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第九章~①
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社内では三月の第一週の金曜日に、四月一日の人事異動が発表された。そこで浦里の配属先は東京本社ビル内にある企業営業一課だと知った。
その部署はかなり大きな企業を取引先に持つ大規模な営業課だったことから、支店長が言っていた通り懲罰人事どころか明らかな栄転であることに、英美は胸を撫で下ろした。
これには三箇や古瀬も喜び、課長や周囲から祝福されていた。その後彼は三月の年度末の締めの仕事に加えて、四月から先方に移る為の引継ぎの準備や挨拶回りに忙しく走り回ることとなったのだ。
やがて三月の締めを終え、四月一日から浦里の後任が着任して三日間の引き継ぎを行い、土日明けの四月六日から本社に出社することが決まった。その為名古屋における最終日の夜は、代理店を含め大勢が集まり彼の送別会を行ったのだ。
それとは別に、日曜日が引っ越しで土曜日はその作業をしなければならない多忙なスケジュールの中、彼の家の近くにある居酒屋の個室で英美と既に退職していた三箇、さらに古瀬が五日の夜に集まることとなった。当日は何故か浦里が強引に誘ったらしく、悠里の姿もあった。
「改めて本社への栄転、おめでとう!」
集合時間を過ぎても現れない三箇の代わりに古瀬が乾杯の音頭を取り、改めて浦里の送別会が始まった。彼が過ごした名古屋での四年間を振り返り、そして古瀬を担当してからの思い出話等に花を咲かせる。
笑い話ばかりだったが、英美は笑顔を見せながらも心の中は沈んでいた。浦里との別れが辛いことも要因の一つだったが、それ以上に気を重くさせたのは昨日の夜遅く受けた同僚からのメールと、まだこの場に三箇が現れていなかったからだ。
小一時間が経った頃、まだ来ない三箇を古瀬が心配し出した。
「それにしても遅いな。携帯に連絡もないし、かけても通じない。何かあったのかな。事故なんかにあってなければいいけど」
浦里も顔を顰めた。
「お酒を飲むから電車で来るはずだし、ネットで見ても地下鉄が止まっている様子はない。どうしたんだろうな」
英美にはなんとなく予想がついていたものの、今のところ定かではない。話していいものかどうか悩んでいると、一通のメールが届いた。そこでこっそり開いてみると、以前連絡した刑事からだった。
その文面を読んだ英美は、大きく息を吸ってから発言した。
「三箇さんは、来られないみたいよ」
「今スマホを見ていたけど、廻間さんへ何か連絡が来た? 三箇さん、どうしたって?」
浦里の問いに答える。
「県警の刑事さんから、今日彼は来られないってメールが届いた」
これには、その場にいた皆がギョッとした顔をした。浦里と古瀬がほぼ同時に英美のスマホを覗こうとした為、その文章が打たれた画面を見せる。悠里は座って固まったまま、席にいた。
しばらく黙読していた古瀬が、先に口を開いた。
「どういうこと? どうして廻間さんに、警察からこんなメールが来たんだ?」
「今頃三箇さんは、警察で取り調べを受けているかもしれない。もしかすると、逮捕されてしばらく拘留される可能性もある。だから今日は来られないと、刑事さんから連絡があったんだと思う。推理小説で読んだ気がするけど、警察に捕まったら弁護士以外は本人から連絡できないケースがあるんだって。でも三箇さんは今日、私達との約束があったでしょ。だから刑事さんから私宛に、参加できないって伝言が来たんじゃないかな」
「逮捕って? 三箇さんが? どうして? いやその前に何故警察が廻間さんのメールアドレスを知っているの? 三箇さんが教えた? いやここに来られないっていうのなら、浦里さんでも良かったでしょ。何故廻間さんなんだろう?」
混乱する彼を、横にいた悠里が落ち着くよう宥めている様子を見ながら、英美は告げた。
