2 / 15
2.一緒に行こう
しおりを挟む
「ただいま~……」
「おかえりなさい」
扉を開けて、真っ先に目に入ってきたやつれた顔と、力のない声に、ヘルトルは「ああ、また上手くいかなかったんだな」と察した。
鍵が無くとも、手段を問わなければ、とりあえず家に入る方法はいくつもある。扉を壊す、窓を壊す、壁に穴を開ける。泥棒なら問題となる行動でも、家主ならば後から修繕すればいいだけの話だ。
だが、シェルムトートが住んでいた家――魔王城は、そんなちゃちなものではなかった。
「それで、今日はどうしたんです?」
ふらふらと椅子に座り込んだシェルムトートに、ヘルトルは問うた。
「壁を爆破して入ろうとしたら弾かれた上に、ミラーリングで私の服が爆破された」
「……ああ、それで朝着ていた服を着てないんですか」
予備の服を持って行って良かったですね、とヘルトルが淡々と言うと、シェルムトートは苦笑いでそれに返した。
シェルムトートによれば、魔王城は今代に彼が建てさせたものではなく、三代前の魔王が魔界随一の建築士たちに命じて作らせたものらしい。
多額の前金を受け取った建築士たちのやる気は凄まじく、この世で最も美しく堅牢な城を作るため、最上級の資材や技術が、惜しみなく費やされた。そして、完成した魔王城の姿に、三代前の魔王は非常に満足し、賛辞と高額の褒賞を建築士たちに振舞った、とのことだった。
だが、彼らは予想だにしなかっただろう。まさか後代の魔王が、そのせいで城に入れない事態になるなんて。
建築士たちは、地震や火事などの災害ではびくともしない城を作っただけでは飽き足らず、主の許可を得ずに中に侵入しようとする者を、城自身が自動的に撃退するための魔法を魔王城に仕組んだ。そのためだけに、魔界で十本指に入る魔導士たちを呼び寄せるという徹底ぶりである。
そんな彼らが年月をかけて考案した防衛魔法は、主の介在なく、正規の方法以外で中に入ろうとする侵入者や、魔法を解こうと画策する者を阻み、攻撃するといったものであった。
この正規の方法というのは、鍵を使って中に入るか、中の者が外の者を招き入れるかのどちらかである。
つまり、鍵を失くしてしまった魔王、シェルムトートは、悲しいことに、今や魔王城から主人だと認識されていないのである。
「しかし凄いですね。一応アンタ、魔族最強なんでしょう? それなのに魔法を解くことも叶わないなんて」
「あの防衛魔法が一人、もしくは二人ぐらいがかけたものだったのなら容易く解くことができた。だが、流石に十人以上となると、複雑すぎて、瑕疵なく解くことが難しい」
絡まった糸と同じようなものだ、とシェルムトートは机に突っ伏した。
「瑕疵なく?」
彼の言葉の一部に疑問を持ったヘルトルが呟くと、シェルムトートは耳ざとく拾い上げ、簡潔に答えた。
「防衛魔法を使い物にならなくして解くこと自体は骨は折れるが、可能ということだ。しかし、私はあの城を今後とも自宅として使うつもりなんだ。安全のために、二度と防衛魔法が機能しなくなるのは避けたい」
どうにか抜け穴を見つけなければ、とシェルムトートはぽつりと言った。
ヘルトルが当初抱いていた、シェルムトートはヘルトルの家に、なんだかんだ理由を付けて一生住もうとしているのではないかという疑念は、どうやらただの杞憂だったようだ。彼は毎日魔王城へと通い、あれこれ試してはあえなく撃沈している。破れた服の枚数は、十枚に上った。
「全く。修繕する俺の身にもなってください」
ちくちくと針で服を縫いながら、ちくちく言葉を放つヘルトルに、シェルムトートは悪びれた様子もなく「悪いね、ヘルちゃん」と頭をかいた。
初めは慣れなかった共同生活も、二週間もすれば勝手が分かってくるというものだ。シェルムトートが頻繁に適当な絡み方をしてきたり、気がついたら部屋の中から消えていたり、洗濯物を独創的な形に畳んでいたとしても、苛つきはあれど「ああ、またか」で流せるようになっていった。
