パンドラは二度闇に眠る

しまおか

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動き出した計画~①

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 土曜の朝に下宿を出て昼頃には名古屋へ着き、待っていた父と簡単に会話をした後仏壇に手を合わせた。そこには養祖父母の徳一とふみの遺牌と遺影が置かれている。しかしそこに母のものは無い為、一抹の寂しさを覚えた。
 女将から差し入れにと預かった二人分の弁当と一緒に、筆談しようと書いたメモを渡した。ちらりとそれを見て頷いた父は、ありがとうと礼を言い、
「もうお昼の時間だしどこかで外食しようと思っていたが、女将の弁当をいただこうか。今日は天気もいいし、近くの公園で食べるのもいいな」
と、目配せをしてきた。やはり監視されていることは確からしい。家の中でさえも、何らかの盗聴器や監視カメラが仕掛けられているのか。そう思うとどこにあるのかを探したくなり、つい部屋の中を見渡していると、
「どこか汚れているか。掃除はちゃんとしているぞ」
 じろじろ探るなと暗に戒めたのだろう。
「奇麗にしていると思うよ。僕の部屋の方が汚いかな」
「駄目だろ。部屋が汚れていると菌が繁殖して風邪も引きやすい。これから寒くなる今の時期は特に注意しないと」
「冗談だよ。掃除はしているから。この部屋くらいにはね」
 そう言って二人は笑って家を出た。食事の後は名古屋駅まで行き、大きな書店を周る予定だ。受験の先輩でもある父が、今の時期に合った参考書を選んでくれるという。
 地下鉄の最寄り駅までの途中には、公園がいくつかある。その一つを選び、ベンチに腰掛けて弁当を食べることにした。中身は大将が手によりをかけたのだろう、二段重ねの懐石料理のように立派なものだった。
「これは美味しそうだな。それに拓馬さんが作った料理を食べるのも久しぶりだよ」
 父はものすごく喜んで、懐かしそうにおかずの一品一品をゆっくり味わいながら頬張る。
「そういえば、お父さんって女将と大将とは幼馴染みたいに育ったって聞いたけど」
「そうだよ。拓馬さんが二つ年上で女将が二つ下だ。私がその真ん中の学年と歳が近かったから、駒亭でお世話になっている間は三人でよく遊んだな」
 昔の思い出が蘇ったのか、思い出し笑いをしながら女将の若い時の話をしてくれた。
「今はしっかり者の女将で通っている彼女も、昔は恥ずかしがり屋で色白の可愛い子だったよ。拓馬さんや私とはよく話したけど、他の人とは上手く話せなかったっけ」
「今じゃ全然想像つかないね」
「女将の母親は駒亭で働いていたが、早くに亡くなって駒亭に引き取られた。だから小さい頃から駒亭で手伝いをしていたよ。拓馬さんは高校を卒業してすぐに京都の料亭へ板前の修業に出て、その二年後には私が東京へ出た。でも彼女は高校を卒業したら正式に駒亭へ就職した。働くことで育ててくれた恩を返そうとしたのだろうな」
「女将は昔から大将が好きだったの? それとも大将が女将のことを好きだったのかな?」
「拓馬さんは妹として見ていたと思うよ。シンと同じ高一の時に彼女は小六だからね。恋愛感情はならなかったはずだ。お前ならどうだ」
「今の僕が小六の彼女って考えられない。学生時代って学年が一つ違うのは大きいから」
「でも大人になれば年齢差は気にならなくなる。拓馬さんが京都から駒亭に戻ったのが二十九歳で、彼女は二十五歳。二人はその二年後に結婚したから、いい感じの年齢差だろ」
「全然おかしくないね」
「そうだろ。でもあれからもう二十年近く経つんだな。私も歳をとる訳だ」
「何、おじさん臭いこと言っているの」
