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第二章~⑪

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「はい。こちら須藤。聞こえています。最初から全て、問題なく録音もされていますのでご安心ください。では私はどうしましょう。こちらから警察を呼びますか。それとも一度そちらに行き、ドアを開けてくれないと判断できた時点で通報しましょうか。それとも廊下で管理会社や両隣の人達に声をかけ、一通り騒ぎを起こしてからにしますか」
「これで私が言っている事が、嘘じゃないと分かったでしょ。さあ、どうしますか。そこをどいて下さるかしら」
 楓が梨花に向かって話すと、大貴も後に続いた。
「それとさっきの慰謝料の話ですけどね。念の為に連城先生へ確認して見たら、認められるはずがないとおっしゃっていましたよ。裁判をすれば逆にこちらが請求したら認められるかもしれないので、どうしますかとも尋ねられました。それはそうですよね。養育費としてお金は払っていたでしょうけど、親の責任ってそれだけで済むものでしょうか。世間的な常識に照らし合わせば、楓さんが不憫ふびんだと皆が同情するはずです。まあいくら説明しても理解できない人達のようですから、ここは思い切って警察や裁判所等の第三者に入って貰ったらどうでしょう。そうなれば当然、お父さんがお勤めの会社の方々の耳にも入ります。それでも自分達が間違っておらず、問題ないと言い切れる自信がおありなら、やってみましょうよ。こちらは裁判費用なんて、いくらかかっても心配する必要ありませんからね。連城先生に任せれば、面倒な時間も短縮されます。それに裁判の原告または被告として争うのも学生としては社会経験になりますし、こっちに非は全くない案件ですから尚更です」
 録音されていると知って、下手な言葉は言えないと思ったからか、それとも反論する余地が無いと知り、打ちのめされたからか父達は黙ったままだった。
 しばらく睨み合いが続いた後、絵美が口を開いた。
「おばさん。どいてくださいますか。邪魔なんですけど」
「お、おばさんって、」
 梨花が怒りで震えていたが、それ以上言葉が続かなかった。
「梨花、どいてやりなさい」
 ようやく父は諦めたらしく、そう呟いた。それを合図に彼女も立ち塞がるのを止めた。これで楓達は、無事部屋の外に出られる。大貴にも駆け付けて貰う必要は無くなった。それでも彼は、外で待ってくれているはずだ。
 そう思い、玄関の扉に手をかけた所で、父に声を掛けられた。 
「あの人を探し出したまではいい。だがいなくなった理由を探るなんて馬鹿な真似は止めておけ。知りたくもない真実に辿り着き、苦しむのはお前自身だぞ。それに縁を切ったあの人に近づいたって、向こうに迷惑がられるだけだろう。結局傷ついて終わるだけだ」
 楓は振り向いて言い返した。
「そんな事、とっくに覚悟しているから。ではさようなら。もうお会いすることがないよう、願っています」
 それ以上父は何も言わなかった。というより返答できなかったのだろう。しかし梨花は絞り出すように言った。
「このままでは、絶対に終わらせないわよ」
 楓は無視して、扉を閉めた。この瞬間、親子の断絶は決定的となった。しかし後悔なんて全くない。梨花がお金を請求した際、父は止めなかった。つまりあれが、彼らの本音だったのだろう。本性が知れた為、僅かに残っていた迷いを断ち切れたからだ。
 三人はマンションの前で集合し、駆け付ける途中で大貴が呼んだタクシーに乗った。目的地は絵美の部屋である。車内では沈黙が続いた。彼らが気を使ってくれたのだろう。
 楓はこの連休中彼女の部屋に泊まり、新たな引っ越し先の手続きを行わなければならない。
 絵美は明後日までいて、それからN県の実家に帰省する予定だ。連休の最終日に帰って来て、楓の引っ越し先が決まり寝泊まりできるようになるまで、彼女の部屋で過ごすつもりだった。
 つまり絵美が留守の間、楓は彼女の部屋に一人で過ごすのだ。大貴は東京出身なので実家へ顔を出すことはあっても、連休中は基本的に自分の部屋で過ごすという。その間、将来に向けて勉強すべき課題が山ほどあるらしい。  けれども、楓が困った場合はいつでも助けに来ると言ってくれた。本当にありがたい事だ。
 タクシーの中では無言だったが、絵美の部屋に入り一段落した後、一気に話し始めた。最初に切り出したのは、絵美だった。
「話には聞いていたけど、あの梨花っていう人はマジで怖かった。あの人の目、途中でイッちゃってたよ。すごいね。楓には悪いけど、お父さんもすごい人と結婚したもんだね」
 それまで気丈に振舞っていた楓だが、緊張感が解けたからだろう。声が震えた。相当無理をしていたのだと、自分でも意識していた。
「ぜ、全然悪くないよ。絵美には怖い思いをさせたよね。ごめん」
「そんなことはいいの。それより楓は大丈夫?」
「少し落ち着いてきた。事前に頭の中では何度もシミュレーションしていたけど、本人達を前にしたら膝が震えた。だから気持ちが折れないよう、強めに言ったの。そしたら自分でもびっくりするほど、激しくなっちゃった。二人も聞いていて、ドン引きしたでしょ」
「そんなことないわよ。主張すべきことは、しっかり言えていたと思う。よく頑張った。それに楓が言っていた意味がよく分かったよ」
 大貴は黙って頷いていたが、本音では見る目が変わったに違いない。それでも構わなかった。彼らがいてくれたからこそ、勇気を出せたのだ。楓は泣き出しそうになりながら、二人に頭を下げた。