それに、シェルムトートの生活力は思ったよりも悪くなかった。裁縫はできずとも、炊事洗濯掃除を彼は問題なくこなすことができるし、食後の洗い物も率先して引き受けてくれる。結果的に、日々の細々とした面倒が減り、話も合うシェルムトートとの共同生活は、ヘルトルにただただ居心地の良さをもたらした。
だから、文句こそ言ってはいるが、彼の服を繕うのも、そんなに悪い気分ではないのだ。
「はい、できましたよ」
元通りとはいかないものの、どうにか着ることができるレベルにまでなったシャツを、シェルムトートに差し出す。シェルムトートは両手で受け取り、頭上に持ち上げてしげしげと眺めると、感嘆の声を上げた。
「よくここまで戻せたものだ」
「まあ、切れ端でも布が残ってれば何とか……」
燃えカスとかは無理ですけどね、と正直に答えると、シェルムトートは「それはそうだ」と手を口元に当てて、小さく吹き出した。
「ヘルちゃんはこんなところで一人暮らしをしているだけあって、色々なことができるな」
「そうじゃなきゃ生きていけませんし」
昔から家事は一通りできたが、ここまでの上達具合ではなかったように思う。必要に駆られれば、人間はどこまでも成長できるのだ、とヘルトルは自身の経験から知った。
「まさかこんな荒地に畑を作るなんて思いも寄らなかった」
「体力や根気さえあれば大抵のことは可能ですよ」
「意外だな。ヘルちゃんが根性論とか好きなタイプだとは思わなかった」
「いや、別に好きとかそういう訳では……ただ、理屈を捏ねてるだけよりも、多少無理そうでも実践した方が、得られるものが多いと思ってるだけで」
事実、やってみればいくつかの修正で上手くいく事柄は、あまりにも多かった。
図書館を迂闊に利用できなくなった今、役立ちそうな知識を収集できる手段はない。ならば、手あたり次第実践して、使えそうなものを引っ張りだすしか、自分の生きる道はない。
ヘルトルの言葉を聞くと、シェルムトートは少しの間無言になった後、気味の悪い程の満面の笑みを浮かべた。ヘルトルは思わず、半歩身を引いた。
「うわ、何ですか急に。怖……」
「ふふ。いや、君の新たな一面を知って、嬉しくなっただけだ」
そんなことで嬉しくなれるなんて、安上がりでいいですね、とヘルトルが皮肉を言うと、シェルムトートが「だろう?」と得意げな顔をしたので、ヘルトルはまた苛立ちを覚えた。
一か月程、穏やかだが奇妙でもある生活が続き、段々と夜の寒さが深まってきた頃。
「ただいま」
「おかえりなさ……って、どうしたんですか」
迎える言葉を途中で止めてまでヘルトルがそう聞いたのは、にやけ面の多いシェルムトートの顔が、珍しく険しいものへと変わっていたからだ。
彼がこのような顔をするのは、以前、彼の部下がヘルトルを仕留めようと急襲をかけてきたとき以来であり、只事ではないことが起こったのだと、察するのに容易かった。
シェルムトートの外套を受け取り、衣服掛けに掛ける。その間にちらりとシェルムトートの方を見ると、彼の足取りは確かなものではあったが、どことなく重々しかった。
静かに席に着いたシェルムトートが、ヘルトルが向かい側に座るのを見ると、ゆっくりと口を開いた。
「先日、リーベントロアの王が魔王を倒すべく、勇者を送り出したらしい」
「なっ……⁉」
ヘルトルは、座ったばかりだというのに、思わず大きな音を立てて椅子から立ち上がった。
頭の中に占めるのは「ありえない」という五文字。
勇者とは、一般的にはどんな困難にも立ち向かう勇気ある者のことを指すが、この国リーベントロアにおいては、別の意味を持つ。
