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第五章~⑦
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彼女はその後一切口を開かず、黙ってしまった。よって彼女はまず祖母を殺した罪で逮捕され、長期に渡り勾留され取り調べを受けたが、母親の関与については一切語らなかったらしい。
起訴後の裁判でも母親のせいだとは一切言わなかった。淡々と祖母と尊の殺人について、警察で話した通りの供述を繰り返すのみだったという。その結果、検察も途中から母親が指示したとの証言や証拠がない以上、立件するのは難しいと諦めたようだ。
本来なら尊に対する殺人罪は十三歳の時に起こした事件だから少年法に当たり、刑事責任は問えず刑事裁判も受けない。しかし逮捕時に十八という成人年齢に達しており、かつ祖母に対する殺人罪で起訴されている。
その為彼女は特定少年として家庭裁判所に送られた後、二十歳以上の成人と同じく刑事裁判にかけられた。その中で責任は問われないものの、事件全体の実態解明とその後の更生の為に、尊刺殺事件の事情も確認せざるを得なかったのだ。やはり一連の事件の根本は一つだと判断されたからだろう。
表面的には尊の事件は幼い頃から家事をして祖母の介護に追われ、情緒不安定な母親を心配する余りに行った発作的な犯行だ。しかも刑事罰は問えない。
祖母の殺人も度重なるマスコミ等による取材攻勢で追い詰められ、同じく発作的に行った無理心中だったとも捉えられる。
ここまでだけでも罪が軽減される条件は揃っていた。しかしさらに驚くべき事態が起こった。母親の奈々が裁判の途中で突然失踪したのである。三鴨が身元引受人として就職させており、罪状としては保護観察がついていたにも関わらずだ。
保護観察付きの執行猶予とは一定の住居を定め、その地を管轄する保護観察所の長に届け出る他、善行を保持し住居の移転または一ヶ月以上の旅行をする時は保護観察所の長にあらかじめ届けを出すなど、決まりごとがあった。
保護観察中に更なる罪を犯し実刑に課せられたり、重い遵守事項違反があったりした場合には、刑の執行猶予の言い渡しが取り消され、服役しなければならなくなるのだ。
けれど彼女の失踪は、娘の逮捕によりマスコミなどの取材が押し寄せ肩身が狭くなった事から起きたのだろうと考えられ、重い遵守事項違反とまでは判断されなかったという。
彼女は裁判が続く中、祖母の事故で僅かならが出た賠償保険金と死亡保険金を手にした途端、アパートの部屋の家賃数ヶ月分程度とその後の生活費に加え書き置きを残し、夜逃げ同然で姿を消した。いつものように出社してこない三鴨が心配し、大家に連絡を入れ部屋の中に入りそれらを発見したようだ。
その後、愛花についていた弁護士から書置きの中身の詳細は伏せたものの、三鴨に対し
―愛花が出所してきたら、今後は私ではなく彼女の世話をお願いします―
と書き残していたとマスコミに対し発表された。
面倒を看ていた母が死に、娘も勾留中で一人っきりとなった為、自由になりたかったのかもしれない。だが自分のせいで様々な事件が引き起こされたのだから一緒にいてはいけないと考え、身を隠したとも考えられる。
そうした様々な事情が影響したのか、情状酌量の余地があると判断されたのだろう。結果愛花には、懲役三年保護観察付執行猶予五年の判決が下された。その為、母親の時と同様に三鴨が身元引受人となったという。
高校は退学にならず出席日数等も足りていた為、何とか卒業できたようだ。よってそのまま彼女は三鴨の事務所に就職し、働きながら保険の勉強をしてなんとか生活できる環境は整えられたようだ。母親が残したお金もその助けとなったのだろう。
殺人罪は基本的に死刑、または無期もしくは五年以上の懲役が科される。だが介護等を苦にした殺人の場合は情状酌量されるケースが多く、懲役三年前後からおよそ七年程度に収まるケースがほとんどのようだ。
また彼女は成人といえどもまだ十八歳だった点が考慮されたのだろう。加えて結果的に二人殺したといえど、一人目の刑罰は加算できない。そう考えれば妥当ともいえる。
けれどもあの事件が里浜奈々の思惑により起こったものと考えれば、尊達にとっては到底納得できなかった。しかしボカーソウルとなった身でさえ、彼女の罪を暴く手段は見つからない。よって諦めるしかなかったのだ。
