になりそうで。
確かに、そんな予感はあった。
休日に連絡がつきづらいとか、疲れていると言って電話を早々に切られてしまうとか。
そんな日が続いた後に、こんな夜更けに呼び出されたのだ。
今夜、決定的なことを言われるだろうと、それくらいはわかっていた。
心の奥底では、なにか事情があっただけで、これからまたやり直せるかもしれないと期待する気持ちもあったけど。
最初から優佑とは不釣り合いだった。
派手好きで自尊心が高く、でも、言っただけのことはやる人。会社でもやり手だと評判だったし、付き合ってみてもその印象は変わらなかった。
だから、なぜ自分なんかを好きになったのだろう、と思うことはあった。それでも、恋人になったからにはずっと好きでいて貰えるよう頑張ろうと思っていたのに。
長い沈黙の後に、直は胸に詰まった憂鬱の圧力を逃そうと、小さな息を吐いた。
「あの……いまさらかもしれないけど、私のなにがいけなかったのか、教えてほしいな」
確認してもどうしようもないけれど、尋ねずにはいられなかった。
なんにも聞かずにさよならするには、一年間の交際期間は長すぎる。
ちょうど一年前の春だ。
新入社員が入った直後の歓迎会、ようやく社会人二年目に突入した直を送っていくと言い出したのは、直属の上司である優佑の方だった。
その帰り道で、優佑の方から直に告白してきた。
断られるなんてこれっぽっちも思ってないような、堂々とした態度で。
肩で切りそろえた直の髪を、骨ばった男の指でかきあげながら。
頑張り屋で一生懸命で、思いやりに溢れてる……そんな直のぜんぶが好きだと。
今、あの時と全く変わらず、優佑は自信に満ち溢れている。
だけど、直に対する態度は百八十度変わってしまった。
優佑は視線を逸らし、吐き捨てるように呟く。
「聞いたよ。お前の親、離婚してるんだって? 付き合うだけならまだしも、結婚考えるならそんな相手、無理だろ」
直のぜんぶが好きだと口にした男は、もうどこにもいなかった。
●〇●〇●〇●〇●
プライベートのうまくいってない日には、仕事だってやる気は起こらない。
起こらなくても、仕事はせねばならない。お金がなければ生きてはいけないのだ。
それに……振られたことが、会社を休むほどショックだったなんて、優佑には絶対に思われたくなかった。
一日布団の中で前夜のことを思い返すよりは、なにかしていた方が気が紛れるというのもあったが。
空虚な心を抱え、直はパソコンに向かう。
昼間のオフィスは、雑音でいっぱいだった。
同僚の電話の声、キーボードをたたく音。壁の向こうの車のエンジン音。
誰も直の心には無頓着で、気にされないことは、むしろありがたい。醜い今の自分の気持ちなんて、誰にも知られたくはない。
半分機械的に手を動かしていた直の背中に、軽い振動が伝わった。
誰かが、椅子の背を軽く叩いたらしい。
「煙咲さん、聞いてる? ちょっと話があるんだ」
「わっ……えっ、瀬央部長代理?」
振り返った直の顔を覗き込んでいたのは、営業二部の部長代理、瀬央仁誉だった。
元彼である優佑――社内的には、佐志波部長――と瀬央部長代理は同期に当たる。
二十八歳、若手の中でも出世の早い二人と評判だ。
押しの一手で売り通す佐志波と、お客様に寄り添ってファンを増やす瀬央。
やり方は真逆だが、売り上げ社内競争のツートップだ。
営業一部を率いる優佑と、瀬央が部長代理を務める営業二部。
この若さで管理職に就いているのもあって、社内の女性人気も二分していたりする。顔がいいのももちろん、大きな要因だが。
同期同士の絆というよりは、好敵手と言っていいだろう。
いや、むしろ立場が似すぎて、同じ椅子を争う敵同士と言うべきか。
二人は仲が悪く、会議の場以外ではほとんど会話をしないという噂も立つほどだ。
もちろん、直はその噂が本当であることも知っている。