この世界の裏側に存在する、魔界の頂点に君臨する王はただ強いだけではなく、その血に特別な力を有している。心臓を貫いても、首を切られても、数分で元通りになってしまう驚異の回復力――いや、もはや半不死性と言ってもいいかもしれない。世代交代していることから、寿命は存在しているようだが、数百年おきではあってないようなものだろう。だが、彼らにとっての死が老衰しかないのかというと、そういうわけではない。
魔王に対して、その手で死をもたらすことができる者こそが、この国においての勇者なのだ。
どういう原理なのかも分からず、判明した経緯も曖昧だ。リーベントロアの中枢に存在する、大神殿。そこに仕える全ての神官の長、大神官は数十年おきに、とある神託を受ける。どのようなものか王から問われた彼らは、一様に同じ答えを返した。
――神曰く、○○という町に、魔王を倒せる力を持った者が暮らしている、と。
大昔は、大神官の虚言だと一蹴されたこともあったそうだが、推挙された者が実際に魔王の首を取って帰ってくるという事案が二世代連続して発生したことで、国の態度はがらりと一変した。預言を受けた大神官は預言者としてもてはやされ、預言者に推挙された者は勇者として、国に召し上げられることになったのだ。
召し上げられた勇者は、魔王を倒すべく騎士団で訓練を受け、実力を身に着けたら旅立つ。魔王を倒せたら御の字で、倒せず途中で力尽きたら、新たな神託が下りるまで待つ。今ではこれが魔王討伐の一連の流れとして、すっかり定着していた。
だから、勇者の存在がそこまで胡乱なものではないことは、ヘルトルにも分かっている、のだが。
「本物……なんですか?」
「分からない、が。偽物の可能性はあるだろうな。何せ、大神官ロフェートは三年前から公に姿を現していない。勇者の出立式にも出席していなかったようだから、神託の真偽などいくらでも捏造できるだろう」
おそるおそる問いかけたヘルトルに、シェルムトートは淡々と答える。
「しかし、前代の勇者の生死が不明な以上、一概に否定もできん。魔界側としても、奴が本物の勇者でも対応できるようにしなければならない」
魔王と違い、勇者は血でその力を継いでいるわけではない。神託によって示される勇者は、時には農民だったり、騎士だったり、浮浪児だったり、王子だったりした。だが不思議なことに、人選に一貫性はないというのに、勇者が同時期に二人立つことがないというのは昔から今まで一貫していた。
だからこそ、ヘルトルは新たな勇者が立ったと聞いたとき、動揺した。シェルムトートと違い、ヘルトルは、前代の勇者がまだ死んでいないことを知っている。そのため、今代の勇者は偽物だ、と反射的に思ってしまったのだが。
よくよく考えれば、一度に二人の勇者が立たないというのは不文律で、明確に示されたわけではない。今まで無かったからといって、決めつけるのは早計だ。新たな勇者が勇者としての力を持っていても、不思議ではない。
しかし、もし、王が神託を捏造し、国民を騙してまで勇者を立てたというのならば。
「……と私は考えたのだが。どう思う、ヘルちゃん」
「えっ、ああ。まあ、いいんじゃないですかね」
考え事をしていたヘルトルは、シェルムトートに突然話を振られ、肩をびくりと跳ねさせたものの、咄嗟にそう返した。素直に聞いていなかったと答えようかとも考えたのだが、その後のシェルムトートの馬鹿にしたような笑みを思い浮かべると、誤魔化す方に舵を切らずにはいられなかった。
しかし、ヘルトルは直後、自身の安直な考えを大いに後悔することになる。
「そうかそうか! ヘルちゃんもそう思うか~!」
ヘルトルの言葉を聞いたシェルムトートの顔が輝く。その瞳の煌めきに、同居を了承したときのことを思い出し、何故こんなに喜んでいるのか分からず首を傾げたヘルトルであったが、その疑問はすぐに解消された。何故なら、シェルムトートがヘルトルのすぐ傍までやって来たかと思うと、明るい声で、
「じゃあ、出発は明日にしようか」
とおもむろに肩を組んできたからだ。
……出発? 明日?
