あなたに伝えたいこと

しまおか

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第二章

一日目~③

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「翔太、圭太けいたなんか無視しなよ」
「お前、腹立たないのかよ」
「ほっときゃいいのよ」
 翔太と美咲が言い合っている。そこに清が割り込み、翔太を挑発していた男のすぐ目の前に立った。和子は少し離れてハラハラとしながら見守っている。
「なんだよ、てめえ」
 急に出現した清に、圭太と呼ばれた相手の男の子が一歩後ずさりする。その取り巻きの男の子数人は驚きながらも逆に一歩前に出て清を睨んでいる。翔太と美咲達も清の出現に硬直していた。
 清はじっと、圭太という高校生の目を黙ったまま睨んだ。
「何だ? お前、誰だ!」
 威勢を取り戻した彼は、清の胸倉を掴んだ。背丈は少し圭太の方が高い。
 清は持ち上げられるように首を反った、かと思うと首をひねり、彼の手を取ってそのまま体を背負う。そして清の体が沈み、圭太の足が宙に浮いて大きく弧を描きながら地面に落ちていく。圭太の体はコンクリートの道路に打ちつけられる間際に、清の腕に引かれた。圭太の体がふわりと道路の上に横たわる。
 あっという間の出来事で、何が起こったのか周囲が理解するまで時間がかかった。一本背負いで投げられた圭太も同様だ。
 清は呆然としている彼の腕をぐっと引き上げ、地面に横たわっている体勢から一気に立たせた。今度は清が胸倉を掴み、凄んだ。
「男が下らねえこと言ってんじゃねえ。今度こいつらにバカなことほざきやがったら、その頭を地面に叩きつけて潰すぞ」
 清の啖呵に周りの男達の表情が凍った。翔太と美咲も固まったままだ。知らぬ間に清達の周りにはたくさんの人だかりができている。
「あんた達、今のうちにどっか行っちゃいなさいよ」
 いつの間にか和子が翔太達のそばに来て耳打ちしていた。美咲が先に我に帰って、
「ありがとう」
 と和子に小さく頭を下げ、翔太やその他の友達の手を引きながらその場を離れていく。
 清はその気配を感じ取り、圭太から手を離して和子の手を引き、人混みに紛れその場を離れようとした。
「ちょっと待てよ!」
 さすがにやられっぱなしでは格好が悪いと思ったのか、翔太達がいなくなって標的が清だけになったからなのか、圭太達は清達の後を追いかけてきた。
「逃げるぞ!」
 清は和子の手を握り、人の波を掻き分けて走った。
「待て、コラァ!」
 相手が逃げれば追いかける方は勢いづいてくるらしい。先ほどまでビビりまくっていた奴らはそんな事を忘れたかのように清達を追いかけてくる。
 相手は五人。一人ずつ相手にすれば若返った今なら簡単にやっつけられると清は一瞬思ったが、和子もいるし、こんな姿で喧嘩をしている所を警察に捕まったりしたら、どう身分を証明するかと考えるとそんな煩わしいことはやってられない、逃げるが勝ち、とばかりに清は走った。
 驚いたことに若い和子も思った以上に足が速く、相手はなかなか追いついてこられない。東急百貨店前を抜け、ごちゃごちゃとしたホテル街に入ると
「こっち!」
 和子が細い道を曲がった途端、清の手をひっぱり一軒のラブホテルの中に駆け込んだ。入口の入ったすぐのところで息をひそめて清達が隠れていると、圭太達がどやどやと駆けつけて大きな声で叫んでいる。
「どっち行った?」
「こっちか?」
「見失ったじゃねえか!」
「おい、このあたりのホテルに入ったんじゃねえか?」
「ちょっと中に入って探せ!」 
 圭太達は、手当たり次第ホテルの中を覗き始めた。
「まずいな」
