パンドラは二度闇に眠る

しまおか

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美樹、若竹学園へ~②

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 駒亭の敷地は中央にある中庭の西側の門から入ると、その右手南側に下宿としても使用している二階建て住居があり、左手の北側が二階建ての駒亭食堂だ。その間のほぼ中央に中庭を突っ切るような形で長い屋根付き通路がある。それで二つの建物が繋がっており、中庭に面した北側に住居部分の玄関があった。
 そこから入ってすぐの広いリビングが下宿生達も使う共同フロアだが、そこには誰もいない。つまり美樹以外の下宿生はまだ帰ってきていないとそこでようやく理解した。
 外から見た時、被害に遭った部分は一階の仏間とその上の美樹の部屋だけかもしれないと推測していたが、正しかったようだ。その為自分だけが学園から早急に呼び戻されたのだろう。 
 女将は腕を掴んだままずんずんと突き進んで共同フロアを通り過ぎ、左手の住居部分の東側、女将の家族が使用するキッチン兼ダイニングリビングへと入った。美樹が初めて足を踏み入れたエリアだ。
 部屋に入りようやく腕を離した女将は食卓の真ん中の椅子に座った。食卓には片側に三つ、併せて六つの椅子がある。座ったまま手招きされたので、彼女の正面の席に腰を下した。
 完全に事態を把握しきれていないからか、顔が強張っていたのだろう。まだ張り詰めている空気を解すためか、彼女は優しく微笑んだ。
「そうそう美樹ちゃん、お昼はまだでしょ。お腹空いたよね。お弁当を先に食べちゃいなさい。急に呼び出したのは申し訳なかったけれど、幸い大事には至らなかったし、食べながらでも話は出来るから」
 促されて気付いた。弁当を貰ったまま慌てて戻ってきたので食事がまだできてない。余りも突然なことで頭も体も緊張していたが、彼女の一言で安心したのか急にお腹が減りだした。台所の壁に掛けられた時計を見ると、もうすぐ一時になろうとしている。
 弁当は目の前にいる女将を中心とした人達が、毎日一生懸命作ってくれているものだ。その本人を前にして食べない訳にはいかない。それではお言葉に甘えて、と弁当箱を取り出した。これは美樹自身が用意して、これに入れてくださいと事前に提出しているものだ。基本的に下宿生は皆そうしていた。
 駒亭が購買部で販売したり近所に配達したりするお弁当は大量に作られているため、一定の大きさのプラスチック容器に入っている。中身は野菜がやや多めのもの、メインが肉、または魚のものと種類がいくつかあるが、容器の大きさはほぼ全て同じだ。
 卵や小麦、蕎麦等、アレルギーの出やすい材料を使用しているか否かの表示はされている。しかし効率良く大量にそして安く提供することを優先していたため、誰もが食べられるような細かい要望までは対応しきれていない。
 それでも下宿生は例外だ。食べる人によって好き嫌いもあれば中にはアレルギーの人もいて、食べる量だってそれぞれ異なる。弁当を作って貰う下宿生は女性だけでなく、近くの下宿から通って来る男性もいた。ダイエットしたい年頃の女子もいれば、体育会系の部活動に入っていて、食べざかりの子もいる。
 その為駒亭の食事のお世話になる下宿生だけは、事前に細かな要望を伝える事が許されていた。そしてたくさん食べたい人は大きな弁当箱を、小食の人はそれなりの弁当箱を提出しておく。そうしておけば、女将達はできるだけ期待に沿えるよう、工夫を凝らして作ってくれるのだ。こんな有難いことは無い。
 食べ終わった弁当箱は、夕食時に食堂へ戻しておくと洗ってくれて、また次の日に使われる。それだけ優遇されているからこそ、作ってもらったものは残さずきちんと奇麗に食べなければいけない。
