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第三章~④
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「亡くなった人物が罪を犯していた点を問題視するだけならいざ知らず、その身内が有名人だったからといって攻撃するのは如何なものか。しかも今回は、作家自身に問題があった訳でもない。それどころか彼女は実の弟を失った遺族だ。それに他人名義を使っていたなんて知らなかったらしいじゃないか。それならある意味、被害者だと言ってもいい。しかも彼女は全く事情を把握していない状況で、偶然事件についてコメントさせられただけだ。その内容をバッシングするなど的外れも甚だしい。その上芥山賞を受賞したのは間違いだったと書き立てる、おかしな輩まで出てきた。それは私達選考委員まで侮辱するものだ。言語道断で看過できない」
彼は昨今の、有名人にまつわるマスコミのスキャンダルの扱い方にも言及し、とりたてネットニュースのレベルの低下が激しいと非難した。その点については同意する人々も多かった為、賛同コメントが殺到したのである。
しかしその一方で否定する意見も散見された。何故なら彼は、芥山賞の選考で藤子の作品を高評価していたからだ。見栄えの良い新人作家を擁護する発言の裏に、個人的な意図があるのではと邪推されたらしい。
こういう下衆な意見は必ずといっていいほど出る。またそれがある一定数の支持者を刺激し、ありもしない話題で盛り上がるのだ。藤子はA氏と二月に行われた受賞式の際に初めて会い、その時も簡単な挨拶を交わした程度だ。特別に褒められた訳でもなく、これからが大変だよと脅されたくらいだった。
しかしそのレベルの批判なら、A氏が黙殺していればいずれ収まっただろう。だがそこへ火に油を注いだ人物がいた。同じ芥山賞選考委員の一人、大物女性作家B氏だ。彼女はA氏とは違い、選考会で藤子の作品を貶して他の作家を推していた。もちろんその他の選考委員の中でも、多少評価は分かれたと聞いている。
その件は、選考過程について説明した委員の総括の中でも触れられていた。その後出されたそれぞれの講評を読めば、誰が作品から何を読み取りどう捉えたかは明らかだった。 そうした結果を踏まえ、最終的には“伝えたい”を評価する声が多かった為、藤子は受賞出来たのである。
ただ実際の選考会での議論は相当揉めたようだ。その火種となったのがA氏とB氏の対立だったという。同席していた主催者である出版社の編集者によれば、作品の内容の評価云々で食い違いが生じていたのは、表向きの理由だったらしい。今回に限らず選考会では毎回といって言い程、A氏とB氏とでは真逆の意見を出していたようだ。その度にどちらの味方が多いか、競い合う傾向にあったと後に知った。
その根本は十数年前に遡る。二人の作品がある別の大きな賞の候補に上ったが、その際A氏が受賞した。だが話はそれで終わらない。その時の選考委員の一人が、作品内容よりその女性作家を認めていないから選ばなかったと公言したのだ。しかもその作家は、A氏を若い頃から可愛がっていたのである。
業界人なら誰もが知る事実だった為、B氏は余計に悔しがったという。問題の大物作家は既に他界してしまったが、その後もA氏とB氏は犬猿の仲で有名となり今に至るのだ。
そうした事情に加え、B氏は同じ女性作家として作品の内容ではなく、容姿や生い立ち等で大衆の目を引き売り出そうとする出版業界やマスコミ等の対応に、日頃から痛烈な批判を繰り返していた。
その為“伝えたい”は推せないと強く主張したのだろう。まだ候補に挙がる前は顔写真をなるべく出さないよう交渉していた藤子からすれば、B氏の意見には強く賛同していた。
しかし候補作が公表されてから、藤子が顔出しし始めたことが彼女の琴線に触れたらしい。その上出版社が年齢と容姿のギャップに加え、関心を引く経歴を前面に出す戦略を練っているとの噂を耳にし、激怒したという。