 その声を聞いた清達は、建物の入り口から遠ざかり、ホテルの奥に入っていく。そこにはエレベーターがあるだけの行き止まりで、ピカピカ光る掲示板が目に入った。
「なんだこれ?」
「これってお部屋の写真じゃない? これで選ぶのよ、多分」
「ほう、これがラブホテルか」
 こんなホテルに清達は初めて入った。テレビドラマなどでこんな風になっているような映像を見た覚えがあったがそれよりもずっと綺麗で、派手だった。
「横にあるこのボタンを押して選ぶんじゃない?」
 和子は興味津津で一生懸命、部屋の種類を見ている。
「入ってみるか?」
 清が声をかけると、和子が驚いて振り向き、
「いいの?」
と目を輝かして清を見つめた。
「しばらく部屋に入って時間を潰さないと、あいつらから逃げられないだろ」
 清が目をそらし、頭を掻きながらいうと
「そうね。それにどうせ今日はどっかに泊まらなきゃいけないんだから」
と和子はもうその気になっている。
「おい! こっちは見たか?」
 ふいに圭太達の声がホテルの入り口で聞こえた。
「まずい、早く入ろう!」
 どの部屋にしようかと悩んでいる和子をよそに、清は咄嗟に目についた、空いている部屋のボタンを押すと、ガチャッ、と鍵が落ちてきて、閉まっていたエレベーターが開き、ランプが点滅し始めた。
「いくぞ!」
 清は出てきた鍵を手に取り、和子の手をひっぱってエレベーターの中に入り、閉のボタンを押す。エレベーターの扉が閉まった後、すぐ外から圭太達の声が聞こえた。間一髪だ。圭太達の仲間数人がホテルの中まで入って清達を探している声がエレベーターのすぐ外から聞こえた。
「危なかったなあ」
 清がそう呟いていると、エレベーターが上昇して三階で止まり、扉が空いた。清達の目の前にまっすぐ伸びる廊下の先に、部屋番号の書いてあるランプが点滅している。その部屋番号が、清の持っている鍵についたキーホルダーの番号と一致していた。
「あの部屋に入れ、ってことか」
 清と和子は顔を合わせ、おそらくそうだ、と予想し、その部屋の前まで何故かそろりそろりと歩いた。清が部屋の鍵穴に鍵を差し込むと、ドアはすんなりと開いた。二人は急いで部屋の中に入る。なんとなしに後ろめたい気分になるのはどうしてなんだろう。
 清が部屋を見渡すと、その結構な広さに驚いた。昔勤めていた時に使ったことのある下手なビジネスホテルなんかよりずっと広い。奥に大きなベッドの他にカラオケセットらしいものもある。それになぜか大きな水槽があった。入口近くのお風呂やシャワー室が不思議な事にガラス張りだ。
 横では和子も物珍しそうにあちこち見ている。当然だろう。こんな部屋には今までに入ったことが無い。清達が若い頃はそんな時代ではない。物心がついた頃には日本は戦争だなんだと大騒ぎしており、そしてボロボロになってやっと戦争が終わったと思ったら食べるために必死に働き、何とか今まで生きてきたのが清達だ。
 連れ込み旅館の様なものは昔にもあったが、こんな綺麗なものではなかったはずだ。和式の畳部屋で蒲団だけが引いてある質素なものだと言う知識だけはあった。
「あの水槽って何かしらね? 何も魚なんか泳いで無いけど」
 和子も不思議そうに、高さが自分達の身長ほどある大きなガラスに水がたっぷり入ったプールの様な水槽を眺めている。ガラスの所に登る梯子がついている。
「もしかしてプール、じゃないか?」
 清がなんとなくそういうと、
「プールが部屋にあるの? じゃあなんで水の入った部分がガラスですけてるの?」 
「う~ん。水泳選手が泳ぐ時にフォームとか見られるような、ああいうもんじゃないか?」
「ああ、なるほど。でもそもそも泊まる部屋になんでプールがあるんだろう?」
「さあ。それは判らん」
 清は近くにあった青いソファに座った。さっきまで元気だったが、走ったからか、ほっとしたからか急に疲れを感じる。