猛烈に嫌な予感が頭を過る。
いやいやそんなまさか、と首を振ったヘルトルに、シェルムトートは今にも歌いだしそうな様子で、――とどめを刺した。
「楽しみだな~ヘルちゃんとのダンジョン攻略の旅!」
「おかえりなさい」
扉を開けて、真っ先に目に入ってきたやつれた顔と、力のない声に、ヘルトルは「ああ、また上手くいかなかったんだな」と察した。
鍵が無くとも、手段を問わなければ、とりあえず家に入る方法はいくつもある。扉を壊す、窓を壊す、壁に穴を開ける。泥棒なら問題となる行動でも、家主ならば後から修繕すればいいだけの話だ。
だが、シェルムトートが住んでいた家――魔王城は、そんなちゃちなものではなかった。
「それで、今日はどうしたんです?」
ふらふらと椅子に座り込んだシェルムトートに、ヘルトルは問うた。
「壁を爆破して入ろうとしたら弾かれた上に、ミラーリングで私の服が爆破された」
「……ああ、それで朝着ていた服を着てないんですか」
予備の服を持って行って良かったですね、とヘルトルが淡々と言うと、シェルムトートは苦笑いでそれに返した。
シェルムトートによれば、魔王城は今代に彼が建てさせたものではなく、三代前の魔王が魔界随一の建築士たちに命じて作らせたものらしい。
多額の前金を受け取った建築士たちのやる気は凄まじく、この世で最も美しく堅牢な城を作るため、最上級の資材や技術が、惜しみなく費やされた。そして、完成した魔王城の姿に、三代前の魔王は非常に満足し、賛辞と高額の褒賞を建築士たちに振舞った、とのことだった。
だが、彼らは予想だにしなかっただろう。まさか後代の魔王が、そのせいで城に入れない事態になるなんて。
建築士たちは、地震や火事などの災害ではびくともしない城を作っただけでは飽き足らず、主の許可を得ずに中に侵入しようとする者を、城自身が自動的に撃退するための魔法を魔王城に仕組んだ。そのためだけに、魔界で十本指に入る魔導士たちを呼び寄せるという徹底ぶりである。
そんな彼らが年月をかけて考案した防衛魔法は、主の介在なく、正規の方法以外で中に入ろうとする侵入者や、魔法を解こうと画策する者を阻み、攻撃するといったものであった。
この正規の方法というのは、鍵を使って中に入るか、中の者が外の者を招き入れるかのどちらかである。
つまり、鍵を失くしてしまった魔王、シェルムトートは、悲しいことに、今や魔王城から主人だと認識されていないのである。
「しかし凄いですね。一応アンタ、魔族最強なんでしょう? それなのに魔法を解くことも叶わないなんて」
「あの防衛魔法が一人、もしくは二人ぐらいがかけたものだったのなら容易く解くことができた。だが、流石に十人以上となると、複雑すぎて、瑕疵なく解くことが難しい」
絡まった糸と同じようなものだ、とシェルムトートは机に突っ伏した。
「瑕疵なく?」
彼の言葉の一部に疑問を持ったヘルトルが呟くと、シェルムトートは耳ざとく拾い上げ、簡潔に答えた。
「防衛魔法を使い物にならなくして解くこと自体は骨は折れるが、可能ということだ。しかし、私はあの城を今後とも自宅として使うつもりなんだ。安全のために、二度と防衛魔法が機能しなくなるのは避けたい」
どうにか抜け穴を見つけなければ、とシェルムトートはぽつりと言った。
ヘルトルが当初抱いていた、シェルムトートはヘルトルの家に、なんだかんだ理由を付けて一生住もうとしているのではないかという疑念は、どうやらただの杞憂だったようだ。彼は毎日魔王城へと通い、あれこれ試してはあえなく撃沈している。破れた服の枚数は、十枚に上った。
「全く。修繕する俺の身にもなってください」
ちくちくと針で服を縫いながら、ちくちく言葉を放つヘルトルに、シェルムトートは悪びれた様子もなく「悪いね、ヘルちゃん」と頭をかいた。