 美樹はいただきますと小さく呟き手を合わせ、弁当の蓋を開けた。小ぶりの弁当箱の半分はおかず、半分はご飯だ。おかずの中身を見ると、菜の花のお浸しに卵焼き、プチトマトとおそらくさわらだろう焼き魚が目についた。
 切干大根と揚げの煮付け、小さく切ったハムとキュウリも入っている。白いご飯の上にひじきがかけられていて、どれもが美味しそうに見えた。いや実際に食べても、いつも通り旨い。
 駒亭で作られる食事は、基本的に京風な薄口の味付けだ。男子下宿生の中には濃い味付けに変えてもらう子もいたようだが、美樹は販売している弁当と同じ、ヘルシー志向の味付けのままでお願いしている。少しずつ多くの種類のおかずが食べられる点も気に入っていた。
 限られた数の下宿生だけの弁当なら、これほどの品数を用意するのは難しい。大量に、十数種類の弁当を作っているからこそできるのだろう。味だって本格的だ。駒亭は代々料亭をやっていたこともあり、女将のご主人である駒亭四代目大将の拓馬たくまさんは、長く京都の和食店で修業した料理人だというから間違いない。
 大将は普段、朝から夜遅くまで食堂の中で板長として働いている。その為ほとんど下宿生達と顔を合わす機会はなかった。しかし弁当は彼によって監修されたレシピとその手順通りに、女将やパート従業員達が作っている。普通の家庭の主婦が寄り集まって作るような単純なものでは無く、値段の割には美味しいと評判なのも当然だ。
 駒亭は下宿屋が副業で本業は食堂経営だったが、今では弁当販売の売り上げの方が多いらしい。と言っても利益率は少ないという。
 いつからか近所の独居老人を中心とする高齢層の人達や、家で食事を作る余裕のない人達の強い要望により、仕出し弁当を作り始めたのがきっかけらしい。その上配達をする必要性も出てきた為、それを機に昼と夜用の弁当を大量生産するようになったそうだ。
 よって弁当作りのメインは近所の住民用で、下宿生用の弁当や学校への納入分はそのほんの一部だという。それでも学園の購買部では、一食三百五十円とリーズナブルな値段もあってか、限定五十食分が毎日即完売する程人気だ。
 元々は栄養バランスを重視し、量もやや少なめで老人の健康を考えた一食三百円の弁当が基本となっている。ただ学園販売分は育ちざかりの学生達が多いので、それでは物足りないだろうとご飯やおかずの量を増やしてあり、その分値段は五十円高くなっていた。
 それでも味は基本薄味なので若い学生達には物足りないかと思っていたが、子供の健康を考え、または弁当を作る余裕がなく忙しい保護者等にとっては評判らしい。またメタボを気にしたり、独身だったりする教職員にも好評のようだ。
 そうなると当然学園側や生徒からは、もっと多く販売して欲しいとの要望が出ていた。しかしこれ以上手が回らないからと女将は断っているという。本来の目的である、独居老人やシングルマザー、共働きで忙しい家庭を持つ食事作りに困っている地域住民の方々への大事な食事作りが疎かになってしまう、というのがその言い分だ。
 美味しいからどんどん箸が進む。美樹は食べることが大好きだ。朝食も夕食も含め毎回飽きないよう工夫されている駒亭の味付けに、下宿し始めてすぐ虜になった。気づいた時には、もう弁当の残りは少なくなっていた。女将が出してくれた温かいお茶を頂く。
 学園での昼食時では、弁当箱と一緒に出したポットにお茶を入れてもらって飲んでいる。駒亭で作るほうじ茶がこれまた旨い。しかし淹れたての方が美味しい為敢えて頂き、ほっと一息ついた。
 その時を見計らったように、それまで黙っていた女将が口を開き、説明をし始めた。
「あのね、美樹ちゃん。後で確認して貰えば判るけど、あなたの部屋の中は大丈夫だと思う。ただ私も廊下からドアを開けて覗いただけだし、しっかりは確認してないのよ。消防の方にまだ危ないので入っちゃ駄目だと止められたから。でも事故の衝撃で外からは見えない何かが壊れている可能性もあるの」
