私をモナコに連れてって

しまおか

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第十三章~明日香

怒り

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 金曜日の飲み会を終え、二人して遅くなったその日の夜は帰宅してすぐに就寝したが、翌日には揃って早乙女の実家へ行き、事前に電話で伝えた異動先について改めて報告した。
 ひと月後には名古屋を去ることが現実となり不機嫌だった父も、
「それほど遠くない所だし、田舎じゃなくて良かった」
 と呟き、わずかだが喜んでいるらしいことが判り、
「神戸もいいじゃない、おしゃれな街だし、京都も大阪も近いから遊びに行くわね」
 という母のご機嫌な顔を見てひとまず安堵した。
 翌日曜日にはいつものように買い物を兼ねて外出し、新しい赴任先へのお土産は何が良いかと話し合う。そこでやはり名古屋名物で日持ちがする、嫌いな人は余りいないだろうということで、“ゆかり”の海老せんべいに決めた。
 後は神戸に行ったら南京町で美味しい中華を食べたいね、とか今度の住む社宅はどんなところだろう、なるべくマンションの最上階で防音がしっかりしているところが良いね、あと周りの治安も考えてセキュリティシステムがしっかりしている所を希望しないと、などと転勤先での暮らしについて盛り上がる。
 損害保険会社の転勤は全国各地に渡るため、赴任地における社宅の手配は基本的に現地の総務課などが行う。本人が物件を実際に見て選ぶようなことはまずしない。希望をいくつか出し、先方が出してきた目ぼしい物件のいくつかから選択をするのだ。
 これには当たりはずれがあるという。先方の部署が親身に探してくれればいいが、適当にこういう物件しかないとか、取引先や販売協力の関係でここに住んでもらうしかない、と決められてしまうこともあるらしい。しかも一旦決まると、よっぽどの事情が無い限り部屋を変わることはなかなか許可されないそうだ。
 事前の内見ができないまま入居するケースがほとんどであるため、部屋の間取りやおおざっぱな周辺環境の情報しか得られない。どういった人達が周りに住んでいて煩そうだとかは、住んでみるまで判らないのだ。こういう所が転勤族の辛い点の一つだろう。
 だから良い物件が見つかるといいね、などと話しながら休日を過ごし、月曜日の朝出社した際聞いた言葉に、明日香は自分の耳を疑った。異動発表の夜、損害課の人達の飲み会で新婚旅行の話題が上ったらしく、その際剛があまり楽しみにしていない、と発言したと言うのだ。
 それを聞いた女性達が聞き捨てならない、どういう意味かと問い詰めたようだが、上手く誤魔化されたらしい。そのことが二課の女性達にも伝わり、明日香の知るところとなったのだ。
 明日香自身もこの件についていくつか問われた。
「新婚旅行の件で何か揉めているんですか?」
「真守さんは行き先に納得されていないんですか?」
「新婚旅行自体に嫌な思い出があるんじゃないか、って話も出たんですけど、何か聞いています?」
 そう聞かれても答えられることは何もない。揉めている訳でもないし、行き先を変えようと言っていた時期もあったがここ最近はなかった。ホテルや便の予約をする時など、再度確認した時の彼の反応を見る限り、今は納得してくれているとばかり思っていた。
 過去の新婚旅行は、九連休の間に七泊九日でヨーロッパ四カ国六都市を転々とし、移動も強行スケジュールで大変だったため、とても疲れたという話は聞いている。
 しかし今度の旅行では泊まるホテルもエルミタージュ一か所に絞って無駄な移動をする必要が無い。また十連休の休みを取ったが、旅行自体は六泊八日で、帰国してからの事を考慮してゆっくり体を休められるよう日程を組んだ。
 それなのに今頃彼がなぜそんなことを言い出したのか、明日香自身が聞きたいぐらいだった。周囲からの様々な質問を適当に誤魔化して答え、すぐさま空いた時間を使い、彼にメールを送る。
 ― 新婚旅行の件で確認したい事があるから、お昼休みに時間を取ってくれますか? ―
 返信はなかなか来なかったが、お昼直前になってようやく、
 ― お昼は外出しなければならないので、その件は今夜帰ってからにしよう ―
 というメールが届いた。月曜だから彼も忙しいのだろう。
 だが頭では判っていても心が騒いで仕方がない。悶悶としたままその日を過ごし、予想はしていたが少し遅くなりそうなので夕飯はいらないというメールを受けた。月初めの為明日香も忙しかったため、仕事を終えると総菜を買い、先に帰宅し食事を済ませる。そしてお風呂に入り、リビングのソファに座って彼の帰りを待つことにした。