「この刑事さんとは、以前私から連絡を取ったことがあるの。その時アドレスも教えたからじゃないかな」
今度は浦里が質問した。
「連絡を取ったって、どういうこと? それと三箇さんが逮捕されたかもしれない事と、どう関係するっていうんだ?」
本当は今日、本人がいる前で告げるつもりだった。しかし恐れていた事が現実となり、予想以上に事は進んでいたようだ。その為意を決し、説明した。
「実は久我埼さんや柴山さんのご主人が捕まった後でも、三箇さんは美島支社長の死の真相や時任課長の事故について、調べようとはしなかったじゃない。私はそれがとても引っ掛かったの。時任課長の件はともかく、美島支社長の事件をはっきりさせたくて、警察を辞めてまで私達のいる会社へ転職までしたのに」
「それは真実を明らかにすれば、全て許されるわけじゃないと痛感したからだって言っていたじゃないか」
浦里の反論に、英美は答えた。
「でも真実は明らかになっていないでしょ。隆さんは、美島さんにウィルス入りのお菓子を食べさせようとしたことは認めた。だけど柴山さん自身が食べさせたことは、否認している。彼女が犯人なら、隆さんまで否認することはないでしょう」
「傷害致死の共犯として、罪に問われたくないからじゃないのか?」
「私も最初はそう思った。でもまだその件について謎が残っている事は確かでしょ。それでも三箇さんは、一連の事件について調べることを止めた。それはどうしてなのかとずっと考えていた私は、ある可能性に気付いたの。だから以前事情聴取を受けた刑事さんに渡された名刺の連絡先へ電話して、調べて貰うよう依頼したのよ」
「何を依頼したんだ?」
「時任課長の事故の件よ」
「時任課長? 大宮の? あれがどうしたっていうんだ?」
「久我埼さんは逮捕されたけれど、美島支社長を殺したのが彼ではないと分かった時点で手を引いた。それはどうしてかと考えたら、私達や警察にもそれ以上調べて欲しくなかったからだと思ったの」
「どういう意味だ? それに久我埼さんは否定しているけど、柴山夫婦が用意したウィルスを使って美島支社長に菓子を食べさせたのは、彼かもしれないじゃないか」
「その可能性がゼロでは無いでしょうけど、低いと思う。だって三箇さんも話していたじゃない。共謀していない限り、久我埼さんがウィルスを手に入れることなんて出来ないって。でも実際にそれは無かった。それに彼の性格なら、逮捕された時点で全て話すだろうとも言っていたでしょ」
「共謀ではなかったけど、柴山夫婦がウィルスを用意したことは間違いないと思う。だけど実行する直前で怖気づいていたから、横取りしたのかもしれない」
「だったら何故、三箇さんは最後までそのことを追求しようとしなかったの?」
「柴山さんが亡くなったからじゃないか。死人が出てしまったせいで、これ以上俺達を巻き込んじゃいけないと思っただけだろう」
浦里の反論に対し、英美は首を横に振る。だが心の中では、彼と同じように考えられていたらどれだけ良かっただろう、と思いを巡らせていた。好きで三箇を疑っていた訳ではない。ただ浮かんだ疑問を思案する中で思いついたのだ。
その推測が、間違っていればいい。または何も証拠がでなければ、それはそれで良いと思っていた。しかし今は三箇が口にしていた、悲しい犠牲を伴う可能性やその覚悟も、考慮しなければいけないとの言葉が重くのしかかる。
それでも英美は、今起こっている現実を受け入れなければならない。そう覚悟して言った。
「私が刑事さんに相談したのは、時任課長が濁流に飲み込まれた時の前後に、三箇さんの姿がどこかに映っていないかを探して貰うことだったの」