「そうなんですか?」
「そう。でも今すぐは入れないから分からない。部屋が少し傾いているし、工務店の人が柱の仮補強をして安全確認ができるまで待って欲しいって。でも中へ入れたら、すぐ壊れたものが無いか見て欲しいの。損害賠償の問題があるから」
 説明によると、事故は駒亭で早めのお昼を食べ終わった男性客の一人が起こしたという。レンタカーを借りて若竹へ来た観光客らしい。店を出たその人は、駐車場に停めていた車に乗り込み、道路へ出て食堂の裏手に出た所で曲がる道を迷ったそうだ。 
 そこで運転操作を誤って前に進むところをバックしてしまい、建物に衝突してしまったらしい。その際車のバックライトがショートしたという。ただ火花は出たが少し壁を焦がした程度ですぐ消えたようだ。もちろんその後周りの人で水をかけ、消防車も呼んで消化できていることを確認したという。
 車を運転していた男性客は、事故の衝撃で軽く頭を打ったらしい。そこで念のため救急車を呼び怪我の状態を見てもらったそうだ。恐らく軽い打撲と首の捻挫程度だろうと判断されたが、念のため病院で詳しく検査をするという。
 先ほど美樹の見ている間に救急車が走り出したのはその為だったらしい。警察の事情聴取は済んでいて、駒亭の人や通行人等は無事で、怪我人は彼だけというのは幸いだった。
 もちろん男性客はすぐにレンタカー会社に事故の連絡をしたそうだ。そのため今後の対応は、その会社が加入する任意保険の対象となる為、保険会社が行うらしい。すでに事故係の担当者の指示で、家や壁の修理を行う工務店の手配も済んでいた。損害状況も調査会社の人が確認しており、その過程で女将は先程までの賠償等の説明を受けたようだ。
 聞けば聞くほど手際が良いことに気づかされる。事故が起こりそれ程経ってないというのに、様々な段取りが女将達によって済んでいた。
「それでね。折れた柱を中心に、仏間の修理等の都合でしばらく美樹ちゃんの部屋が使えないって。他の部屋は大丈夫らしい。つまり下宿生で影響があるのは、あなただけなの」
 彼女は眉間に皺を寄せながら、美樹の顔をじっと見つめていた。
「使えないのはどれくらいの期間ですか? それにその間って、私はどうすれば、」
 今後どうすればいいのか見当がつかない不安を感じ取ったのか、ゆっくりと落ち着いて説明してくれた。
「工事は最低一カ月ほど。そこで私も考えたけど、工事が終わるまでは別の部屋を借りてもらうしかないと思う。でも安心して。前から下宿生を紹介してと依頼されている、渡辺わたなべさんの家がこの近くにあるの。もしよかったら早速だけどそこの部屋を見て欲しい。気に入ればそこならすぐ入居できるし、気に入らなければ別の部屋を探さないといけないから早い方がいいでしょ。あと引越しや契約の件もあるから、美樹ちゃんの親御さんにも連絡した方がいいと思うけど、それはどうする?」
「引っ越しですか?」
 余りの展開の早さに頭がついていかない。それでも彼女は話を続けた。
「それしかないのよ。工事するから以前のように生活できるまで最低一カ月。それ以上かかる可能性もあるそうだから。そこで工務店の人には少しでも早く荷物を運び出す為に、一度柱を固定するよう依頼しているの。その了解は得ているからしばらくすれば荷物は出せると思うわ。それでも時間は限られるって」
「えっ、これからですか?」
「そう。柱が折れているから早く荷物を全て運び出して、すぐ本格的な修理に取り掛かった方が良さそうなの。でないと家全体に影響が出るかもしれないから、だって」
「それはまずいですね」
「そうならないよう、どちらにしても傾いた二階を固定して工事は進めるんだって。他の無事な部屋にまで被害が広まると困るから。というか、一階の仏間と二階の美樹ちゃんの部屋の荷物を出さないと工事が先に進まないのよ。引っ越し代や新しい部屋の家賃は気にする必要ないから。全部保険で出して貰えるって。それは確認済みよ」