そこにA氏が藤子の作品を推した。だからこそ藤子自身を含め、作品自体を相当罵倒したと思われる。また事件についても異例のコメントを出したのだ。
「A氏が新人作家を擁護する見解は、一見すると正論に思える。だが実態は違う。厳しい出版不況の中、さらに窮地に追い込まれている純文学作品を少しでも売りたい出版社の思惑を、単に援護しているに過ぎない。作品の中身ではなく、様々な付加価値を付け世間の注目を浴び、興味を持つよう仕向け販売部数を伸ばしたいだけだ。選考会でもその思惑に同意した作家達の数が多かった。そうした安易な決断が今回の騒ぎに発展したのである」
芥山賞の選考自体に問題があったと認めるかのような内容に、出版業界自体が慌てだした。とはいっても相手は出せば必ず売れる大御所同士だ。下手な対応はできない。
マスコミはこれに飛びついた。二人の争いと出版業界の裏事情を扱う方が、新人作家を叩くより余程世間の関心は高い。その為藤子を追いかけていた記者達は波が引いたようにいなくなり、A氏達や主催する出版社の周辺に張り付き始めたのだ。
他にもパンデミックやそれ以前に行われた政治家による、特定業者との癒着が明らかになった事件についても進展があった。重い腰をようやく上げた検察等が起訴に踏み切り、不適正な税金の使用実態の告訴を受けた裁判が始まったことで、芋づる式に問題が発覚。新たな捜査も並行して行われるなど、政局にも大きな動きが起こり始めていたのである。
さらには伊豆半島沖で深海魚専門の漁をしていた漁船の網から、白骨死体の一部が発見。骨の損傷具合から殺されたものらしいと分かり、殺人事件として被害者の身元の特定を始めたというニュースも流され、大騒ぎになっていたのだ。
おかげで注目が逸れた藤子は自由に外出しやすくなり、マスクさえ嵌めていれば誰にも気づかれず済むようになった。新型感染症の拡大につてはやや落ち着いたけれどまだ油断できず、また時期的に花粉症が飛び交う季節だった点も幸いした。そうした背景も手伝い藤子はホテルを出て、和香と共に雄太の関係者を直接訪ねる行動が取れるようになったのだ。
最初に当たったのは、以前受け取った報告書にも掲載されている雄太の上司だった柳瀬という管理職だ。当然ながら、警察は彼にも事情聴取していたという。藤子が自己紹介し話を聞きに来たと説明したところ、彼は同情してくれたらしく饒舌に話し始めた。
「最初は最近渡部君に変わった様子はなかったかと質問されていたのに、途中からホソイとかいう別人だと知らされて驚いたよ。単なる事故かと思っていた所に殺されたんじゃないかと疑っていたみたいだけど、結局は事故だったからホッとしたさ。いやお身内の前でそう言うのは申し訳ないけどね」
「いえ、私も理解できますのでお構いなく。ただ当初は自殺の線も探っていたようですが」
藤子が尋ねると、彼は深く頷いた。
「そうそう。確かに他の同僚達も言っていたけど、普段より少し元気が無かったようには見えたからね。でもそこまで何か悩んでいるなんて、誰も想像していなかったと思うよ。だけど自殺なんてそんなものかもしれない。その前に分かっていたら止められただろうし」
「柳瀬さんも、弟は元気が無かったと思われましたか」
「警察にも言ったけど、どちらかといえばそうかもしれないという程度だったよ」
「仕事上で何か問題を起こしたりはしていませんでしたか」
「それはない。ただ彼が別名義を使っていた点は問題になって、あの後社内監査が入ったんだよ。そこで社内の機密情報の一部が漏洩した可能性があると大騒ぎになったから、もしかすると渡部君じゃないかって疑われたのさ。でも詳細は言えないが、アクセス履歴や持ち出した形跡も彼には無かった。あっ、これは絶対口外しないでね」
初めて耳にした話題だ。警察には既に被害届けを出し、極秘で捜査をしているという。個人情報などでは無くあくまで疑惑の段階の為、マスコミにはまだ公表しないようだ。
「弟は関わっていなかったのですね」
念を押すと、彼は苦笑いをした。
「これは警察も、身内の方には話していないようだね。別名義というか、本名で登録されていた家も徹底的に捜査したと聞いている。だから彼は関係ないと判断されたんだ」