「三箇さんが、大宮にいたかどうかってことか? 確か彼はあの豪雨があった日の当日と翌日は、風邪をひいて会社を休んでいたんじゃなかったっけ? それにあの事故が起こった周辺では電線が切れて、停電になったと言っていたよな。それで防犯カメラは、軒並み機能していなかったらしいじゃないか。だから時任課長が用水路に落ちた時、誰かが傍にいたことを証明する映像が残っていなくて、周辺の聞き込みも時間帯が遅かったことなどから、目撃者を見つけることも困難だったんだろ」
「それは三箇さんから聞いた情報でしょ。でも実際はどうだったかって誰か調べた? 私はしていないわよ」
想定外の質問だったのか、浦里は目を丸くしながら、古瀬の顔を見た。同様に驚く彼が首を横に振った為、彼も否定した。要するにあの件は関係ないとの彼の言葉を皆が鵜呑みにして、誰も調査していなかったのだ。
「だから調べて貰ったの。そうしたら確かに一部の地域では停電していたらしいけど、時任課長が用水路に落ちたと思われる時間帯では起こっていなかった。そこで警察は、六年前の事故についても捜査し始めたの」
「し、しかし捜査するって言っても、六年前の映像なんて残っていないだろう」
「普通はそう思うよね。でも残っている可能性があることを、最近私達は知ったはずよ」
英美の言葉に浦里は首を捻ったが、途中で目を見開いて言った。
「事故が起こった際にSC課が収集する、あの映像か」
業務課長とその部下が不倫をしているがどうかを調べる際、三箇が使った手だ。
「そう。だから六年前の豪雨があった日、大宮支社周辺で起こった事故の映像が残されていないか、当社だけではなく他の保険会社も含めて警察が調べてくれたようなの。事故が起こった際の書類なんかは、支払いが済んだ後でも七年から多いものだと十年は取っておくらしいね。それに示談が長引いて解決していない案件なら、必ず残してあるそうだから」
「廻間さんはその事を、警察に教えたっていうのか」
「そう。でも見つかるかどうかは賭けみたいなものだった。でも昨日の夜、昔本社の業務主任研修で一緒だった大宮SC課にいる事務職からメールがあったの。警察が何か見つけたらしいってね。写っているとしたら、時任課長が出入りしていたのは大宮ビルだから、当社で持っている何らかの映像である可能性が高いと思っていた。それで何か動きがあったら、知らせてくれるようお願いしてあったの。警察は秘密主義なので、教えてくれないと予想していたから」
「もしかして廻間さんは今日、最初から三箇さんが現れないのは、警察が動いたからだと気付いていたのか?」
「そうかもしれないとは思っていたけど、外れればいいと願っていた。でも刑事さんからのメールからすると、その嫌な予想が当たったみたい。彼が写っていたとなれば、何故嘘をついてまで会社を休んで大宮にいたかと追及されるでしょう。ちなみに三箇さんは時任課長が事故に遭った年だけじゃなく、その前年も何度か同じ時期に夏風邪で会社を休んでいたわ。おそらく二年越しで事故に見せかけて殺す計画を成し遂げたんだと思う」
「時任課長を突き落としたのは、三箇さんだったとでも言うのか?」
「それは警察が調べてくれるはず。でもその可能性は高いと思う。残念だけど」
「どうして三箇さんが、時任課長をそんな目にあわさなければならないんだ?」
「これもあくまで推測だけど、理由は久我埼さんと上手くいっていない上司を事故に遭わせることで、動かなかったそれまでの事件を掘り起こさせようとしたんじゃないかな」
「そんな事までするだろうか」
「三箇さんは久我埼さんが一連の犯人だと信じ、警察を辞めこの会社に転職までしたのよ。でも久我埼さんは美島さんの死後に体調を崩して休職し、さらに復職したと思ったら転勤で名古屋からいなくなった。三箇さんは焦っていたんだと思う。それで彼の大宮での上司が厳しい人だという噂を同じ課の賠償主事からでも聞いて、犯行を思いついたんじゃないかな。今もそうだけど六年前でも豪雨等の際、社員は早期退社を促されるわよね。でも課長職は大抵最後になる。名古屋にいれば、今後関東の方でゲリラ豪雨が起こるかどうかはある程度予測できたでしょう。その事を知っていた彼は、夕方から夜遅くにかけて関東で豪雨になる日を狙って休んだ。そして新幹線が止まらない内に移動した日の夜、帰宅する課長を狙って濁流に突き落としたんだと思う」
