真実の先に見えた笑顔

しまおか

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第一章~①

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「奴は犯罪者だ。俺の目に狂いはない。十年前からそう思っていた。久しぶりに奴の顔と目を見たが、間違いない。あれは人を殺したことのある人間のものだ」
 彼が言ったあの言葉が、全ての始まりだった。


 七月に入り、ますます陽射しが厳しくなった。真夏日が続く名古屋の丸の内オフィス街では、アスファルトやビルの照り返しが強い。風は高いビル群にさえぎられ、さらに気温が上昇していた。
 そんな蒸し暑い中、同僚達と外で昼食を食べ終えた廻間はざま英美ひでみは、ようやく冷房が効いたビルに戻って来た。同じくお昼休みが終わり帰って来た社員達とエレベーターに乗る。
 ほんの一時の静かな時間を過ごし、一息ついた所だった。しかし八階のフロアに着いた途端、一転して騒がしい声が聞こえて来た。
「あれ? 無い!」
「どうしたの?」
 どうやら給湯室からのようだ。女性社員数人が集まって、なにやらざわついていた。
午後からの始業時間まで、まだ少し時間があるからだろう。昼食を済ました彼女達は、いつものようにお喋りをしていたらしい。普段の英美なら、気にも留めず素通りして席に戻っていただろう。
 しかし近くを通りかかった時、いつもとは違う雰囲気に反応してしまい、思わず視線を向けたのが間違いだった。落ち着かない集団の一人と目が合い、声をかけられてしまったのだ。
 また運の悪い事に、それが事務職の業務課副長である板野いたの祥子しょうこだった。
「ああ、廻間さんちょっと来て」
 本音はかしましい人達を避け、早く席に戻って午後からの仕事に取り掛かりたかった。だが業務主任の英美より役職が上で、年齢も四つ先輩の彼女を、無視することはできない。 
仕方なく、愛想笑いを浮かべながら歩み寄った。
「何かありました?」
「冷蔵庫に入れてたものが、無くなったんだって。私が知っているだけでもう三人目」
「また、ですか。今度は何ですか?」
 すると当事者らしい、柴山しばやま七恵ななえが説明しだした。
「紙パックのリンゴジュースよ」
 彼女は英美より三つ年上だが、役職は下になる。一度結婚を機に会社を辞めたが、五年前に再就職しているからだ。こういう場合は面倒だった。その為気を遣い、丁寧語で英美は尋ねた。
「名前を書かれていたのに、ですよね?」
「もちろん」
 このフロアには五つの部署がある。英美が所属する営業一課と七恵がいる営業二課、祥子のいる業務課の他は、総務課と企業営業一課だ。男女合わせて、六十人程いる。しかし彼女達が集まっている給湯室には、フロア共通の冷蔵庫が一つだけしかない。
 男性職員は、余り使っていないようだ。けれど女性達は、昼休みや朝出社する前に買ってきたジュース、またはちょっとした食べ物を冷やす為に良く利用している。
よってどれが誰のものだか判るように、名前を書いておくことが暗黙のルールとなっていた。
「この間も他の子のジュースが紛失したじゃない。三時のおやつにと楽しみにしておいたシュークリームを、誰かに食べられちゃった子もいたでしょ」
 怒りを隠しきれない七恵が、再び喋り出した。これまでにも冷蔵庫から飲み物等が無くなった話は、年に一、二回ほど耳にしている。しかし一つ一つの値段は、百円前後の物がほとんどだ。 
 英美達が働いているツムギ損害保険株式会社は、従業員数が約二万人、拠点数も国内外で三百か所以上ある。損保大手四社の中でも一、二を争う上場企業だ。
 よって所属する多くの正社員は女性も含め、それなりに高い給与を貰っている。英美達が通う名古屋ビルの職員も、例外ではない。その為いつもなら、誰かが間違えたのだろうとそれ程目くじらを立てず、皆諦めて終わりだった。