 彼は九時過ぎに帰ってきた。先にお風呂へ入るよう告げ、その後ゆっくり話しましょう、とだけ伝える。彼は黙って頷いていた。明日香が何に対して怒っているのかは理解しているようだ。ようやく彼がお風呂から上がり、リビングへとやって来て話し合える体制が整う。そこで明日香が口火を切った。
「どういうこと? 金曜の飲み会で旅行が楽しみじゃないって言ったようだけど、なぜそんなことを口走ったのかを教えてくれる?」
 ソファに座った時から顔を青くしていた彼は、大きな体を小さく丸めて消え入りそうな声で答えた。
「い、いや、楽しみじゃないなんて言ったわけじゃないよ」
「じゃあどういう意味? なんて言ったの? 周りでいた子はそう聞こえたから、どうしてって騒いでいるの。それで揉めているんじゃないかと心配して、というか野次馬根性もあるでしょうけど、何人もの子が私に聞いてきたわ」
「な、なんて聞いてきたんだ?」
「新婚旅行の件で何か揉めたのですか、行き先に納得していないんですか、新婚旅行自体に嫌な思い出があるんじゃないかって話も出たんですけど、何か聞いています、だって」
「それで明日香はなんて答えたんだ?」
「適当に答えて誤魔化して置いたわよ。だって私が聞きたいぐらいだから。なぜなの? 以前の新婚旅行が大変だったことは知っているから、今回はそうならないようにしたはずよ? それでもまだ足りなかった? それともまだテロの事を気にして、モナコ行き自体が本当は反対だって思っているの?」
「い、いや、そうじゃない。そうじゃないんだ」
「じゃあ、どういうこと?」
「いやモナコは明日香がずっと行きたがっていた場所だと判っているし、とても楽しみにしていることは知っているよ。だからテロの事は気にはなるけど、予約をした時も反対しなかっただろ」
「そうね。確かに反対はしなかった。でも心の中では納得していない、ってことなのね。なぜ? 私が一方的に行きたがっているってことは判っているわ。でもあなたは別にどこへ行きたいというこだわりを持っていないって言ったでしょ。それともあるの? どうしても国内が良い? それとも船の旅が良いの?」
「い、いやそんな場所は無いし、そうじゃないよ」
「そうでしょ? だから私が行きたいところへ連れてってくれるか、プロポーズの時にも確認したわよね。それであなたは了解してくれたじゃない。あれは嘘だったの?」
「嘘じゃない。今だってそう思っているし、君の願いを叶えたいさ。だから旅行の計画にも賛成したんだ」
「でも楽しみにしてないんでしょ? 何? 私だけが浮かれている訳? 勝手に昔から憧れているモナコへ行きたいってはしゃいでいるだけで、あなたはそれを冷めた目で見ていたの? 楽しみなんかじゃなくて、面倒な旅行になるとでも思っているんでしょ! だったら止めましょう。そんな人と一緒にモナコへ行きたくない。全然楽しめないじゃ無い。だったら一人で行った方がマシよ!」
「待ってくれ。君が憧れてやまない国はどういうところか、僕だって行ってみたいし、君と一緒に歩いてみたいと思っているさ。本当だよ。君の夢を僕が叶えられると思うだけで嬉しいよ。信じてくれ」
「じゃあなぜこんな話になっているの? 新婚旅行の行き先はモナコですよね、楽しみですよねって言われて、なぜ実はあんまりそうでもないんだよな、なんてことを言ったの?」
「い、いや、それにはちょっと訳が合って」
「訳? なに? やっぱり楽しみにしていないからじゃないの!」
「違うよ。それは誤解だ。楽しみにしているさ。でも一方でちょっとだけ、不安に思うことがある。そう、あるんだ」
「不安? テロの事? そうじゃないわよね。何? 何なの?」
「い、いや、それがさ。ちょっと言いづらいことが実はあって。いやいつか言おうとは思っていたけど、なかなか言い出せなかった」
 ここでようやく思い出した。しばらくバタバタしていて忘れていたが、彼には何やら抱えている秘密があるらしい、と感じていたことだ。一時期はそのことを聞き出すために、自分の過去の事を告白しようと考えていた。
 しかし言わずに済むのなら無理する必要もないと思い、あれから彼も旅行に関して何も言わなくなっていたから、自分で克服したのか消化したのだろうと、勝手な解釈をしていたのだ。
 それがここにきてそうでないことが判った。彼にはやはり旅行に関わる秘密を抱えているのだ。そのことがあるから新婚旅行を楽しみにしているかと問われた時、馬鹿正直で嘘がつけない彼は、そうでもないと答えてしまったのだろう。