初めは慣れなかった共同生活も、二週間もすれば勝手が分かってくるというものだ。シェルムトートが頻繁に適当な絡み方をしてきたり、気がついたら部屋の中から消えていたり、洗濯物を独創的な形に畳んでいたとしても、苛つきはあれど「ああ、またか」で流せるようになっていった。
それに、シェルムトートの生活力は思ったよりも悪くなかった。裁縫はできずとも、炊事洗濯掃除を彼は問題なくこなすことができるし、食後の洗い物も率先して引き受けてくれる。結果的に、日々の細々とした面倒が減り、話も合うシェルムトートとの共同生活は、ヘルトルにただただ居心地の良さをもたらした。
だから、文句こそ言ってはいるが、彼の服を繕うのも、そんなに悪い気分ではないのだ。
「はい、できましたよ」
元通りとはいかないものの、どうにか着ることができるレベルにまでなったシャツを、シェルムトートに差し出す。シェルムトートは両手で受け取り、頭上に持ち上げてしげしげと眺めると、感嘆の声を上げた。
「よくここまで戻せたものだ」
「まあ、切れ端でも布が残ってれば何とか……」
燃えカスとかは無理ですけどね、と正直に答えると、シェルムトートは「それはそうだ」と手を口元に当てて、小さく吹き出した。
「ヘルちゃんはこんなところで一人暮らしをしているだけあって、色々なことができるな」
「そうじゃなきゃ生きていけませんし」
昔から家事は一通りできたが、ここまでの上達具合ではなかったように思う。必要に駆られれば、人間はどこまでも成長できるのだ、とヘルトルは自身の経験から知った。
「まさかこんな荒地に畑を作るなんて思いも寄らなかった」
「体力や根気さえあれば大抵のことは可能ですよ」
「意外だな。ヘルちゃんが根性論とか好きなタイプだとは思わなかった」
「いや、別に好きとかそういう訳では……ただ、理屈を捏ねてるだけよりも、多少無理そうでも実践した方が、得られるものが多いと思ってるだけで」
事実、やってみればいくつかの修正で上手くいく事柄は、あまりにも多かった。
図書館を迂闊に利用できなくなった今、役立ちそうな知識を収集できる手段はない。ならば、手あたり次第実践して、使えそうなものを引っ張りだすしか、自分の生きる道はない。
ヘルトルの言葉を聞くと、シェルムトートは少しの間無言になった後、気味の悪い程の満面の笑みを浮かべた。ヘルトルは思わず、半歩身を引いた。
「うわ、何ですか急に。怖……」
「ふふ。いや、君の新たな一面を知って、嬉しくなっただけだ」
そんなことで嬉しくなれるなんて、安上がりでいいですね、とヘルトルが皮肉を言うと、シェルムトートが「だろう?」と得意げな顔をしたので、ヘルトルはまた苛立ちを覚えた。
一か月程、穏やかだが奇妙でもある生活が続き、段々と夜の寒さが深まってきた頃。
「ただいま」
「おかえりなさ……って、どうしたんですか」
迎える言葉を途中で止めてまでヘルトルがそう聞いたのは、にやけ面の多いシェルムトートの顔が、珍しく険しいものへと変わっていたからだ。
彼がこのような顔をするのは、以前、彼の部下がヘルトルを仕留めようと急襲をかけてきたとき以来であり、只事ではないことが起こったのだと、察するのに容易かった。
シェルムトートの外套を受け取り、衣服掛けに掛ける。その間にちらりとシェルムトートの方を見ると、彼の足取りは確かなものではあったが、どことなく重々しかった。
静かに席に着いたシェルムトートが、ヘルトルが向かい側に座るのを見ると、ゆっくりと口を開いた。
「先日、リーベントロアの王が魔王を倒すべく、勇者を送り出したらしい」
「なっ……⁉」
ヘルトルは、座ったばかりだというのに、思わず大きな音を立てて椅子から立ち上がった。
頭の中に占めるのは「ありえない」という五文字。
勇者とは、一般的にはどんな困難にも立ち向かう勇気ある者のことを指すが、この国リーベントロアにおいては、別の意味を持つ。