 しかし今回はこれまでと違うようだ。新年度が始まり三カ月経ったこの七月だけで、立て続けに紛失騒ぎが起こっているからだろう。おそらく祥子が耳にした三人以外にも、被害者は他にいるはずだ。
 つまり特定の人物や物に集中している訳ではない。他にも無くなったとぼやいている後輩達を、英美は見かけたことがあった。
 その為七恵に同意して答えた。
「少し頻繁に起こり過ぎですね。誰かがうっかり、というレベルではないかもしれません」
「わざと勝手に食べたり飲んだりしている社員がいるってこと? それじゃあ泥棒じゃない。まったく、いい加減にして欲しいよね」
 地上十八階建て地下二階の自社ビルでは、一階から四階までのフロアに貸し会議室やテナントの企業が入っている。しかしそれ以外のフロアへツムギ損保の社員以外が簡単には入室できない様、厳しいセキュリティ体制を敷いていた。
 契約者等の顧客が来店した際は、一階の受付で用事がある部署と連絡を取った後、訪問先のフロアのみに入室できる入館許可証を渡すことになっている。社員は一階から連絡を受けるとエレベーター前で待機し、別の部署に間違って入らないよう案内するという徹底ぶりだ。
 要するにフロアで物が無くなった場合、社内の人間による犯行の確率が圧倒的に高い事を意味していた。それに金品が紛失した訳でもない。モノがモノだけに、社員の仕業と考えるのが妥当だろう。
 そうこうしている間に、休憩時間が無くなりつつあった。その為止む無くその場にいた、最も年上で役職が高い祥子が告げた。
「そろそろ皆、席に戻りましょう。でも周りの人には、またこういうことがあったと知らせてね。誰か心当たりのある人がいたら、声をかけ合うようにしよう。何か分かったことや気付いたことがあれば、私か一課の廻間主任に相談してください」
 いきなり英美の名が告げられたので驚く。しかし周りを見渡すと、祥子の次に自分の役職が上だからだと理解した為、しょうがなく同意の意味を込めて頷いた。
 そこで解散したが、席に戻ると早速皆それぞれ同僚達に声をかけていた。特に隣の二課では、盗まれた当の本人である七恵が大きな声を出して同情を誘っていた。
「ちょっと聞いてよ、私のジュースが盗まれちゃってさ」
 その姿を横目に英美は席に座ると、周りの後輩が話しかけて来た。
「また冷蔵庫の物が盗まれたんですか?」
「そうみたい。今度は小さいパックのリンゴジュースだって。名前も書いてあったらしいけど、誰かに飲まれちゃったらしいの」
「確か少し前にオレンジジュースが無くなって、シュークリームも盗まれたんですよね」
「他にもヨーグルトが無いと言っていた子がいましたよ。でも名前を書き忘れたからしょうがないかって諦めていましたけど、これだけ続くと少しおかしいですね」
 今回は祥子に巻き込まれてしまったが、本来英美はこうした話題に首を突っ込むことを好まない。しかし立場上無関心を装うことも出来なかった為、彼女達に聞いてみた。
「何か心当たりはある? 誰かが飲んでいるのを見たとか、そういう話は聞いてない?」
 一課には英美を含めて事務職の女性が五人いる。他にスタッフと呼ばれる女性のパートが三名、課長を含めた総合職と呼ばれる男性が六名の計十四名で構成されていた。
 スタッフの中でも冷蔵庫を利用している人がいるからか、関心があったようで今回の話題に耳を傾けていた。あれだけ隣の課で騒いでいるのだから当然だろう。
 皆が顔を見合わせ、首を横に振ったので英美は呟いた。
「誰が怪しいとか、そういう話はまだ出ていないようね」
 すると一人が身を乗り出し、喋り出した。
「具体的に名前は上がっていませんが、この七月に人事異動で来た人が怪しいって噂されていますよ」
 その意見に同意する子が、他にも出て来た。
「そうそう。今までにも全くなかった訳じゃないですけど、今月になって急に増えていますから。多分そうですよ」
 話が盛り上がりかけたその時、英美の隣の席に戻って来た総合職の浦里うらさとしげるが注意した。
