メイ・ディセンバー ラブ

しまおか

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愛可理~①

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 愛可理が東京で就職し、もう七年目になった。短大を合格して上京して来たため、東京での生活も九年目となり今年で二十七歳だ。
 仕事でもお局様とまでは呼ばれないが、中堅どころとして頼りにされる年代となった。後輩指導なども加わり、忙しいが充実した毎日が続いていた。 
 プライベートでも、短大時代から付き合いだして八年目になる雅史まさしという一つ年上の彼がいて、今のところは良い関係が続いている。
 ただこの年になると、どうしても考えるのは結婚という二文字だ。事実、会社の周りでもどんどんと寿退社をしていく先輩や同期、さらには後輩達がいた。
 私が新人の頃から世話になっていた四つ上の遠藤も、三十歳直前の去年に結婚。さらに“四大卒の人じゃなきゃできない仕事なのか発言”をした、あの千絵も去年寿退社した。今の私と同じ年で、二つ年上のIT関係の役員をしている人と結婚したらしい。
 さらに後輩の裕子も、ここ最近ようやく人並みの仕事ができるようになってきたと思った途端、社内の男性と今年結婚して寿退社することが決まっている。
 他にも同期の女性達が、二十五歳になった一昨年辺りから今年にかけ、次々と結婚し始めた。私が会社で仲の良い同期で残っているのは、もうりんぐらいしかいない。
 彼女なら、しばらく私より早く寿退社する予定はないだろう。なぜなら今、禁断の恋愛をしているからだ。皮肉にも彼女は、過去に起こった不幸な出来事になぞらえる行動をしていた。
「まだりんは、あの人とお付き合いを続ける気なの?」
 愛可理は時々二人っきりで飲む酒の席で、そう絡むことがあった。誰が聞いているか判らない為、敢えて名前を伏せそう告げると、彼女は毎回のように、こう切り返してくる。
「いいじゃない。恋愛は自由よ。例え相手に妻子がいたって、好きだという気持ちは、誰にも止められないの」
 相手である一回り以上年上の長谷川は、彼女がいる課へ三年前に異動してきた課長だ。全国に転勤がある男性総合職の彼は、奥さんと中学生の娘さんとを大阪に残し、東京へは単身赴任できていた。
 その長谷川課長が月一、二回の頻度で週末大阪に帰る際、娘さんへお土産を購入して渡していたという。だが世の多くの男性は、年頃の若い娘が欲しがるものなど、何がいいかなんて判らない。
 その為課長もすぐにネタが尽き困っていたところ、彼女がその相談に乗ったことをきっかけに、去年から二人の付き合いは始まったという。
 愛可理は彼女の両親が離婚し、その原因がどんなものだったかを以前聞いたことがある。だから課長と不倫していることを始めて知った時は耳を疑ったし、とても信じられなかった。
 まさしく彼女は、東京に単身赴任していた自分の父親と同じ銀行に勤め、娘へのお土産を選ぶことをきっかけとして付き合い、深い関係となった女性と同じ道を辿ろうとしているのだ。
「りんが辛い思いをしたように、あの人の娘さんや奥さんも同じ思いをするだろう、なんて考えたことはないの?」
 愛可理は一度思い切って、そう尋ねたことがある。彼女は一瞬黙ったが、それでも言ったのだ
「他人の事を考えていたら、好きな人となんか一緒にいられないよ」
 その重い呟きのトーンから、胸の奥底では苦しんでいることが感じられた。
「無理して、そんな辛い恋愛しなくてもいいじゃない。あなたも苦しんで、下手すると相手の家庭を壊して、あなたの母親やあなたのような思いをあの人の娘も経験するのよ。そこまでして付き合わなきゃいけない理由が何かあるの?」
「そんなのないわよ。理屈じゃないじゃない、人を好きになるって。いいでしょ。私の事は放っておいて」
 彼女はそうやって、いつもこの話を打ち切るのだ。そう言われると、それ以上深く突っ込むことができなくなる。彼女とは入社前から知り合って、とても気の合う友人だ。
 名前の読み方が同じだけでなく家庭環境も似ており、二人共親を捨てて逃げるように東京へやって来た。さらに男性の好みなども似通っている。頼りがいのある人が好きで、お姫様抱っこをしてくれるのが夢だと、二人して昔からの秘密を打ち明け、
「同じだ~!」
と手を叩いてはしゃいだこともあった。