「そうでしたか」
そうした説明は受けていなかった。しかし遺族感情を考慮し、わざわざ告げる必要が無いと警察が判断したとも考えられる。ただ会社から機密情報が盗まれていたとしたら、それを知った雄太が口を封じられた可能性はないかと考えた。それが和香のいう香港の民主化運動と絡んでいたとすれば、殺されたという線が急浮上する。
その点を尋ねると、彼は首を振った。
「それはないでしょう。警察も事故だと判断したじゃない。見ていた人もいるんだよね。それに機密情報なのは間違いないけど、人の命を奪うほど重大な問題ではないと思うよ」
「そうなんですか」
「情報の中身は説明できないけど、罰則規定から考えても殺人は割に合わないよ。不正競争防止法だと、個人では十年以下の懲役または二千万円以下の罰金刑だ。それに刑事罰を科されるケースは余りなく、大体は賠償で済む。また個人というより、不正に入手した会社が払う場合も多いしね」
そこで和香が口を挟んだ。
「それが例えば、外国の産業スパイによるものだとすればどうですか」
再び彼は苦笑いした。
「スパイ映画だと殺し合いに発展する場合もあるだろうけど、現実では考えにくいね。あるとすれば、個人的な恨みとか揉め事があった場合じゃないかな」
雄太の死んだ現場が別の場所だったらあり得る。ただ彼は自分が住むマンションの屋上から落ちたのだ。そうした人物と揉めていたのなら、気付かれないはずがない。それに命を狙われると分かっていたら警戒するはずだ。屋上なんて危険な所へは行かないだろう。
「でも個人的に揉めていたとしたら考えられる訳ですよね。例えばですが、彼が政治的な話をしていたことはありますか。例えば香港の民主化運動だとか」
彼女は諦めずに食い付いていたが、軽くいなされた。
「少なくとも私は聞いた覚えがないね。それにプライベートでそういう話をして揉めていたとしても、警察が事故だと判断したんだ。考え過ぎじゃないかな」
ここでも警察や目撃者の壁が立ちはだかる。その判断が疑わしいと思うから彼女は調べているのだ。といってそう説明する訳にもいかない。その為藤子は質問を変えてみた。
「弟は会社の人達と上手くやっていたのでしょうか」
「人間関係は悪くなかったよ。それ程目立たなかったけど真面目にやっていたし、人から恨みを買うタイプでもなかったからね」
「誰か親しくしていた人はいませんでしたか」
「警察にも同じ質問をされたけど、良く知らないんだよ。ここに勤めてまだ一年程度だし。誰とでも上手くやっていた分、特別親しい人がいたという話は聞かないよ。他の同僚達もそう答えていたらしいから」
「柳瀬さんが働いていた部署だと、人の出入りは激しかったのですか。弟は数年ごとに会社を移っていたようなので、こちらでもそういう方はいらっしゃいましたか」
「長い人もいるけど、確かに入れ替わりは激しい方かもね。仕事が出来ればキャリアアップの為に会社を渡り歩けるから。確かに彼もその一人だったな」
「他にも同じような人はいたのですね」
「ああ。結構いるよ。彼がいなくなってから入って来たのもいれば辞めた奴もいる。ここ最近でも数人は入れ替わったんじゃないかな」
「そんなにいるんですか」
彼は苦々しい表情で言った。
「これは弟さんのせいではないけど、警察が入れ代わり立ち代わり来て騒がしかったからね。それに情報漏洩の件もあって疑われた人もいるから、居心地が悪くなった点は影響していると思うよ。最近ようやく落ち着いたんだけど」
すると和香が再び横から口を出した。
「辞めた人達の中で、情報流出に関わった人はいますか」
雄太の死や過去と関係がない質問をされ、藤子は苛立つ。しかし彼の顔が一瞬強張った為、的を射たのだと感じた。
「そちらの話は詳しく話せません。それに渡部君とは関係がないと言ったじゃないですか」
その反応から産業スパイだと疑われている人物が、会社を辞めているのは間違いないようだ。そこで彼女はさらに続けた。
