それぞれの使命

しまおか

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第8章 -②

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「誤解されると困るから言うけど、もう寄付しなくていいと辰馬はずっと言い続けてくれた。当麻さんにそれで納得するよう説得もしてくれていたんだ。だから寄付を続けさせたくて、栄太達に口止めしたんじゃない。恐らく俺と彼女との間にあった件を隠したかったんだと思う。咲季。お前は俺を想ってやったと言いたいようだが、それは間違いだ。結果、こういう事態になったんだから、それは分かるだろう」
「ゆ、由美が示談なんて言葉を口にするから! それこそ示談に背くことでしょ!」
「止めろ! お前の裏工作がこんな状況に追い込んだんだ。いいがかりはよせ!」
 二人の醜い争いなど見たくなんてなかった準は、彼らの仲裁に入った。
「分かった。もういいよ。健吾さんがこれまで寄付をし続けていたのは、自分の意思じゃなく当麻さんと何らかの示談があったからだった。目を覚ましたタッチャンはそれに気づき、辞めさせようとしたけれど当麻さんは拒否し、止められなかった。恐らく健吾さんとの間にあったことだから、口出しできなかったのかもしれない。寄付が本意でなかったのなら、特に意識が戻ってからのこの十年余り、精神的にも厳しかっただろうと想像はできる。そんな状況に我慢ならず健吾さんをおもんばかった咲季さんが、裏切り行為をした。タッチャンはそれを知りながら黙っていた。そういうことだね。だったら俺は示談の中身は聞かないでおくよ」
「ああ、そうか。何故示談したかを掘り下げれば、辰馬君の意思に反する。だから裏切り者が誰か、その動機も分かった今、これ以上聞かないほうが良いと言うんだね。私もそれでいいと思う。但し、咲季さんの今後の扱いは決めておきたい。幹部会を含め、一度裏切った人とこれからも関係を持つことは、やはりできないからね」
 準の意見に同意してくれた亨先輩の新たな提案に、咲季が反応した。
「それなら私が、今後一切幹部会に出ず活動などに関わらなければいいんでしょ。望むところよ。だけどこれを機会に健吾さんの身も引かせて。今回辰馬さんが意識を失ったのは彼のせいじゃない。あとは残った人達で勝手にやって」
「おい、待てよ。俺と咲季の件とは別だ。それにこれは今後の会社の経営にも関わって来る。俺が活動から身を引くことは、アプリの共同開発や販売からも撤退することになるんだぞ」
「そうよ! 勝手な事を言わないで! これは健吾さんと私との間の話よ! いくら彼の妻だからといって、あなたと結婚する前に交わした件だから口を出さないで頂戴!」
 怒鳴り声を上げた由美に続き、則夫が口を開いた。
「僕も準や亨先輩の意見に賛成。昔二人に何があったかは聞かない。だけど今後どうするかは決めないと。アプリの件で白海さんの会社が撤退されたら正直困る。だけど咲季さんにどう責任を取らせるかを含めて、そこは話し合いで決めたい」
「俺も辰馬の意思を尊重するし、大体の動機は分かったからそれでいい。だが咲季をこのまま放っておくのは反対だ。健吾も旦那としての責任がある。この落とし前はつけて貰う」
「ちょっと待ってくれ。確かに俺は辰馬が目を覚ました後、複雑な心境だった。寄付をし続けたせいで、咲季には経済的にも精神的にも我慢を強いたとは思う。それがこんな事態を引き起こしたとなれば、いくら頭を下げたって許されないことだ」
「それは違う! あなたが頭を下げる事なんてない! 近藤達が暴走したのは、彼らが馬鹿だったからでしょ! きっかけの一つにはなったかもしれないけれど、それを全部私達のせいにするのは間違っている!」
