君に一泡吹かせたい!

千間井鰯

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プロローグ

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 その渓谷では一年を通して強風が吹きすさび、好んで通りたがる者は稀であった。
 谷底を流れる川は澄み渡っており、大小さまざまな淡水魚が悠々と行き来している。岩壁を緑が覆い、見る者を穏やかに魅了する景色ではあったが、風に背中を押されて何度も何度も転びそうになってまで目に焼き付けたいかと問われれば首を横に振る、その程度の美しさであった。
 ふと、一層強烈な突風が一筋駆け抜けた。
 水面が波を立て、木々が揺れる。風は楽しそうに木葉を巻き上げ、くるくると踊りながらあてもなく進む。そして前方不注意で岩壁にぶつかりそうになって、慌てて動きを止めた。
(おっと、危ない危ない。こんなしょうもないことで怪我しちゃ兄さんたちに怒られる)
 風は、――正確に言えば風を起こしていた掌くらいの大きさの生き物は、ふうと一つ息をついた。
 先月、川魚で遊んでいたら危うく食われかけたばかりである。これ以上おせっかいな兄達を無駄に怒らせて遊ぶ時間を説教の時間で減らされるのは勘弁願いたい。

 この小さくて不遜な生き物は名をトゥールといい、ヴェンティア渓谷に棲み付く風の精の一人であった。実のところ渓谷に強風を起こしているのはトゥールを筆頭とした悪戯好きな風の精達であり、仲間の安全を守るという名目で、人々を転ばせて日々笑いものにしている。
 しかしそんな悪戯が何年、何十年も続くと人の往来は段々と少なくなってくる。その上トゥールは風の精の中ではまだまだ年若であり、谷から出ることを許されていない。そのため近年は自然と戯れるぐらいしかやることがなかった。