「だけどその事故の後、また久我埼さんは長期休養に入ってしまったじゃないか。もちろん上司の事故の件で、久我埼さんが犯人かもしれない噂程度は広まっただろうけど、過去の事件まで掘り起こされることは無かった。それに時任課長の件を本格的に捜査されたら、下手をすれば三箇さんが逮捕される可能性もあったのに、何が目的だったんだろう」
「それは三箇さんにしか判らない。追い込んで自供させようとしていたか、何らかの動きを期待したのかもね。実際久我埼さんが名古屋に来て私達が調べ出したことで、三箇さんを殺そうとしたんだから。でも肝心の美島支社長の死については闇の中だけど、その事について三箇さんはどう思っているのか知りたかった。私は今日ここでそれを教えて貰おうと思っていたんだけど、叶わなかったわ。ごめんなさい。浦里さんの栄転を祝う送別会を、そんなことに使おうと思っていたなんてね」
英美が頭を下げると、彼は何かを言おうとして口籠った。どうせ自分に対する非難の言葉だと思い、自虐的な笑い顔を作って言った。
「良いのよ、我慢しなくて。罵倒されても仕方がない事をしたんだから、好きなように言ってよ。最後なんだからさ。でも最低よね。これまであんなに仲良くしていた同僚を、売ったんだから。私、もう会社にいられないかもしれない。辞めちゃおうかな。古瀬さんだって嫌でしょ。こんな女が担当の事務職だなんて、ね」
古瀬の顔を見ると、彼は英美から視線を逸らして俯いていた。悠里は先程から一言も発せず、沈黙を守っていた。すると浦里が大きな深呼吸をして、呟いた。
「そうか。三箇さんの言った通り、確かに真実を明らかにすることで、大きな犠牲を払うこともあるんだな。その覚悟が必要な事も判った。でも廻間さんは、見過ごせなかったんだよね」
黙って頷くしかできなかった英美に対し、彼は続けた。
「疑っている自分に嫌悪感を抱いて胸に秘めたまま忘れてしまうことよりも、罪を犯した人はそれを償わなければいけないと思ったんだろ。そうした事に目を瞑ってしまえば、自分も同罪になる。苛めをしている人を目にしながら、傍観する人と同じになってしまう。そう考えたんじゃないのかな」
間違ってはいないが、そんな綺麗事で片付けられる心境では無かった。英美の胸の中では、三箇が人を殺そうとするはずなどないとどこかで信じていた。しかし一方で彼なら、そこまでやりかねないと危惧している自分もいたのだ。
以前久我埼が一線を越えた目をしていると言った彼の言葉は本当だろうかと疑い、わざわざ総務課まで行って久我埼の目を観察したことがある。その後英美は、似た目を見ていたことを思い出した。
それは彼が英美達に警察を辞めた理由を告げ、久我埼を疑っていると言っていたあの時と似ていたのだ。目は口ほどに物を言う、との諺は本当だった。
警察に連絡しようかと考えた時も、手が震えていた。本当にこれから取ろうとしている行動が正しいのかと、何度も自問自答した。それでも悩み抜いた結果調べて貰おうと決心したのは、単に一人で抱え込むことが出来なくなったからだ。
浦里や古瀬に相談することも考えた。しかしそれはできなかった。彼らに頼ることもできない自分に、嫌悪感を抱いた。最後の最後で人を信用できない性格が潜んでいる、忌まわしい人間なのだと不快感を持ったほどだ。
そんな英美の思いを、浦里の発した言葉が吹き飛ばした。
「だったら俺も、覚悟を決めるしかないな。その為にこの場所へ悠里さんを誘ったのだから。墓場まで持っていこうかとも少し前まで考えていたけど、廻間さんが勇気を振り絞って行動したんだ。俺だけ逃げる訳にはいかないか」
「そういえば、最後だからどうしても悠里にも来て欲しいと言っていたけど、今回の件と何か関係があるのか」