「誰が怪しいって? もう休憩時間は過ぎているんだから、余り長くなるような雑談は止めてくれ」
 注意された子達は首をすくめ、そそくさと各々の席に着いた。最初に話題を提供したのは英美だったので、代わりに謝った。
「ごめん、ごめん。ちょっとした騒ぎがあったものだからつい、ね」
 彼は入社八年目で、三十二歳の英美より二つ年下の主任だ。損保業界では、取引先の事を主に代理店と呼ぶ。英美は彼が担当する代理店の事務処理を、ほぼ全て行っていた。
 その為二人の席は隣同士で、仕事上の打ち合わせをする機会も多い。それに年下だが付き合いも長くなったことから、二人で話す時は互いにタメ口だ。
 名古屋に来る前は京都に四年いた彼が、この営業一課に配属されてから今年で四年目になる。その間ほぼ担当が変わらなかったことと、元は関西出身だからか遠慮のない彼の性格も手伝い、気を使わなくなったからだろう。
 担当者として仕事は間違いなくできる為心強い彼だが、時には土足で踏み込んでくる性格を、英美はやや苦手に感じることも少なくなかった。
 ちなみに入社十年目の英美は、一課に来て五年目だ。その前は、同じビルの九階にある企業営業二課いた。総合職とは違って、事務職は転居を伴う異動が無い。
 しかし基本的に、数年すれば部署は変わる。期間は違うけれども、現在所属する一課が二か所目の赴任先である点は、彼と同じだった。
「何、何? 何があったの?」
 背後にあるパーテンション越しに、プロ代理店の古瀬こぜりょうが顔を覗かせて声をかけて来た。思わず振り向いて注意する。
「古瀬さん、そこから覗かないで下さいと、何度も注意したじゃないですか。駄目ですよ」
 英美達の机上には担当代理店等から回収された申込書など、個人情報が記載されている書類が大量に置かれている。よって社員以外には立ち入らせない様、机の周りは壁のように区切られていた。
 けれど高さが一メートル五十センチほどの為、少し背が高い人なら簡単に上から垣間見ることが出来る。百六十センチ弱しかない英美の場合は、背伸びしないと見えない。百八十センチほどある彼や浦里などは、普通に歩いているだけで覗けるのだ。
「まあ、まあ、硬いことは抜きにして。で、何かあったの?」
 しつこく尋ねる彼に、今度は浦里が注意した。
「古瀬さん。もう打ち合わせは終わったじゃないですか。余り長い間フロアにいると、他の人に怒られますよ。もう社員じゃないんですから」
 二人は先程まで、パーテーションの向こう側にある応接間を使っていたのだろう。下の会議室を抑えるまでも無い簡単な打ち合わせの場合は、そこで済ませる場合が多い。
 ただ彼は二年ほど前まで、こちら側に席を与えられていた立場だった。だから個人情報云々という理由で入るな、見るなというのも確かに薄情な気もする。
 浦里も英美も本気で怒っている訳ではない。ただ規則であり他の代理店さんや社員の手前、言わなければならないから口にしているだけだ。それが解っているからか、彼は諦めず聞いてきた。
「何があったのか教えてくれれば、素直に帰るよ。で、どうしたの?」
 しょうがないと諦め、英美は席を立ち壁に近寄った。そこで彼は顔を引っ込めて一歩、後ろに下がった。話してくれるなら覗かない、との意思表示らしい。
 そんな彼を見上げながら、先程給湯室で起きた出来事を説明した。
「ここ最近フロア共有の冷蔵庫から、飲み物や食べ物が無くなっているって話です」
「へぇ。あっ、俺じゃないよ。研修生時代にそんなことしたら酷い目に遭うって、散々脅されたから」
 英美が一課に来た当時、すでに彼はここにいた。その頃は一応社員という立場だが、厳密にいうと英美達とは違う。三年の研修期間を過ぎて無事卒業出来れば、獲得した保険契約の手数料収入だけで生活できるプロの代理店となり、独立した個人事業主か法人代理店になるのだ。
 年は英美と同じ三十二歳でプロ三年目になる彼は、去年結婚したばかりだった。ちなみに奥様はツムギ損保の元事務員で、同じフロアの企業営業一課にいた四つ年上の悠里ゆうりだ。 