「つまり私は他の下宿屋に移るってことですよね?」
「大丈夫、一時的なことだから。食事は今まで通り駒亭に食べに来て頂戴。五十嵐いがらし君や小杉こすぎ君やシン君達と同じ。あの子達も別の家に間借りして、食事は駒亭でしているでしょ。部屋は貸したいけど食事の用意までは無理、ってお宅がこの辺りは結構多いのよ」
 五十嵐とは若竹学園に通う三年制の高三男子で、シンは学園の六年制に通う高一男子、小杉はM大学の二年生だ。
「その渡辺さんって家もそうなのですか?」
「そうそう。元々二世帯住宅で二階部分を娘夫婦が使う予定だったけど、色々あって今は誰も使ってないの。そこは渡辺のお婆ちゃんが一人で暮らしているから、誰かに住んでもらった方が心強いって最近急にお願いされてね。でもタイミングが悪くて、他の学生は既に別の所へ決まってしまった後だったから、紹介出来なかったのよ」
 学園に入学した生徒達が下宿先を探す際、大半はまず駒亭へ相談が来るという。他にも少し離れた場所に国立のM大学があり、そこへ通う下宿希望の紹介も学生課を通じて集まってくるようだ。先ほど名の挙がった小杉もその一人らしい。
 過去の実績と学校までの距離や街の住みやすさと人気度等も手伝って、毎年多くの下宿希望の情報が寄せられるという。駒亭が埋まっていれば、他の下宿先へと振り分ける仕事が必要となる。その役割を女将が担っているらしい。弁当配達も行っているせいか、近辺の貸し手側の細やかな情報もまた、駒亭に集まるからだという。
 同じ屋根の下で暮らす為、借り手側の人物がどういうタイプかの見極め以上に、貸し手側の性格、ニーズをもしっかりと理解しなければならないらしい。相性が合わないと後々問題が発生するからだ。誰もがトラブルなど望んでいない。
 そこで女将の出番となる。下宿したい側とさせたい側、両方の情報を得意の手際の良さで差配しているおかげでここ十数年の間、大きな問題は起こっていないという。そんな実績が信頼と信用を呼び、年々彼女を頼る方々が増えていくのは当然だろう。
 美樹にとってはようやく今の生活に慣れ始めたばかりだ。環境が変わりお世話になる人と新たな人間関係を作ることなど、考えるだけでうんざりする。だから引っ越しという言葉に思わず強く反応してしまった。
 だが今回の件は事故が原因で既に起こってしまったのだから、今更何を言ってもしょうがない。それにここ一カ月余りの間に見聞きした限り、面倒なことが起こったとしても女将に全て委ねてさえいれば、大きな間違いはないことが判った。
 ならばできるだけ彼女の指示に従えばいい。その他の自分自身が判断できる場合は、なるべくストレスが無いようにしたかった。特に人間関係は譲れない。そのため一番気になっていることを尋ねた。美樹にとっては大事なことだ。
「どんな方ですか? その渡辺さんって大家さんは」
 内心では怯えながらも、表情には出さないように心がけたが、女将は気づいたのだろう。あっさりと、それでいて客観的な情報を交えた答えが返ってきた。
「渡辺のお婆ちゃんはとってもいい人よ。お一人だけど女性だし。いくら相手が年寄りでも男性が住む家より良いわよね。それに貸したいお部屋がすごくいいの。私も一度拝見したから言うけど、なかなか無いわ。あんないい条件の部屋って」
「いい条件の部屋、ですか?」
「家は二世帯住宅用に作られていて、一階は渡辺のお婆ちゃんが住む所で二階とは入口が別々なの。それで貸したい二階部分がすごく広いのよ。少し訳ありで結局は一LDKになるのかな。まあ口で説明してもなんだからさっそく見に行ってみない? もちろん最終的に決めるのはその後でいいから。気に入らない条件があれば断っていいの。それは私から角が立たないように言うので安心して」
「今からですか?」
「だって部屋が決まらないと困るでしょ。この建物の中には他に使える場所が無いし。一、二日なら共同リビングを使えばいいけど、一カ月以上となればそうはいかないから」