古瀬の問いに、彼は答えた。
「申し訳ないし、とても失礼な事だと思うけど、俺、いや俺達にとって最後になるだろうから聞かせて欲しい。柴山さんが持ち込んだウィルス入りのお菓子を美島支社長の机に置いたのは、悠里さんではありませんか」
その部署はかなり大きな企業を取引先に持つ大規模な営業課だったことから、支店長が言っていた通り懲罰人事どころか明らかな栄転であることに、英美は胸を撫で下ろした。
これには三箇や古瀬も喜び、課長や周囲から祝福されていた。その後彼は三月の年度末の締めの仕事に加えて、四月から先方に移る為の引継ぎの準備や挨拶回りに忙しく走り回ることとなったのだ。
やがて三月の締めを終え、四月一日から浦里の後任が着任して三日間の引き継ぎを行い、土日明けの四月六日から本社に出社することが決まった。その為名古屋における最終日の夜は、代理店を含め大勢が集まり彼の送別会を行ったのだ。
それとは別に、日曜日が引っ越しで土曜日はその作業をしなければならない多忙なスケジュールの中、彼の家の近くにある居酒屋の個室で英美と既に退職していた三箇、さらに古瀬が五日の夜に集まることとなった。当日は何故か浦里が強引に誘ったらしく、悠里の姿もあった。
「改めて本社への栄転、おめでとう!」
集合時間を過ぎても現れない三箇の代わりに古瀬が乾杯の音頭を取り、改めて浦里の送別会が始まった。彼が過ごした名古屋での四年間を振り返り、そして古瀬を担当してからの思い出話等に花を咲かせる。
笑い話ばかりだったが、英美は笑顔を見せながらも心の中は沈んでいた。浦里との別れが辛いことも要因の一つだったが、それ以上に気を重くさせたのは昨日の夜遅く受けた同僚からのメールと、まだこの場に三箇が現れていなかったからだ。
小一時間が経った頃、まだ来ない三箇を古瀬が心配し出した。
「それにしても遅いな。携帯に連絡もないし、かけても通じない。何かあったのかな。事故なんかにあってなければいいけど」
浦里も顔を顰めた。
「お酒を飲むから電車で来るはずだし、ネットで見ても地下鉄が止まっている様子はない。どうしたんだろうな」
英美にはなんとなく予想がついていたものの、今のところ定かではない。話していいものかどうか悩んでいると、一通のメールが届いた。そこでこっそり開いてみると、以前連絡した刑事からだった。
その文面を読んだ英美は、大きく息を吸ってから発言した。
「三箇さんは、来られないみたいよ」
「今スマホを見ていたけど、廻間さんへ何か連絡が来た? 三箇さん、どうしたって?」
浦里の問いに答える。
「県警の刑事さんから、今日彼は来られないってメールが届いた」
これには、その場にいた皆がギョッとした顔をした。浦里と古瀬がほぼ同時に英美のスマホを覗こうとした為、その文章が打たれた画面を見せる。悠里は座って固まったまま、席にいた。
しばらく黙読していた古瀬が、先に口を開いた。
「どういうこと? どうして廻間さんに、警察からこんなメールが来たんだ?」
「今頃三箇さんは、警察で取り調べを受けているかもしれない。もしかすると、逮捕されてしばらく拘留される可能性もある。だから今日は来られないと、刑事さんから連絡があったんだと思う。推理小説で読んだ気がするけど、警察に捕まったら弁護士以外は本人から連絡できないケースがあるんだって。でも三箇さんは今日、私達との約束があったでしょ。だから刑事さんから私宛に、参加できないって伝言が来たんじゃないかな」
「逮捕って? 三箇さんが? どうして? いやその前に何故警察が廻間さんのメールアドレスを知っているの? 三箇さんが教えた? いやここに来られないっていうのなら、浦里さんでも良かったでしょ。何故廻間さんなんだろう?」
混乱する彼を、横にいた悠里が落ち着くよう宥めている様子を見ながら、英美は告げた。
「この刑事さんとは、以前私から連絡を取ったことがあるの。その時アドレスも教えたからじゃないかな」