 英美が一課に配属される一年前に、古瀬が研修生として入った。その頃彼女は隣の二課にいたらしい。そこでお互いに見初め合ったのか知らないが、二人はこっそり付き合っていたという。その後結婚した現在、彼女は古瀬が独立と同時に法人化した代理店の副社長兼事務員として働いている。
 浦里が一課に異動してきた際、前任の総合職からまだ研修生だった彼の担当を引き継いだ。それを機に英美の担当になり、彼が獲得してきた契約の申込書をチエックするなど、事務面での教育を行ってきた。
 そうして彼が研修期間を終え無事独立し、プロになるまでの道程みちのりを浦里と見守って来たのだ。加えて三人共年齢が近いこともあり、担当代理店の中では最も親しいと言っていい。さらに奥さんとも顔見知りだったこともあり、二人は古瀬達の結婚式に呼ばれ参列している。
「そういえば研修生時代の最初の二年弱は、板野さんが事務担当でしたね」
 浦里が話に参加すると、彼は大きく頷いた。
「廻間さんと違って、あの人は厳しかったからさ。いつだったか、」
「ああ、もうそれ以上言わないでください。後で祥子さんの耳に入ったら、酷い目に遭いますよ」
 先程給湯室の騒ぎで仕切っていた彼女は、以前一課で彼の担当をしており英美の前任者だった。よって仕事やマナー等に厳しい人なのは、良く知っている。
 彼女の悪口を言ったなら、直接本人が聞いていなくてもすぐ耳に入ることは確実だ。そうなると英美も巻き添えになってしまう為、慌てて止めた。浦里も大きく頷いた。
「そうですよ。独立して社員でなくなったからと言っても、彼女の影響力は大きいですからね。これから仕事がし難くなりますよ。先程の打ち合わせでも話したように、新婚さんだからまだまだこれから稼がないといけませんからね」
「そうでした。危ない、危ない。口にチャック」
 周りを見渡し彼女がいないことを確認しながら、彼はおどけた。しかし話している内容はシビアだ。実際彼の保険契約の取扱件数や手数料だと、経済的には相当厳しい。もっと奮起しないと、やがてプロではやっていけなくなる時が来るかもしれないのだ。
 彼は二十七歳の時、ツムギ損保へと転職してきた。前職は、コンビニのフランチャイズ店の店長だった。彼の実家はかつて酒屋を営んでいたが、父親の代でコンビニ店に事業転換したそうだ。
 しかし父親が病気になり、店頭へ出られなくなった。そこで高校を卒業して店の手伝いをしていた彼が、後を継ぐことになったらしい。だが結局、廃業せざるを得なくなったと聞いている。
 性格は人懐っこい。お年寄りにも若い人にも柔らかい対応ができる為、営業向きだとは思う。酒屋時代からの人脈もあり、研修生として入社した時は、かなりいい成績だったという。
 しかし優しすぎる分少し頼りなさも手伝ってか、ある程度伸び切った所で頭打ちしているのが現状だ。その為浦里も何とかしようと、打ち合わせを重ねて新規の企業工作等を提案しているらしい。
「さっきまで隣の二課や廻間さん達が話していたのは、その件でしたか。今月になってから何度も起こっているとなると、新しく入って来た人の可能性が高いかもしれないですね。まだこのフロアのルールとか、判っていないのかもしれない」
 浦里の言葉に、英美が答えた。
「そういう話が給湯室でも出て、具体的に犯人探しが始まっているようです」
 年齢は前後しているが、社内ではお互いさん付けで呼び合うことが通例となっている。それに社外の代理店である古瀬がいるため、周囲の目を気遣ってここでは敬語を使い話した。
 三人だけしかいなければ、タメ口で話すところだ。しかしそれでは他の社員から、公私が区別できていないと叱られかねない。
「この七月にこのフロアへ異動してきた人とすれば、限られるでしょう。さすがに他の階の人が、わざわざ来るとは思えませんからね」
 浦里の意見に、古瀬が口を挟んだ。
「いやいや限られているって言っても、七月だと研修を終えた新人の事務職も沢山いるでしょう。ねぇ、廻間さん」