 そう察した明日香は、これ以上問い詰めることができなくなってしまった。彼の口から理由を聞き出すためには、明日香もまた自分が隠している事について語る必要があり、その覚悟がいる。だが今、そのことを告白するにはあまりにも急で勇気が持てなかった。心の整理がつけられない。そこで黙るしかなかった。しばらく二人の間に沈黙が続く。
 彼もまだ心の準備ができていないのだろう。言わなければと思いながらも、その決心がつかない彼の姿が自分と重なる。目の前で苦悩している彼は、まさしく自分と同じだと想像したら何も言えない。
 そこでしばらく考えてから、彼に告げた。
「今日はもういい。私は寝室のベッドに寝るから、剛はここのソファで寝て。しばらくそうしましょう」
 立ち上がってその場から逃げるように寝室へと入った明日香はドアを閉め、ベッドに敷かれた布団の中に潜り込んだ。彼だけが悪いのではない。けれども今の状態で一緒の空間にいることが辛かった。いればいるほど彼を悩ませるだけのような気がしたのだ。
 と同時に、自分も苦しんでいた。その憂鬱な空気から逃れるには、距離と時間を置くしかない。だから彼には悪いと思ったが、あんな冷たいことを言ってしまったのだ。
 しばらくして彼がリビングの隣の部屋でごそごそしている音がした。そこには予備の布団が置いてある。おそらく取り出して使おうとしているのだろう。その間に急いで洗面所に行き、歯を磨いた。リビングからは死角になっているため姿は見えない。
 だがそこにいることは彼にも気配で判るはずだ。洗面所を使い終えると、今度はリビングに背を向けてトイレに入る。その後寝室へと戻り、電気を消して再び布団に潜りこんだ。
 明日香が使い終わった後をなぞるように、彼もまた洗面所で歯を磨き、そしてトイレに入っていく音が聞こえた。そしてリビングに戻った彼は部屋の電気を消し、ソファに寝転んだらしい。彼の気配を感じながら涙を流した。このままではいけない。確かにモナコは大切な場所であり、あこがれの場所だ。
 しかしそれ以上に大切なのは彼だった。彼がいるからこそ過去の呪縛から逃れ、幸せになるための人生の入口へと一歩足を踏み出すことができたのだ。彼がいないとこれ以上前には進めないだろう。
 信頼し、信用できる彼とでないと生きていけないし、ましてやモナコなど行けない。この問題を解決するためにはやはり彼の告白を聞き、自分の過去を告げるという道は避けられないのだと、改めて感じた。
 だが怖い。それができないからこれまで長く胸を痛めてきたのだ。彼もおそらくそうなのだろう。だからこそ、旅行まであと二週間を切った今になってまだ尚、解決できずにいるのだ。明日香はどうやって彼にこの気持ちを伝えよう、と考えながらいつの間にか泣き疲れ、眠ってしまっていた。
 翌日の朝はいつも通り起きたが、二人の間には会話がなく、黙々と作った朝食を食べ、彼はいつも通り先に会社へ向かい、その後明日香が部屋を出た。こんな気が重い朝を迎えたのは、一緒に生活してから初めてだ。
 半年以上続けていた幸せな暮らしが、たった一言を原因にして一瞬で不協和音が鳴り響くようになった。これまでの時間が嘘のように、全く異なる空気が二人の間に漂い始めたのだ。
 かつて日名子が言い放った、結婚生活を続けていくことがどれだけ大変なことか全く判っていない、という言葉が身に染みる。今回の事で幸せな時を継続させることがいかに難しく、しかしとても大切な事なのだと痛感させられたのだ。そんな状態で会社に向かい自分の席に着いた時、真っ先に様子がおかしいことに気付いたのは、本坂だった。
「どうかしましたか?」
「え? 何が?」
「何か怒っています?」
「別に」
「やっぱり。朝から機嫌が悪いようですけど、何かありました?」
「ちょっとね」
「ちょっとって何があったんです?」
 三年以上隣にいて接してきた彼には、すぐ判ったようだ。誤魔化すのも面倒だが、朝一の仕事前から話したくなかったため、
「あとでね」
 パソコンを立ちあげ、仕事の準備に取り掛かりながら目を合わさず答えると、しつこく尋ねていた彼もようやく引き下がった。
「判りました。すみません」
 九時を過ぎれば取引先からや、お客様からの問い合わせの電話がかかってくる。そんな時に不機嫌な声を出して応対していたのでは、プロ失格だ。明日香が怒っていようが、気分が悪いことなど個人的な理由であり、お客様には関係ない。
 気持ちを整え、仕事中は昨日の事を考えないようにしようと言い聞かせ、目の前の仕事に取り掛かった。本坂もすぐに外出していく。月初めの今は、後任がいるとは言えまだ先月の書類の不備を片付けなければならず、まだ忙しい。そのおかげで少なくとも午前中は嫌なことを考える暇など無かった。
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