「ありがとう。でも正直、今思い出すだけでゾッとする」
「確かにあの梨花って人は酷かったな。山内さんが五歳の時に再婚したんだっけ。顔を会わせに来た時、彼女を嫌ったのも理解できる。子供って、本能的にどういう人か察するって言うから。引き取ると言われてぐずったのは、正解だったんだよ」
「私もそう思う。あの人の事だから、お祖母ちゃん達の前ではいい人ぶったと思うの。外面をよく見せるのには、長けている人だし。でも裏の顔を察知したんじゃないのかな。それでお父さんには渡さず、養子にまでするって言い出したんだと思う」
「あの人の娘になっていたら、もしかすると暴力とか振るわれていたかもしれないよ。だって子供を作りたくても、できなかったって言ってたでしょ。そういうストレスとか、ぶつけそうだもの」
 絵美の言葉にも楓は同意した。
「そうかもね。でも本当に子供が欲しくて、不妊治療していたのかな。多分お父さんの方の親のプレッシャーがあって、嫌々していたんだと思う。だってあの人、子供が好きそうじゃないから、本音では育てたくなかった気がする。お祖母ちゃん達が昔そう言っていたから、多分当たっているんじゃないかな。だから私を引き取らずに済んで、内心はホッとしていたはずだよ」
「それでも、お祖母さんの財産は欲しかったんだね。すごい人だよ。慰謝料の話をしていた時、冗談のように言っていたけど目は本気だったから、すごく怖かった」
 あれが本心なんだと、楓も思った。梨花の家は、余り裕福でなかったと聞いている。母親を早くに亡くしているらしく、父親が男手一つで育てていたという。その彼も、父と結婚する少し前に亡くなったそうだ。
 そう説明すると、絵美が言った。
「そういう境遇に、楓のお父さんはほだされたのかもしれないね」
「そうかもしれない。それで養育費を払っているけど、高収入でいずれは成人する前に多額の遺産を受け取る子がいるとなれば、将来安心だとでも思っていたんじゃないかな。他に子供もいないから、そういう出費もないし」
 その思惑が外れたから、相当落胆したのだろう。お金は入らず、養育費も引き上げられた。これまで沢山支払ってきたから、必ず回収してやろうと目論んでいたに違いない。彼女ならそう考えていてもおかしくない、と感じていた。
「あと、お父さんの方の親の面倒もあるみたい。確か向こうのお祖父ちゃん達って、二人とも来年で八十歳になるはずだから」
 楓が話を続けると、絵美が尋ねてきた。
「そういえば、そっちの方とは連絡を取っているんだっけ」
 楓は首を少し傾げた。祖母が元気だった頃は、電話で少しだけ話した覚えがある。しかし亡くなった後、梨花だけじゃなく父にも幻滅したから、滅多に連絡しなくなったのだ。
 時々向こうから、手紙が届いていた。三回に一回は返事を出していたけれど、去年大学を合格した際に受け取った手紙には、余り体調が良く無くて介護の人の世話になっていると書いてあった。
「じゃあ、梨花さんも多少は介護を手伝っているのかな」
「東京にいた時は、それなりにしていたと思う。だけど今は札幌だからお金を払って、任せっきりなんじゃないかな。それもあって、お祖母ちゃんの遺産を欲しがっていたんだと思う」
「なるほど。そういうことか」
 大貴が納得したように呟いた。
「お父さんが東京で勤務していたのは、山内さんが大学に入るまでの間だよな。何年間いたんだっけ」
「五年かな。私が東京の学校に合格して、お祖母ちゃんが亡くなった翌年に名古屋から異動して来たから。課長に昇進したその年に、すぐあのマンションを買ったんだよ。向こうのお祖父ちゃん達から貰った手紙に、そう書いてあった記憶がある」
「いつ頃から介護が必要になったか知らないけど、あそこに住んでいた時は少しくらい関わっていたんだろうな。でも札幌に転勤が決まって、ホッとしたってところだろう。でもその分お金がかかる。いくら旦那が高給取りで、子供がいないからといってもな。山内さんに払う養育費が昨日で必要なくなったから、そう言う意味でも安心したはずだ」
「年間百八十万円の支出がなくなって、学費で年間五十四万円弱あるから、合計二百三十四万円弱。月額だと二十万円弱か。結構な額よね」
「そうだな。だけどその話はもう終わった。目黒さんも横で聞いていたから分かっていると思うけど、問題はこれからどうするかだ。あのマンションを出る事は決まった。まずはこの連休中にスマホの番号を変えたり、新しい部屋を探して契約をしたりしなきゃいけない。その後は引っ越しだ。忙しくなるぞ」
「そうだね。これで一つ区切りがついたんだから、次のステップに移らないと。引っ越しは連休明けだから大丈夫だけど、部屋を探す手伝いは出来ないから、ごめんね。須藤さんに任せた」
「大丈夫。一人でやれるよ。変更した電話番号が決まったら、連絡するね」
「無理するなよ。俺は基本的に連休中もこっちにいるから、何かあれば遠慮せずに言ってくれ」
「ありがとう。そうする」
 楓はスマホを取り出し、事前に目をつけていた物件のリストを見始めた。大貴達が横から覗き込み、ここはいい、こっちも悪くないね、でもちょっと高いかなどと言いながら時を過ごした。
 その後大貴だけが部屋を出て、解散した。こうして懸案事項の一つを終わらせた楓だったが、最後に梨花の放った一言が頭の片隅に残った。彼女は何か仕掛けてくるつもりだろうか。それとも単なる負け惜しみの捨て台詞に過ぎないのか。
 若干の不安要素を抱えながら、絵美と遅くまで夜更かしをし、女子トークに花を咲かせたのだった。
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