「結構疲れたわね。それにしてもさっきの清さん、格好よかったわ」
 和子も隣に腰かけた。
「昔、柔道を習わされていたからな。咄嗟に出てしまったよ」
 清が若い頃は、何かと男は逞しくなければならないと言い聞かされ、たまたま親戚で柔道の強い伯父さんがいたため、清はよく鍛えられた。父親が戦争でいない間はその叔父が父親代わりをしてくれたものだ。
「あんな姿、初めて見たわ。若返ってまた私の知らない清さんに会えた」
 和子はそう言って喜んでいる。清はお尻がむずむずするような居心地の悪さを感じていると、和子が部屋に備え付けてある時計を見た。もう夕方の五時過ぎだ。気になったのであろう、和子が翔太達のことを心配し始めた。
「あの子達、ちゃんと帰ったかしら」
「翔太達か。大丈夫だろ」
「またあの意地悪な友達に絡まれてないわよね」
「あいつらは翔太達の方には行ってないだろ」
 あの圭太とか言う奴らは恥をかかせた清を追うことで必死だったため、その間に翔太達はうまくその場から逃げおおせたはずだ。
 和子もその言葉に頷いた。
「そうね。でも不思議だったわね。あの子達と同年代になって友達のように喋るなんて」
 和子は美咲達と話していたことを思い出し、笑った。
「ああ、そうだな。でも」
 清が先ほどの翔太達の会話を思い出していた。
「でも、って何?」
「翔太達、誠くんのことをからかわれていたな」
 清の話を聞いて、和子も笑いを消した。一瞬沈黙があった。
「そうね。いつもあんなふうにいじめられているのかしら」
「誠くんが会社を辞めたのは確か俺が入院する少し前だったな」
「そう。二月の終わり頃よ。そろそろ三ヶ月くらい経つかしら」
「二年ほど前から会社も休みがちだったからな」
 銀行員だった誠が体調を崩すようになったのは翔太と美咲が今の高校の受験勉強を始めた頃だった。
 体がだるく、頭痛や動悸のする誠は、いくつかの病院で検査を受けるがどこにも異常が無いと診断されていた。最初の頃は、恵子も仕事の疲れが出ているのよ、と言っていたが、一、二ヶ月ほど会社に行くと二、三日休み、また一、二ヶ月ほど会社に行くと体調を崩し、二、三日休むと言う事が半年ほど続いたため、病院では心療内科の受診を勧められたそうだ。
 診察の結果、誠はうつ病と診断された。それまで会社を滅多に休んだことのなかった誠は、銀行で新しい部署の課長になってしばらくして症状が出たようだ。新しい職場での直属の部長との人間関係が上手くいかなかった事と、新しく出来た部下とのコミュニケーションが精神的負担になっていたようである。 
 中間管理職として忙しく働く中、誠の部下達もまた心の病で会社を休んだり辞めたりする人が後を絶たなくなっていた。それなのに銀行では職員の補充が上手くいかず、残された人達の仕事がどんどん増していき、部下の不満が高まる中、誠自身も休職中の社員のケアなど上司に報告することも多くなり、上からは管理能力を問われ、下からは突きあげられることでとうとう誠自身の精神が参ってしまったらしい。
 会社を休み始めて一年後、とうとう誠は長期休暇に入り、一時期入院したこともあった。そして結局誠は今年の年明けに銀行を退社することになったのだ。
 誠が会社を辞めて自宅療養を続けることを決心した去年の年末頃から、誠の体調は少しずつ良くなっていった。それからは共働きだった恵子が家計を支え、誠が主夫となって家の中を守る、という生活が始まった。その途端、清の入院騒ぎが起こったために清達には誠達一家がその後どういう生活を送れているのかを見守る余裕が無かった、といっていい。
 経済的には清達が支援して建てた持ち家があり、ローンもなく、収入も恵子がそれなりに稼いでいるほか、今まで貯蓄してきた誠の貯金もそれなりにある。