「でもそんな広くていい条件の部屋って、お家賃とか結構高くなったりしませんか?」
「それも大丈夫。駒亭では家賃と食事込みで月六万五千円いただいているでしょ。通いの食事だけの子達は月二万三千円。つまり部屋代は、まあ水道代とか光熱費とか込み込みで四万二千円なのよ。それで渡辺のお婆ちゃんの所も、前からそれぐらいでいいって言われているし。だいたいこの辺りは余程の事情がないと間借り代は同じ位なの。五十嵐君達や他の子達もみんな下宿代としてはほぼ横並びよ」
「じゃあ、私の負担は変わらないってことですか?」
「厳密に言うと、全く同じという訳にはいかないかな。後で見に行けば判ると思うけど、部屋は圧倒的に駒亭よりも広いから掃除が大変よ。元々二世帯用だからここと違って間借りスペースにはキッチンもついているし、リビングダイニングと含めてたしか十一畳、隣の寝室等に使う部屋で七畳、合わせて十八畳分が借りられるスペースだから」
「十八畳! 確か今の部屋は八畳でしたよね」
「そう。あとトイレと洗面とお風呂場も二階にあるから、そこも使っていいの。ここの共同と違って一人よ。あなた専用のトイレ、洗面、お風呂。専用だからお風呂もここと違っていつ入ってもいいから。朝入っても夜遅くてもいいってことになるわね」
「それ、本当に全部一人で使っていいのですか?」
「でもその分、掃除も大変になるってこと。駒亭では下宿生が交代でお風呂も共同トイレも洗面も掃除しているでしょ。それが一人だけで使える分、掃除も管理も一人でやらなくちゃいけなくなるから。特にキッチンを使えるのは便利だけど使った分、掃除も大変になるし。水回りの掃除って結構大変なのよね」
「ということは、光熱費がすごくかかりますよね?」
「それはいいみたいよ。余程度を超えた水道やガスの使い方をしない限りは部屋代込みという条件なの。それに美樹ちゃんの場合は、一カ月かそれくらいの間だから大丈夫でしょう。工事が終われば、またこっちの部屋に戻ってきて貰わなきゃいけないからそれはそれで大変だけど。あっ、心配しないでね。その後の引っ越し代も保険で払って貰えるから。それも事前に確認済み。というかそうでないと私が困るのよね。部屋が空くとその後の部屋代が入ってこなくなるから。あくまで保険で効く補償は工事期間が終わるまでだからね」
「そうですよね。工事期間中、渡辺さんの家に私が下宿するとしたら、その期間の部屋代はどうなりますか?」
「工事期間中は事故のせいで住めない訳だから、下宿の休業損害として駒亭から保険会社に請求できるの。でも工事が終わって住めるようになれば、休業ではないから損害が無くなる分、支払われなくなっちゃうの。その辺りは保険会社もシビアなのよ」
「お支払いはどうすればいいですか?」
「今までと変わらず同じ下宿代を駒亭に払ってくれればいいから。もし渡辺さんの家に決まったら、後はそこから食事代だけ抜いて残りを部屋代として駒亭から渡辺さんに支払うの。その部屋代として払わなきゃならない、本来駒亭の収入分となるはずの損失分を、保険会社から事故の賠償金として支払われるのよ。まあそういった手続きはこっちでやるし、美樹ちゃんの手を煩わすことはないから安心して」
 要するに美樹が面倒なのは引っ越しをする手間と、工事期間中は別の下宿先に住むことだけらしい。女将は続けて説明しだした。
「さっきも言ったけど部屋に入る許可が出たら、すぐに壊れた物がないか確認してね。後になって実はあの事故で壊れましたと言っても、賠償として認められず払ってもらえなくなることもあるからだって。もし壊れている部分があったら、ちゃんと携帯で写真を撮ってね。できれば保険会社の人か工務店さんか、第三者に立ち会ってもらうと後々トラブルがなくていいみたい」