「おじさんだからな。それは否定しようがない」
 二人は顔を見合わせて笑った。弁当を食べ終え、話が一段落したところでしばらく沈黙の時間が流れた。公園にはシン達とは反対側の端に設置してある滑り台で小さい子とそのお母さんが遊んでおり、その一組しかいない。
 二人のスマホは自宅に置いてきた。他にも盗聴、監視される危険性のある物は身に着けないよう注意を払った。さてどう切り出そうかと考えていたところで父が先に話しだした。
「ここなら筆談する必要はない。ただ小さな声で話そう」
「判った」
 持参していたペットボトルのお茶を一口飲んでから、話を続けた。
「余計なことに巻きこんでしまったな」
「大丈夫。勉強はしているし、調査も出来る範囲で手伝っているだけだから」
「だったらいいが。しかしそう遠くない時期に決着はつくと思う」
「そうなの?」
「証拠を掴み切れなければ、計画を止めることは諦めるしかない。後は学生が手を出せるような段階じゃなくなる。シンが会ったあの人達に任せるしかない」
「あの人って誰? お父さんの知り合いで、和多津さんのことを守ろうとしているって。渡辺さんが義理の母とも言っていたけど」
「故意に事故を起こしたんだろ。騒げば正体が表に出ると分かっていただろうに」
「そうだよ。鈴木正一という名前だって、警察はもちろんレンタカー会社の人や女将は当然として、IT部の定岡主任だって知っているから」
「そう。彼の今の名は鈴木正一。目立たないように鈴木って名の人と再婚してその姓を使っているらしい。その前の名は渡辺正一。これも婿に入った先の名だ。その渡辺というのは和多津美樹さんが下宿している、あの渡辺家だよ」
「結婚して二世帯住宅を建てた後、娘さんが亡くなったから空いているって聞いたけど」
「あの二階で聖子さんと一緒に暮らす予定だったが、聖子さんと義父の功さんが亡くなった。その後義母の千夜さんと話し合って籍を抜いたそうだ。でも関係はずっと続いている。鈴木姓は偽装結婚で入手したらしい」
「あの人はそんなことまでして、何をしようとしているの?」
「彼は元新聞記者でね。色々な事件を調べている間に、若竹の闇に気づいた。その調査の過程で同じ新聞社にいた若竹出身の聖子さんと親しくなり、義父の功さんとも交流を深めたそうだ。でもその二人はほぼ同時期にガンで亡くなった。その原因が若竹の闇に関わっていると疑い、会社を辞めフリーで本格的に調べ始めたそうだ。おかげで国を敵に回し、身の危険を感じて一度は裏の世界に潜んだらしい。私達に迷惑をかけるからと詳細は言わないが、かなり危ない橋を渡ってきたようだ」
「そんな人がどうやってお父さんと知り合ったの? 若竹の闇の繋がりから?」
「それもある。私や来音の両親も若竹の地下に眠っている闇の事を知っていたからね。でもそれだけじゃない。彼は私と血の繋がった兄弟で、しかも双子だ。向こうが兄だから正一、次男の私が修二と名づけられたそうだ」
「お父さんって若竹に捨てられていたんじゃないの? それに双子って全然似てなかったけど。騙されている訳じゃないよね」
「私も最初は疑ったさ。自分は誰が産んだ子か分からず神社に捨てられて拾われ、来音の両親の養子に入って育てられた、身寄りのない人間だと思っていたからね。でもある時向こうから接触してきて、本当の名は金田修二だと教えられた。彼は金田正一。ちゃんとDNA鑑定もしてもらって、実の兄だということは確認している」
「本当なの?」
 いきなり信じられないことを聞かされ、ただただ驚くしかなかった。その後どうして生き別れることになったか、捨てられた経緯や正一が語ったことを教えられた。そのことは父も最近になって彼から教えられたそうだ。
