ロストラヴァーズ2コール

狼子 由

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第四章 恋愛・友情・私の仕事

2.母親の存在

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 タイトロープでなんとか仕事をこなしているときの、母親の一言ほど、やる気を失せさせるものはない。

「ねえ、なお。あんた、まだ結婚しないの?」

 休日にせんべいをかじりながら、なんの期待もしない風に尋ねられた。
 今週は、クレームから始まって、突貫工事でコールセンターシステムの導入を検討し、いくつかの業者の相見積もりを取り……と、瀬央せおばかりでなく直も慌ただしく、ぐったりしていたところだ。

 そこにきての、母親の有希子ゆきこが出した話題は、まさに直が今まったく考えたくない話題であった。
 家族の中では時々、こういうことが起きる。
 触れられたくない話題を、なぜかピンポイントで射ぬいてくる。
 多分、普段の親愛と、慣れた親しみがそうさせるのだろう。
 ある程度想像はつきつつも、けしていい気分ではない。

「……お母さんに関係ないでしょ」
「関係なくはないでしょ。あんたいつまでうちにいるつもりよ。そろそろ独り立ちかなってずっと楽しみにしてるのにさ。あんたがいなくなったら部屋も広く使えるし」

 嘘ではないが、本当ばかりでもないと、普段の直ならわかっていた。
 直が家を出たら寂しいに違いない。その不安があるから、こうした軽口も叩くのだ。

 だが、直の頭がそこに追いつく前に、有希子の方が決定的な弱点を抉ってきた。

「最近あれ、ほら……優佑ゆうすけさんとはどうなってんの? 前はデートだなんだって嬉しそうに出かけてたじゃない」

 最も触れられたくない話題である。
 どん、と直はちゃぶ台を叩いた。

「どうでもいいでしょ、私が誰と付き合ってるとか、別れたとか」
「どうでもよくないってば。あんたが家を出る前に色々準備とかあって……」
「それよりも、お母さんの方こそ、最近デートとか行ってないんじゃない? 前は夜もちょくちょく出かけてたのに」

 結局、直の方も弱点を突かざるを得ない。
 こうなれば、有希子も声を荒げてくる。

「母親の恋愛に口を出すのはやめなさい」
「じゃあ、娘の恋愛には口を出していいわけ?」
「あんたがいつまでも家にいてぐーたらしてるのが悪いんでしょ」
「誰がぐーたらしてるって言うの? 私、ちゃんと働いてるのに!」

 売り言葉に買い言葉だ。
 互いに引けなくなって、泥仕合が始まった。


●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●


「……それで、今日のお弁当は自分で作ったんだ」

 苦笑する瀬央せおに、直はこくんと頷いて見せた。

 白米と梅干だけの、まごうことなき日の丸弁当である。
 いつもは有希子が自分の弁当を作りがてら、直の分も作ってくれるのだが、今日に限っては用意されていなかった。
 料理ができない訳ではないが、やはり朝の弁当づくりは手際が命だ。
 なにを作るか数日前からゆっくりレシピを確認する直には、突然言い渡されてぱっと弁当を詰めていくのは難しい。
 菓子パンを買うか外食するか迷った結果、お財布事情と相談の上、炊飯器に残ったご飯を詰めただけの弁当になったのだった。

「まあ、親はそういうの気にするよね、どうしても」

 瀬央の方は、通勤途中の弁当屋で購入した昼食を片付けたところである。
 直の分もコーヒーを買って帰ってきたときに、日の丸弁当を見られた気がして、直の方から話題を出したのだ。

「瀬央さんのおうちもそんな感じですか?」
「僕は実家を出てるから、煙咲たばさきさんみたいに毎日顔を合わせる訳じゃないけどね。ただ、心配性なのは同じだ。母子家庭だし」
「えっ……瀬央さんのところもそうなんですか?」
「あれ、煙咲さんもか」
「はい、最初からその……シングルマザーで」
「奇遇だね、うちもだ」