この世界の裏側に存在する、魔界の頂点に君臨する王はただ強いだけではなく、その血に特別な力を有している。心臓を貫いても、首を切られても、数分で元通りになってしまう驚異の回復力――いや、もはや半不死性と言ってもいいかもしれない。世代交代していることから、寿命は存在しているようだが、数百年おきではあってないようなものだろう。だが、彼らにとっての死が老衰しかないのかというと、そういうわけではない。
魔王に対して、その手で死をもたらすことができる者こそが、この国においての勇者なのだ。
どういう原理なのかも分からず、判明した経緯も曖昧だ。リーベントロアの中枢に存在する、大神殿。そこに仕える全ての神官の長、大神官は数十年おきに、とある神託を受ける。どのようなものか王から問われた彼らは、一様に同じ答えを返した。
――神曰く、○○という町に、魔王を倒せる力を持った者が暮らしている、と。
大昔は、大神官の虚言だと一蹴されたこともあったそうだが、推挙された者が実際に魔王の首を取って帰ってくるという事案が二世代連続して発生したことで、国の態度はがらりと一変した。預言を受けた大神官は預言者としてもてはやされ、預言者に推挙された者は勇者として、国に召し上げられることになったのだ。
召し上げられた勇者は、魔王を倒すべく騎士団で訓練を受け、実力を身に着けたら旅立つ。魔王を倒せたら御の字で、倒せず途中で力尽きたら、新たな神託が下りるまで待つ。今ではこれが魔王討伐の一連の流れとして、すっかり定着していた。
だから、勇者の存在がそこまで胡乱なものではないことは、ヘルトルにも分かっている、のだが。
「本物……なんですか?」
「分からない、が。偽物の可能性はあるだろうな。何せ、大神官ロフェートは三年前から公に姿を現していない。勇者の出立式にも出席していなかったようだから、神託の真偽などいくらでも捏造できるだろう」
おそるおそる問いかけたヘルトルに、シェルムトートは淡々と答える。
「しかし、前代の勇者の生死が不明な以上、一概に否定もできん。魔界側としても、奴が本物の勇者でも対応できるようにしなければならない」
魔王と違い、勇者は血でその力を継いでいるわけではない。神託によって示される勇者は、時には農民だったり、騎士だったり、浮浪児だったり、王子だったりした。だが不思議なことに、人選に一貫性はないというのに、勇者が同時期に二人立つことがないというのは昔から今まで一貫していた。
だからこそ、ヘルトルは新たな勇者が立ったと聞いたとき、動揺した。シェルムトートと違い、ヘルトルは、前代の勇者がまだ死んでいないことを知っている。そのため、今代の勇者は偽物だ、と反射的に思ってしまったのだが。
よくよく考えれば、一度に二人の勇者が立たないというのは不文律で、明確に示されたわけではない。今まで無かったからといって、決めつけるのは早計だ。新たな勇者が勇者としての力を持っていても、不思議ではない。
しかし、もし、王が神託を捏造し、国民を騙してまで勇者を立てたというのならば。
「……と私は考えたのだが。どう思う、ヘルちゃん」
「えっ、ああ。まあ、いいんじゃないですかね」
考え事をしていたヘルトルは、シェルムトートに突然話を振られ、肩をびくりと跳ねさせたものの、咄嗟にそう返した。素直に聞いていなかったと答えようかとも考えたのだが、その後のシェルムトートの馬鹿にしたような笑みを思い浮かべると、誤魔化す方に舵を切らずにはいられなかった。
しかし、ヘルトルは直後、自身の安直な考えを大いに後悔することになる。
「そうかそうか! ヘルちゃんもそう思うか~!」
ヘルトルの言葉を聞いたシェルムトートの顔が輝く。その瞳の煌めきに、同居を了承したときのことを思い出し、何故こんなに喜んでいるのか分からず首を傾げたヘルトルであったが、その疑問はすぐに解消された。何故なら、シェルムトートがヘルトルのすぐ傍までやって来たかと思うと、明るい声で、
「じゃあ、出発は明日にしようか」
とおもむろに肩を組んできたからだ。
……出発? 明日?