 正一は在日三世で、祖父は朝鮮半島から強制労働の為に日本へ連れてこられたという。だが井畑の炭鉱で働き日本人と結婚をして子を産んだ後、逃亡したらしい。彼らの生死は共に定かではないそうだ。
 産んだ息子を置き去りにした為正一の父は、親のいない子として育てられ、幼い頃から炭鉱の仕事を手伝っていたそうだ。労働力として使えると考えられたからこそ、生き長らえたという。
 やがて似た境遇で育った朝鮮人の女性と若い内に有無を言わさず結婚させられ、双子の男の子を産んだ。その子供が正一と修二だという。
 正一達が生まれた時代は盛んだった炭坑が徐々に減少し各地で閉鎖が囁かれ始め、労働力も必要とされなくなった頃らしい。そこで成長するにつれ井畑に将来性はないと考え、両親達と同じく逃げ出したのだ。
 違ったのは子供を置き去りにしなかった点だろう。しかし逃亡生活を続ける中、やはり二人の幼子が足かせになった。そこで途中に通った神社に、泣く泣く修二を捨てたそうだ。生きる為には止むを得なかったらしい。
 その後は名古屋や大阪へ移り、正一だけはしっかり育てようと両親は一生懸命働いたという。彼は成長する中で多くのことを学んだそうだ。逃亡した炭鉱のことや捨てられた弟は拾われた先で幸いにも経済的に苦しむことなく勉学に励んでいることも、親から聞いていた。
 彼の両親は一度捨てたものの、心配になってその後どうなったかを調べ、無事良い人達に拾われて幸せに暮らしていることを知ったそうだ。そんな弟に刺激を受けた彼もまた勉強に勤しみ、働きながら大学を受験して合格し、東京に出たという。
 だが大学卒業後、新聞社に就職して忙しく走り回る中で、両親共に急な病で亡くなった。彼は悲しみに耐え忍びながら懸命に毎日働いたという。そんな時、仕事で得た情報の中からかつて祖父母や両親を苦しませたあの井畑炭鉱の闇を知ったようだ。
 すでに閉山していたが、廃墟となったその闇を利用して悪事を働き、暴利をむさぼろうとするハイエナ達が大勢いることが分かった。彼らは金だけでなく権力も持っていたため、その支配から逃げる必要があって会社を辞めたそうだ。
 フリーになって取材を続けている内に、若竹の炭鉱も調べ始めたことで聖子と交流を深め、その父の渡辺功と出会った。功は彼が調査を進める若竹で同じような疑念を持つ、言わば同士だったという。二人は意気投合したそうだ。そして後に彼は聖子と結婚したが、その生活は長く続かなかった。
 当初は二人の死も若竹の闇に関係すると信じ調査をしたらしいが証拠は見つからず、やがてこれは求める闇に近づきすぎた罰ではないかと思い悩んだという。そこで彼は取材を打ち切り、裏の世界に潜り込んで世間との関係を絶ったらしい。
 だが鈴木姓を持つ女性と名ばかりの結婚をした彼は、再び闇の調査をし始めた。そのきっかけとなったのは、東日本大震災の発生により世の中が再び大きく動いたからだ。
 原発問題が表面化し、かつて正一が取材した自治体が後ろ盾になり、多くの放射能廃棄物を旧炭鉱や亜炭を掘った穴に埋めようと動き出したことを察知した。そこに再び若竹と井畑の名が耳に入ったことも大きな要因だったという。
 彼にとって井畑における企みを阻止することは、自分の忌まわしい生い立ちを清算する意味でも大きな意義があった。そこで計画の中身を知る為に、地権者として名が挙がっていた和多津家と田口家の監視を始め、その土地の地下に大きな空洞があることを知ったそうだ。そこから掴んだ情報はシン達も知っている内容と同じである。
 その監視中に中学生の自殺問題が起こった。事件自体は彼の調査と直接関係が無かったが、その件に絡んでいる和多津家の娘が井畑を離れ、若竹へ来るという動きを知った。