「馬鹿野郎! お前は全然分かってない。意識の戻った辰馬は、俺が基金に寄付し続けていると知り、罪滅ぼしのつもりならもうやめろと言ったんだ。辰馬信者ばかりがいる基金参加者の中で、確かに俺は異質だったからな。最初は誤魔化していた。だが何年か経つ内におかしいと気付き、当麻さんを問い詰めたんだろう。示談の内容を知って俺に頭を下げたんだ」
「彼が? 由美と健吾の問題だから、寄付を続けるのはしょうがないとでも? 知っていながら、あれだけの額を貰い続けるってどうなのよ。そんな奴だから、私は許せなかったの」
「違う! 示談の内容に口を挟めないとは言った。だがその代わり将来絶対返す、損はさせないと断言したんだ」
「いや、それは無理でしょう。基金の管理は、俺達幹部会と弁護士や会計士でやっているじゃないですか。タッチャンも参加してはいるけど、勝手になんかできない」
 準が指摘すると、彼は頷いた。
「ああ。だから辰馬は何とかしようとしていた。CMTなどの活動で則夫の会社が開発したアプリを使い始めただろう。それに俺の会社を絡ませようとしたのは、辰馬の考えだ」
「え? そうだったの? ああ、でもそういえばタッチャンに言われた気がする。CMTの活動が今後成功してうまく広まれば、アプリの収益はかなり見込めるって話を僕がした時、これまで寄付してくれた分を則夫にも返さないとなって。あれは白海さんの会社にも利益が上がるようにしたいって話だったんだ」
「その通りだ。辰馬はずっと考えていたんだよ。世の中の役に立ちたい気持ちが第一だったけれど、その次にこれまで寄付してくれた基金参加者へ、少しでもお金を返したいって」
「そういえば俺も聞いたな。スマホのように世の為になるものを産みだせば、必ず他人にも利益をもたらす。そうでないものは消えてしまうし、続かないって」
「栄太君、それは哲学者であり経済学者でもあるアダム・スミスが『国富論こくふろん』に書いた、個人が自分の利益を追求する行動が、自分達が全く意図しないうちに、他の人にも利益をもたらすことがある、という自己利益のことだよ。そうか。彼は人の役に立ちたいという自分の利益を追及すれば、やがて周囲にも利益をもたらすと信じていたんだな」
「そ、そうかもしれません。辰馬さんは色々勉強していく中で、経済学にとても興味を持っていました。日本語に訳された国富論も、確か読んでいたはずです」
 由美はそう言って手で顔を隠し、やがて嗚咽を漏らし始めた。
「どうしたんだ」
 準が声をかけると、彼女は涙ながらに言った。
「わ、私が意固地いこじだったから。辰馬さんの言う通り健吾さんの寄付を打ち切っていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。自分のことしか考えなかった、私のせいだった」
「いや、そうじゃない。俺が馬鹿な真似をしなければ、辰馬を殴ることも無かった。罪を軽くしようと誤魔化してさえいなければ、こんな思いを君にさせずに済んだんだ。申し訳ない」
「おい、待て。何だ。辰馬を殴ったことと、当麻さんとの示談に何か関係があるのか」
「栄太、辞めて! 示談の内容は知らなくていいと言ったじゃない!」
「何だよ、咲季。そういえばお前、あの抗争があった日、当麻さんと一緒にいたはずだよな。もしかしてこいつと結婚してから示談の内容に気付いたんじゃなく、もっと前から何があったかを知っていたのか。当麻さんとお前のせいで、辰馬は健吾に殴られたのか」
 聞かなくていいとは言ったものの、辰馬が意識を失った事件に示談の中身が関係しているとなれば、準としても断じて許すことはできない。父と共に三代続けて辰馬を見守って来たのだ。あの頃の苦労や苦悩を考えれば当然だろう。