「雄太さんが亡くなった後に退職した人物の中で、比較的彼と交流があった人は誰ですか。情報流出とは関係が無くても、彼の死についてまたは彼がどういう生活をしていたのかなど、何か知っている方がいるかもしれません。教えて頂けますか」
確かにそうだ。リサーチ社の調査では、主に現在も在籍している社員達が中心だった。よって報告書から漏れた可能性は否めない。彼女の鋭い指摘に、それまで抱いていた疑念が消し跳ぶほど感心した。
藤子も頭を下げ、懇願した。
「お願いします。個人情報だということは重々承知していますが、心当たりがある人の名前だけでも教えて下さい」
「申し訳ないが、先程も言ったけど良く知らないんだよ。誰と誰が親しかったなんて余り気にしてないからさ。これ以上話せることはないから帰ってくれないか」
彼の言葉が全て本当かどうかは疑わしいが、退職した人達に触れて欲しくないのは間違いなさそうだ。協力的だった態度が急に変わった。それでも食い下がった。
「ではもう一つだけ教えてください。辞めた人達も、弟が亡くなった件で警察から一度は事情を聞かれていますよね。それとも、その前に辞めた人がいたりはしませんか」
彼は気の進まない様子だったが、何とか答えてくれた。
「さすがにそれはないね。あの後すぐに辞めたりしたら、余計疑われただろう。聴取が終わってある程度騒ぎが落ち着いてから、嫌気が差して辞めた奴らばかりだ。もういいよね」
そこで藤子達は追い払われるようにして会社を後にした。その道中で和香が言った。
「最初は調査書に出ていた人達を再度当たり、今だからとか藤子さんにならと言って何か話してくれると期待していました。でもここから先は、会社を辞めた人達に話を聞いた方が良さそうですね」
「でもどうやって。今会社にいる人達から名前を聞きだせたとしても、どこにいるかまではさすがに分からないでしょう」
「そこは田北さんにお願いしてみたらどうでしょう。だって一度は警察が話を聞いているのなら、少なくともそのリストが残っているはずです」
なるほど。その手があったか。しかも退職した人達の中に機密情報を盗み出した人物がいると疑われているのなら、その捜査でも当たっているはずだ。通常は難しいだろうが、同じ警察でも公安の人間だとすれば入手できるに違いない。
「お願いできますか。どれだけいるか分かりませんが、リストが入手できればその人達に話は聞けるでしょう。そこで何か掴めればいいんですが」
「そうですよね。まずはそこから始めましょう」
彼は昨今の、有名人にまつわるマスコミのスキャンダルの扱い方にも言及し、とりたてネットニュースのレベルの低下が激しいと非難した。その点については同意する人々も多かった為、賛同コメントが殺到したのである。
しかしその一方で否定する意見も散見された。何故なら彼は、芥山賞の選考で藤子の作品を高評価していたからだ。見栄えの良い新人作家を擁護する発言の裏に、個人的な意図があるのではと邪推されたらしい。
こういう下衆な意見は必ずといっていいほど出る。またそれがある一定数の支持者を刺激し、ありもしない話題で盛り上がるのだ。藤子はA氏と二月に行われた受賞式の際に初めて会い、その時も簡単な挨拶を交わした程度だ。特別に褒められた訳でもなく、これからが大変だよと脅されたくらいだった。
しかしそのレベルの批判なら、A氏が黙殺していればいずれ収まっただろう。だがそこへ火に油を注いだ人物がいた。同じ芥山賞選考委員の一人、大物女性作家B氏だ。彼女はA氏とは違い、選考会で藤子の作品を貶して他の作家を推していた。もちろんその他の選考委員の中でも、多少評価は分かれたと聞いている。
その件は、選考過程について説明した委員の総括の中でも触れられていた。その後出されたそれぞれの講評を読めば、誰が作品から何を読み取りどう捉えたかは明らかだった。 そうした結果を踏まえ、最終的には“伝えたい”を評価する声が多かった為、藤子は受賞出来たのである。