  しかし入居する下宿屋が若竹で国側と自治体とも関わりを持つ駒亭だと知り、別の家へと移せないかと計画を練り、あの事故を起こして渡辺家の監視下に置くよう実行したという。また事故後、美樹が駒亭に戻らないよう画策したのも彼らしい。手森茜と彼は全く面識もなく企みとは無縁だが、協力者の力を得て駒亭に入らせることに成功した。
 彼は以前から修二とシンの存在も把握していたが、遠くから見守るだけに留めようと考えていたらしい。しかし計画が動き出し彼の名が敵の目に止まりだしたため、やむを得ず正体を明かす決心をしたそうだ。なぜなら国の調査機関は、彼の正体を探りだして調査し始めたと同時に、修二やシンも監視し始めたからだという。
 今計画に注目している人達の中には、敵味方が入り混じっているらしい。そこをはっきりしないと、決定的証拠を入手できないだけでなく身に危険が及ぶと考えたようだ。そう告げられた修二は、シンにも伝えるべきだと思い手の込んだ接触方法により味方である確認をとらせたのだという。
「ということはIT部で監視している定岡主任は僕らの敵なの? 駒亭の女将さんも?」
 そう疑問を投げかけると、父は首を横に振った。
「分からない。定岡が私の同級生なのは知っているだろ。シンが入学した時も世話になったし、個人的には信用している。だが正一によると敵である可能性も十分にあるそうだ。少なくとも上の調査会社は完全に敵だと断言していた。女将も敵方と大きなパイプで繋がっていることは間違いないらしい」
「だったら敵じゃない。ショックだな。定岡主任だけでなく女将もなんて」
「そう単純な話ではないようだ。それだけでイコール敵だと断定はできないとも言っていた。定岡に関しても同じだ。女将も含め敵方に通じた上で、私やシンを守ろうとしている可能性も捨てきれない。中には計画を潰すことは賛同するが、若竹の闇は隠したい人もいるからだろう。もちろん味方の振りをして最後で裏切ることもある。それを考慮した上で行動しなと身が危ないと、彼は知らせてくれたんだ」
「じゃあ、僕は手を引いた方がいいってこと?」
「できればそうしてくれと。でも見方を変えた行動はかまわないとも言っていた」
「どういうこと?」
「和多津美樹さんを守る手伝いなら歓迎する。それが間接的に計画を阻止する切り口になるかもしれないからだと聞いた。詳しくは私も知らされていない。でもいま美樹さんの近くにいて力になれるのはシンの他にいない、とはっきり言っていたよ」
「和多津さんを守る? 引き籠っている彼女に、僕が何しろっていうの?」
「その作戦を今後、正一はシンと連絡を取って打ち合わせしたいそうだ。でも方法は細心の注意を払う必要がある。なにせ皆が監視対象下にあるからね」
「今まで通り監視しながら、彼女の手助けをする。でも計画の調査から手を引く。そういうことだね? それが僕の今できること、と考えればいいの?」
「そう。それが今シンにできることで、シンにしかできないことでもあるらしい」
「だから渡辺さんは“こころがケアしてくれるといいけど”と口にしていたんだね。僕に気づかせるだけでなく、僕の助けがいるという二重の意味を持っていたのか」
「そうなのか? だったら正一は、単にシンを調査から外すつもりではないようだな」
「和多津さんを守ることが計画阻止に繋がる程のキーマンなのかな」
「そうらしい。駒亭の事故も他人に依頼せず本人が実行したのも、失敗は絶対に許されなかったからかもしれない。正一はかつて渡辺家の娘と結婚していたから、あの周辺に住む近所の人とは顔を会わせたくないはずだ」
「そうだよね。それこそ女将と初対面ってことは無いでしょ。姓が変わっていても分かると思うな。もしかして整形しているの?」