 清達の資産もあるから贅沢しなければ、翔太や美咲の大学卒業までの教育費がそれなりにかかっても何とかやっていけるであろう。誠も今までの様な会社勤めはできなくても体調が戻りさえすれば働く意思は十分あるようで、そのための準備を今何かしらやっているという話は和子を通じて恵子が話していたという。
 だから心配しなくていい、という恵子達の言葉を鵜呑みにして翔太や美咲のことまで清達も頭が回っていなかった。二人はもう高校二年生だ。成績なども特別良くはないがそれなりに頑張っているようだし、清から見て贔屓目かもしれないが、翔太達は素直に育ってくれていると思う。
 誠の病気についても家族で話し合って理解してくれたと恵子も泣いて喜んでいた。これからは家族で支えようと翔太も美咲もそう言ったというのだ。美咲の様な年頃なら父親など鬱陶しい存在であってもおかしくないであろうに。
 そんな孫達が父親のことでいじめられているなんて断じて許せなかった。だから清の体は自然に動いて後先考えず、あの圭太という奴を投げ飛ばしてしまったのだ。  
「大丈夫よ、あの子達なら」
 和子は清の思いを汲み取ったのか、清の腕を強く握った。
「ああ、そうだな」
 清が腕に絡めている和子の手を強く握り返した。
「でも帰ったら少し恵子達と話合わなきゃいけないわね」
「そうだな」
 清達はそのままぼんやりと、部屋の明かりに照らされて反射して光る大きな水槽を見つめていた。冷静になってみると、とても場違いな場所で物思いに耽っている自分がいることに清は急に恥ずかしくなった。
 この部屋は水色がベースの壁で、テーブルやソファァなど青色に統一されている。広くのんびりしておそらく海がテーマになっているような落ち着いた空間なのだが意味が良く判らないものも中にはあった。そのうちの一つが部屋の隅に設置されている機械だ。
 よくみるとそれは小さな自動販売機の様なものであり、その中には妙な道具が入っている。ここは若い男と女が交わる場所なのだ。そう思うと途端に恥ずかしくなった清は、和子の手を離して立ち上がった。
「何? どうしたの、急に?」
「ト、トイレだ」
 清はトイレを探して見つけると、思わず目が点になった。
「なんじゃ、これは」
 今日二回目のセリフだ。清が見たトイレはガラス張りで外から丸見えだった。シャワー室とお風呂の横にある。最初はよく考えなかったが、これでは体を洗う時も外から丸見えではないか。意味が判らん。トイレと浴槽を立ち尽くして見ている清に気づいた和子は、
「何か、あそこにカーテンあるわよ。見られたくなかったらあれで隠すんじゃない?」
 と目ざとく見つけてくれた。
「ああ、そうだな」
 清は冷静を装いながら胸をなでおろし、カーテンを引いて用を済ませた。
 トイレから出てくると、和子は靴を脱いでベッドに横たわり、何やら見ている。部屋の説明書のようなものらしかった。清の姿を見た和子は、手招きして
「ねえねえ、あの水槽ってやっぱりプールだったみたい。判ったわ。あの中を裸で泳いで楽しむみたいよ」
と教えてくれた。あどけなく言う和子の言葉通りに頭の中で想像した清は、頭痛がした。
「馬鹿じゃないか?」
 辛うじて清がそう呟くと
「水着も一応あるらしいわ。その自動販売機みたいな奴で買うらしいけど、変なやつばっかりみたい」
 和子の指さす機械を覗くと確かにお金を入れて中に入っている商品を買う販売機になっているようだ。その中には水着らしきものが入っているが、全く隠すという概念の無い代物だ。
 紐と透明なビニールでできていて、裸で泳ぐのと何が違うのかと思うようなものばかりで男性用の水着はなかった。男はあくまで裸で泳げ、という事らしい。