瀬央の話が出るたびに、優佑は苛立ちを隠さず直に当たる。だから、プライベートでは一切名前を出さないように気を付けていたのだ。
そんな人が直に話しかけてきている状況は、不可解だった。
優佑と付き合っていたことは知らなくとも、優佑の部下であることは瀬央だって知っているはず。
自部署ではなく、わざわざ隣の部署の部下に、瀬央が声をかける理由がわからない。
「あ、あの……なんのご用で?」
「ここじゃ話せない。ミーティングスペースへ行こう」
ますます普通じゃない話になってきた。
優佑に了解を得るべきだろうかと、デスクの方をちらりと見る。その視線で、瀬央は直の意図に気付いたらしい。
「佐志波には先に伝えてある。問題ないよ」
「……そう、ですか」
不可解ではあるけれど、優佑と会話しなくて済むのはありがたいかもしれない。
しかも、間違いなく優佑が不愉快になる報告だ。口にしたくない。
「わかりました、すぐいきます」
先にミーティングスペースに向かった瀬央の後を、筆記用具を持って直は追いかけた。
薄く開いた窓も、半分開いたままのパーティションの入り口も、男女が二人きりになることに気遣ってだろう。瀬央はそういう点に気の回る男だ。
細身のスラックスに、柔らかそうなグレイのカーディガンを羽織った瀬央が、くせっけ気味の髪を春風になびかせながら、どうぞと直に椅子を勧めた。
テーブルに自販機のコーヒーが並んでいるのは、どうやら気をまわした瀬央の奢りらしい。
直が着座した後、瀬央はしばし躊躇ってから口を開いた。
「まあ、コーヒーでも飲みながら、落ち着いて聞いてほしい――いや、見てほしいんだけれど」
「……? はい」
目の前の紙コップに手を伸ばしつつ、直は頷いた。
瀬央はそんな直をじっと見つめ、そして手元の書類ファイルから一枚の紙を取り出した。
『辞令 煙咲直 四月一日をもって、営業二部より、お客様サポートコールセンターへの異動を命ずる』
A4判の紙に、簡素な文章で記されている。
直はその紙をじっと見ながら、今日の日付を思い出そうとしていた――四月一日。
「……あの、瀬央部長代理」
「なんだい?」
「これが正式な辞令として……今日から私が異動になるとして……その、お尋ねしたいことが二つほどあるのですが……」
「僕から言おうか?」
苦笑を浮かべた瀬央が、人差し指を立てて答えた。
「一つ、なぜ上司の佐志波ではなく、僕が君に話すことになったか。答えは簡単、新しい部署の上司が僕だからだよ」
「それは、あの――瀬央部長代理も異動になったってことですか?」
「その通り。まあ、異動と共に昇進したから、今日からは代理でなく、ただの部長になるけれど」
「それはおめでとうございます」
「……めでたいかどうかは、もう一つの問題を片付けてから判断してくれればいいよ」
瀬央は、皮肉げに唇を歪め、立てていた人差し指に中指を足した。
「二つ目、お客様サポートコールセンターとはどんな部署か」
「どんな部署、というか……そんな部署ありましたっけ?」
「ないね」
あっさりと認めた瀬央は、手元のコーヒーを引き寄せ、一息に煽った。
放り投げた紙カップが、見事ゴミ箱にゴールするのを見届けてから、今度はお客様向けの爽やかな笑顔で直に向き直る。
「お客様サポートコールセンターは、四月一日をもって新設された部署だ。所属するのは僕と君――はは、申し訳ない。僕の左遷に君を付き合わせる格好になってしまった」
「左遷……? あの、昇進、なのでは」
「できたばっかりの、管理職含めて人員が二人だけの部署なんて、普通は左遷って呼ぶものだよね」
いたずらっぽい顔でウィンクされたが、直にはもう、そんな瀬央の表情は見えてはいなかった。
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