 女性同士でばかりつるみ、悪口を言い合う集団にはなるべく属さないようにする点も同じだ。表面的には愛想よく振る舞っているけれど、心の中で涙を流すことが多々あるなど、二人の共通点は少なくない。
 だからこそ付き合いも長いけれど、彼女が長谷川と付き合いだした頃からおかしくなった。以前はこんな子ではなかったのに。
「付き合う男によって、女の性格も変わると言うからね。愛可理もそんな他人の恋愛を、とやかく言うのは止めた方がいいよ。自分の父親を奪った女と同じ事をするなんて、普通じゃないし。特に熱くなっている時は、周りが何も見えなくて人の話なんか聞きやしないだろう。恋は盲目って言うだろ。そのりんって子も、今はその男以外、何も見えなくなっているんだよ。本人が言うように、しばらく放っておくんだな」
 愛可理が彼女の話をすると、雅史はいつもそう言ってこの話題には乗ってこない。久しぶりに平日の夜、待ち合わせをして食事することになったのだ。その会話の一つに過ぎなかったが、気だるそうな彼の反応に不満が募る。
 男の人というのは、この手の恋バナには興味ないのかと思えば、そうでもない。積極的にでは無いが、どうしても断りきれない合コンに愛可理も参加させられることがある。
 そこで意外に思ったのは、男性でもそのような飲み会だと、男女の付き合いに関する話題に、花を咲かせることが結構あった。
 けれど雅史自身は、余り好きじゃないらしい。それともわざと避けているのだろうか。彼との付き合いもかなり長くなった。お互いの年齢も年齢だ。結婚適齢期といってもいいだろう。
 それでも彼の口からは、結婚の“け”の字も出たことが無い。そう匂わせることすらないのだ。
「だいたいどこの会社も課長なんて奴は、碌でもない奴が多いんだよ。うちだってさ、この間なんて前から言い続けていたことが、部長の一言でコロッと百八十度態度変えて、あれやこれや言いだすんだ。言われたこっちは、たまんないよ。お客様第一とか言いながら、結局どっち向いて仕事してんだって言いたいよ、全く」
 最近変わった新しい課長とウマが合わないらしく、いつものように愚痴をもらし始めた。以前ならこんなことは無かった。
 彼は一つ上だが四大卒なので、今入社六年目だ。その為社会人になったのは愛可理の方が早い。そんな愛可理が入社したての頃、右も左も判らない事が多い仕事の話題を彼の前ですると、初めはうんうん、と聞いていてくれていた。しかし回数を重ねる度に顔を曇らせ、怒り出した事がある。
「俺の前で、仕事の話なんかすんなよ。まだ学生だって馬鹿にしてんのか」
 愚痴ではなく、ただ会社でこんなことがあった、こういうところがまだ慣れない、と伝えていただけのつもりだった。それなのに、当時就職活動で苦戦していた彼は、焦りを感じていたのだろう。よって二人の間では、会社の話題を禁止するようになった。
 そうかといえば彼が口にする話は、飲み会で友達が酔っ払って隣のお客に絡んだとか、看板壊しちゃったとか、ぐったりした女子学生を三人がかりで運んだとか、道路で寝ちゃったとかそんな話ばかりだ。
 学生らしい話題と言えばそうだが、もう社会人となった愛可理からすれば、年上の彼がとても子供っぽく思えた。学生気分のままでいることに、苛立ちを覚えることも良くあった。それで一度二人は、別れる寸前まで至ったことがある。
 しかし彼が無事就職をしてから、関係は修復された。別の会社だが同じ会社員となり、社会人の厳しさを知りだしたからだろう。ようやく二人の話題や価値観が、再び近くなったことも要因の一つだ。
 置かれた環境等で考え方や行動にも影響し、一時期離れかけたけれど、なんとか二人は歩み寄ることができた。彼も会社の話をするようになったおかげで、愛可理も愚痴にならない範囲で、仕事の話題を口にできたからかもしれない。
 しかしここにきて、二人の立場が再び溝を作り始めていた。彼は男性総合職としてバリバリと働く傍ら、愛可理は事務職の中堅となった。それでも抱える責任の重さは、男性の方が明らかに重い。
 その分給料もいい。しかし彼はそういった自覚が強い分、愛可理の会社にもいるような、女性事務職を軽く見る発言をし始めたのだ。
 もちろんそんな男性社員ばかりでは無い。女性事務職が社内でしっかりやってくれているから、男性が自由に働くことができると公言し、女性に対し差別することなく接する人達もいる。
 だが女性事務職は、仕事が慣れた頃に結婚して辞めていく人も確かに多い。その為期限付きの腰かけで、仕事に対する責任感や会社への想いも、男性社員より希薄だと思われがちだ。
 そうでは無いと愛可理は言うのだが、雅史に反論された。