 しかし問い詰めれば、公にしたくなかった辰馬の意向に背く。則夫も亨先輩もそう考えたのか、栄太の言葉に続くことを押し止めているように見えた。
 するとそうした空気を察したのか、健吾が口を開いた。
「もう時効だ。俺は当麻さんがいいと言うなら、みんなに聞いて貰いたい。こんな秘密を抱えたまま、辰馬の意識が戻らない中で物事を進める訳にはいかないと思う」
「やめて! 話が違うじゃない!」
「咲季は黙っていろ! お前が余計な真似をしたから、こうなったんじゃないか」
「な、何よ、その言い方! 私が全部悪いって言うの?」
「お前だけのせいにはしない。元々俺がいた種だ。責任は全て俺が取る。全部話した上で、咲季と俺を幹部会から外してアプリからも手を引けと幹部会で決まれば、素直に従う」
「それじゃあ、払い損じゃない!」
「黙れ! 結婚前に決めた件を、お前も承知したんだ。俺が働いて稼いだ金をどう使おうが勝手だろう。それが嫌なら出ていけ!」
「わ、別れると言うの?」
「それも致し方ない。俺と咲季の考えが大きく違えば、そんな結論になって当然だろう」
「ちょ、ちょっと待って。話が少しずれてきたよ。二人の離婚話は別でやってくれないかな」
 言い争いが続く二人に割って入った則夫がそう言ったが、由美は首を振った。
「いいえ、違わないわ。私は裏切った咲季を絶対に許せない。だけど健吾さんとの件は、私が間違っていた。憎しみからは何も生まれない。そう言った辰馬さんの言葉をしっかり聞けば良かった。生まれないどころか、結果的に余計な不幸を招いて自分の首を絞めただけ。もし二人が別れて咲季だけが抜けるというのなら、健吾さんは残ればいい。今まで通り須和君と協力して、アプリ開発と販売をして儲けを得るというのが、辰馬さんの望みだから」
「なるほど。一つの落とし所だね。健吾君を外せば辰馬君の意思に反する。とはいえ咲季さんが仲間でいられたら困るのは私も同意見だ。何らかの罰は受けて貰わなければいけない」
「ほう。確かに亨さんの言う通りかもしれない。健吾が何をしたのかは気になるが、もう昔の話だ。辰馬の頭を殴った理由に関わっているようだが、それよりも今は咲季の処遇が優先だ。幹部会を外れても健吾の妻のままでは再び情報が洩れ、またいつ俺達の邪魔になるか分かったもんじゃない。離婚してすっぱり関係を絶つというのなら、多少は納得できる」
「冗談じゃない! 何故私が、健吾と離婚しなきゃいけないのよ! そもそも由美が悪いんでしょ! あんたがあの時、健吾におかしなことを言わなければ、彼も相手にしなかったのよ!」
「な、何てことを言うの!」
「そうでしょう! 私が健吾を好きだと知りながら、あんたが余計な真似をしたからよ!」
「ふざけないで! 余計な真似をしたのは咲季でしょ! 採掘場から逃げる途中で、あなたが健吾さんを見つけて声をかけなければ、私が抗議することもなかったのに!」
「自分のことでもないのに、おかしな正義感を出すからじゃない!」
 二人の罵り合いが激しくなり、今にも由美に掴みかかりそうな咲季を健吾が止めた。
「馬鹿野郎、お前は黙れ! 当麻さんは当然のことを言っただけだ! それに何を言われたとしても、俺の行為は正当化できるはずがない。お前はまだ分かっていないのか!」
「な、何よ! 私は、あなたのことを想って、」
「俺を想ってかもしれないが、その考えは歪んでいる。それで俺のことを真剣に考えてくれたとはならない! それがまだ分からないようなら、もう俺に近づくな!」
 冷たく突き放され、強い衝撃を受けたのだろう。咲季の表情は真っ青になっていた。そしてしばらく沈黙をした後、絞り出すように言った。
「やっぱりあなたは、私より由美が好きだったのね。分かったわ。さようなら」