 兄達は暇ならば魔法や外の世界の事柄の勉強でもしていろ、と呆れた様に言うが、トゥールは全く聞く耳を持たなかった。あんな面白みのない文字の集合体を眺めたり、口うるさい教育係の説法を一日中耳にし続けたりするくらいならば、木葉を風で弄ぶ方が百倍マシである。
(退屈で死にそうだよ、全く)
 突き出た岩肌に腰を下ろして上を見上げる。山々の間から見える空はどこまでも青く澄んでいて、嵐の影など一切ない。平穏すぎるほどに平穏だ。
(でも、あと少しの辛抱だ)
 トゥールはにんまりと笑みを浮かべる。彼は先日、九十五歳の誕生日を迎えた。風の精の社会の中では、百歳になってようやく一人前として認められる。認められれば、渓谷から出ることが許され、この代わり映えしない景色とおさらばできるのである。
 兄達から聞く外の世界の話は実に刺激的だ。街には木や石で作られた家々が建ち並び、その中は住む者によって異なる生活用具が押し込まれているらしい。街の地面はタイルで舗装されているらしいが土や草とは違って足で踏み鳴らすとコツコツと音が鳴るそうだ。しょっぱい水で埋め尽くされた大きな湖――兄達が言うには海というそうだが、そこには川に住むのとはまた違った生き物が住んでいるらしく、新しい遊び相手になってくれるかもしれない。
 そんな世界に自分も足を踏み入れることができるようになるのだ。トゥールの心は浮足立つ。
(五年なんてあっという間だ。それまではこのクソつまらない谷で我慢してやろうじゃないか)
 上機嫌にぷらぷらと足を揺らし、川のせせらぎに耳を傾けていると、ふと砂利が踏みしめられる音が聞こえた。トゥールは足の動きを止める。
(誰だ?)
 川辺に住む生き物か、それとも遊んでばかりのトゥールを連れ戻しに来た兄だろうか。トゥールは様々な可能性を頭に浮かべながら、音の出所を見やる。すると、トゥールから少しばかり離れた川辺に、人影があるのが見えた。
 それは黒いマントを羽織った青年だった。道を急いでいるようで、表情は険しく、歩調は速い。荷物はあまりなく、腰に携えた長剣と肩に背負った布袋だけであった。
 久々に現れた人間に、トゥールは目を瞬かせた。そして、青年の姿をはっきりと認識すると、口角と目元を意地悪く歪ませた。
(僕はなんて幸運なんだ! 玩具の方からわざわざやって来てくれるなんて!)
 思わずその場で跳ね上がりたくなったが、青年にすぐに見つかってしまっては面白くないと堪える。そして、改めて青年の姿を舐めるように観察した。
 よくよく見れば青年の顔のつくりは凛々しく、背筋はぴんと張っていて、いかにも厳粛そうな印象だ。マントから覗く衣服は丈の短い上衣ではあったが、彼の仕草はどこか品があり、あまり庶民には見えない。どこかやんごとなきお家の子息か何かがお忍びで出歩いているのだろうと当たりを付ける。
 トゥールは片手をそっと上げ、青年の方に向け軽やかに振る。すると、先程まで比較的落ち着いていた風が急に激しく、鋭くなり、青年の背中を押した。木々の葉擦れが辺りに響き渡り、トゥールは内心ほくそ笑む。しかし、風が吹いて少し経つと、彼の顔には訝し気な表情が浮かんでいた。
(おかしい。――何でアイツは転ばないどころかよろめきもしないんだ?)
 風の精が起こす風は並大抵の強さではない。今まで彼が弄んできた人間は一人残らず、彼の一振りで地面にみっともなく転がされてきた。しかし青年はまるで後ろから強風で押されているとは思えない程、変わらない足取りでしっかりと前に進んでいる。
 ならば、とトゥールは再び手を振る。今度は背面からではなく、青年の正面から強風が襲い掛かる。こうすれば前に進むことなんてできないはずだし、何より砂埃が目に入って不快になるはずだ。しかし青年はそんなトゥールの目論見など一蹴するかのように、布袋に手を突っ込むと遮光器を取り出し、手早く装着した。本来なら雪目を防ぐためのものをまさかそんな風に使うとは思わず、トゥールは目を剥く。青年は背後から吹く風と同様に、一切動じることはなくひたすらに歩みを進める。トゥールはまるで巨大な岩に向かって風を吹かせている心地になった。
(信じられない。本当に人間か!?)
 ぎりと奥歯を噛み締める。ここで止めておけばいいものを、トゥールは相手が自分の思い通りにならないことに腹を立て、更に手を振る。すると、今度は足元から風が吹き、落ちていた葉を一枚、二枚と次々に巻き上げる。そして、トゥールが青年を一睨すると、宙に浮かび上がった葉が突き刺すように青年に襲い掛かった。
 こんなことをしてしまえば、もはや自然現象として片づけられなくなってしまうが、トゥールにはそんなことを気にする余裕はなかった。遮光器に葉が纏わりつき、マントをずたずたに切り裂く、そんなイメージを持って打ち出された葉は、――主の思い通りになることはなかった。
 青年が腰に携えていた剣を抜き、鞘から白い刃が姿を現す。そして、青年が目にも止まらぬ速さで剣を振りかざすと、彼に襲い掛かった葉は、一枚も残らず切り刻まれ、落下した。
 細切れにされた葉は風に吹かれ、たちまち見えなくなってしまう。トゥールは一連の流れを、口を開けっ放しにして眺めることしかできなかった。
 どこかぼんやりとしたままでいたからだろうか。青年がトゥールの方に向かって歩いてきていたが、それに気づいたのは青年との距離がお互いに手を伸ばせば届きそうになるぐらい縮まったときであった。
 青年が厳めしい顔をして、ぽつりと呟く。
「風の精か」
 我に返ったトゥールは顔色を青くする。
(ま、まずい!このままだと……殺される!)
 急いで翅を瞬かせ、その場を飛び去ろうとしたが、先んじて青年に片手で胴体を掴まれる。青年は右手に収まった小さな風の精を目の前まで引き寄せると、遮光器ごしでも感じられる程冷たい瞳で注視する。その視線を受けたトゥールはガタガタと震え上がった。
 一体自分はどうされてしまうのか。頭の中で恐ろし気な想像を巡らすトゥールを横目に、青年はもう片方の手で布袋の中身を漁ると、麻縄と呪符を取り出した。彼はトゥールの手足に解けないよう、くまなく麻縄を巻いていく。そして手頃な木を一本見つけると、その枝からトゥールを逆さに吊り下げ、仕上げに彼の額に呪符を貼り付けた。
(げげーっ!)
 余りにもあんまりな格好にさせられ、トゥールは顔を赤くした。それは逆さに吊り下げられ、血が頭に上ったせいでもあるが、それだけではない。
 風の精は薄くて軽い衣服を好むため、あまり重ね着をしない。その上本日のトゥールは窮屈なのが好かないと胴締も肌着も身に着けていない。そのために、逆さまのトゥールの上衣は大いにめくり上がり、上半身の肌を表にさらけ出してしまっていた。ひんやりとした風が肌を擽るが、羞恥によって身体は火照っていた。
 青年はそんなトゥールのあられもない恰好を見て嘲笑することはなかったが、相変わらず冷たい視線を向けたまま、残酷な言葉を放った。
「この呪符が解けるのは一時間後だ。それまでお前の風魔法は封じられる」
 その言葉が真実であることを、トゥールは身に染みて知っていた。というのも、先程からトゥールは縄を葉で切り刻むために風を起こそうとしていたのだが、葉が動きを見せることはなかった。じたばたと暴れもしてみたが、しっかりと縛られた縄は綻ぶ様子を欠片も見せない。そのことが示す事実は一つ。
――もし、誰も助けてくれないのなら、トゥールは一時間この格好のままだということだ。
 しかも誰かが助けてくれるというのも決して手放しで喜べる事態ではない。それはつまり、誰かにこの恥ずべき姿を見られてしまうことを意味するのだから。
 青年は呪符の効果のことを告げると、踵を返してその場を去ろうとした。遠ざかる背中に焦りを抱いたトゥールは震える声で叫ぶ。
「ね、ねえ! わ、悪かったって! ほんの出来心だったんだ。もうこんなことは二度としない。だから……」
 青年の歩みが止まることはない。それもそのはず、彼はどれだけ強い風が吹こうとも動じることはなかったのだ。風の精の渾身の訴えなど、吹けば飛ぶ塵のようなものだろう。トゥールはそれでも何度も何度も彼の背中に向かって叫び続ける。
「助けてよ!」
 青年は一瞬だけトゥールのことを見やったが、それだけであった。すぐにその広い背中は見えなくなり、トゥールはしばし呆然とした。

 それから数分経って、トゥールは段々と落ち着きを取り戻していった。これ以上は自分にできることなどない。そう諦めをつけ、体力を消耗しないよう大人しく風に揺られることを選ぶ。しかし、何もできない状況で二十分ほど過ごすうちに、トゥールは身体の内側から、むかむかと何か喉につっかえるものが込み上げてくるものを感じた。
(何だよアイツ、あんなに謝ったっていうのに……僕を放置して行っちゃうなんて。血も涙もないのか?)
 こんな屈辱を味わせられたのは生まれて初めてだ。トゥールは胸の中をいっぱいに満たす怒りにかき乱され、奥歯を噛み締める。そして、ぎゅっと目を瞑ると、心の中で一つのことを強く念じる。

(……復讐してやる)

 瞼の裏に、トゥールを冷たい視線で一瞥した、黒い青年の姿を焼き付けながら。

(絶対、ぜーったいに! 復讐してやる!!)
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