ただ実際の選考会での議論は相当揉めたようだ。その火種となったのがA氏とB氏の対立だったという。同席していた主催者である出版社の編集者によれば、作品の内容の評価云々で食い違いが生じていたのは、表向きの理由だったらしい。今回に限らず選考会では毎回といって言い程、A氏とB氏とでは真逆の意見を出していたようだ。その度にどちらの味方が多いか、競い合う傾向にあったと後に知った。
その根本は十数年前に遡る。二人の作品がある別の大きな賞の候補に上ったが、その際A氏が受賞した。だが話はそれで終わらない。その時の選考委員の一人が、作品内容よりその女性作家を認めていないから選ばなかったと公言したのだ。しかもその作家は、A氏を若い頃から可愛がっていたのである。
業界人なら誰もが知る事実だった為、B氏は余計に悔しがったという。問題の大物作家は既に他界してしまったが、その後もA氏とB氏は犬猿の仲で有名となり今に至るのだ。
そうした事情に加え、B氏は同じ女性作家として作品の内容ではなく、容姿や生い立ち等で大衆の目を引き売り出そうとする出版業界やマスコミ等の対応に、日頃から痛烈な批判を繰り返していた。
その為“伝えたい”は推せないと強く主張したのだろう。まだ候補に挙がる前は顔写真をなるべく出さないよう交渉していた藤子からすれば、B氏の意見には強く賛同していた。
しかし候補作が公表されてから、藤子が顔出しし始めたことが彼女の琴線に触れたらしい。その上出版社が年齢と容姿のギャップに加え、関心を引く経歴を前面に出す戦略を練っているとの噂を耳にし、激怒したという。
そこにA氏が藤子の作品を推した。だからこそ藤子自身を含め、作品自体を相当罵倒したと思われる。また事件についても異例のコメントを出したのだ。
「A氏が新人作家を擁護する見解は、一見すると正論に思える。だが実態は違う。厳しい出版不況の中、さらに窮地に追い込まれている純文学作品を少しでも売りたい出版社の思惑を、単に援護しているに過ぎない。作品の中身ではなく、様々な付加価値を付け世間の注目を浴び、興味を持つよう仕向け販売部数を伸ばしたいだけだ。選考会でもその思惑に同意した作家達の数が多かった。そうした安易な決断が今回の騒ぎに発展したのである」
芥山賞の選考自体に問題があったと認めるかのような内容に、出版業界自体が慌てだした。とはいっても相手は出せば必ず売れる大御所同士だ。下手な対応はできない。
マスコミはこれに飛びついた。二人の争いと出版業界の裏事情を扱う方が、新人作家を叩くより余程世間の関心は高い。その為藤子を追いかけていた記者達は波が引いたようにいなくなり、A氏達や主催する出版社の周辺に張り付き始めたのだ。
他にもパンデミックやそれ以前に行われた政治家による、特定業者との癒着が明らかになった事件についても進展があった。重い腰をようやく上げた検察等が起訴に踏み切り、不適正な税金の使用実態の告訴を受けた裁判が始まったことで、芋づる式に問題が発覚。新たな捜査も並行して行われるなど、政局にも大きな動きが起こり始めていたのである。
さらには伊豆半島沖で深海魚専門の漁をしていた漁船の網から、白骨死体の一部が発見。骨の損傷具合から殺されたものらしいと分かり、殺人事件として被害者の身元の特定を始めたというニュースも流され、大騒ぎになっていたのだ。
おかげで注目が逸れた藤子は自由に外出しやすくなり、マスクさえ嵌めていれば誰にも気づかれず済むようになった。新型感染症の拡大につてはやや落ち着いたけれどまだ油断できず、また時期的に花粉症が飛び交う季節だった点も幸いした。そうした背景も手伝い藤子はホテルを出て、和香と共に雄太の関係者を直接訪ねる行動が取れるようになったのだ。
最初に当たったのは、以前受け取った報告書にも掲載されている雄太の上司だった柳瀬という管理職だ。当然ながら、警察は彼にも事情聴取していたという。藤子が自己紹介し話を聞きに来たと説明したところ、彼は同情してくれたらしく饒舌に話し始めた。
「最初は最近渡部君に変わった様子はなかったかと質問されていたのに、途中からホソイとかいう別人だと知らされて驚いたよ。単なる事故かと思っていた所に殺されたんじゃないかと疑っていたみたいだけど、結局は事故だったからホッとしたさ。いやお身内の前でそう言うのは申し訳ないけどね」