「いえ、今は事務職の研修が以前より短くなって、五月の連休明けには着任していますから外していいと思います。それでも総合職や他の支社から異動してきた事務職を入れると、このフロアだけでも十数人はいるでしょう」
「そうか。この階は、事務職の人が多い業務課がありましたね。でも一課で異動した人はいないし、二課は主任さんが一人でしたっけ。後の総務課や企業営業一課は、誰が来たのか知らないな」
 古瀬の呟きに、浦里が答えた。
「総合職は二課以外だと企営で新人が一人、主任クラスが一人、総務課でも一人いますね。ただ事務職までは詳しく覚えていないな」
 そう言って英美に視線を向けた為、気が乗らなかった作業を行う。
「ちょっと待ってくださいね。今端末で調べますから」
 席に座りデスクトップのパソコンを操作して、七月の人事異動データファイルを開く。そのリストを見て、今回の異動で八階フロアに入ってきた事務職の名を数える。すると十三人の名が出てきた。その事を告げると彼らは唸った。
「総合職で四人、事務職で十三名か。ちょっと多いな。絞り込むのは難しいね」
「浦里さん。それだけじゃないですよ。最近入ったスタッフさんまで含めると、何名になるか」
 だから嫌だったのだ。タイミング悪く給湯室の前を通ったおかげでこれだけの社員を疑わなければならない。考えるだけで気が滅入った。
 一課ではスタッフの入れ替えがなかった為、対象から外せることだけが唯一の救いだ。しかし他の課とはいえ、同じフロアにいる職員に対して怪しい目を向けるなど、面倒を起こすことは勘弁して欲しい。ただでさえ人数が多い為に、社内の人間関係は難しいからだ。
 特に女性が多いこのフロアでは、下手にこじらすと仕事がやりにくくなる。入社して十年目になる英美は中堅クラスとなり、後輩を指導する立場となった。ある程度の仕事は一人でもできるようになったが、代理店対応やお客様対応で苦労することはまだまだ多々ある。
 しかしそれ以上に神経をすり減らすのは、社内営業とも呼ばれる対人関係だ。何故社外より、中に向けるエネルギーが必要なのだろうと嫌気が差す。けれどそれもしょうがないのだろう。
 この会社では、入社して数年もしない内に辞める若手社員が少なくない。加えて毎年男女共に入社十年超のベテラン社員の一定数が、精神を病み休職しているのが現状だ。
 それでも二十年以上勤務する先輩方に聞くと、皆口を揃えて残業など昔の勤務状況は相当酷かった、だから今は楽な方だと言う。実際金融監督庁や労働基準局が残業実態に関して煩く言い出した二〇〇二年頃から、職場環境は徐々に改善し始めたようだ。
 英美が入社した時は既に、社員一人一台配置されているパソコンの電源を入れた時間と、シャットダウンされた時間が記録されるようになっていた。
 そこで年二回の社内による検査部検査等により、過剰な残業や労働実態がされていないかを確認するようになったという。それ以前の特に二〇〇〇年より前だと、女性の事務員でも部署によっては夜十時以降まで残業することなど珍しくなかったらしい。
 男性総合職は十一時や十二時、下手をすれば応接間で寝泊まりしている者もいたと聞く。土日の休日出勤など、当たり前のように行われていたそうだ。
 今ならそんなことをしていると、管理職に責任が及ぶ。その為勤務時間に関しては、ほとんどの部署で改善されている。
 だが問題は働く時間だけではない。勤務時間を少なくさせられた分、短時間で仕事をこなさなければならなくなり、よりハードになったと言われていた。
 時短と言われても、仕事自体が減る訳でもない。ましてや人手不足と言われる世の中で社員を増やし、一人当たりの負担が少なくなるなど有り得なかった。
 ツムギ損保も含め、合併を重ねてきた保険会社であるが故に、退職する社員も少なくないと聞く。なぜなら文化の違いからか、スムーズな運営ができなかった部署も多かったからだろう。