今度は浦里が質問した。
「連絡を取ったって、どういうこと? それと三箇さんが逮捕されたかもしれない事と、どう関係するっていうんだ?」
本当は今日、本人がいる前で告げるつもりだった。しかし恐れていた事が現実となり、予想以上に事は進んでいたようだ。その為意を決し、説明した。
「実は久我埼さんや柴山さんのご主人が捕まった後でも、三箇さんは美島支社長の死の真相や時任課長の事故について、調べようとはしなかったじゃない。私はそれがとても引っ掛かったの。時任課長の件はともかく、美島支社長の事件をはっきりさせたくて、警察を辞めてまで私達のいる会社へ転職までしたのに」
「それは真実を明らかにすれば、全て許されるわけじゃないと痛感したからだって言っていたじゃないか」
浦里の反論に、英美は答えた。
「でも真実は明らかになっていないでしょ。隆さんは、美島さんにウィルス入りのお菓子を食べさせようとしたことは認めた。だけど柴山さん自身が食べさせたことは、否認している。彼女が犯人なら、隆さんまで否認することはないでしょう」
「傷害致死の共犯として、罪に問われたくないからじゃないのか?」
「私も最初はそう思った。でもまだその件について謎が残っている事は確かでしょ。それでも三箇さんは、一連の事件について調べることを止めた。それはどうしてなのかとずっと考えていた私は、ある可能性に気付いたの。だから以前事情聴取を受けた刑事さんに渡された名刺の連絡先へ電話して、調べて貰うよう依頼したのよ」
「何を依頼したんだ?」
「時任課長の事故の件よ」
「時任課長? 大宮の? あれがどうしたっていうんだ?」
「久我埼さんは逮捕されたけれど、美島支社長を殺したのが彼ではないと分かった時点で手を引いた。それはどうしてかと考えたら、私達や警察にもそれ以上調べて欲しくなかったからだと思ったの」
「どういう意味だ? それに久我埼さんは否定しているけど、柴山夫婦が用意したウィルスを使って美島支社長に菓子を食べさせたのは、彼かもしれないじゃないか」
「その可能性がゼロでは無いでしょうけど、低いと思う。だって三箇さんも話していたじゃない。共謀していない限り、久我埼さんがウィルスを手に入れることなんて出来ないって。でも実際にそれは無かった。それに彼の性格なら、逮捕された時点で全て話すだろうとも言っていたでしょ」
「共謀ではなかったけど、柴山夫婦がウィルスを用意したことは間違いないと思う。だけど実行する直前で怖気づいていたから、横取りしたのかもしれない」
「だったら何故、三箇さんは最後までそのことを追求しようとしなかったの?」
「柴山さんが亡くなったからじゃないか。死人が出てしまったせいで、これ以上俺達を巻き込んじゃいけないと思っただけだろう」
浦里の反論に対し、英美は首を横に振る。だが心の中では、彼と同じように考えられていたらどれだけ良かっただろう、と思いを巡らせていた。好きで三箇を疑っていた訳ではない。ただ浮かんだ疑問を思案する中で思いついたのだ。
その推測が、間違っていればいい。または何も証拠がでなければ、それはそれで良いと思っていた。しかし今は三箇が口にしていた、悲しい犠牲を伴う可能性やその覚悟も、考慮しなければいけないとの言葉が重くのしかかる。
それでも英美は、今起こっている現実を受け入れなければならない。そう覚悟して言った。
「私が刑事さんに相談したのは、時任課長が濁流に飲み込まれた時の前後に、三箇さんの姿がどこかに映っていないかを探して貰うことだったの」
「三箇さんが、大宮にいたかどうかってことか? 確か彼はあの豪雨があった日の当日と翌日は、風邪をひいて会社を休んでいたんじゃなかったっけ? それにあの事故が起こった周辺では電線が切れて、停電になったと言っていたよな。それで防犯カメラは、軒並み機能していなかったらしいじゃないか。だから時任課長が用水路に落ちた時、誰かが傍にいたことを証明する映像が残っていなくて、周辺の聞き込みも時間帯が遅かったことなどから、目撃者を見つけることも困難だったんだろ」