「もし女将が気付かなかったのなら、その可能性もある。私も今の正一と初めて顔を合わせたのは最近だから、昔と同じかは判らない。今までのことを考えると、顔を変えていてもおかしくない」
「若竹の闇と計画を探るには、それくらいの覚悟が必要だったってことかな」
「そのようだ。私も甘く見ていたよ。来音のお義父さんが亡くなる時に聞かされた、若竹炭鉱の話。そして井畑とも繋がりがあると十年近く前に言っていたあの言葉が、今になってこんな形で表れるとはね。お義母さんも亡くなるまでずっと昔のことを悔いていたし。孝行のつもりでシンが若竹学園を受験したいと言いだした時、闇のことを確認しようとしたのが間違いだったようだな。シンのことを相談するついでに定岡達と連絡を取ったから、合格後はIT部に入部し、手伝いまでさせてしまった。本当にすまない」
「違うよ。僕もお爺ちゃん達から話は聞いていたし、苦しんでいた事も知っている。だから井畑について調べる手伝いをし始めたのは、僕の意思でもあるんだ。頼まれてやった訳じゃないから誤解しないで。自分を責めないで」
「分かった。シンがそう言うのなら、私も少し気が楽になる。でもこれからは気をつけろ。それこそ誰が敵か味方かを見極めないといけない」
「今はお父さんと正一さんと渡辺さん、和多津さんは味方だと思っていいよね」
「それ以外はグレーと考えた方が安心だ。それと正一のことを口にする時はおじさんと呼んだ方がいい。シンの伯父だし、特定されずに済む」
「分かった。おじさん、ね。でもどうやって連絡を取るつもりだろ。毎回銭湯に来るのも怪しいし。何度もうろついていたら疑われるだろうから」
「それは正一に任せろ。何か考えがあるはずだ」
「うん。接触があるまで、僕はどうすれば和多津さんの助けになるかを考えてみる」
「そうだな。あとは自分の本分である勉強をしっかりやること」
「分かっているよ。今自分ができること、今の自分しかできないことを一生懸命やるってことでしょ。大丈夫。参考書を買いに来たのは、ただの口実じゃないからね」
「そうだったな。そろそろシンの本業に役立つ参考書を探しに行くか」
 二人は立ち上がり、食べ終わった弁当を片付けて公園から駅へと向かって歩き始めた。

 名古屋から戻り、シンはずっと悩んでいた。美樹に対して出来ることは何か。自分のような一学生の身分で、年上の彼女に対して何ができるというのか。父から聞いたアドバイスを思い出しながら考える。
 メンタルを病み、現在も会社を休職して自宅療養している父とはきっかけが違う。心や体に起こる症状は人それぞれだから一概には言えないけれど、まずは安静にして休むことが大切だという。
 心や体に起こる症状が重い場合、他人がいくら励ましても本人に聞く気力はなく、ただ余計なストレスを与えるだけらしい。まずは休ませて、症状が安定するまで待たなければならない。
 行動を起こすとすれば、ある程度人の言葉を聞く気力が戻ってからだ。その為には今の彼女がどういう状態なのかを見極める必要がある。まだ引き籠っているが、食欲は徐々に戻ってきているようだ。渡辺さんが言うようにシンによるケアが必要だということは、ある程度話ができる状態と解釈していいのだろうか。
 だがあの口調は渡辺さんでは難しいとも取れる。だから助けを求めたのだろうが、自分に何ができるだろう。渡辺さんにはできなくてシンにできること。それは何か。頭の中では同じ疑問がぐるぐると回る。
 こう言う場合は一度冷静になり、俯瞰して違う角度から見ることが必要だと父から教えられた。押して駄目なら引いてみる。その忠告通り、基本に立ち戻って何度も考え直したのだが、やはり答えは出てこない。
 結局いくら想像しても無駄で、美樹と一度話してみないことには始まらないとの結論に至った。ではどうやって何の話をするのか考えてみた。