 頭の中でいろいろ思い描いた清は和子のいるベッドまで近づくことができず、またソファに腰掛けた。
「ねえ、食事どうする?」
 ベッドの上から和子が清に呼びかける。時計を見ると六時近かった。言われてみればあれだけ食べたのに、少し運動したからか、お腹も少し減ってきた。
「そうだな。まだ外にはあいつらがいるかもしれないが」
「部屋でルームサービスがとれるみたいよ。中華もあるみたい」
 和子がベッドから降りて来て清の横に座り、手に持った説明書の束を開いて見せてくれた。中にはパスタやピザの他にラーメンや餃子と言ったものまでいろいろある。
「さっきパスタとピザは食べたから」
「これにしない? 中華丼と餡かけチャーハン、餃子と春巻きとシュウマイなんかもどう?」
「そんなに食べられるか?」
「さっきはもっと食べてたわよ。たまにはいいんじゃない?」
「お酒、ビールもあるのか」
 清がメニューを覗きこんで見つけると
「まずいんじゃない? 中身は爺さん婆さんだけど、見た目は未成年だし」
「どうせ電話で注文するんだろ。わかりゃしないさ」
 お酒が久しぶりに飲めると判ると清のテンションは上がった。入院してからお酒は一切禁止されていた。今更、と思ったがまた悪化すると吐血したりする可能性もあるからと脅され、清はしぶしぶ言う事を聞いていたが、今日は食事制限も全く気にせず大量に食べている。若くなって頭の中身以外は完全に別物になったようだ。ならば少々無理しても大丈夫だろう。
 清が嬉しそうにしているためか、和子もそれ以上は何も言わず、ベッドの所にある部屋の電話で中華丼など食事のルームサービスを頼んだ。瓶ビールを二本含めて。
「そういえば、ロッカーにいれてある荷物、どうする?」
 食事を待っている間、清が和子に聞くと
「別に慌てて取りに行かなきゃいけないものはないんじゃない? ここはホテルなんだしアメニティはいろいろあるから。着替えるのも明日、ここをでて荷物を出してからでいいんじゃないの?」
 和子はもう完全にここで一泊するつもりで、またベッドの上で寝そべったままくつろいでいる。確かに和子の言う通りだ。またここから歩いて荷物を取りに行くのも面倒な気がしてきた。外にはまた圭太達がうろちょろしていないとも限らない。
 明日朝早くでも出れば、無事脱出することはできるだろう。それまでここでいればいいか。朝食だってルームサービスでとれるようだし。
 部屋のチャイムが鳴り、頼んだ食事が届いた。食事代は部屋代とは別で別途先に払うようだ。清が出てお金を払い、部屋の中に料理を運ぶと、和子はちゃっかりソファに座り、食事を食べる準備をしていた。
 清がテーブルに皿を並べる。ビールもちゃんと冷えていた。三カ月ぶりのお酒だ。グラスにビールを注ぎ、和子と
「青春に乾杯!」
 と訳のわからないことを言って酒を飲む。旨い! 久し振りのビールに、プハッと息を吐いた清は、むさぼるように料理に手をつけた。二人であっという間に料理を平らげる。ビールがなければ物足りなかったぐらいの量だった。
「いや~、食べた、食べた。それに久し振りに酒が飲めて気分がいい!」
 上機嫌な清を和子は微笑んで見ている。清も先ほどの和子と同じように、靴を脱いで大きなベッドの上に大の字になって仰向けに横たわった。和子もソファから移動してベッドの端に座って清を見つめている。
「気持ちいいな~! 若いっていいな~! 健康っていいな~!」
 清が叫ぶと和子は少し顔を歪めた。清は気付かないふりをして、ベッドの上で手足をバタバタと動かしていると、和子がそっと寄って来て清の左腕を枕にして横たわった。顔は清の方を向いている。
「なんだ?」
「別に」
 和子はまた笑いながらじっと清の顔を眺めている。清は和子から目をそらし、天井を見上げた。天井には大きな鏡があった。ベッドの頭の所と右側の壁にも鏡がある。いろんな角度で寝転がっている自分達の姿を眺めることができた。清は鏡越しに和子を見ていた。