「でも以前言っていた、仕事が余りできない裕子とかいう後輩も、結婚して近々辞める予定なんだろ? 四大卒なのを鼻にかけた千絵とか言う奴も去年、寿退社したよな。現実はそんなものだよ」
 だから何よ、一緒にしないでと言いたいところを、ぐっと堪えて彼を睨む。そんなこともお構いなしに、彼は続けた。
「俺達なんかさ。責任ばかり多くて、仕事も増える一方だよ。バブルがはじけて不況の真っただ中だから、俺達の下はさらに就職難で採用を絞っているんだ。そのせいで入ってくる後輩が少ない分、いつまで経っても俺達が下っ端仕事をやらされるんだぜ。なのにもう入社六年目だから責任ある仕事をやれと、上からはどんどん仕事が降りてくる。バブル前に入社した課長達はいいよ。世の中が右肩上がりの経済だったから、普通にしているだけで業績は上がっていたんだろう。後輩も大勢入社していたから、面倒な仕事があれば下に振れたはずだ。俺達はそれができないんだぜ」
と、また氷河期に入社した自分達の世代を嘆き、バブル以前に入社した管理職を馬鹿にする愚痴を言いだす。
 最近はこんなことばかり言うようになった。以前別れの危機があった時のような、少しずつ互いの意識にずれが生じ始めたのだ。 
 将来の夢を熱く語っていた学生時代とは、うって変わった現実の中の彼に対し、魅力を感じなくなった自分がいることに気がつく。
 そんな時、愛可理はふと年下の彼達の事を思い出す。今の雅史と正反対で、彼らは夢に向かって走り続けている。二人共りんや愛可理を追うように、夢を実現する為に田舎から上京してきた若者だ。
 例えばデザイン科のある専門学校に中卒で入り寮生活をしている一幸かずゆきは、学費と生活費を稼ぐ為に日々アルバイトをしていた。いつでも将来の夢を楽しそうに語り、その情熱を失わず一人で必死に東京で暮らしている。
 一方の光輝は、中高一貫の進学校で学問に励み有名大学へ進学し、一流企業へ就職したいとの野望を抱いていた。
 上京したての頃の彼達は、とても危なっかしくて見ていられなかった。ただ理想を追いかけているだけの、子供にしか思えなかったものだ。
 しかし目の前にいる雅史に比べれば、彼らの方が間違いなく人として、楽しく生き生きとしていたと思う。
 今の彼の方が、高収入で安定した職に就いていることは確かだ。しかしそれが、男性を評価する時に大切なものかどうかと考えると、そう思えなくなってきた。
 これもバブル時期にもてはやされた、所謂いわゆる三高という名のブランドを持った男達と、数多く接してきたからだろう。不況が続くこの時代になると、彼らの多くはかつての輝きをどんどん失っていった。 
 そんな姿を間近で見てきた愛可理達にとって、かつての彼らのような純粋さの方が、ずっと眩しく尊く感じられる。
 愛可理とりんは、彼らが上京してから何度か誘われ、東京の街で遊んだことがあった。そういえばこちらに来てしばらく経った頃、りんに紹介したことがある。
 偶然彼女にも田舎で可愛がっていた男の子が、上京していると聞いたからだ。それなら四人で会おうという話になり、新宿で待ち合わせたのが最初の出会いだった。
 新宿アルタ前の広場で待ち合わせ、愛可理が約束の十時より少し前にそこへ着いた時には、既にりんと彼らが待っていた。その様子は、まだ慣れない都会の人の多さに怯える、子ヤギを連れたお姉さんといった印象を持った記憶がある。
 その為笑いをこらえながら近づき、まずはりんに声をかけた。
「ごめん。待たせちゃった?」
「ううん。少し前に来たばっかり。丁度今、三人の紹介が終わったところ」
「じゃあ、私は彼女と同じ会社の同期の岸本です。名前も彼女と同じ“あかり”と言います」
 そう言って頭を軽く下げると、彼女が言った。
「そうなの。だから混同しない為に私はりん姉、あなたはあい姉と呼ばせようと勝手に決めた所。彼らの呼び名も紛らわしくないよう、一幸は、上の“一”を取って“いっくん”、光輝は下の“輝”を使って“てるくん”が良いって言ってたんだけど。まずかった?」
 愛可理達の間では別の呼方があったものの、確かにこの四人でなら、区別しやすい方が良い。その為了承し頷いた。そこで改めて四人で紹介し合った後、多くの待ち人達でごったがえすアルタ前の広場を離れた。
 とにかく行こうと歩き始めたが、年下の二人はまだ慣れていないのかぎくしゃくしていた。しかし愛可理達が久しぶりの新宿の街を楽しんでいると、いつのまにか四人での会話は弾み始めた。