 彼女を守ることがどう井畑計画に関わってくるのかは不明だ。そこは今考えずに行動するとして、彼女が部屋に籠ってしまった発端に遡れば、何か接触する糸口があるかもしれない。噂の出所は未だに不明だが、彼女を追い詰め傷つけた事は確かだ。どんな意図があったにしても、彼女は利用された可能性があると気が付いた時、そこに突破口がある気がした。
 光を見出したシンは、まず会ってみようと決心した。渡辺さんもいきなりの訪問で驚いてはいたが、その後すんなりと二階へ上がる玄関の鍵を開け、彼女のいる部屋の扉の前まで連れて行ってくれた。そして声をかけた。
「美樹ちゃん、起きている? お客さんだよ。来音君が美樹ちゃんのことを心配して御見舞いに来てくれたけど入っていい? お昼御飯も持ってきたけど、開けてくれる?」
 初めて訪問したのは土曜の昼時だ。シンも女将には理由を告げず、今日は弁当にして欲しいと頼んであった。もし部屋に入ることができれば、一緒に食事をしながら話そうと思ったからだ。
 何もない時に訪問するよりは、彼女の昼食を渡辺さんが運ぶタイミングで行く方が自然だとも考えた。駄目なら帰ればいい。でも何度か訪ねれば、いつかは中に入れてくれるだろうと期待していた。
 どうやら彼女は起きていたらしく、中でごそごそと音がする。声は聞こえないが戸惑っている様子は感じられた。ドアを開けるか拒絶するか、しばらく反応するまで待っていると、扉の向こうに人の気配がした。やがて鍵を開ける音がした後、扉がわずかだが静かに開く。続いて彼女のかすかな声が聞こえた。
「どうぞ」
 ほんの一瞬隙間から見えた彼女は、ピンクのスエットを着て口に大きなマスクをし、視線を逸らしていた。表情はよく分からない。本当に入っていいのか戸惑ったシンは、渡辺さんの方を向く。すると静かに頷き、彼女の分の食事が乗ったお盆を手渡されたのだ。そして一人静かに廊下を歩き、階段を降りて出て行ったのだ。
 その後ろ姿をぼんやり見つめていると、なかなか入ってこないシンを不審に思ったのか、中からもう一度小さな声が聞こえた。
「どうぞ」
 その言葉で我に返り、緊張しながら盆と自分の弁当を持ち、
「失礼します」
と声をかけて入った。左手にカウンターキッチンが見え、その向こうにはテーブルがあり、手前の椅子に彼女は背を向けて座っていた。振り向かなかったので背中しか見えなかったが、一見して精気がなく疲れて憔悴しきっているのが判る。
 後ろ手に扉を閉めて彼女の正面に回り、食卓の上に盆を置いた。彼女の横顔が目に入る。焦点が合っていない。盆をぼんやりと見ているようだ。何も話さない為しばらく沈黙の時間が流れる。そこで彼女の反対側にもう一脚の椅子があったため、思い切って尋ねた。
「一緒にここで食事していいですか。僕も駒亭で弁当を作っていただきました」
 すると彼女はゆっくりと顔を上げてシンの姿を確認すると、わずかに驚いた目をして辺りを見渡していた。そこで初めてシン一人が部屋の中へ入ってきたことに気づいたようだ。
「千夜さんは? 帰ったの?」
 尋ねられたため、頷く。そこでようやく理解した彼女は頷き、小声で呟いた。
「どうぞ」
 じゃあ、と向かいの椅子を引いて坐り食卓に自分の弁当を置いて中身を開いた。いただきますと手を合わせて箸に手を伸ばし、まずは焼き魚に手をつけ一口分の身を頬張り、その後ご飯を口にした。
 お弁当の中身は他に唐揚げと卵焼き、切干大根に油揚げとかぼちゃの煮つけが入っている。目の前にある彼女の分はご飯がお粥、おかずはシンの食べているものと全く同じだったが、量はそれぞれ少なかった。
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