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第三章~⑦

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「根岸! 寺井さんを脅し泣かせたらしいな。どういうつもりだ!」
 だが自分に落ち度は無いと自信があった彼は、堂々と反論した。
「いえ、脅してはいませんよ。彼女が山内さんに対して日頃から行き過ぎた指導をしていたので、注意しただけです」
「俺は、そう聞いていないぞ。パワハラで訴えられたくなければ、指示に従えと言ったらしいな。これは明らかな脅迫だろう」
「過度な指導をすれば、パワハラになると指摘しただけです。その結果、訴えられる事態を避ける為、指導方法を注意しただけです」
 素直に頭を下げない態度に、樋口の怒りが増したようだ。
「指導方法を注意しただって。今後山内さんに関わるな、というのが君の指導方法か。ミスを見つけた場合、別の女性社員に伝えて教育させるようにという指示は、指導方法を改めたとは言えない」
「これまで何度も注意したにも関わらず、彼女は改めなかったからです。一時的に止めさせた方が、効果的だと考えた為にそう言いました。心から反省し問題ないと判断できれば、元に戻すつもりです」
「そう、本人には伝えたのか」
「いえ、それは言っていません」
「だったら後付けの理由としか思えないな。それに君はもし今後、寺井さんから山内さんが注意を受けた場合、私ではなく自分に報告しろと言ったそうだね。それは何故だ」
 この追及には彼も正直に答えられず、誤魔化していた。
「そ、それは、今回の指示は、私が出したものだからです」
 そこを樋口がさらに突いた。
「何の権限があって、私の頭を飛び越した指示を出すんだ」
「それは、その、申し訳ありませんでした。課長にご相談してから、指導すべきだったと思います」
 根岸が防戦一方になるのも致し方ない。彼は楓達の先輩ではあるが、係長だ。よって課長の元では、逆らえない立場にある。ここで話を切り前言撤回させておけば、そのまま穏便に終わっていただろう。だが樋口は余計な言葉を付け加えた。
「根岸は単に、山内さんの前でいい格好をしたかっただけだろう。課内でも噂になっているぞ。新入りの女性社員を狙っているとな」
 これにはカチンときたのだろう。彼は反撃に出た。
「それは違います。今回の指導方法は、確かに行き過ぎました。しかし寺井さんが山内さんに対し、苛めとも取れる過剰な指導をしていたのは事実です。それは課長も、気づいていらっしゃるでしょう」
「そうかな。注意を受ける方にも、問題があったとは思わないか」
「彼女はまだ入社一年目です。あったとしても皆の前で、罵倒する必要はないでしょう」
「やはり山内さんの肩を持つのか。公私混同は止めなさい」
 そこで売り言葉に買い言葉となった。
「公私混同しているのは、課長ではありませんか」
「何だと」
「今回の話は、誰からお聞きになりましたか。私は二人を別室に呼び注意しました。山内さんが課長に言ったのか」
 突然話題を振られ驚いたが、首を振った。
「いいえ、私は誰にも話していません」
 楓の発言を確認し頷いた根岸は、さらに畳みかけた。
「つまりあの場で話した内容を知るのは、寺井さんか彼女から聞いた人しかいません。課長は彼女から、話を聞いたのではないですか」
「誰が言ったか、この際どうだっていい。君が行き過ぎた指導をしていた点が問題なんだ」
「いいえ。私の行動が公私混同とおっしゃるのなら、課長も同じです。これも課内での噂ですが、寺井さんとは相当親しい関係にあったと伺っています。しかし感染症の拡大をきっかけに疎遠となった。それでも課長は、彼女を追いかけているそうですね」
 核心を突く指摘に、樋口は狼狽しながら言い返した。
「な、何を馬鹿な事を。根拠のない噂を信じるんじゃない!」
「では私が山内さんを狙っているとの噂に、根拠はあるのですか」
「い、いやそれは、」
 彼が答えあぐねた為か、根岸はここで強く出た。
「ありませんよね。ただ寺井さんが、私に好意を持っているらしい点には根拠がありますよ。良く食事に連れて言ってくれ、飲みに誘ってくれとねだられますから。しかし私は全て断っています。何故ならかつて不倫をしていて、今でも課長のお気に入りだという彼女に、手は出せないでしょう」
「おい、言葉が過ぎるぞ。いい加減にしろ!」
 だが彼の口は止まらなかった。
「入社二年目の時から、彼女と関係があったというのは本当ですか。既婚者の課長が部下に言い寄ったのなら、問題でしょう。私は独身ですから、もし山内さんに好意を持っていたと仮定しても、あくまで自由恋愛の範疇はんちゅうです。それに先輩だからといって、無理やり食事や飲みに誘うような真似はしていません。そうだよね、山内さん」
 確かに他の女性社員より親し気に近寄って来るが、そこまでされていなかった楓は、小さく頷いた。それを見て根岸は言った。