「それは三箇さんから聞いた情報でしょ。でも実際はどうだったかって誰か調べた? 私はしていないわよ」
想定外の質問だったのか、浦里は目を丸くしながら、古瀬の顔を見た。同様に驚く彼が首を横に振った為、彼も否定した。要するにあの件は関係ないとの彼の言葉を皆が鵜呑みにして、誰も調査していなかったのだ。
「だから調べて貰ったの。そうしたら確かに一部の地域では停電していたらしいけど、時任課長が用水路に落ちたと思われる時間帯では起こっていなかった。そこで警察は、六年前の事故についても捜査し始めたの」
「し、しかし捜査するって言っても、六年前の映像なんて残っていないだろう」
「普通はそう思うよね。でも残っている可能性があることを、最近私達は知ったはずよ」
英美の言葉に浦里は首を捻ったが、途中で目を見開いて言った。
「事故が起こった際にSC課が収集する、あの映像か」
業務課長とその部下が不倫をしているがどうかを調べる際、三箇が使った手だ。
「そう。だから六年前の豪雨があった日、大宮支社周辺で起こった事故の映像が残されていないか、当社だけではなく他の保険会社も含めて警察が調べてくれたようなの。事故が起こった際の書類なんかは、支払いが済んだ後でも七年から多いものだと十年は取っておくらしいね。それに示談が長引いて解決していない案件なら、必ず残してあるそうだから」
「廻間さんはその事を、警察に教えたっていうのか」
「そう。でも見つかるかどうかは賭けみたいなものだった。でも昨日の夜、昔本社の業務主任研修で一緒だった大宮SC課にいる事務職からメールがあったの。警察が何か見つけたらしいってね。写っているとしたら、時任課長が出入りしていたのは大宮ビルだから、当社で持っている何らかの映像である可能性が高いと思っていた。それで何か動きがあったら、知らせてくれるようお願いしてあったの。警察は秘密主義なので、教えてくれないと予想していたから」
「もしかして廻間さんは今日、最初から三箇さんが現れないのは、警察が動いたからだと気付いていたのか?」
「そうかもしれないとは思っていたけど、外れればいいと願っていた。でも刑事さんからのメールからすると、その嫌な予想が当たったみたい。彼が写っていたとなれば、何故嘘をついてまで会社を休んで大宮にいたかと追及されるでしょう。ちなみに三箇さんは時任課長が事故に遭った年だけじゃなく、その前年も何度か同じ時期に夏風邪で会社を休んでいたわ。おそらく二年越しで事故に見せかけて殺す計画を成し遂げたんだと思う」
「時任課長を突き落としたのは、三箇さんだったとでも言うのか?」
「それは警察が調べてくれるはず。でもその可能性は高いと思う。残念だけど」
「どうして三箇さんが、時任課長をそんな目にあわさなければならないんだ?」
「これもあくまで推測だけど、理由は久我埼さんと上手くいっていない上司を事故に遭わせることで、動かなかったそれまでの事件を掘り起こさせようとしたんじゃないかな」
「そんな事までするだろうか」
「三箇さんは久我埼さんが一連の犯人だと信じ、警察を辞めこの会社に転職までしたのよ。でも久我埼さんは美島さんの死後に体調を崩して休職し、さらに復職したと思ったら転勤で名古屋からいなくなった。三箇さんは焦っていたんだと思う。それで彼の大宮での上司が厳しい人だという噂を同じ課の賠償主事からでも聞いて、犯行を思いついたんじゃないかな。今もそうだけど六年前でも豪雨等の際、社員は早期退社を促されるわよね。でも課長職は大抵最後になる。名古屋にいれば、今後関東の方でゲリラ豪雨が起こるかどうかはある程度予測できたでしょう。その事を知っていた彼は、夕方から夜遅くにかけて関東で豪雨になる日を狙って休んだ。そして新幹線が止まらない内に移動した日の夜、帰宅する課長を狙って濁流に突き落としたんだと思う」