 三人の激しいやり取りに圧倒され、どう間に入っていいか分からず傍観していた準達は、捨て台詞を残し病室を出ていく彼女の背中を、ただ見送ることしかできなかった。
 荒っぽく叩きつけるように閉められたドアの音で、ようやく我に返ったらしい則夫が、恐る恐るという口振りで呟くように言った。
「は、白海さんが当麻さんを好きだった、というのは、ど、どういう意味なのかな」
「違う。そんな話じゃない。あいつは誤解しているだけだ」
「そうよ。でも驚いた。咲季がいまだにあんなことを言うなんて。健吾さんは、生意気で辰馬さんを好きな女が気に入らなかっただけなのに」
 準はそこでようやく、抗争があったあの日の夜に何が起きたのかが、漠然と理解出来た気がした。準が辰馬の姿を見つけた時、恐らく由美の抗議を受けた健吾は彼女を襲っていたのだろう。
 それを助けようとして間に入った辰馬だったが、油断して背後を取られ襲われたに違いない。あの時、別の誰かが逃げたかに見えたが、あれは咲季と彼女のバイクに乗った由美だったのだろう。
 健吾が辰馬に対する傷害で逮捕された後、裁判においては抗争でやられた仲間の仇を取ろうと殴りつけた、と彼は主張していた。だが本当は違ったのだ。
 しかし由美は何らかの理由で襲われた件を表沙汰にしたくなかった為、裏で示談をした。もちろん健吾も真実が明らかになれば、より罪は重くなったはずだ。よって示談内容に、意識が戻らない辰馬に対する基金への寄付を条件に加えたと思われる。
 そう言えば元々あの抗争は、女性に乱暴を働きながらも親の金で示談し、無かったことにするという卑劣な行為を繰り返していた男がいて、それが奪洲斗露異の幹部だと知った辰馬は激怒し、そいつを叩きのめそうと片端から喧嘩を売った為に起こったのだ。
 その犯人が健吾だったのではないか、という噂は後で耳にした。しかし当時は辰馬が昏睡状態となり、健吾も逮捕され少年刑務所に入った事で、真相はうやむやになってしまったのだ。
 また彼に襲われた女性の中に、由美の親戚がいたとも聞いた覚えがある。もしかすると抗争の日、健吾に好意を持つ咲季が彼を見つけ声をかけた際、由美が抗議したのかもしれない。それで逆切れした健吾が襲ったのだろう。だとすれば、これまでの細切れの話と合致する。
 性的被害の事実の隠蔽であれば、四十年以上も昔で地方の田舎だった羽立ならごく自然だ。それを公表したくない本人の意向を尊重した辰馬は、代わりに咲季の犯した罪を黙殺すべきと考えたとしても矛盾しない。今の状況を考えれば、彼の判断は正しかったと言える。
 こうした背景により由美は独身を貫き、自分のせいで意識不明になったと責任を感じ、周囲から好奇の目に晒されても、献身的な見舞いを続けていたのだろう。
 さらに辰馬は彼女を助けられなかった後悔から、生かされた命を賭してでも今度こそ性被害を受け苦しむ女性達を守りたいと考え、CMTなどの活動を始めたのかもしれない、と準は今になって気付かされた。
 だがこの場で何と言うべきか、かける言葉が見つからない。則夫や栄太、亨先輩も同じ想いだったのだろう。また沈黙が続いた。
 そんな時だ。突然、病室内でアラームが鳴り響いた。
「しまった!」
 目を離した隙に、辰馬の容態が急変したのだ。心電図モニターに異常な数値が出ている。しかもてんかん発作を起こし、波を打つように体がびくびくと動いていた。
「おい! 大丈夫だろうな!」
 栄太が叫び、ベッド脇に近づいてこようとした為、それを制止した。
「ちょっと、どいてくれ! 全員、病室を出て!」
 準が指示したと同時に、竜と三人の看護師がなだれ込むように病室内へ入って来た。アラームが鳴れば、すぐ彼らに知らせが届くように設定されていたからだ。
「脳波にも異常が出ている! 患者の体を押さえて! フェノバルビタールを注入!」
