ミューズ ~彼女は彼らの眩しい人~

藍川涼子

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第二章 紗栄子・高1 

17 県大会の涙

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 7月中旬。
 まだN県の梅雨明けは宣言されていない。
 よって空は雨模様で、屋外プールでのレースはなんだかすっきりとしない。
 紗栄子はマネージャーとして二度目の公式大会とあって、地区大会の時よりは少し慣れた気持ちで県大会に臨んでいた。もちろん、きちんと気を引き締めてもいるわけだけれども。
 高校での水泳は競技人口が少ないため、県大会は誰でも参加できる。言い換えると、次の地方大会には県大会で勝ち抜かなければ参加できない。
 3年生部員の中には、地方大会への参加が難しそうな者もいる。
(衛先輩、敦子先輩には特に頑張ってほしい。)
 二人はともに自由形の選手だ。競泳の競技人口全体が少ないとはいっても、やはり自由形は人気で、狭き門ではある。
 各競技の上位6位までが地方大会に参加できる決まりだ。同じ自由形でも衛に比べて礼司は6位入賞が固いが、なんといっても実力、タイムの世界だ。
「今日は悪いけど、私の都合で変則的に動くわね。」
 礼子が春菜と紗栄子に言い放つ。県大会では、6位入賞が難しい3年生部員を中心にサポートする。それはある意味失礼な考え方かもしれないが、是が非でも勝ち抜いてほしいという気持ちからだ。
(衛も敦子も、絶対に地方大会に進出してほしい。)
 もしそれが無理なら―――最後なら、タイムの計測も休憩所でのマッサージも自分がさせてもらいたい。
 マネージャー業務にはとことんまじめな礼子なのである。
「とりあえず、今の時間は紗栄子が休憩所にいてね。」
「はい、わかりました。」
 礼子に言われて休憩所に行くと、何人も部員がいる中で、蓮がいるのが目に入った。愛が捨ててしまったピンク色のキャラクターグッズの件以来、部活終了後に一緒に帰ることもなく、なんとなく気まずいままでいる。
「紗栄子、マッサージしてくれる?」
「はい、すぐに。」
 紗栄子に声をかけたのは部長の浩次だ。
「とりあえず、基樹にしてやってよ。」
「え?先にいいんですか?」
「俺は一番最後に一番ゆっくりやってもらうから。」
「そういうことなら、お言葉に甘えて。紗栄子、よろしく。」
「はい。」
 大伴基樹は、蓮と同じくバタフライを専門種目としている、2年生である。
 焦らず、ゆっくりと、腹這いになった基樹の体のあちこちをもみほぐしていく。
「あー…。」
「すみません。痛いですか?」
「ん?ああ、いや、ごめん。気持ち良くて声が出ちゃっただけ。上手だよ。」
「よかったです。手止めてすみません。」
「いやいや、続けてお願いします。」
「はい。」
 しばらく続けていると、基樹がすっと手を上げた。
「ありがと。ここまででいいよ。次は蓮にしてやって。」
「はい…。」
 基樹の言葉に素直に従い、紗栄子は蓮に視線を向ける。蓮は自分で腕のストレッチをしていた。
「あの…する、ね。」
「ああ、うん。お願いします。」

 ―――なんかわかんねえけど、気まずさ丸出し。

 二人の様子を見て基樹は笑い出しそうになったが、さすがにこらえた。
 蓮は腹這いになって力を抜いたつもりだが、自然と力が入ってしまっていた。
 紗栄子は、まずは確認とばかりに蓮の体のあちこちに触れている。
「調子、どう?」
「うん。いい感じ。…礼子先輩に絞られてるしな。」
「そうだね。」
 ひとまず、あたりさわりのない会話をして、互いの様子をうかがう。基樹がにやにやしながら様子を見ていることも知らずに。
 肩から背中から腰へと紗栄子の手が滑る。やがて腰をゆっくりと強く押すと、蓮の声が漏れた。
「あー…、すげえ気持ちいい。」
「そう?良かった。」
「マッサージもうまくなったよな、紗栄子。」
「そう?良かった。」
「…おんなじこと言ってる。」
「え?ああ、そうだね。うん。」
 
 ―――この間は悪かったな。

 蓮がこの言葉をいつ言おうかと考えていると、紗栄子が口を開いた。
「ごめんね。先に謝っとく。」
「は?先に、って?」
「こないだのキャラクターグッズの件。今からほじくり返すから。」
 ‘ほじくり返す。’
 そう言われて、思わず蓮は身構える。
「あたしがマネージャーかどうかなんて関係ないの。あたしが愛ちゃんの立場だったら、捨てるにしても、蓮の手で捨ててほしいと思ったの。ごめん。それだけ。」
「いや…、俺の方こそ悪かった。そもそも俺とあいつの話におまえを巻き込んじゃったわけだし。悪かった。」
 謝りあう二人の様子を見ながら、基樹と浩次がなんとはなしに視線を合わせ、小さく笑った。



「…っく。っ…。」
 県大会の最終日。
 レースが終わって、解散になって、しばらく経って、城北高校のプールサイドには礼子と拓海が残っていた。
 拓海は、今回の大会でも自己ベストを更新した。インターハイ出場標準記録突破まで、さらに近づいた。
 とても晴れやかな気持ちでいる―――はずだったが、拓海は顔をしかめている。
 礼子が座り込んで泣いているからだ。
「あと少しだったのに、いぃぃ。」
 小さな子供がしゃくりあげるように、礼子は泣いている。
「まも、るもっ、あ、あつ、こもっ、あと少し、だったのにぃ。」
 3年生の酒井衛、新島敦子は、県大会の決勝レースには残ったものの、6位入賞は果たせず、今回で引退となった。
 2人とも自己ベストを出して、悔しいながらも、それでもやりつくした様子で、レース後は晴れやかな顔をしていた。
 礼子も、2人が目の前にいる間は穏やかにしていたが、みんなが帰ってしまってプールサイドに拓海と2人きりになった途端、ビービ―と泣き出したのだ。
「衛先輩も敦子先輩も、礼子に感謝してるって言ってたじゃん。」
「で、も、勝たせ、られ、なかっ…。」
 拓海の慰めは逆効果で、礼子はさらに泣いてしまう。
 拓海はふう、とため息をついた。
 こうして彼女に付き合っていることが面倒くさいからではない。礼子の中に、とてつもなく熱い部分があることに感心しているからだ。そしてそれを衛や敦子に見せないようにしているところがいいと思うし、その礼子が自分にはみっともないほどの泣き顔をさらしてくれることが嬉しい。
 少し離れたところに座っていた拓海だが、礼子の隣にしゃがみこんで、そっと頭を撫でる。
「衛先輩も、敦子先輩も後悔してない。礼子はそこに貢献できた。」
「た、くみぃ。」
「泣き止まなくていいよ。」
 拓海の言葉を聞いて、さらに礼子の顔がゆがむ。
「た、くみ、の、お祝い、できな、くて、ごめ、ごめんねえ。」
「今日はいいよ。あとでいっぱいしてもらう。」
 そうして拓海は、プールサイドという状況にいささか苛まれつつも、涙にぬれた礼子の頬にキスをした。
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