ちなみに尊は自分の体が焼かれ完全なボカーソウルとなってから、何度も他人に乗り移れるか試そうとした。だが結局は直前で諦めた。
何故ならまず一度第三者に乗り移ったら、戻れるかどうかが不明だったからだ。それに愛花が尊の刺殺を認め祖母殺害の罪で逮捕され判決も出てしまった今、何を言えばいいのか分からなかった。
今更自分を刺したのは確かに愛花かもしれないが、真実は別にあるなんて言える訳がない。そんな真似をしても、全てが明らかになるかどうか曖昧だし、それが正しい行動かも疑問が残る。その結果が更なる不幸を呼ぶ可能性だってあるからだ。
もう死んでしまいほぼ事情を把握できた尊にとって、今後何を一番望むかといえば残された志穂の幸せだけだった。ただ漂うだけとなった姿が消えて無くなるまで、ずっと見守る続けることが唯一見つけた存在意義となったのである。
彼女は尊を失った為、哀しみに暮れていたようだが、刺した犯人はようやく明らかになった。その量刑に納得しているかどうかといえば、必ずしもそうでなかったと思われる。といって更なる処罰を望んでいたかといえばそれも違う。憎しみの連鎖は不幸を呼ぶだけだと今回の事件で身に染みていたからに違いない。
ちなみに肝臓がんに罹った義母は、愛花が逮捕され裁判が続いて判決がまだ出ていない頃、息を引き取った。彼女は義父と同様、抗がん剤などを使用した延命治療を拒否し、自宅療養を選んだ。その結果、医師による診断が出てから僅か半年後に亡くなったのである。
不幸中の幸いと言っていいのか、介護期間が短かった為に志穂達の負担は少なくて済んだ。義父の時と違い尊は死亡していたので静岡の病院へ通う必要がなく、介護に専念できたからでもあった。
その上尊は保険会社に勤めていたので、十分過ぎる程の補償がある保険に加入していた影響も大きい。生命保険の支払いだけでなく、労災からや犯罪被害者遺族に対する給付もあった為、それぞれを合わせるとかなり高額な保険金等が手に入ったからだろう。経済的な心配は全くなかったのだ。
よって今は静岡の実家で兄の剛志と二人で住んでいる。しかも新しく設立された農家が集る法人の会社に、事務職として働き始めた。生活費を稼ぐ為ではなく、食事などの家事に加え、畑仕事で忙しい兄の力に少しでもなろうと出した結論だったようだ。
畑仕事をするにはさすがに年齢や体力的に厳しく、経験も乏しい。だが会社の事務となればブランクがあるとはいえ、一部上場の一流企業に十年近く勤めていた実績がものをいう。 特に田舎だとそうした人材はかなり貴重だった為か周囲から熱心に誘われ、断れ切れなかった実情もあったと思われる。
給与はかなり安い。それでも兄妹二人での実家暮らしだ。また農家の集団に所属している為、食べ物の多くはほぼタダまたはかなり安く手に入る。
よって経済的な支出はかなり少ない。義父母の遺産に加え、尊が残した資産もあったので、お金に困ることは全くなかったようだ。
これで一連の事件について表面上は全て解決し、関わったほとんどの人達の生活も落ち着きを取り戻していた。
志穂の周辺を含め、警察の捜査やマスコミの取材に煩わされなくなった。また刺傷事件以降、尊や義父、義母、それに和喜田や宇山の死など、失ったものは決して少なくないが、苦から解放されたものもある。
例えば尊の両親達との決別だ。あの忌々しい土地と人間関係から距離を置けて尊はもちろん、志穂も心の奥底で隠れていた不安の塊を溶かしてくれ助かったと思っているだろう。
それに哀しみも味わっただろうが、いつまで続くか分からない尊の見舞いをしなくて良くなり、義父母の介護からも解き放たれた。もちろん意識を取り戻し生きていられたらもっと良かっただろう。
しかしなす術もなくただ見守るだけの状態が長く続いていた頃、彼女が抱えた重荷を早く下ろしてあげたいと尊はずっと思っていた。それは余命宣告を受け介護されていた時の義父や義母も、そう考えていたに違いない。
想像もしなかった突然の災難に見舞われ、最後には命を失った。けれど尊は長く俯瞰し見ている内に、様々な醜い感情に取り囲まれていた会社生活から抜け出せたのは、ある意味幸いだったとさえ思い出していた。
異動により点々と各地を渡り歩く生活も、改めて考えればかなりストレスが溜まっていた。特に名古屋に配属されてからの人間関係には、相当精神が削られた。事実それまで休日になると繰り出していた大好きな釣りが、全くできなくなっていた点からも明らかだ。
環境が大きく変わったからとはいえ、それまでの異動で趣味に費やす気力と体力はそこまで奪われていなかった。もし尊があの後意識を取り戻し、会社に復職していたとしても、事件前と同じように働けたかどうかは疑わしい。