 竜が看護師に指示し、発作を沈める薬剤を手にした。現在の主な担当医は彼であり、判断に誤りはないと思いながらも、準は薬の投与量が正しいかを目視で確認する。
 慌ただしくなった病室から、看護師達に誘導された栄太達が外へ出ていく。中にとどまろうとした由美も、亨先輩の手で引きずられるように連れ出されていた。
「呼吸も浅くなっている! 気道に問題はない! 酸素吸入の準備!」
 辰馬の口を開け、ペンライトを当てて覗き込んでいた竜が更なる指示を出す。
「竜先生、しんマだ」
 準の声掛けに彼は頷き、看護師達に抑えられた状態の辰馬の胸に手を当て、強く推した。それを三十秒ほど続けていると、数値が落ち着き始めた。
 また薬が効き始めたのか、酸素が行き届いたからか、てんかん発作も少しずつ和らぎ始める。脳波も落ち着いているようだ。
 それでもまだ油断できない。彼の場合、いつ、何時、何が起きてもおかしくないのだ。
「心マは一旦止めて様子を見よう」
との準の指示に、竜は再び頷いて動きを止めた。
「薬の注入は、もういいですか。それとも追加しますか」
「いや、まだいい。彼の生命力を信じよう」
 準達は固唾を呑み、モニターと辰馬の様子を三十分ほど見守っていた。
 やがて発作は完全に止まり、モニターの数値や波長などはすべて正常に戻った。その間、看護師達は一人、また一人と病室を出ていった。他にも見るべき患者達がいるからだ。
 気づけば竜と準の二人だけになっていた。
「もう大丈夫かな」
 少し砕けた口調に戻った竜の問いかけに、準はふうっと大きく息を吐き、頷いた。
「ああ。取り敢えず、今回は何とかしのいだってところだろう」
「父さん達は、ずっと病室にいたんだよね。急変するまで予兆はなかったの」
「何もなかった。いや、ただ気付かなかっただけかもしれない。幹部会での話に気を取られていたからな。すまない。医師として反省すべき行為だった」
「でもずっと目を離してはないよね。それとも容態が急変するきっかけでもあったの」
「きっかけ、か。もしかすると、意識を失っていても耳は聞こえていたのかも、な。揉めていた俺達の言い争いに、彼は心を痛めていたのかもしれない」
 辰馬がこのまま再び長い眠りにつくようなら、いずれは準の代わりで幹部会に参加する資格を持つ彼だ。話しておくべきだと判断し、簡単に経緯を説明した。
 ただし準が思いついた由美と健吾の関係については、詳しい言及を避けた。
「そんな大変なことになっていたんだね。じゃあ、白海夫妻は離婚するかもしれないんだ」
「本来、基金への参加と夫婦間の問題は分けるべきだが、そういう訳にはいかないだろうな。まあ、今すぐ離婚をしないまでも、しばらく別居するなど距離を置くことにはなるかもしれない。そうでなければ、少なくとも健吾さんはやりにくいだろう」
「そうだろうね。今回辰馬さんがこうなった影響で、CMTの活動やアプリは日本どころか世界中の注目を浴びたじゃない。則夫さんのところはもちろん、健吾さんの会社も忙しくなるはずだし、これからが稼ぎ時でしょ。これまでの多額の寄付を回収する良い機会だから、それを逃す訳にはいかないよね」
「そんな言い方をしたらふたもないが、そういうことになるな。健吾さんはさとい人だし、タッチャンの意向でもある。いずれにしたって今後咲季さんを、幹部会で受け入れることはまずない。そう考えれば、結果は見えている。あの様子だと、義理や利を捨ててまで咲季さんと一緒に居続けるのは無理だろう」
「そうなんだね。だけど辰馬さんが意識を取り戻したら、何て言うかな。だって咲季さんが裏切ったと知りながら、皆に黙っていた訳でしょ。それにしてもすごい人だよね。これほど長い間、父さん達が見守り続けていた理由が、この年になってようやく分かった気がする」