「ねえ、清さん」
 耳元で和子に名前を呼ばれてくすぐったくなる。清は天井を見たまま答える。
「どうした?」
「今の清さんって、私達が出会う前の姿だよね」
「そうだな。俺が十七、八の頃の姿だと思う」
「清さんと私が会って結婚してからも少しは聞いたことがあったと思うけど、十七、八の頃って清さん、何してた?」
「七十年近く前ってことだよな」
 清は頭の中で思い出していた。時代は一九四八年頃。戦争が終って女性の流行はロングスカートにショートカット。ラジオでアジャパーやギョッ! という言葉が流れて友人達との会話の中で使われるようになる。
 アプレ・ゲールという無軌道な戦後世代とも呼ばれたこの時代、街では青い山脈、銀座カンカン娘の歌声が聞こえていた頃、これからの時代は学問が大切になるという清の母親の考えで清は大学に入る準備をしていたはずだ。
 父親は戦争で亡くし、東京の郊外で過ごしていた清達は、親戚一同が集まって助け合って生活をしていた。何をしていたという記憶はあまりない。早く終わって欲しいと心の中で思い続けていた戦争が終わり、必死に毎日を生きて、必死に勉強をした思いがある。
 大学を卒業し、機械メーカーに就職した清はがむしゃらに働いて気付いてみれば二十代半ばを過ぎていたため、親戚が心配して清の嫁にいい子はいないかと探していたところ、叔母の友人の娘に年頃の娘がいると言う事で紹介されたのが和子だった。
 その和子とお見合いの様な形で出会い、そのまま付き合いを初めて結婚。今に至る、というのが清の記憶である。
「なによそれ」
 和子が清の記憶にケチをつける。
「青春なんてものがあったのかよく覚えてないんだからしょうがないじゃないか」
 清も逆切れしてしまう。
「そういう和子はどうだったんだ」
 清が聞くと、和子は頬を赤らめ
「どんな人と将来結婚するのかな、ってずっと考えていたわ。それこそ夢見る乙女だったわ。そしたら清さんと出会ったんですよ」
「はしょりすぎじゃないか。出会うまでの間、ずっと夢でも見てたっていうのか」
 清が絡むと
「そうよ。思い続けてやっと清さんと一緒になれたんですもの」
 思い出した。そういえば和子は結婚した当初、そんな事を言っていたことがある。幼い頃から病弱だった和子は、あまり外に出たりしなかった。
 しかし十代半ばになって少しずつ元気になって外に出るようになった和子が、どこかで清のことを見かけて一目惚れをしたというのだ。それから和子は清のことを思い続けて、数ある縁談に対し健康を理由に断っていたそうだ。事実、和子は心臓があまり強い方ではなかった。
 するとある日、清の親戚の方から清との縁談が舞い込んできたという。和子は飛び上がって喜んだそうだ。そんなことはつゆ知らず、清は和子と付き合いを始めて断る理由も見つからず、また器量も良く美人でもあった和子と結婚したのだった。
「そんな話もあったなあ」
 清が照れ隠しでそう言うと、和子に腕をつねられた。かなり強くひねられ、後から見たらアザになっていたが、その時清はじっと我慢していた。
「風呂でも入るか」
 清が起き上がると、和子もしょうがなく体を起こした。二人はカーテンを閉め、別々にお風呂に入り、用意されていたバスローブを着てテレビをつけたまま、ベッドにもぐりこんだ。
 そのまま不思議な一日を過ごした清達は深い眠りについたのだった。清の胸に潜り込むように眠る和子に欲情する下半身をなんとか宥めた清も、一日の疲れとお酒のせいもあって思ったより早く寝ることができた。
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