また愛花が犯人だと判明していなかっただろうから、和喜田や宇山や野城といった面々に囲まれたまま、疑心暗鬼に陥った状態でまともな仕事が出来ていたかと言えば疑問が残る。 警察の捜査が続き、マスコミからも騒がれていたのだ。よって社内外でも好奇の目に晒され続けていただろう。
何者かに刺され一時意識不明の重体にまでなったのだから、真剣に気遣ってくれる人もいたとは思う。けれど全国のニュースで流れ、殺されかけ命を取り留めた話題の人物が身の回りにいるなんて滅多にない。
隣近所を含めた井戸端会議には格好のネタだ。例えば訪問先だとあの人がうちの担当なのと言うだけで、周辺は興味を持つ。下世話な話題をしたいだけの人達は当然現れる。
それは社内でも同じだ。そこに加えてギクシャクとした人間関係が絡むと想像するだけでゾッとした。最悪、精神を病み休職せざるを得ない程、追い込まれていたかもしれない。
かつて四か所の部署を渡り歩いてきた経験から、あの会社ではうつ病などにより長期に休むまたは退職していく社員がどこでも一定数いると学んだ。
身近な話だけでなく支社長代理という中間管理職研修を受けた中で、全国各地から集まった人達からも耳にしたし、研修の議題にも様々な事例が挙げられていた程である。つまり尊だって三年半の期限が来ても回復せず、そのまま退職していた可能性さえあったのだ。
とはいってもこうした形で命を失ったのは本意でない。だからなのか尊は未だ宙を漂ったままだ。ボカーソウルという存在が明らかになる以前ならば、いわゆる成仏できていない状態と言っていいだろう。
確かに尊を刺した人物、殺した人物が誰かは理解しているものの、あの刺傷事件は里浜奈々の思惑により愛花が誘導されたものだったかは不明のままだ。
それに死んだ和喜田や宇山、服役中の野城も犯人で無かったとはいえ、それぞれが尊を疎ましく思っていたのも事実である。その為事件の発生により巻き込まれ、不幸となった現実に自責の念を抱えていたのも確かだ。
また里浜奈々への接し方に問題があったのではないか、と過去の自ら取った行動への問いかけも消えていない。
そうして心の晴れない状態が続いているから、今の状態を抜けだせないのだろうか。もしそうであったなら、尊はずっとこのままでいるしかないと覚悟を決めていた。
起訴後の裁判でも母親のせいだとは一切言わなかった。淡々と祖母と尊の殺人について、警察で話した通りの供述を繰り返すのみだったという。その結果、検察も途中から母親が指示したとの証言や証拠がない以上、立件するのは難しいと諦めたようだ。
本来なら尊に対する殺人罪は十三歳の時に起こした事件だから少年法に当たり、刑事責任は問えず刑事裁判も受けない。しかし逮捕時に十八という成人年齢に達しており、かつ祖母に対する殺人罪で起訴されている。
その為彼女は特定少年として家庭裁判所に送られた後、二十歳以上の成人と同じく刑事裁判にかけられた。その中で責任は問われないものの、事件全体の実態解明とその後の更生の為に、尊刺殺事件の事情も確認せざるを得なかったのだ。やはり一連の事件の根本は一つだと判断されたからだろう。
表面的には尊の事件は幼い頃から家事をして祖母の介護に追われ、情緒不安定な母親を心配する余りに行った発作的な犯行だ。しかも刑事罰は問えない。
祖母の殺人も度重なるマスコミ等による取材攻勢で追い詰められ、同じく発作的に行った無理心中だったとも捉えられる。
ここまでだけでも罪が軽減される条件は揃っていた。しかしさらに驚くべき事態が起こった。母親の奈々が裁判の途中で突然失踪したのである。三鴨が身元引受人として就職させており、罪状としては保護観察がついていたにも関わらずだ。
保護観察付きの執行猶予とは一定の住居を定め、その地を管轄する保護観察所の長に届け出る他、善行を保持し住居の移転または一ヶ月以上の旅行をする時は保護観察所の長にあらかじめ届けを出すなど、決まりごとがあった。
保護観察中に更なる罪を犯し実刑に課せられたり、重い遵守事項違反があったりした場合には、刑の執行猶予の言い渡しが取り消され、服役しなければならなくなるのだ。
けれど彼女の失踪は、娘の逮捕によりマスコミなどの取材が押し寄せ肩身が狭くなった事から起きたのだろうと考えられ、重い遵守事項違反とまでは判断されなかったという。