 フェスにも参加し、辰馬の立ち振る舞いなどを肌で感じたはずの竜の言葉に嘘はないと感じた準は、今がその時かもしれないと思い、勇気を持って言った。
「そうか。竜はタッチャンに、また目を覚まして欲しいと思うか」
「あ、当たり前じゃないか。俺、担当医だよ。患者の回復を願わない医者なんていないよ」
「そうだよな。だったらあの時のような奇跡を、もう一度再現させてみるか」
 一瞬、きょとんとした表情を見せた竜だったが、視線を逸らさずじっと真剣に見つめる準を見て理解したのだろう。顔をこわばらせた。
 その様子に確信を得た準は、少し砕けた口調で話を続けた。
「どうした。いやもちろん、危険な賭けにはなるさ。一か八かだ。下手をすれば命を落とすかもしれない。そうなったら、俺達は殺人犯として逮捕されるかもしれないな」
「や、やめてくれよ。い、一体何をするつもりなのさ」
「点滴を通してを投与し、激しく脳を揺さぶるんだよ。二〇一一年三月十一日の時のように、な。そうすれば、また意識を取り戻すかもしれない。やってみるか」
 引き攣った顔がどんどん青くなった竜は、もだえ苦しむように声を出した。
「と、父さん、き、気付いていたのかよ。い、いつから」
「気付いたのは俺じゃない。死んだ親父だ」
「晋じいちゃんが? え? でも、あの時はもう、この病院を辞めていたよね」
「ああ。だが震災で揺れたあの時、病院にいただろう。しかもその少し前に、竜が出ていく姿を見ていたらしい。タッチャンが目を覚ました後にすぐ脳や血液検査をした俺は、最初親父を疑った。それはそうだろう。セコバルビタールなんて薬物が、体に注入されていたと分かったんだ。あの時、そんなものを扱えるのは親父だけだと思ったからな」
 とは、主にてんかんの治療で使われた薬物だ。しかし海外では安楽死させる際に使用する薬物としても知られ、日本では昨年の二〇二三年に販売が中止された。現在流通しているものが無くなれば、入手不可能な薬物である。
 顔を伏せた竜が沈黙した為、続けて言った。
「担当医師の俺が指示していない薬物が、担当患者の体内から見つかったんだ。しかも下手をすれば死に至るものだったとなれば、本来は警察に通報しなきゃならない。だが二十九年余りの眠りから、奇跡的にもタッチャンは意識を取り戻した。だから俺は黙殺した」
 それにあの震災騒ぎに紛れ、セコバルビタールを含む薬品紛失の責任を準が被ったのも、事の真相が暴かれることを恐れたからだ。
「そ、それは医師としてあるまじき行為で、殺人に加担したと同じ、投与した人物と同罪だ」
「ああ、そうさ。親父が犯人だと思った俺は、罪を被る覚悟を持った。お前はあの時、受験を終えて東大に合格したばかりだったから、気付いていたんだろう。基金に多額の寄付を続けたせいで、北目黒家の財政が破綻しかかっていたと。最初はそれで親父がタッチャンを殺そうとしたのか、と俺は思った。三十年近くも続けて来たんだ。もういいと諦めたのかもしれない、とな。しかし意識が戻ったおかげで基金への寄付がさらに集まり、則夫や健吾さんが俺達以上に寄付をしてくれたから、その後何とか北目黒の家は持ち堪えることができた」
「医師として今後のリハビリを続けるだけで十分だから、基金への寄付はしなくていいと幹部会で言われたんだよね。それで俺は無事大学に通えるようになったし、その後も脳外科医になる為の海外留学だってできた。だけど今は後悔している。とんでもない行為だったと分かっているよ。警察に突き出されてもいい。覚悟はずっとしてきたから」
 思い詰めた表情を浮かべつつ、決して自暴自棄の発言でないと分かった準は首を振った。