「彼女も認めています。お疑いになるなら、他の社員に確認して頂いても構いません。ですが課長と寺井さんは違います。実際二人だけで飲食している現場を見た人が、何人かいます。これは問題でしょう。彼女が嫌がっていたならパワハラやセクハラですし、そうでないのなら不倫を疑われても仕方がないとは思いませんか」
「おい、根岸。それくらいにしておけ。私は課長で上司だぞ。それ以上私を侮辱するのなら、こっちにも考えがある」
「それこそ脅しです。それに侮辱などしていません。見聞きした事実を元に、お伺いしただけです。それとも不倫を認められますか」
「馬鹿を言うな。君は即刻異動だ。この課から追い出してやる」
「それこそパワハラですよ。最終的な人事権を持つ部長や人事部に、私が何をしたとおっしゃるつもりですか」
「公私混同で課の風紀を乱し、課長の私を侮辱する発言をしただけでも十分、異動対象者に該当する」
「それなら私からも、部長に直訴します。寺井さんが課長との関係を私にどう話していたか、正直にお伝えします」
 そこで樋口の顔色が変わった。
「何だと。彼女が何を言ったんだ」
 形勢は完全に逆転していた。根岸は勝ち誇ったように答えた。
「私に好意を持って近づいてきたのですから、不倫をしていたとはさすがに認めませんでした。でも課長と親しかった証拠があると告げたら、それは無理やり誘われただけだと言っていましたよ」
「そんな口先だけの話、誰が信用する。君に嫌われないよう、適当に答えただけだろう。その話が嘘じゃないと、どう証明するんだ」
「会話の一部は、スマホで録音しています。部長の前で本当はどうなのか、彼女に聞いて見ましょうか。こういう場合、実際の裁判だと証拠能力はありませんが、社内調査なら十分参考になります。何なら他の社員から聞いた内容も、お伝えしましょうか。真実かどうかは部長がそれぞれを呼び出し、聴取すれば分かるはずですから」
「ば、馬鹿な真似はよせ。君は社員との会話を盗聴しているのか」
「人聞きの悪い事を言わないで下さい。全てではありません。聞き捨てならないと思った件についてだけ、録音をしていただけです」
「それはプライバシーの侵害に当たるんじゃないのか」
「車でも万が一に備え、ドライブレコーダーで随時録画している時代です。こういうご時世なので、言った言わないと揉めた場合を想定するのは、危機管理上大切だと思いませんか。何か起こった時のみ、適切な場所で限られた人達だけに聞かせるのなら、問題にならないでしょう。部長が実際どう判断されるか、試してみますか」
 樋口は項垂れて、しばらく口が利けなかった。その様子を見た楓は、春奈と樋口が不倫関係にあったと確信をした。そうなると根岸を処罰しようとすれば、樋口は返り討ちに遭うだろう。だから身動きできなくなったと思われる。
 勝負はついたと判断したらしい。根岸が言った。
「それでは事後報告になりましたが、今後寺内さんは山内さんに関わらない。また今後彼女が指示に従わず過ちを繰り返すようなら、部長に報告し処分の検討を依頼します。それで宜しいですね」
「それは山内さんに対するパワハラを、正式に報告するという事か」
「はい。その時は当然課長も承知した上で、彼女に罰則を与えるよう口添え頂ければ助かります」
「もし私が寺井さんを庇うようなら、二人の関係をばらすつもりか」
「いいえ。恐喝と誤解される真似はしませんよ。それとこれとは、別の問題です」
 口とは裏腹に、春奈の味方をするなら部長に二人の関係が疑われる証拠を、彼は突き出すに違いない。楓と同じように察知した樋口は、頷くしかなかったようだ。
「分かった。今回は君の言う通りにしよう。私からも、寺井さんには注意しておく」
「有難うございます。それでは宜しくお願いします」
 そこで楓達は解放されたが、当然それで終わらなかった。やはり樋口に泣きついたのは、春奈だったらしい。それが逆効果となり、樋口にまで今後楓と関わらないよう忠告された彼女は激怒したようだ。好意を抱いていた根岸から嫌われたと知った事も、影響したのかもしれない。
 翌日彼女は、会社に退職届けを出した。それだけでは済まず、部長に樋口とかつて不倫していた関係を白状した上で、その際にパワハラやセクハラ行為があったと告発したのだ。その結果、部長に呼び出され事情を聞かれた樋口は降格処分された後、他の部署へ異動させられたのである。
 さらに根岸についても、社員との会話をスマホで盗聴し課長を脅したと告げた。その挙句、楓に対して好意を持つ彼が必要以上の振る舞いをし、課の風紀を乱していると吹聴した。
 愛情が憎しみに変わったらしい。春奈は樋口と自分の二人が課を去っただけでは、根岸の一人勝ちになる。そうなれば楓への攻勢はより強くなると踏み、邪魔をしようと考えたようだ。
 報告を受けた部長は他の職員から聴取した結果を踏まえ、今後余計な摩擦が起きないようにと判断したのだろう。根岸を別会社へ出向させたのである。
 こうして楓の周りを騒がした、三人の男女が姿を消した。これが配属されて夏が来るまで、ほんの数ヶ月余りの間に起こった出来事だ。楓はこの会社に入った事を、やや後悔し始めていたのである。
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