「いえ、私も理解できますのでお構いなく。ただ当初は自殺の線も探っていたようですが」
藤子が尋ねると、彼は深く頷いた。
「そうそう。確かに他の同僚達も言っていたけど、普段より少し元気が無かったようには見えたからね。でもそこまで何か悩んでいるなんて、誰も想像していなかったと思うよ。だけど自殺なんてそんなものかもしれない。その前に分かっていたら止められただろうし」
「柳瀬さんも、弟は元気が無かったと思われましたか」
「警察にも言ったけど、どちらかといえばそうかもしれないという程度だったよ」
「仕事上で何か問題を起こしたりはしていませんでしたか」
「それはない。ただ彼が別名義を使っていた点は問題になって、あの後社内監査が入ったんだよ。そこで社内の機密情報の一部が漏洩した可能性があると大騒ぎになったから、もしかすると渡部君じゃないかって疑われたのさ。でも詳細は言えないが、アクセス履歴や持ち出した形跡も彼には無かった。あっ、これは絶対口外しないでね」
初めて耳にした話題だ。警察には既に被害届けを出し、極秘で捜査をしているという。個人情報などでは無くあくまで疑惑の段階の為、マスコミにはまだ公表しないようだ。
「弟は関わっていなかったのですね」
念を押すと、彼は苦笑いをした。
「これは警察も、身内の方には話していないようだね。別名義というか、本名で登録されていた家も徹底的に捜査したと聞いている。だから彼は関係ないと判断されたんだ」
「そうでしたか」
そうした説明は受けていなかった。しかし遺族感情を考慮し、わざわざ告げる必要が無いと警察が判断したとも考えられる。ただ会社から機密情報が盗まれていたとしたら、それを知った雄太が口を封じられた可能性はないかと考えた。それが和香のいう香港の民主化運動と絡んでいたとすれば、殺されたという線が急浮上する。
その点を尋ねると、彼は首を振った。
「それはないでしょう。警察も事故だと判断したじゃない。見ていた人もいるんだよね。それに機密情報なのは間違いないけど、人の命を奪うほど重大な問題ではないと思うよ」
「そうなんですか」
「情報の中身は説明できないけど、罰則規定から考えても殺人は割に合わないよ。不正競争防止法だと、個人では十年以下の懲役または二千万円以下の罰金刑だ。それに刑事罰を科されるケースは余りなく、大体は賠償で済む。また個人というより、不正に入手した会社が払う場合も多いしね」
そこで和香が口を挟んだ。
「それが例えば、外国の産業スパイによるものだとすればどうですか」
再び彼は苦笑いした。
「スパイ映画だと殺し合いに発展する場合もあるだろうけど、現実では考えにくいね。あるとすれば、個人的な恨みとか揉め事があった場合じゃないかな」
雄太の死んだ現場が別の場所だったらあり得る。ただ彼は自分が住むマンションの屋上から落ちたのだ。そうした人物と揉めていたのなら、気付かれないはずがない。それに命を狙われると分かっていたら警戒するはずだ。屋上なんて危険な所へは行かないだろう。
「でも個人的に揉めていたとしたら考えられる訳ですよね。例えばですが、彼が政治的な話をしていたことはありますか。例えば香港の民主化運動だとか」
彼女は諦めずに食い付いていたが、軽くいなされた。
「少なくとも私は聞いた覚えがないね。それにプライベートでそういう話をして揉めていたとしても、警察が事故だと判断したんだ。考え過ぎじゃないかな」
ここでも警察や目撃者の壁が立ちはだかる。その判断が疑わしいと思うから彼女は調べているのだ。といってそう説明する訳にもいかない。その為藤子は質問を変えてみた。
「弟は会社の人達と上手くやっていたのでしょうか」
「人間関係は悪くなかったよ。それ程目立たなかったけど真面目にやっていたし、人から恨みを買うタイプでもなかったからね」
「誰か親しくしていた人はいませんでしたか」
「警察にも同じ質問をされたけど、良く知らないんだよ。ここに勤めてまだ一年程度だし。誰とでも上手くやっていた分、特別親しい人がいたという話は聞かないよ。他の同僚達もそう答えていたらしいから」