彼女は裁判が続く中、祖母の事故で僅かならが出た賠償保険金と死亡保険金を手にした途端、アパートの部屋の家賃数ヶ月分程度とその後の生活費に加え書き置きを残し、夜逃げ同然で姿を消した。いつものように出社してこない三鴨が心配し、大家に連絡を入れ部屋の中に入りそれらを発見したようだ。
その後、愛花についていた弁護士から書置きの中身の詳細は伏せたものの、三鴨に対し
―愛花が出所してきたら、今後は私ではなく彼女の世話をお願いします―
と書き残していたとマスコミに対し発表された。
面倒を看ていた母が死に、娘も勾留中で一人っきりとなった為、自由になりたかったのかもしれない。だが自分のせいで様々な事件が引き起こされたのだから一緒にいてはいけないと考え、身を隠したとも考えられる。
そうした様々な事情が影響したのか、情状酌量の余地があると判断されたのだろう。結果愛花には、懲役三年保護観察付執行猶予五年の判決が下された。その為、母親の時と同様に三鴨が身元引受人となったという。
高校は退学にならず出席日数等も足りていた為、何とか卒業できたようだ。よってそのまま彼女は三鴨の事務所に就職し、働きながら保険の勉強をしてなんとか生活できる環境は整えられたようだ。母親が残したお金もその助けとなったのだろう。
殺人罪は基本的に死刑、または無期もしくは五年以上の懲役が科される。だが介護等を苦にした殺人の場合は情状酌量されるケースが多く、懲役三年前後からおよそ七年程度に収まるケースがほとんどのようだ。
また彼女は成人といえどもまだ十八歳だった点が考慮されたのだろう。加えて結果的に二人殺したといえど、一人目の刑罰は加算できない。そう考えれば妥当ともいえる。
けれどもあの事件が里浜奈々の思惑により起こったものと考えれば、尊達にとっては到底納得できなかった。しかしボカーソウルとなった身でさえ、彼女の罪を暴く手段は見つからない。よって諦めるしかなかったのだ。
ちなみに尊は自分の体が焼かれ完全なボカーソウルとなってから、何度も他人に乗り移れるか試そうとした。だが結局は直前で諦めた。
何故ならまず一度第三者に乗り移ったら、戻れるかどうかが不明だったからだ。それに愛花が尊の刺殺を認め祖母殺害の罪で逮捕され判決も出てしまった今、何を言えばいいのか分からなかった。
今更自分を刺したのは確かに愛花かもしれないが、真実は別にあるなんて言える訳がない。そんな真似をしても、全てが明らかになるかどうか曖昧だし、それが正しい行動かも疑問が残る。その結果が更なる不幸を呼ぶ可能性だってあるからだ。
もう死んでしまいほぼ事情を把握できた尊にとって、今後何を一番望むかといえば残された志穂の幸せだけだった。ただ漂うだけとなった姿が消えて無くなるまで、ずっと見守る続けることが唯一見つけた存在意義となったのである。
彼女は尊を失った為、哀しみに暮れていたようだが、刺した犯人はようやく明らかになった。その量刑に納得しているかどうかといえば、必ずしもそうでなかったと思われる。といって更なる処罰を望んでいたかといえばそれも違う。憎しみの連鎖は不幸を呼ぶだけだと今回の事件で身に染みていたからに違いない。
ちなみに肝臓がんに罹った義母は、愛花が逮捕され裁判が続いて判決がまだ出ていない頃、息を引き取った。彼女は義父と同様、抗がん剤などを使用した延命治療を拒否し、自宅療養を選んだ。その結果、医師による診断が出てから僅か半年後に亡くなったのである。
不幸中の幸いと言っていいのか、介護期間が短かった為に志穂達の負担は少なくて済んだ。義父の時と違い尊は死亡していたので静岡の病院へ通う必要がなく、介護に専念できたからでもあった。
その上尊は保険会社に勤めていたので、十分過ぎる程の補償がある保険に加入していた影響も大きい。生命保険の支払いだけでなく、労災からや犯罪被害者遺族に対する給付もあった為、それぞれを合わせるとかなり高額な保険金等が手に入ったからだろう。経済的な心配は全くなかったのだ。
よって今は静岡の実家で兄の剛志と二人で住んでいる。しかも新しく設立された農家が集る法人の会社に、事務職として働き始めた。生活費を稼ぐ為ではなく、食事などの家事に加え、畑仕事で忙しい兄の力に少しでもなろうと出した結論だったようだ。
畑仕事をするにはさすがに年齢や体力的に厳しく、経験も乏しい。だが会社の事務となればブランクがあるとはいえ、一部上場の一流企業に十年近く勤めていた実績がものをいう。 特に田舎だとそうした人材はかなり貴重だった為か周囲から熱心に誘われ、断れ切れなかった実情もあったと思われる。