 要するに少しでも早く部屋の損害を確認し、荷物を運び出さなければいけないようだ。渡辺さんの家にするかは別にして、引っ越した後は一カ月またはそれ以上の期間をそこで過ごすことになる。食事の際には駒亭へ通う。それらは決定事項らしい。
 女将が決めた流れに逆らわず動き、判断するように促された点のみ考えれば良かった。段取りの鬼、差配の女神。まだ四十代の彼女がそう呼ばれていると、この件を機に美樹は知った。
 最後に残していた卵焼きを慌てて頬張り食べ終えると、まずは井畑の実家へと連絡を取った。母はとても驚いていたが、一通り話を聞き終え事の流れを理解したからか、すぐに若竹へ向かう手配をすると言って電話が切られた。
 そこで工務店の人から声がかかる。不安定になっていた二階部分を固定したので、一時的に入室してもいいという。よって先程事故対応係の者と名乗り黒く焼けた四、五十代のオジサンに女将が声をかけ、部屋の中の損害確認を一緒に行おうと打ち合わせし始めた。
 その様子を横でぼんやりと聞いていたら二人に急き立てられて二階へと上がり、三人で床が抜けないか注意しながらそっと部屋に入った。初対面の男性を中に入れることは正直抵抗があったものの、そんな我儘を言っている場合では無い。
 幸いだったのは、普段より部屋を奇麗に掃除していたことだ。今日は陸上部の子達を招く予定だった為、誰が来ても恥ずかしくない程度に整頓してある。その為オジサンが入ることも我慢ができた。普段の散らかった部屋なら、拒否したかもしれない。
 部屋に入り中を見渡す。一見したところ今朝出かける前と変わりなさそうだ。それでも入口から一番遠くの角をよく観察すると、白い壁に微妙な皺が寄っている。工務店の説明では、柱が折れて傾いた部屋を工具で持ち上げた為壁紙が歪んだらしい。事故によるものではないと言う。
 あそこはどうか、ここは、と女将も加わってオジサンと二人交互に問われるまま、頼りない自分の記憶を辿りながら変化した点があるかを確認していく。一通り見終わったが、何も壊れていないようだ。事故の被害はあくまで一階部分が主で、二階部分は少し傾いただけで済んだらしい。
 それさえ判れば、と次は荷造りをするよう既に手配済だった業者が持参した段ボールを手渡された。荷造り中に壊れたものが見つかったら呼んでくれればいい、見られたくない私物もあるだろうからと最後に念押しした二人は部屋から出て行った。
 独り置き去りにされ、固定されているとはいえもし部屋の床が抜けたらと想像して、急に恐ろしくなった。そこで先程までは何ともなかったのだから大丈夫と言い聞かせ、ほんの一カ月半前に実家で作業をし、運んだばかりの荷物を素早く片付ける。
 まだ箱に入ったままのものさえあった。ここに来てから新たに増えた物はほとんどない。たった八畳一部屋分だったこともあり、荷造りは早く終えられた。すぐ必要になるものだけを手持ちの鞄にまとめ、階段を降りる。共同リビングにいた女将達を見つけると、壊れたものは無く作業が無事終えたことを告げた。
 そこで体の緊張が解けたのだろう。床が抜けないか気にしていたため、力が入っていたようだ。肩や腰に痛みを感じた。そんな様子をちらりと横目で見た女将が、
「では上の荷物をトラックに積んで貰えますか。運び先は後で連絡します。早ければ今日中、決まらなければしばらく預かって頂くことで宜しいですね」
と業者に指示しながら確認を取った。すると判りました、大丈夫ですと体格の良い男性が返事をしたと思ったら、あと一人が二階に上がり外へ運び出す準備をし始めた。
美樹が上で片付けている間、既に下では用意していたようだ。運び出す際に建物や荷物を傷つけないよう、廊下や部屋の入口、階段などを専用のクッションで覆う作業も終えていた。
 ここへ引っ越してきた際に見た同じ景色だ。またすぐ戻ってくるはずなのに、何となく寂しい気持ちが湧き出てきた。
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