「柳瀬さんが働いていた部署だと、人の出入りは激しかったのですか。弟は数年ごとに会社を移っていたようなので、こちらでもそういう方はいらっしゃいましたか」
「長い人もいるけど、確かに入れ替わりは激しい方かもね。仕事が出来ればキャリアアップの為に会社を渡り歩けるから。確かに彼もその一人だったな」
「他にも同じような人はいたのですね」
「ああ。結構いるよ。彼がいなくなってから入って来たのもいれば辞めた奴もいる。ここ最近でも数人は入れ替わったんじゃないかな」
「そんなにいるんですか」
彼は苦々しい表情で言った。
「これは弟さんのせいではないけど、警察が入れ代わり立ち代わり来て騒がしかったからね。それに情報漏洩の件もあって疑われた人もいるから、居心地が悪くなった点は影響していると思うよ。最近ようやく落ち着いたんだけど」
すると和香が再び横から口を出した。
「辞めた人達の中で、情報流出に関わった人はいますか」
雄太の死や過去と関係がない質問をされ、藤子は苛立つ。しかし彼の顔が一瞬強張った為、的を射たのだと感じた。
「そちらの話は詳しく話せません。それに渡部君とは関係がないと言ったじゃないですか」
その反応から産業スパイだと疑われている人物が、会社を辞めているのは間違いないようだ。そこで彼女はさらに続けた。
「雄太さんが亡くなった後に退職した人物の中で、比較的彼と交流があった人は誰ですか。情報流出とは関係が無くても、彼の死についてまたは彼がどういう生活をしていたのかなど、何か知っている方がいるかもしれません。教えて頂けますか」
確かにそうだ。リサーチ社の調査では、主に現在も在籍している社員達が中心だった。よって報告書から漏れた可能性は否めない。彼女の鋭い指摘に、それまで抱いていた疑念が消し跳ぶほど感心した。
藤子も頭を下げ、懇願した。
「お願いします。個人情報だということは重々承知していますが、心当たりがある人の名前だけでも教えて下さい」
「申し訳ないが、先程も言ったけど良く知らないんだよ。誰と誰が親しかったなんて余り気にしてないからさ。これ以上話せることはないから帰ってくれないか」
彼の言葉が全て本当かどうかは疑わしいが、退職した人達に触れて欲しくないのは間違いなさそうだ。協力的だった態度が急に変わった。それでも食い下がった。
「ではもう一つだけ教えてください。辞めた人達も、弟が亡くなった件で警察から一度は事情を聞かれていますよね。それとも、その前に辞めた人がいたりはしませんか」
彼は気の進まない様子だったが、何とか答えてくれた。
「さすがにそれはないね。あの後すぐに辞めたりしたら、余計疑われただろう。聴取が終わってある程度騒ぎが落ち着いてから、嫌気が差して辞めた奴らばかりだ。もういいよね」
そこで藤子達は追い払われるようにして会社を後にした。その道中で和香が言った。
「最初は調査書に出ていた人達を再度当たり、今だからとか藤子さんにならと言って何か話してくれると期待していました。でもここから先は、会社を辞めた人達に話を聞いた方が良さそうですね」
「でもどうやって。今会社にいる人達から名前を聞きだせたとしても、どこにいるかまではさすがに分からないでしょう」
「そこは田北さんにお願いしてみたらどうでしょう。だって一度は警察が話を聞いているのなら、少なくともそのリストが残っているはずです」
なるほど。その手があったか。しかも退職した人達の中に機密情報を盗み出した人物がいると疑われているのなら、その捜査でも当たっているはずだ。通常は難しいだろうが、同じ警察でも公安の人間だとすれば入手できるに違いない。
「お願いできますか。どれだけいるか分かりませんが、リストが入手できればその人達に話は聞けるでしょう。そこで何か掴めればいいんですが」
「そうですよね。まずはそこから始めましょう」
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