「だけどその事故の後、また久我埼さんは長期休養に入ってしまったじゃないか。もちろん上司の事故の件で、久我埼さんが犯人かもしれない噂程度は広まっただろうけど、過去の事件まで掘り起こされることは無かった。それに時任課長の件を本格的に捜査されたら、下手をすれば三箇さんが逮捕される可能性もあったのに、何が目的だったんだろう」
「それは三箇さんにしか判らない。追い込んで自供させようとしていたか、何らかの動きを期待したのかもね。実際久我埼さんが名古屋に来て私達が調べ出したことで、三箇さんを殺そうとしたんだから。でも肝心の美島支社長の死については闇の中だけど、その事について三箇さんはどう思っているのか知りたかった。私は今日ここでそれを教えて貰おうと思っていたんだけど、叶わなかったわ。ごめんなさい。浦里さんの栄転を祝う送別会を、そんなことに使おうと思っていたなんてね」
英美が頭を下げると、彼は何かを言おうとして口籠った。どうせ自分に対する非難の言葉だと思い、自虐的な笑い顔を作って言った。
「良いのよ、我慢しなくて。罵倒されても仕方がない事をしたんだから、好きなように言ってよ。最後なんだからさ。でも最低よね。これまであんなに仲良くしていた同僚を、売ったんだから。私、もう会社にいられないかもしれない。辞めちゃおうかな。古瀬さんだって嫌でしょ。こんな女が担当の事務職だなんて、ね」
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黙って頷くしかできなかった英美に対し、彼は続けた。
「疑っている自分に嫌悪感を抱いて胸に秘めたまま忘れてしまうことよりも、罪を犯した人はそれを償わなければいけないと思ったんだろ。そうした事に目を瞑ってしまえば、自分も同罪になる。苛めをしている人を目にしながら、傍観する人と同じになってしまう。そう考えたんじゃないのかな」
間違ってはいないが、そんな綺麗事で片付けられる心境では無かった。英美の胸の中では、三箇が人を殺そうとするはずなどないとどこかで信じていた。しかし一方で彼なら、そこまでやりかねないと危惧している自分もいたのだ。
以前久我埼が一線を越えた目をしていると言った彼の言葉は本当だろうかと疑い、わざわざ総務課まで行って久我埼の目を観察したことがある。その後英美は、似た目を見ていたことを思い出した。
それは彼が英美達に警察を辞めた理由を告げ、久我埼を疑っていると言っていたあの時と似ていたのだ。目は口ほどに物を言う、との諺は本当だった。
警察に連絡しようかと考えた時も、手が震えていた。本当にこれから取ろうとしている行動が正しいのかと、何度も自問自答した。それでも悩み抜いた結果調べて貰おうと決心したのは、単に一人で抱え込むことが出来なくなったからだ。
浦里や古瀬に相談することも考えた。しかしそれはできなかった。彼らに頼ることもできない自分に、嫌悪感を抱いた。最後の最後で人を信用できない性格が潜んでいる、忌まわしい人間なのだと不快感を持ったほどだ。
そんな英美の思いを、浦里の発した言葉が吹き飛ばした。
「だったら俺も、覚悟を決めるしかないな。その為にこの場所へ悠里さんを誘ったのだから。墓場まで持っていこうかとも少し前まで考えていたけど、廻間さんが勇気を振り絞って行動したんだ。俺だけ逃げる訳にはいかないか」
「そういえば、最後だからどうしても悠里にも来て欲しいと言っていたけど、今回の件と何か関係があるのか」
古瀬の問いに、彼は答えた。
「申し訳ないし、とても失礼な事だと思うけど、俺、いや俺達にとって最後になるだろうから聞かせて欲しい。柴山さんが持ち込んだウィルス入りのお菓子を美島支社長の机に置いたのは、悠里さんではありませんか」
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