給与はかなり安い。それでも兄妹二人での実家暮らしだ。また農家の集団に所属している為、食べ物の多くはほぼタダまたはかなり安く手に入る。
よって経済的な支出はかなり少ない。義父母の遺産に加え、尊が残した資産もあったので、お金に困ることは全くなかったようだ。
これで一連の事件について表面上は全て解決し、関わったほとんどの人達の生活も落ち着きを取り戻していた。
志穂の周辺を含め、警察の捜査やマスコミの取材に煩わされなくなった。また刺傷事件以降、尊や義父、義母、それに和喜田や宇山の死など、失ったものは決して少なくないが、苦から解放されたものもある。
例えば尊の両親達との決別だ。あの忌々しい土地と人間関係から距離を置けて尊はもちろん、志穂も心の奥底で隠れていた不安の塊を溶かしてくれ助かったと思っているだろう。
それに哀しみも味わっただろうが、いつまで続くか分からない尊の見舞いをしなくて良くなり、義父母の介護からも解き放たれた。もちろん意識を取り戻し生きていられたらもっと良かっただろう。
しかしなす術もなくただ見守るだけの状態が長く続いていた頃、彼女が抱えた重荷を早く下ろしてあげたいと尊はずっと思っていた。それは余命宣告を受け介護されていた時の義父や義母も、そう考えていたに違いない。
想像もしなかった突然の災難に見舞われ、最後には命を失った。けれど尊は長く俯瞰し見ている内に、様々な醜い感情に取り囲まれていた会社生活から抜け出せたのは、ある意味幸いだったとさえ思い出していた。
異動により点々と各地を渡り歩く生活も、改めて考えればかなりストレスが溜まっていた。特に名古屋に配属されてからの人間関係には、相当精神が削られた。事実それまで休日になると繰り出していた大好きな釣りが、全くできなくなっていた点からも明らかだ。
環境が大きく変わったからとはいえ、それまでの異動で趣味に費やす気力と体力はそこまで奪われていなかった。もし尊があの後意識を取り戻し、会社に復職していたとしても、事件前と同じように働けたかどうかは疑わしい。
また愛花が犯人だと判明していなかっただろうから、和喜田や宇山や野城といった面々に囲まれたまま、疑心暗鬼に陥った状態でまともな仕事が出来ていたかと言えば疑問が残る。 警察の捜査が続き、マスコミからも騒がれていたのだ。よって社内外でも好奇の目に晒され続けていただろう。
何者かに刺され一時意識不明の重体にまでなったのだから、真剣に気遣ってくれる人もいたとは思う。けれど全国のニュースで流れ、殺されかけ命を取り留めた話題の人物が身の回りにいるなんて滅多にない。
隣近所を含めた井戸端会議には格好のネタだ。例えば訪問先だとあの人がうちの担当なのと言うだけで、周辺は興味を持つ。下世話な話題をしたいだけの人達は当然現れる。
それは社内でも同じだ。そこに加えてギクシャクとした人間関係が絡むと想像するだけでゾッとした。最悪、精神を病み休職せざるを得ない程、追い込まれていたかもしれない。
かつて四か所の部署を渡り歩いてきた経験から、あの会社ではうつ病などにより長期に休むまたは退職していく社員がどこでも一定数いると学んだ。
身近な話だけでなく支社長代理という中間管理職研修を受けた中で、全国各地から集まった人達からも耳にしたし、研修の議題にも様々な事例が挙げられていた程である。つまり尊だって三年半の期限が来ても回復せず、そのまま退職していた可能性さえあったのだ。
とはいってもこうした形で命を失ったのは本意でない。だからなのか尊は未だ宙を漂ったままだ。ボカーソウルという存在が明らかになる以前ならば、いわゆる成仏できていない状態と言っていいだろう。
確かに尊を刺した人物、殺した人物が誰かは理解しているものの、あの刺傷事件は里浜奈々の思惑により愛花が誘導されたものだったかは不明のままだ。
それに死んだ和喜田や宇山、服役中の野城も犯人で無かったとはいえ、それぞれが尊を疎ましく思っていたのも事実である。その為事件の発生により巻き込まれ、不幸となった現実に自責の念を抱えていたのも確かだ。
また里浜奈々への接し方に問題があったのではないか、と過去の自ら取った行動への問いかけも消えていない。
そうして心の晴れない状態が続いているから、今の状態を抜けだせないのだろうか。もしそうであったなら、尊はずっとこのままでいるしかないと覚悟を決めていた。
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