 思わぬ一致に、直は目を丸くした。

「えっ、そうなん……ですか?」
「そうなんだ。……ああ、それでわかった。佐志波さしばと別れたのはそれが原因なのかな。あいつ、『普通じゃない』家庭に妙に手厳しいから」
「そうなんですか?」

 優佑ゆうすけが直と別れたのは、専務の娘との見合い話が持ち上がったからだと思っていた。
 が、本人が言っていた通り、直に両親が揃っていないから、ということなのだろうか。

「うーん、だからと言って、私のことをちゃんと見てないというのは変わらないですし。そもそも、『普通じゃない』家庭に、なんの恨みが」
「まあ、僕らが自分で選べることでもないしね。両親が揃ってるかどうかなんて。ただ、えっと……そうだな。昔、まだ僕らが新入社員だった頃に、同期みんなで佐志波の家に遊びに行った時のことだけど」
「えっ?」

 驚いたのは、瀬尾も優佑も、直が入社した時にはもう管理職で、新入社員の頃なんてものが想像できなかったから。
 もう一つ、優佑の家に瀬尾が遊びに行くなんて、他にも同期がいたとは言え、そんな風に仲良くしていた頃があったということだ。

「彼のお母さん、かなりキツい性格の人でね。同期一人ひとりに面接みたいに、住んでる場所と両親と学歴を確認してって」
「ひぇ。私、そう言えば会ったことないです……」
「会ってたら、もっと早く僕と同じ運命だったと思うよ。同期の中で、父親のいない僕がまず追い出されたから」

 笑っているが、直からするとかなりつらい体験に思えた。
 同期たちの中で、ただ一人「この家には入れません」なんて言われたら……想像するだにつらい。

「それ以来じゃないかな、佐志波が僕をひどくライバル視するようになったの」
「じゃあ、お母さんの影響……?」
「大きいんだろうね。マザコンなんて言ってしまうとちょっと乱暴だけど」

 どう呼ぶかは問題ではない。
 直にとっては、母親の言葉一つで恋人を替えるような男――という点は変わらない。
 理由があろうが、少し見直そうが、優佑は、既に別れた過去の恋人であるのは違いない。

「私、別に今の話で優佑のことやっぱり好き、なんてなったりしないですよ」
「うん、いいんじゃないかな」
「ただ……ただですね。少しだけ同情するなら、偏見の強い母親のもとに生まれたという点は、彼自身ではどうにもならない点なので」

 瀬央や直が、父親のいる家庭に生まれなかったのと同じように。
 無言の含みは、瀬央にはしっかりと伝わっていたらしい。
 小さく頷く瀬央を見ながら、直はポツリと言葉をつづけた。

「……どうにもならない点なので、少しだけ同情はしてます」
「いいんじゃない? 仕事に好悪の感情持ち込むと面倒だからね。好きにも嫌いにもならないのが一番だ」
「好悪……ってことは、好き、の方もダメですか?」
「あ、いや。別に僕はひとの恋愛とか友愛にあれこれ言うつもりはないけど。僕自身はあんまり気が進まないなぁ。だって、好きってのは嫌いの逆で……まあ、振れ幅が大きいほどつらくなるんだ、何事もね」

 確かに、瀬央はあまり人の好き嫌いがない。誰とでも気さくに話し、そして誰も一定以上近づかない。
 笑い混じりの瀬央に、なんとか頷き返しはしたけれど、直が少しだけ寂しいと感じたのは事実だった。
 恋愛ではないにしろ憧れに近い好意を、もう以前から瀬央には抱いていたから。

 別に、瀬央と付き合いたい訳じゃない。
 ただいつか、一緒に働く仲間として、お互いに信頼できるような絆が作れればいい。
 これからコールセンターでずっと長く働いていれば、そんな日も来るだろうかと、直は続く言葉を飲み込んだのだった。


 だから、その翌日、壁に貼りだされた辞令を見て、直は心臓が掴まれたように立ち止まった。

『辞令 瀬央せお仁誉きみたか 五月一日をもって、お客様サポートコールセンターより、営業一部への異動を命ずる』
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