 そこに加え派閥の対立もあり、人間関係はより複雑になったようだ。そこにきて育休制度を取ったり、有給を消化せよとのお達しで休む人達が増えたりする中、心を病んで長期休職する人達は一向に減らない。
 そうした現状では、休んだ人達の分までフォローしなければならず、仕事は増えるばかりだった。通常でさえ溜まりに溜まった自分の仕事も、短時間で終わらせなければならないのだ。
 よって仕事中は皆神経が尖る。余計な仕事はしたくないといった空気をまとうことで、自己防衛を図っているからだろう。そんな職場など、楽しいはずがない。
 自分の事で精一杯になって息がつまり、対人関係もぎくしゃくする。そうした雰囲気が、また退職者や休職者を増やす。またできるだけ会社を休もうとする人達や、仕事を減らそうとする人達で溢れるようになるのだ。
 すると残った人達に仕事が押しつけられ、できる人達に集中していく。その結果一人一人と会社を辞め、また疲労して心を病む人が増える。またはなるべく仕事を受け付けない要領の良い社員の占める割合が、どんどんと増えていくのが現実だった。
 しかしそうした悪循環に苦しむ会社の状況など、お客様には関係無い。相手は決して安くないお金を払って、安心を買っているのだ。万が一事故や病気など困ったことがあれば、相談に来る。よって顧客満足度を上げる為に、そこで手を抜くことはできない。
 ならばどこで仕事の効率化を図るか。それが社内における雑務等だ。それらをできるだけ抱えないようにする事が、この会社で長く働く秘訣とも言える。
 だからこそ、英美も今回のような犯人探しをやっている暇は無い。骨が折れるばかりで、得をすることなどまずなかった。ましてやその相手が、同じ事務職だったなら最悪だ。
 もし見つけたとしても、同じフロアで働き続ける間、ずっと気まずい関係が続くだろう。だから英美はこの問題だけでなく、できるだけ社員との深い付き合いを避けてきた。
 しかし今回はそんな事を言えない状況に追い込まれ、頭を悩ましていた。そんな時だった。隣の課でも同じ話題が続いていたらしく、わざと周りに聞こえる声で七恵が叫んだ。
「あの死に神が盗みもしているとしたら、最悪よね」
 またその話かと英美がうんざりしていると、事情を知らない古瀬がきょとんとした顔で尋ねて来た。
「何? 死に神って誰の事?」
 浦里も耳にしていたのか、眉をひそめながら小声で説明した。
「新しく総務課に赴任された、総合職の事ですよ。事情があって、死に神というあだ名がついているんです」
「着任早々死に神と呼ばれるなんて、よっぽど酷い事でもしたの?」
 英美がこの手の話が嫌いな事を知っている浦里は、ちらりとこちらを見てから答えた。
「色々あるようです。他所よその課の人だし、古瀬さんのような代理店さんと絡むことはまずありませんから、気にしないでください」
 暗にこれ以上詮索しないよう諭すと、彼も気づいたらしく素直に頷いた。
「プロ代理店は食べていくのに苦労するけど、社員さんは人間関係が大変ですね。給料が良いから経済的には困らないだろうけど、俺達は個人事業主だから、お客様対応以外の人間関係で面倒な事はまずないし。どっちがいいかと言われれば人によるとは思うけど、俺は今の立場の方が良いかな。嫌な客は断ればいいし、欲しい契約は頑張ればなんとかなる場合が多い。だけど会社内の対人関係は、自分の努力だけで解決できないからね」
 痛い所を突かれた英美達が否定出来ず黙っていると、彼は空気を察して言った。
「じゃあ、打ち合わせも終わったことだし、俺は帰りますね」
 遠ざかる彼の背中に、浦里が声をかけた。
「頼みますよ! 先程掲げた今月の目標は、必達ですからね!」
 こちらを見ずに片手を挙げて廊下へと出て行く姿を見ながら、英美は小声で尋ねた。
「総務課に赴任した久我埼くがさきさんの件、浦里さんはどう聞いている?」
 古瀬を見送って隣の席に座った彼は、声を抑えて言った。
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