「いや、今更そんなことはしない。さっきお前が言ったように、俺も共犯だ。ついでに言うと、死んだ親父もそうだった。竜がやったと気づいていたのに、ずっと黙っていただけじゃない。自分が犯人だと俺に思わせたまま、親父は死んだんだ」
「えっ、じゃあどうして俺が犯人だと思ったんだよ」
「俺だけに残した遺言だよ。最後まで打ち明けるかどうか、迷っていたようだけどな。しかし何も知らないまま死んで、その後何か起こったらまずいと考え直したのだろう。または再びタッチャンが意識を失った時の為に、竜がセコバルビタールをどれだけ投与したか、知っておいたほうが良いと思ったのかもしれない」
「そ、そんな」
「今となっては、どういう意図だったのか知る由もない。だが一応聞いておくか。薬品は俺達の目を盗んで、病院からこっそり持ち出したんだろうが、あの時どれくらい投与した」
「ご、ごめん。よく覚えてない。あの時手が震えて、全部は打てなかったと思う。でも多分、」
 彼が口にしたのは、危険と言われている投与量に届くかどうか、といった微妙な数値だった。
 辰馬は薬が原因により死んでいたかもしれないし、そこまでには至らなかった可能性もある。また激しい地震の発生による脳への刺激が、どの程度影響したのかも分からない。
 つまり彼が目覚めるという奇跡は、全て偶然の産物だったと今更ながらに思い知った。
「そうか。分かった。これはお前と俺だけの、墓まで持っていく秘密だ。いいな」
「う、うん。でも、セコバルビタールはもう手に入らないよね。確かこの病院でも、あれからしばらくして購入を止めたと聞いているから、在庫はとっくになくなっているし」
 しかし準は頷かなかった。その様子を見て気づいたのだろう。そこでポケットから瓶を取り出して見せると、彼は目を大きく見開いた。
「これも内緒だが、親父はずっと自分のクリニックで隠し持っていた。タッチャンがまた意識を失ってから、俺はいつも持ち歩くようにしている。いつ何時、万が一の事態が起こるか分からないからな。もし息を引き取る恐れが高くなったら、俺はいつでも注入する気でいた。例えそれで俺が逮捕されたとしても、タッチャンの目が覚めさえすればそれでいいと思っている。例え効果がなく死んだとすれば、それは運命だったと諦めるしかない。お前以上に、俺はずっと覚悟を持って今日まで生きて来た。タッチャンは俺の全てであり希望だからな」
「いや、違うよ。今となっては、この国の希望と言っても過言じゃないと思う。それだけの価値がある人だったと、俺もようやく気付いた。そんな人を、一時の迷いだったとはいえ、殺そうとしたなんて馬鹿だった。ごめんなさい」
「分かってくれればそれでいい。混沌とした世界に今必要とされているのは、人々から圧倒的な支持を受ける強力なリーダーだ。それはもちろん独裁者じゃない。私利私欲に走らず、あくまで弱きを助け強きをくじく人物であり、それはタッチャンしかいないと俺は思っている。もしタッチャンが起こした行動と、則夫の開発したアプリが全世界に広まるような社会になれば、人に対する善意がお金に代わり、それは大きな原動力になる。もちろん悪用する奴らも必ず出ては来るだろう。しかしそれすら飲みこんでしまうほどの善意が、人の心の中に生まれ皆が行動すれば、世の中は変わるしずっと住みやすくなるはずだ。俺はそう信じているし、そうなって欲しいと願っている。そんな理想に近づいた世界の一端を、どうしてもタッチャンに見て欲しい。その為だったら何だってやる。俺がタッチャンを守るんだ」
 竜の前で準はそう固く誓い、酸素マスクを嵌めて眠る辰馬の顔をじっと見た。すると、まるでこれまでの会話を全て聞いていたかのように、うっすらこぼれた涙で彼の頬は濡れていたのだった。  (了)
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