 一幸と光輝も意気投合したようで、四人は時間が過ぎるのを忘れるほど暗くなるまで休日を過ごし、別れた。それからは四人で会う機会が多くなり、また仲良くなった年下の彼らも二人だけでよく遊ぶようになったと聞いている。
 ただ今年に入り、光輝が受験に向けて本格的に勉強し始める学年になった事もあり、四人で会う機会はめっきり少なくなっている。
 あれからもう三年が経つ。その間に、りんは長谷川課長と付き合い始めた。愛可理は思った。彼らはこの事に気付いているのだろうか、と。もしあの二人が彼女と課長の関係を知ったら、どう思うだろうか。
 彼等にとって私達は初恋の相手であり、昔からの憧れの人だという。東京に出てきた、それぞれのきっかけも聞いていた。愛可理達が田舎から逃げるように東京へやってきたと同じく、彼等もまた私達を追いかけるように、上京してきたのだ。
 彼らの私達に対する感情は、愛情に近い。しかし愛可理達は、あくまで彼らに対し、可愛がっていた近所の男の子として接してきた。 
 それぞれに付き合っている相手は別にいることが、それを証明している。りんが課長の前に別の彼氏がいた事や、愛可理には雅史という恋人がいる事も、彼らは知っていたはずだ。
 しかし二人はその上で、一人の女性として慕い続けてくれている事に勘づいていた。とはいうものの、表だって告白された訳でもない。それに彼らだって、同世代の女性と付き合っていたぐらいだ。
 けれど時々感じる彼らの視線は、自惚れでなく愛可理達に対する好意が感じられた。それを踏まえた上で彼らが今の彼女を見て、心配せずにいられるだろうか。
 りんの過去は、幼い頃から慕っていた彼なら当然知っているはずだ。愛可理は一度連絡を取り、彼女の件を相談してみようと考えたこともある。だがそれは辞めた。
 愛可理とりんが親しいように、今は彼らも親しい間柄だ。片方に告げれば、もう一方にも必ず話は漏れるだろう。自分は雅史という彼氏がいる。りんは不倫だが、別に愛する人がいる点は同じだ。
 それなのに、自分の事は棚に上げていいものかと躊躇した。もちろん独身の彼との恋愛と、妻子ある男性との付き合いとは違う。特に彼女の場合は、過去における事情も異なる。
 ただ彼らの持つ想いが強いことも承知していた。よって事情を聞けば、他人事でないと思うかもしれない。下手をすれば、大騒ぎする可能性もあった。
 男気の強い二人の事だから一肌脱ごうと、長谷川課長の家やもしくは会社にまで押しかけて来そうな気もする。そんな恐ろしい修羅場を想像した時点で、愛可理は考えを打ち消した。やはり教える訳にはいかない、と一人で頭を振った。
「何やってんだ? 頭が痛いのか?」
 雅史が心配そうに、顔を覗いていた。我に返った愛可理は、大丈夫と笑ってごまかす。その日は金曜日だった為雅史の借り上げ社宅に泊まり朝まで過ごし、昼頃までゴロゴロしてから自分のマンションに帰った。
 休日の一人暮らしの部屋のリビングで、何をしているのだろう。他人の心配をしている場合では無い。自分の気持ちはどうなんだ、と愛可理はぼんやり自問自答していた。
 雅史との付き合いも、今や惰性で続いているだけだ。愛可理には先が見えなかった。将来二人は結婚をしているのだろうか。そう想像してみたが、数年前とは違って何も頭に浮かんでこなかった。
 決して彼を嫌いになった訳じゃない。だからと言って真剣に愛しているかと聞かれたら、それも違う。好きかも知れないが、愛しているのではない。ずっと一緒にいたいかと言われれば、そこにも齟齬そごが生じる。
 だったらもう、別れた方がいいのではないか。愛可理はそう思い始めていた。将来が不安な訳ではない。例え貧乏であっても、二人でいることが楽しい、またははしゃいでいる未来さえ見えればいい、と考えていた。
 両親が離婚し、幸せな家庭を築けなかった彼らに代わって、自分こそ明るい家族を作りたいと愛可理は願っていた。その相手が雅史だと、付き合いだした頃はずっと考えていた。
 それなのに、今は全くそう思えない。愛可理が変ったのか。雅史が変ったのだろうか。いや、おそらく二人共変わったのだろう。元々持っていたものが、違ったのかもしれない。
 二人の歩く道がどこかで離れ始めた事に、今まで判らなかっただけなのだ。気付いた時は、もう一度交差するには遅すぎるほど、互いに遠くなっていたらしい。
「もう、別れよう」
 二年前に購入して初めて持った携帯電話で、昨日の夜抱かれたばかりの相手に、愛可理はそう呟いていた。
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