猛烈に嫌な予感が頭を過る。
いやいやそんなまさか、と首を振ったヘルトルに、シェルムトートは今にも歌いだしそうな様子で、――とどめを刺した。
「楽しみだな~ヘルちゃんとのダンジョン攻略の旅!」
3
あなたにおすすめの小説
鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。
憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
希少なΩだと隠して生きてきた薬師は、視察に来た冷徹なα騎士団長に一瞬で見抜かれ「お前は俺の番だ」と帝都に連れ去られてしまう
水凪しおん
BL
「君は、今日から俺のものだ」
辺境の村で薬師として静かに暮らす青年カイリ。彼には誰にも言えない秘密があった。それは希少なΩ(オメガ)でありながら、その性を偽りβ(ベータ)として生きていること。
ある日、村を訪れたのは『帝国の氷盾』と畏れられる冷徹な騎士団総長、リアム。彼は最上級のα(アルファ)であり、カイリが必死に隠してきたΩの資質をいとも簡単に見抜いてしまう。
「お前のその特異な力を、帝国のために使え」
強引に帝都へ連れ去られ、リアムの屋敷で“偽りの主従関係”を結ぶことになったカイリ。冷たい命令とは裏腹に、リアムが時折見せる不器用な優しさと孤独を秘めた瞳に、カイリの心は次第に揺らいでいく。
しかし、カイリの持つ特別なフェロモンは帝国の覇権を揺るがす甘美な毒。やがて二人は、宮廷を渦巻く巨大な陰謀に巻き込まれていく――。
運命の番(つがい)に抗う不遇のΩと、愛を知らない最強α騎士。
偽りの関係から始まる、甘く切ない身分差ファンタジー・ラブ!
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
公爵家の末っ子に転生しました〜出来損ないなので潔く退場しようとしたらうっかり溺愛されてしまった件について〜
上総啓
BL
公爵家の末っ子に転生したシルビオ。
体が弱く生まれて早々ぶっ倒れ、家族は見事に過保護ルートへと突き進んでしまった。
両親はめちゃくちゃ溺愛してくるし、超強い兄様はブラコンに育ち弟絶対守るマンに……。
せっかくファンタジーの世界に転生したんだから魔法も使えたり?と思ったら、我が家に代々伝わる上位氷魔法が俺にだけ使えない?
しかも俺に使える魔法は氷魔法じゃなく『神聖魔法』?というか『神聖魔法』を操れるのは神に選ばれた愛し子だけ……?
どうせ余命幾ばくもない出来損ないなら仕方ない、お荷物の僕はさっさと今世からも退場しよう……と思ってたのに?
偶然騎士たちを神聖魔法で救って、何故か天使と呼ばれて崇められたり。終いには帝国最強の狂血皇子に溺愛されて囲われちゃったり……いやいやちょっと待て。魔王様、主神様、まさかアンタらも?
……ってあれ、なんかめちゃくちゃ囲われてない??
―――
病弱ならどうせすぐ死ぬかー。ならちょっとばかし遊んでもいいよね?と自由にやってたら無駄に最強な奴らに溺愛されちゃってた受けの話。
※別名義で連載していた作品になります。
(名義を統合しこちらに移動することになりました)
美貌の騎士候補生は、愛する人を快楽漬けにして飼い慣らす〜僕から逃げないで愛させて〜
飛鷹
BL
騎士養成学校に在席しているパスティには秘密がある。
でも、それを誰かに言うつもりはなく、目的を達成したら静かに自国に戻るつもりだった。
しかし美貌の騎士候補生に捕まり、快楽漬けにされ、甘く喘がされてしまう。
秘密を抱えたまま、パスティは幸せになれるのか。
美貌の騎士候補生のカーディアスは何を考えてパスティに付きまとうのか……。
秘密を抱えた二人が幸せになるまでのお話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる