コンビニ店員、久世晶の知られざる一面について

國樹田 樹

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unknown side of him

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 他人はあまり自分を見ていない、なんてのは嘘だ。
 少なくとも俺の場合は、と思う。

「ありあとーっしたー……」

「っけ」

 俺のおざなりな礼に悪態をついた客は、奪い取るようにレジ袋を掴んだ。それを見計らい、頭を下げる。

 目を合わせたくなかったからだ。きっと顔を見られたらばれる。

 店内は寒気がするほどクーラーが効いている。だというのに、俺は背中にじっとり汗を掻いていた。

【やる気のねえ店員にしけた店。大して金も入ってなさそうだし、別の店にするか】

 ブルーのコイントレイをじっと見つめたまま、流れてきた相手の思考に内心期待した。

 そうだレジに金なんて入っちゃいない。だからさっさと出て行きやがれ。

 顔を伏せたまま相手が方向を変えて自動ドアへ向かうのを気配で確認する。僅かに視線を上げると坊主頭に灰色Tシャツの背中が歩いていくのが見えた。

 もしも今、あいつが振り返ったら俺の不自然さに必ず気付く。
 俺はすぐに視線を外し、たばこの補充をしているふりをした。

 そいつが自動ドアをくぐると、夏の生ぬるい風が一気に店の中に押し寄せてきた。

 ぐちゃり、とそいつが足下の虫の死骸を踏みつけ深夜の駐車場へと出て行くまで、俺は全身の神経に意識を張り巡らせ固唾を呑んでいた。

 まさに全集中だ。気が気じゃなかった。

 どこか間抜けな自動ドアの閉まる音楽が鳴り終わった頃になってようやく、俺は肺の中に貯まった空気を一気に天井に向かって解放した。

「はー……マジ、勘弁」

 独り言も出たのは他に客がいないからだ。平日深夜のコンビニなんて大抵そんなもんだろう。

 ワンオペなうえ店内は無人。だからこそ余計に危なかったわけだが。

 蛾やら蠅やらが大量に張り付いた自動ドアを見つめる。透明な硝子にはコンビニチェーン大手の名前が書いてあり、その上の部分に今出たばかりの客の背中が黒く映し出されていた。

 夜とはいえ、外は店の明かりと星のおかげでそこそこ見える。人影が段々小さくなるにつれて、俺の安堵は深くなっていった。

 そうださっさといなくなれ。帰れ。どこにでもいってくれ。
 その懐に入れた包丁ごと、早く。

 そう強く念じる。だけどあまり見過ぎて視線に気付かれては堪らないから、さっさと見るのをやめて深夜の品出し作業に入った。

 今度はふりじゃなく普通に仕事をした。車のエンジン音がかすかに聞こえて、駐車場から一台の黒いワゴン車が走り出ていったのを目端に捉える。今度こそ最後の緊張が解けて、身体から力が抜けた。

 頭の中が静かになったことで、店内放送の音楽が思い出したように耳に流れ込んでくる。

 夏にふさわしい、アップテンポなサマーソングだ。

 陰キャな俺には理解不能な一夏の恋がテーマらしい。

 俺には無理だ。恋愛なんて天変地異よりほど遠い。なんて頭で突っ込みながら、やっと一人になれたとほっとした。

 この仕事の特権は、仕事中ほとんど一人でいられるところだ。

 偶に客が来ても、買い物が済めば消えてくれる。だから、俺にとって深夜のコンビニは格好の居場所だった。何しろ俺は、他人が居る場所ではあまり長く働けない事情がある。

 事情とは、先ほどのように俺が他人と一緒にいると、頭の中に【雑音】がこれでもかというほど響いてくるからだ。

 【雑音】は簡単に言えば好きでもないヘビメタ音楽を何十曲も同時に、延々と聞かされているようなものに近い。

 周波数の違うラジオを全部同時に聞いているのにも似ている。

 そして流れている歌詞や言葉はすべて、他人の考えていること、つまり【思考】だ。

 さっき店にいた奴は、包丁で俺を脅してレジから金を奪い取る気だった。

 だが最近のレジはお釣りが自動で出てくる仕様で、すべての現金を出すには鍵が必要なのを知らないらしい。

 もちろん俺は鍵なんて持っていない。持っているのは店のオーナーだ。深夜だとオーナーは店にいない。だから危なかったのだ。俺がレジを開けられないと知れば、きっとさっきの奴は俺をためらいなく刺してきただろう。

 どっちにしても、抵抗したら刺す気満々だったようだし。

 ネットカジノでボロ負けしたからって、短絡的にコンビニ強盗をしようだなんて、そんなだから負けるんだ。

 とこんな風に俺は、どういうわけか物心ついたころから人の心が読めるのだ。


「うげー……つかれた……」

 朝起きた時と変わらない乱れたベッドの上に、着古したスウェットで寝転がりながら、今日一日の感想を蛙のように絞り出した。

 時刻はまだ日も昇らない午前三時半。

 夜の七時から翌日三時までのバイトを終えて、帰宅して風呂を浴びたらこの時間だ。外はまだ暗いのでカーテンは閉めたまま、電気だけを点けている。

 俺の独り言を聞いてくれる人は誰もいない。親元はとうに離れた。あまり良い親とはいえなかったし、高校卒業と同時に出た時点でまあお察しというやつだ。

 一人暮らしで、家族との繋がりも薄く、恋人もいない。そもそも俺は人と付き合うには向いていない。最大の欠点があるからだ。

 他人の心が読めることはマイナス面の方が多い。知りたくもない相手の隠し事や本音、昨日の奴みたいに現在進行形の犯罪までわかってしまうのだから仕方がないだろう。断じて俺の人格のせいでは……いや多少はあるかもしれないが、そこは考えると無気力になるのでやめておく。せめてゲームくらいは楽しめる程度の気力は残したい。

「腹減った……」

 むくりと起き上がり、六畳一間の部屋を出てすぐの廊下についた小さなキッチンに立った。真横にあるのは玄関だ。ちょうど間に置いてある中古で買った冷蔵庫の中を確認すれば、あったのは四日前に買った卵とベーコン、それとそろそろネギからニラに転生しそうな束がひとつ。

よし、今夜はチャーハンじゃ。

 自炊とは名ばかりの料理をさっさと拵え、ベッド横にある座卓に座った。少々焦げたチャーハンを手前に置き、奥側には型落ちで買った海外製のノートパソコンを置いて、動画配信サイトを立ち上げる。

 登録チャンネルからいつも見ているFPSゲームの最新動画を選んで再生しながら、百均で買ったスプーンで熱々のチャーハンを口にかき込む。

 味はまあ、食えないほどではない程度だ。

「お、すげえ」

 炒飯を半分くらい平らげたところで、動画の神業プレイに釘付けになる。

 あの隙間から打ち込んで必中って化けモンか。一人で五キルしてんぞこの人。やばすぎる。

 築四十年を過ぎたボロアパートの一室に鳴り響くのは、動画のドンパチやってる音と俺の飯を食ってる咀嚼音くらいだ。それでも、俺にとってここは天国といえる。

 角部屋だから他人がいるのは片方だけだし、そこの住人の職業はライターだとかで取材のため滅多と帰ってこない。そのうえこのアパートがあるのは山際だ。住宅地からは少し離れていて、山の上にはゴミの焼却場があるせいかそもそも住居自体が少ない。

 おかげで家賃が激安なので助かっている。それに俺は、自宅にいる間だけは他人の思考に煩わされず比較的静かに暮らすことができていた。

 仕事を深夜のコンビニにしたのは他人と関わる機会が少ないからだ。

 だったら接客なんて向いてないと言われるだろうが、在宅仕事が出来るだけのスキルも無ければ、深夜の工事現場などに立てるほどの体力もない俺にはそもそも選択肢が無かった。それに工事現場はおっさんだらけだ。深夜のコンビニの方が、ワンオペで防犯的にはやばいとしても俺の希望には沿っている。

 今日は普段より少し早い夕方六時時からの出勤だったと思い出したところで、炒飯を食い終わった。それと同時にサブスクの映画・アニメ配信サービスを立ち上げる。十三話まで見ているアニメの十四話目をオープニングから流しつつ、キッチンの流しに食べ終わった皿を置いた。ついでに、もう八年使い込んでいる黒い傷だらけのケトルで湯を沸かし、インスタントコーヒーをこれまた百均の白いマグカップに半分入れる。上から冷蔵庫にあった賞味期限一日前の牛乳を縁ぎりぎりまでぶち込めば、俺特製コーヒー牛乳のできあがりだ。

 行儀悪く飲みながら歩いて座卓に戻り、アニメを横目に見ながらスマホでSNSをチェックした。

 トレンドには自殺最多だとか連続幼女殺人などの物騒な単語が上がっている。確か隣町で起こった事件だったなと思いながら、俺は推しの声優さんのアカウントなどを確認した。

 口内には牛乳の柔らかさとコーヒーのほのかな苦みが広がっている。

「……そういや、今日はあの子が来る日か」

 牛乳のイメージからふと思い出したのは、偶に店に来てくれる客のことだった。

 大抵は月火金のどれかの曜日で俺がバイトに入る夜七時くらいに来るのだが、今日は金曜日だから来る可能性が高い。

 あの子はいつも、二百ミリの紙パック牛乳を買っていくから、つい頭に浮かんだのだ。

 妙な欠点のせいで他人とはほとんど付き合いの無い俺だが、接客業なんてやっていると、おまけに他人の心なんかが読めたりすると、どうしても気になる客というのがちらほらできてくる。その客もそうだ。

 俺は少し気にかかる客のことを思いつつ、また夕方六時には出勤だというのにその後は無駄に人生の時間を消費した。


「ふわぁ……」

「久世さんってば、まぁた寝ずにFPSやってたんすかー?」

 俺と同じ青い縞模様の制服を着たバイト仲間の軽口に頷きながら、自動ドアから差し込む夕日の眩しさに目を細めた。

 久しぶりに太陽を見たせいか目が痛い。目を擦った手でそのまま俺の名前である『久世晶(くぜあきら)』と書いてあるプラスチックの名札を胸に取り付けて、今日の曜日の作業リストに目を通す。

「いや偶々めっちゃ強い野良の人に遭遇してさ……招待送ったら応じてくれたから連戦してた」

「あー、時々いるっすよね規格外につえー人」

「それな。動きがまじやばかった……」

 流行のFPSゲームについて話しながら、バイト仲間の小林君は揚げたてのからあげを保温ストッカーの中に詰め込んでいく。

 この作業が終わったら彼は上がりだ。

 時間は夕方六時。普段の俺のシフトより一時間早い時間帯である。

 コンビニの深夜担当をしている俺の生活は基本的に夜から始まりを告げる。

 大体が夜七時から翌日午前三時までが勤務時間だ。日が沈んでから出て日が昇る前に帰宅するので、ほぼ夜行性の生活をしている。
たまにこうして、シフトの都合で夕方から入る時だけ、夕日を拝むことができるくらいだ。

 おかげで昼の太陽には長らくご無沙汰である。そろそろビタミンD欠乏症になりそうだ。

「今日はマジ助かりました。んじゃ、お先にお疲れっすー」

「ああ。お疲れ。彼女と仲良くな」

 片手を上げて俺がそう返すと、小林君は奥へ行こうとしていた足を止めて、目を丸くしながら俺を振り返った。

 あー……やっちまった。

「ばれてたんすか!」

「まあな」

 苦笑して肩を竦める。

 今日俺が普段より一時間早くバイトに入ったのは、小林君が理由だった。

 彼は歯医者の営業時間に間に合わないから、今日は早めにバイトを上がりたいと店長に伝えていた。代わりに俺が入れるかと聞かれたから了承したが、何のことはない。単に彼女と遊びに行くだけなのだこいつは。別にそれについては何も思っていない。嫉妬心とかも無い。たぶん。

【うっわコイツやっぱ気持ち悪りぃな。人んこと見透かしてるみたいで】

 だが問題は小林君がシフトを俺に代わってもらったというのに思考では悪態をついていることだ。

 まあだけど、わかってはいた。人間なんてそんなもんだ。だから会話するのがだるくなる。

 こうやって心では正反対のことを思っている奴が多すぎて、言葉を交わすことが無意味に思えてしまうから。

 まったく、シフトを一時間余分に入るなんてするんじゃなかった。

「やー、さーせん。彼女が今日は早く仕事上がりそうだって言うんで、仕方なく」

【お前みたいに女もいない奴にはわかんねぇだろうな。ほんと、寂しい奴】

 へへ、と笑って誤魔化しながら適当な言い訳を吐く小林君の声が二重音声になって流れてくる。

俺の能力はある意味翻訳機能にも近い。相手の本音が否が応にも知れてしまう。

「まあ楽しんでこい」

「あざっす。んじゃお疲れっす」

【偉そうに言ってんじゃねーぞぼっちが。さっさと孤独死してろ】

「ほーい」

 小林君は俺に思考を覗かれているとは露とも知らない顔で、悪びれもせず笑いながら店の奥へ引っ込んでいった。奥から店長と話す声が聞こえてくる。

 俺は小林君が入っていった従業員室の扉を見つめ、うるせえ言われなくてもそのうちする予定だ馬鹿野郎、と内心吐き捨てた。

 それに小林君の彼女は先日店に彼を迎えに来てはいたものの、頭では別の気になる男について考えていた。あいつだって近いうちに俺と大して変わらなくなるだろう。
教えてやるつもりはないが。

小林君が言ったとおり、どうせ俺には恋人も結婚も無理だとわかっている。

 想像してみろ。自分を好きだと言った彼女が脳内で自分をATMの一つとして数えていたら、普通は死にたくなる。相手の言葉は俺には自動翻訳されて聞こえてくるのだから、ある意味相当な拷問だ。

 おかげで俺の人生は早々に選択肢を減らすことができたってわけだ。

 俺は一人になったカウンターで今日の作業を始めた。心は多少燻っている。

 それでも、小林君程度はまだ可愛いものだ。もっと酷いのだって、ざらにいる。

 俺はカウンターの奥にあるフライヤーに次の揚げ物をセットしてから戻り店内を見回した。すでに店内にいる客の思考は有線放送に成り代わり俺の脳内でBGMとして流れている。

 時刻がまだ早いのもあって、店の中には何人かの客がいた。

 一人は三十代くらいの土木作業員だ。紺色のつなぎを着ている。今建築中の分譲住宅は欠陥だらけらしく、大手ホームメーカーだからと建築現場を見にも来ない客を小馬鹿にしていた。

 もう一人は仕事上がりのOLさんだ。帰ったら乙女ゲームのフルコンプを目指すそうだ。推しキャラへの愛を叫んでいるせいで思考はえらく騒がしい。しかも少々大人なレベルの激甘妄想が繰り広げられていた。
 だがまあ気持ちはわかる。俺もよくやる。

 他にいるのは塾帰りの小学生男子二人だ。両方とも小さな背中に似合わないサイズのリュックを背負っている。一人は教育熱心な母親から国立大学に行くためには早くから塾に通うよう強制されたらしく、嫌々塾に通っていた。あと没収されているゲームがどこに隠されているかを考えている。

 もう一人は塾の先生について考えているようだ。なんでも名門大卒の女子大生で、かなり可愛いらしい。俺がわかるのは基本的には他人の思考のみで、音としてしか聞こえてはこない。相手が余程強く考えていたりすれば稀に映像が見えないこともないが、これまで生きてきて二・三度程度しか経験はなかった。

 だから今映像が見えないのが心底残念でならない。どれくらい可愛いのだろうかその先生は。

 店内にいる客はこのくらいだ。計四人。俺が住んでいるのは四国の片田舎にある辺鄙なところで、普段からせいぜいこんなもんだった。

 ここでは住宅地より田んぼの方が面積を占め、県の中心部である駅前周辺くらいでしか娯楽施設やショッピングモールにはお目にかかれない。

 そんな中心部から少し離れた街の国道沿いにあるコンビニが俺の職場である。

【ボケッとすんなよクソ店員。さっさレジしろや】

 土木作業員らしき男に脳内でそう罵られて、俺は内心呆れながらセルフレジが見えんのか貴様、と悪態をつき返しいつもと同じ仕事を始めた。

 俺を工具で殴り殺す想像をしている土木作業員のレジを打ち、ゲームのキャラに課金しすぎてカードの請求がやばいと嘆いているOLさんのレジを続けてこなす。

 そうこうしている間に時間は過ぎて、時計を見上げれば夜の八時を迎えていた。

 あの子はまだ来ていない。いつもなら七時には来ているはずなのに。

 今日は母親の仕事が早くに終わったのだろうか。とぼんやり考える。でもまあ、それだったら良いんだ。子供は夜に出かけない方がいい。特に一人では。

 俺は思い直し賞味期限が近い商品を陳列棚の手前に並べていった。

 田舎ともなれば、大体夜の八時くらいには人の気配がぐっと無くなる。

 国道ですら車が通るのはまばらで、外から聞こえてくるのは隣の田んぼにいる大量の蛙の声くらいのものだ。

 店内は今客がいない。おかげで、俺の頭はゆっくり休むことができていた。

 反対に身体はちゃんと動かしている。コンビニバイトは結構やることが多いのだ。

 雑誌の入れ替えついでに外を見れば、排ガスの塊みたいな雲が夜空を覆い尽くしていた。

 月の無い夜だ。こういう日は、あまりよろしくない客が訪れるから好きではない。

 妙な胸騒ぎを無視するために、明日から発売予定の一番くじの景品を並べ始めようとした。

 けど無理だった。ちょうど自動ドアから入った人物の思考が流れ込んできて、俺は景品を取りに行こうとした足を止めた。

「……っしゃーせー……」

 一瞬、言葉に詰まったのを誤魔化すふりで声の力を抜き、やる気の無い店員を装う。実際やる気など無いも同然だが今はそれどころではない。ちらりと俺に視線をよこした客は、ふんと小馬鹿にするわけでもなく、ただ感情をすべてナイフでそぎ落としたような無表情で店の中を進んでいった。

 サンドイッチやおにぎりを置いてあるコーナーで立ち止まり、《作業の合間》に軽く食べるものを物色している。

 その《作業》の内容が、単語の羅列となって俺の脳に流れ込んできて―――俺は咄嗟に、口元を片手で覆い隠した。

「っ……」

 喉の奥から苦い、えぐい液体がせり上がってくる。だがバイトに来る前に食べたものはすでに消化されているはずだ。つまりこれは、胃液の味だろう。凄まじい嘔気に襲われて、今にも噴水みたいに吐き戻しそうになる。

 だが無理だ。あいつにばれる。ばれたら俺は確実に、殺される。

 幸いにも、あいつは俺の様子なんて見ていなかった。興味が無いのだ。幼い少女以外は。

 それが余計に嫌悪感を募らせ、身も知らぬ少女達の亡骸を見てしまった俺の、人間の悪意に対する憎悪を膨らませた。

 その人物は男だった。背は俺より小さい百六十センチ前後。体格はある程度鍛えているのか黒い半袖シャツから伸びる腕は筋肉質だ。

 脚の長さは胴に比べればやや短い。履いた灰色のデニムは膝の辺りが擦れて白くなっている。靴は真っ赤な合成樹脂のサンダルだ。服は上下共に地味なくせに、足下だけが毒々しい赤色なのがいやに目につく。

 けどこいつはまじでやばい。まさか触れてもいないのに、これほど強く鮮明に映像が映し出されるなんて初めてだ。

 俺は必死に平静さを装いながら、適当にカウンターの整理を続けた。男は冷蔵コーナーでサラダチキンのバーと野菜ジュースを手に取っている。くるりと方向転換してツナのおにぎりも追加していた。

 俺は細心の注意を払いながら男の動向を視線の端で窺っていた。その間にもずっと俺の頭には男の思考がそれこそ滝のように流れ込んでいる。

 まるで激流に叩きつけられているようだ。これほどまでに暴力的な思考にはこれまで会ったことがない。こいつは嫌な意味で『本物』なのだろう。

 ああくそ。見せるな。考えるな。嬉しげに回想するんじゃねえよゴミ屑ペド野郎。
どろどろとした感情が俺の中で渦巻く。一番最初に感じた恐怖や嫌悪より大きな憎悪に脳内が侵食されていく。

 男から流れてきた映像の中で、男が傷つけた―――なんて言葉では収まらないほど惨い行いをされた被害者達の《元の顔》が、恨めしげに俺を見た。

「―――おい―――おいっ‼」

「は、はい」

 男の思考に気を取られていた俺は反応が遅れた。幸いだったのは、男の方を見ていなかったことだ。ぼうっとしていた体で顔を上げて男を見た。それでようやく、男の人相を確認する。

 えらく目のつり上がったエラの張った男だ。顔の形が野球のホームベースに似ている。顎が尖っていて刺さりそうなほど鋭い。わかりやすく人相が悪い。こいつは犯罪者だと言われたら即納得できる顔つきをしていた。

 偏見だろうが、実際こいつはそうなのだから、悪人顔というのは案外当たっているのかも知れない。

 そんな風に思っていたら、顔に張り付いた輪ゴムのような口が動いた。

「なんでジャ○プが入ってねえんだよ!」

「え?」

 突然怒鳴られて、一瞬何のことか本気でわからなかった。男が脳内で考えていることと、今の言葉に剥離がありすぎて俺の頭が処理しきれなかったのだ。だけど、聞き慣れた雑誌名のおかげで何とか思い出すことができた。

「いやぁ、入ったは入ったんすけど、売り切れで……」

「っち」

 へらへら笑いながらそう答えると、男にじろりと睨まれた。細い眼は白目が黄色く濁っていて気味が悪い。栄養状態が悪いのか肌は黒ずんでいるし、なのに妙に腕の筋肉だけが発達していて、おまけに胴は長く足は短いというアンバランスな体格をしているせいで異様さが目立つ。

 男は俺の返事を無視すると今度は酒コーナーへと移動していった。

 俺はカウンターで違う作業をしながら内心胸を撫で下ろした。あんなことをしておいて、漫画を買って帰ろうだなんて正気の沙汰じゃない。遺体の横で読める神経が理解できない。

 そもそも、熱い心を持った少年達が成長し強くなる物語はこんな男には似合わない。

 お前は悪役の側だろう。どうやったって主人公にはなれない。

 確かに、意外と頭のおかしい人間は巷にごろごろいる。脳内で上司を電車で轢殺している奴なんてざらだ。たまたま見かけた女子高生に襲いかかる想像をしている屑もいるし、いつか夫を殺してやると誓っている主婦もいる。だけどそのほとんどは、思考だけで簡潔しているものだ。ただの想像でしかない。

 だけどたまに―――ごく希に、本物の記憶を持つ者がいる。

 こいつのように。

 SNSのトレンドに上がっていた幼女連続殺人犯は、コイツだ。

冷や汗と吐き気を何とか抑えカウンターでの作業を続けていると、男がセルフレジの方へ歩き始めたのがわかった。

 よし、いいぞ。

 俺のところに来なくてよかったとほっとする。

 そのまま会計を済ませて早く出て行け。とここ数年で一番、心の底から祈るように念じる。

 同時に通報について考えた。

 こいつは人を殺している。しかも相手は幼い少女だ。小学三年生か、四年生くらいの年頃だ。ちょうどあの子くらいの―――

 そう、俺が考えたのが悪かったのだろうか。不幸なフラグがあるとすれば、まさにそれだった。

 夜も八時を過ぎたコンビニには不似合いな、赤いランドセルが透明な自動ドアの向こうに見えた。

 開閉の音楽が流れる前に気付いたのは、幼い思考が俺の頭に流れてきたからだ。

咄嗟に「来るな!」と叫びそうだった。実際俺の口は開いていて、喉から声を出す寸前だった。

 けれど遅かった。その子は軽快な足取りで、笑顔まで浮かべて、大人に比べれば小さな足を店内に踏み入れてしまった。

 店の中に、どんな怪物がいるかも知りもせず。

「くぜのおにーさん! こんばんは!」

「こ、こんばんは……」

 入って早々、その子―――赤いランドセルを背負った女の子が俺に話しかけてくる。

黒い髪を頭の後ろで二つ結びにした可愛い子だ。丸い目は柴犬の子供みたいに黒く、ふっくらした頬にはほくろ一つ無い。

 今日はプールの日だったのか服装は上が白の体操服で、下は赤い短パンを履いていた。手にはピンク色のプールバックを持っている。三年生になってからプールの日が増えたと以前喜んでいたのを思い出した。

「ばんご飯買いにきたの!」

「そ、そっか。ありがとう」

「はーい! 今日は何にしようかなあ?」

 この子は俺が働くコンビニ近くのアパートに住んでいる通称「タネちゃん」だ。
通称なのは、俺がつけたあだ名だからだ。

 昨今の子供は親からちゃんと注意を受けていて、自分から名前を言ってくる子はそういない。

 たとえ馴染みのコンビニ店員相手だろうが、母親の教えをしっかり守っているのだ。

 今の時代、その方が良いと俺も思う。だから彼女の名前を俺は知らないし、聞いていない。俺の名前については名札で知っているから、彼女は俺をくぜのおにいさんと呼んでくれている。

 来るたびに話しかけてくれるあたり、ある程度は信用してくれているようだ。というより、母親から「あのお兄さんは名前も職場もわかっているから、いつでも通報できる。仲良くし過ぎは駄目だけど、話すのだけはOK」と言われたらしい。
まあ、正直ちょっと傷ついたが。

 しかし今の時代子供は本当に危険が多いからかまわない。俺自身は子供は思考が純粋だから割と好きだ。

 ショッピングモールなんかだと阿鼻叫喚の他人の思考の波で死にそうな心地になるが、子供の集団はほとんどが良い意味で単純だからさほど疲れない。だから彼女は俺にとって数少ない話し相手だ。

 会話と同時に相手の思考が聞こえてくる俺にとって、かなり貴重な子である。

「あ! ○ケモンのプリン!」

【大好きなこの子もいる! やったあ!】

 好きなアニメのキャラクターが描いてあるパッケージを見て、嬉しそうな声が上がった。タネちゃんは冷蔵コーナーからプリンを一つ手に取ると、嬉しそうに上から下からと眺めている。

 彼女の動きに合わせて、赤いランドセルの右側、銀色のフックにつけられたキーホルダーが揺れた。

 背中にでかい緑の種を背負った蛙のモンスターのキャラだ。彼女のあだ名である「タネちゃん」はあれからとった。

 黄色い電気鼠のモンスターが有名なアニメに出てくるキャラで、主人公が最初に選ぶ相棒のうちの一匹である。

 俺も小学生の頃、ゲームではそいつを相棒にしていた。中の声優さんのファンだったというのもあるし、そのモンスターのデザインが可愛かったというのが一番の理由だ。

 タネちゃんも俺と同じで、そいつをとても気に入っている。俺達が話すようになったきっかけもそれだった。俺がカウンターの下に置いている水筒が、そのキャラクターのデザインだったからだ。

 タネちゃんは母親と二人暮らしで、どうやら親の離婚でこっちに越してきたようだった。

 そして母親が仕事で夜遅くなるとき、タネちゃんは学校と塾の帰りにうちのコンビニに晩ご飯を買いに来ていた。今日も同じのようだ。時間がいつもより遅いのは、たぶん塾が長引きでもしたんだろう。

 一応、タネちゃんには以前買い物ならコンビニよりスーパーの方が安く済むよとこっそり教えたが、母親に冷蔵庫に食べるものが無い時はアパートから一番近いコンビニで買ってくるよう言われたらしい。

 それにしても最悪だ。タネちゃんと軽い会話をしながら俺は内心で神も仏も両方呪った。

 何でだよ。なんでこの子がたまたま遅い時間に来たときに限って店にこんな奴がいるんだ。これほど不運な偶然なんてあってたまるか、と口汚く運命を罵る。

 冷蔵コーナーにとことこ歩いて行った少女の背中を見てから、俺は男に意識を戻した。

 セルフレジはもう終わっただろうか……そう確認が、したかったのに。

 男はいつの間にかセルフレジから消え、雑誌のコーナーで立ち読みのふりをしていた。

 ついさっきまで持っていた商品が雑誌の棚に突っ込まれている。それだけでも腹が立つのに、男の思考が見えてしまった俺の脳内がかっと怒りで熱くなった。

 この野郎……!
 ふざけんな。ふざけんな‼

【いいとこに獲物が来た。しかもオレ好みだ……可愛いなあ。刺したらどんな風に泣くかなあ?】

 男の異常な思考が流れ込んでくる。

 俺は他人の思考が自分に入り込んでくるのを止められない。特にこうも感情が高ぶっている状態では。

 成長するにつれて少しは意識を逸らしたり出来るようにはなったけれど、子供の頃はダイレクトに他人の思考が感情含め伝わってしまい大変だった。よく頭がおかしくならなかったと思う。

 いや、本当はすでにおかしいのかもしれない。こんな異常な奴の思考が聞こえていても、まだなんとか耐えていられるんだから。

 これが普通の、ノーマルに育った人間だったら震えて動けなくなっていたかもしれない。

「晩ご飯、決まった? お母さんいつもみたいに車で待ってるんだよね。俺も選ぶの手伝うよ」

「え? あ、うん……」

 俺の言葉にタネちゃんは黒い瞳をぱちくりと瞬かせた。俺は声に無駄に強弱を付けて、女の子が親と一緒に来ている風を装った。タネちゃんはどうして俺が急にそんなことを言うのかと訝しんでいる。

 そりゃそうだ。この子が毎回一人で来ていることなんて俺は知っているはずなのだから。

 だがそれを、今雑誌コーナーで虎視眈々とこちらを窺っている男に知られるわけにはいかないのだ。

 奴は脳内で【っち、親いんのかよ】と悔しげに吐き捨てている。そうだ勘違いしてろ。でもってさっさと帰りやがれペド野郎。

 俺がこの世で一番嫌いなのがロリコンペド野郎だ。まじで滅べあいつら。

タネちゃんには申し訳ないが、話を合わせてもらうほかない。そう考えて、俺はカウンターを出てタネちゃんのいる冷蔵コーナーに向かおうとした。

「あのさ、新商品のプリンがあるの見た?」

「見た!」

「結構美味しいし、絵も描いてあるからおすすめだよ。お母さんの分も買っていくといいよ」

「うん!」

 お母さんの分も、を強調して話を続けた。これに関しては母親が一緒でなくとも違和感は無いだろう。

 タネちゃんはアイスコーナーの横にあった小ぶりな買い物カゴを空いている方の手に持つと、嬉しそうにプリンを二つ入れていく。そして果汁百パーセントの紙パックジュース一つと、脂肪燃焼を謳うペットボトルのお茶と二百ミリの牛乳パックを入れた。お茶は母親の分なのだろう。

 しかし、全部を入れた後ではた、と何かに気付いたように停止した。そして、うーんと首を傾げると、そろそろとプリンを一つ冷蔵棚に戻す。

「どうした?」

 聞いてしまった俺が馬鹿だったんだと思う。そもそも俺の浅知恵なんて、たかが知れていたのだ。

「プリンはね、一個でいいの! お母さんダイエット中だって言ってたから!」

「そ、そっか」

「あとね今日は十時までお仕事なの! 寝る前に食べたら太っちゃうって言ってた! だからひとりで食べる!」

「っちょ……!」

 他ならぬタネちゃん自身が、自分で盛大に暴露してしまう。しかも、はきはきとした大きな声で。

 遮るのすら無理だった。

子供の声はよく通る。俺が言葉を発するより何倍も店に響き渡っていた。

「そ、そうなんだー……ははは……」

 って素直かあああ!

 俺は悶絶した。勿論顔には出していない。がこれは致命的だ。彼女が言わなくても良いことまで口にしたのは、俺とタネちゃんが買い物の間の少しの時間ではあるが、普段から話しているこその安心感ゆえだったのかもしれない。だけどそれは、今この時においては大いにまずい。

 俺は手の中に掻いた汗を握りつぶした。

 もうこの際、警察に通報するか? 

 いやでも、まだ何かされたわけじゃない。それは店の防犯カメラを見ればわかる。
それか遅い時間に子供が一人で買い物に来ていますって言って保護してもらうか? 

 確か深夜徘徊は午後十一時以降で、十八歳未満が対象だが、県によっては小中学生の場合つまり、十六歳未満は午後六時以降はゲームセンターなどの遊興施設利用を制限されていたはずだ。そして保護者同伴でも八時以降は駄目だったはず。

 うちはコンビニだが、勘違いしたとか言って通報しても良いんじゃないだろうか。
 それか虐待疑いとか何とか言って。

 だけどそうしたら、タネちゃんの母親はきっと深く傷つくだろう。

 以前何度か母親も一緒に夜店に来たことがあるが、離婚によって心も身体も疲弊していて、それでもなんとか母子二人、食いつないでいこうと必死に働いていた。

 しかも仕事はかけもちだ。コンビニでの買い物は高くつくから本当はしたくないのに、娘の安全のために近くで済ませるよう言い含めているような堅実で優しい母親だ。

 なるべく冷蔵庫に買いだめをしていても、仕事が忙しすぎて最近はスーパーにすら行けておらず、娘のタネちゃんに買い物を頼むほかなかったのだとタネちゃんの思考から読み取れる。そんな母親をタネちゃんが酷く心配していることもだ。

 そんな母親やタネちゃんを追い詰めるようなことは、俺だってしたくない。

 だがそれでも―――直近の危険を回避する方が先だ。

 何しろ明らかに、奴はタネちゃんをターゲットにしている。思考がありありと聞こえていた。

 畜生、考えていることが胸くそ悪過ぎて反吐が出る。まじでロリコンとペドは全員死ね。

「あ、あのさ、良かったらレジの奥に部屋があるから、ちょっと休んでかない? どれか漫画持って行って読んだりしてもいいよ?」

「ほんとう⁉」

 児相でも警察でもどちらにしろ、ここに着くまでには時間がかかる。

 俺は時間稼ぎのためにタネちゃんに提案した。彼女はきらきらと瞳を輝かせながら俺を見上げている。もしかしたら、母親が仕事でいない間一人で寂しいのかもしれない。

 母親の思考では親族で頼れる人間はいないようだった。離婚したばかりなのもあり、学童保育は入るのにまだ少し時間がかかるようだ。

 タネちゃんの反応から、よしこれならいける、と俺は一瞬安堵しかけた。

 それがいけなかったのだろう。

「あ、でも……おかあさんが、知らない人のお家に入っちゃだめって」

 か、賢いいいい! 

 でもここ店だし君と俺結構話してるよね⁉
 割と傷つくよ⁉

「こ、ここはお店だからお家じゃないよ? 防犯カメラもついてるし、何ならお母さんの職場に電話してあげるから―――」

「お店とお家が一緒になってる人もいるっておかあさん言ってた! おいでって言ってくるひとは危ない人だって!」

 おかあさんも賢い‼

 だけどその危ないのがすぐ側にいるんだって! 

 頼むから信じてくれよ!
 親にも見放された俺だけど、本気で君を助けたいんだよ……!

 俺は内心叫び散らしながら、必死にタネちゃんを説得しようとした。その間にも男が俺の対応を不審に思っている。それどころか、俺と奴が同類ではないかと考え始めていた。

 まじでふざけるな。出来た人間とは毛ほども言えんがお前ほどゴミじゃないわ‼

 それに男は俺が言った防犯カメラという単語に反応していた。

 ここで攫うのはまずいと考えている。けれど奴の欲望は、リスクをはね除けるほど強烈だった。どうやらタネちゃんは、男の性癖に気持ち悪いほど合致するらしい。

 奴はタネちゃんを逃したくないと考えている。たとえ防犯カメラに撮られていようが、俺をここで刺し殺してでも、タネちゃんを連れて行くかどうか、思案していた。

 およそまともでない、まるで虫のように無機質で剥き出しの本能的な思考に俺の背筋が凍った。

 男は俺をただの邪魔な異物としてしか認識していない。個のある人間だと思っていないのだ。おまけにタネちゃんのことは、綺麗で可愛い自分の玩具だと思っている。

 欲しい玩具を手に入れたい。そのためにただ邪魔な者を排除する、という酷く直結的な思考が感じ取れた。

 奴が玩具―――タネちゃんを手に入れた後のことを少しだけ、考えるのが見える。
今度は吐き気ではなく、俺の心臓が震えた。

 怖かった。どうして自分より明らかに体格が劣る子供に、そんな猟奇的な感情を抱けるのか、理解が出来ない。

 駄目だ。駄目だ。そんなことはさせない。この子には手を出させない。

 俺は何の力もないただのフリーターだが、それでも子供が殺されそうなのを見逃せるほど人間落ちていない。せめてそこだけは、自分でも守っていたい領域だ。

「わ、わたし、帰る……」

「えっ」

 しかし俺の必死さが不気味だったのだろう、タネちゃんはいつもとは違う俺の様子に完全に怯えてしまっていた。

 どうする? どうすればいい⁇

 こんな状況で警察に通報なんてしに行ったらその間にタネちゃんは外に出てしまうかも知れない。そしたら奴が追っていくだろう。

 通報ボタンを押すか? 強盗なんかの時に押すものだが、あれならわざわざ電話をかけなくても済む。だけどそれはレジカウンターの下だ。あそこまで行っている間にきっとタネちゃんは走り出す。というか、実際そう考えている。

 だから駄目なんだって!

 俺は仕方なくタネちゃんの前に立ちはだかるようにして立った。タネちゃんが怯えている。黒い瞳は今にもこぼれ落ちそうに潤み、カゴを持っている小さな手は震えていた。

 辛い。こんな小さな子に怖がられるのは心底胸が痛む。

「あの、さ? 君そのキャラクター好きだろ? 明日からさ、そいつのグッズも入ってる一番くじが始まるんだ。本当は明日からなんだけど、もう店に届いてるから、ちょっとだけ見てみないか?」

「え……?」

 俺の言葉に、タネちゃんの瞳から怯えが消える。年の割にはしっかりしている子だとは思うが、やはり子供は子供だ。好きなキャラクターの話をされれば、気を引かれるらしい。

 俺は明日から始まる一番くじの話を続けた。本当は発売日当日の朝までは出してはいけないものなのだが、見せるくらいなら大丈夫だろうし、何よりタネちゃんの命のためなら安いものだ。

「み、みたい」

「じゃ、いこっか」

 タネちゃんは素直で良い子だ。かなり危なっかしいけれど。だけど本当なら母親が一緒に買い物に来ていたはずで、こんな危ない目になんて合うはずがなかった。なのにこうなっているのは、子供と母親が夜に離れていないといけないような世の中のせいだろう。

 ごめんな。きっとその責任は、十八歳を超えた時点で俺にもあるんだと思う。

 申し訳なく思いながら、俺はタネちゃんを連れて店の奥へと入ろうとした。

 その時―――奴が来た。

「お嬢ちゃん、大丈夫? おい、クソ店員。何連れて行こうとしてんだよ。この犯罪者が」

いやそれお前! お前が犯罪者! この幼女専門人殺しが‼ 
どの口が言うんだよ⁉

 雑誌コーナーから出てきた男にそう言われ、俺は固まりながら頭の中で反論していた。けど、足下は凍り付いている。ついに男が行動に出たことに、相手の思考を読み取りながら恐怖を抱く。

 奴は財布に仕込んだコンパクトナイフで俺の首を刺そうかと考えていた。

 聞いているだけで首が痛い。ナイフは尻のポケットに入れた長財布に入るサイズの折り畳みのようだ。

 柄を持って一振りすれば自動的に刃が出る仕様になっている。どうしてうちの店に来る前に職質されてくれなかったんだと運命を呪った。

 ナイフと奴一人なら、俺だけでもなんとか対処できるかもしれない。奴の足止めをして、その間にもタネちゃんが逃げてくれたらそれでいい。だけどもし、取り逃がしたら? 俺が普通に負けて、タネちゃんが連れて行かれたら? 

 正直言って体力には自信が無い。その証拠に男の腕は俺の倍くらい太かった。

「いや……別に何かしようってわけじゃ……」

「嘘つくんじゃねえぞコラァ‼」

「っひ」

 何も気付いていないふりでそう弁解しようとしたら男が怒鳴った。その怒鳴り声にタネちゃんが怯えてびくついている。彼女が今立っているのはレジカウンターの前で奥へと入る扉のすぐ横だ。俺とは横並びになっているから、走れば自動ドアへの方へ行くこともできる。だけど今、逃げるのはまずい。

「なあお嬢ちゃん、ぼくが家まで送ってあげるよ。だからこんな奴から離れな? ソイツきっと君みたいな女の子が好きなヘンタイだよ」

 お前が言うか⁈

 と硬直する俺を余所に男はタネちゃんに近寄りながら手を差し出していた。

 俺は咄嗟に庇おうと前に出ようとしたが、それより早くさっとタネちゃんが俺から距離を取る。彼女は男のすぐ横をすり抜け、自動ドアを背に俺たち二人を泣きそうな目で見つめた。

 そのタネちゃんの視線と、彼女のカゴを持つぷるぷる小刻みに震える手に、男が邪な感情を抱くのがはっきりと感じ取れて、俺の気分が益々悪くなる。

 緊張と吐き気と嫌悪感とこんな事態になった元凶である男への憎悪でもう自分の感情がわけがわからない。恐怖も混ざっているから余計だ。ただ確かなのは、タネちゃんの足が向いているのは、自動ドアの方だってことだ。

 彼女はじりじりと後退していく。そっちは自動ドア側だ。頼む。いかないでくれ。

 ああだけど、このまま逃げてくれたらそれでもいい。だったら俺は、この男にしがみ付いてでも追うのを止めて見せる。きっと刺されるだろうけど。

 だけど俺は、小学生の女の子が大の男二人に迫られれば、どれだけの恐怖を感じるのかまったく考えていなかった。だから俺は気付けなかった。タネちゃんが今からする行動を思い浮かべた瞬間になって、ようやく理解する。

「どっちもこわい! へんたい! ばかあっ‼」

「っち‼」

「おわっ⁉」

 タネちゃんは半分涙目でそう叫ぶと、カゴに入っていたペットボトルのお茶とプリンを俺達に向かって投げつけ、カゴもプールバッグも放り出してそのまま脱兎の如く自動ドアを出て行ってしまった。

 しかも俺は運悪くペットボトルがもろに顔に激突して、その傷みに膝から床へ崩れ落ちてしまう。

 マジ痛え。半端ねえぞ○―いお茶‼

 痛みに悶絶していたせいで、男が駆けだしたのに気付くのが遅れた。慌てて手を伸ばし制止しようとしたが指先が掠っただけだった。男はものすごい勢いで、頭の中では喜びの声を上げながらタネちゃんを追いかけていく。

っ最悪だ。

最悪だ‼

 俺は顔を押さえながらふらつく足で走り出した。男が通った後に閉まり始めた自動ドアの隙間を抜けて、夜の駐車場へと入っていく。

 目の前には男の背中がある。奴は足が速いのかすでに俺より数メートル先を走っていた。その少し前にいるのがタネちゃんだ。小さな足で駆けている。子供は大抵の場合足が速い。毎日走り回っているからだろう。コンビニの駐車場を抜け、旧国道だった元商店街の住宅地の前の道を走っていく。日頃の運動不足のせいか俺の息はすぐに上がった。喉から血の味がする。横腹が痛い。肺が限界突破して呼吸困難を起こしている。胸が潰れそうだ。頭が痛い。酸素が足りない。だけど足は動かさないといけない。

 こんなことになるんだったら日頃からもっと運動をしておけばよかったと後悔してももう遅い。

 夜の暗闇に赤いランドセルが見えている。その次に続くのが黒い影。Tシャツのせいだろうが、足下の真っ赤なサンダルが同じ色を追いかけている。

 俺はどうにかして追いつこうとするが、全然距離は縮まらない。走りながら俺は男の思考に集中した。奴の行動を把握しなければいけない。どう動くか、わかったうえで対処するために。タネちゃんを助けるために。

 頭に浮かべた思考があまりにも強過ぎる場合、それは映像となって俺の脳内で展開を始める。本来なら滅多とないことだ。今までニ・三度しかなかった。これでもう一つ、増えたことになる。

 俺は走りながら、見えてしまった映像に泣いた。泣きながら、足をひたすら動かし続ける。

 見てしまったせいで余計、死んでもあの子を守らないといけないという使命感に駆られた。

「っ……ふざけんな! ふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなああああ‼」

 俺は男の背中に向かって叫んだ。男は俺がついてきているのは自分と同類だからだと考えている。まさか自分の考えや行いが読まれていて、止めるために追いかけているとは予想していない。

 その思考にも俺は煮える思いだった。男の思考はおぞましく、聞くに堪えない、見るに堪えないものだった。

 一番初めに、窓の無いコンクリートが打ちっ放しの薄暗い部屋が見えた。

 裸電球が一つ、天井に吊られている。その部屋には椅子が四つ並んでいた。椅子は小学校でよく見るタイプのものだ。ボロボロでささくれた古い木の板と錆びたパイプで出来た小さな椅子には、子供が三人座っている。

 そのうちの一つを男が見た。

 真っ赤な顔が拡大される。

 赤いのは、首から上の皮をすべて剥がされているからだ。

 子供は顔の筋繊維が剥き出しの状態で、すでに出し切った血液が隆起に固まりこびりついている。眼球は白濁し、すでに光を失っていた。

 細い首筋を垂れたのだろう血液が、華奢な鎖骨に小さな血だまりを作っているのが見えた。

 すでに絶命している子供の髪は長い。黒くて柔らかそうな髪は左右で細く三つ編みに編まれている。結んでいるのは白いリボンだ。血で黒く染まっているが、端が白い。

 これがこいつの殺し方らしい。

 子供を椅子に座らせ、汚れたサバイバルナイフで首から上の皮を剥ぎ、そのまま放置する。無論子供は泣き叫び、断末魔を上げながら血飛沫を飛び散らせ出血多量で死んでいく。

 縛られた手足は縄が食い込み鬱血し、締め付けた部分から紫色にまだらに変色している。

 部屋には椅子が四つ並んでいた。三つに死体が座っている。残り一つ空いた席に、こいつは脳内でタネちゃんを座らせていた。泣き叫ぶタネちゃんを無理矢理座らせ縛り付ける想像をして、興奮していた。

 殺したい。こいつを殺したい。死ねばいいんだこんな奴。

 生きている価値が無いのはこういう奴だ。

 最初から生まれてくるべきじゃなかった。

 差別主義? 上等だ思想がどうのなんて知るか。この世に生まれてはいけない【ゴミ】は、確かにいることを、俺は物心ついた時には知っていた。

 男のクソみたいな思考の隣で、小さく震えている思考があった。あれはタネちゃんの思考だ。思考が流れてくる。あの子の思考がはっきりと。

【こわいよお母さん‼ 助けて! たすけてたすけて! だれか‼】

 あの子は助けを求めていた。恐怖で心が埋め尽くされて、泣きながら母親を呼んでいる。

 俺の胸は申し訳なさと、悔しさでいっぱいだった。

 早く逃がしてやれば良かった。もっとやりようはあったはずだ。もっと俺が賢ければ、あの子にこんな怖い思いをさせずに帰すことだって出来たはずだ。

 もっと俺が、強ければ。相手が子供殺しの犯罪者だからって、びびってみすみす追わせることなんて、無かったはずだ。

 後悔に苛まれる俺の前で、赤い二つの色が右に曲がった。まだコンビニから数百メートルも走っていない。だけど、最も最悪なことに狭い路地の袋小路でタネちゃんは立ち止まっていた。

 赤いランドセルが上下に揺れている。彼女も必死に走ったのだ。だけどランドセルが邪魔で、外すなんて事も思いつかなくて、たどり着いたのがこの場所だった。

 狭い路地は古い雑居ビルの間にあった。この通りの向こう側がタネちゃんが住んでいるアパートなのだと思う。彼女はきっと、無意識に家に帰ろうとしていたのだ。

 途方にくれているのか、行き止まりの壁をタネちゃんは見上げていた。夜空は埃の塊みたいな雲で覆われ、闇は漆黒をしている。ざり、と足跡が二人分響いた。

 男と、俺のだ。

 男がタネちゃんの背中に近づく。俺はそのまま速度を緩めること無く走り続けた。
そして、男に背中から飛びかかった。

「っ逃げろ‼」

 黒いTシャツの上にある頭に殴りかかる。俺の体重で男が前に倒れた。地面に這いつくばる男の背中にのしかかった俺はもう一度叫んだ。

「早く逃げろぉ‼」

 びくっと肩を震わせ振り向いたタネちゃんの顔は涙に濡れていて、驚いた顔で俺を見下ろしている。

「て前ぇっ‼」

【この野郎! 横取りする気か‼】

 背中に乗り上げた俺に見当違いの苛立ちをぶつける男は、すぐに地面に両腕をついて俺を背中から振り落とした。どしゃり、とコンクリートの上に落ちた俺は横顔を強打した。落ちていた石の尖った部分がこめかみに刺さり、強い痛みが走る。

切れたようだ。だらり、と生暖かい液体が流れてくる。

「っ……!」

だけど、すぐに膝をついて立ち上がった。休んでいる暇はない。今はそう、生まれて初めてのたぶん、殺し合いの最中だ。現に男はギラギラした目を俺に向け【殺してやる‼】と脳内で息巻いていた。

「お前ぇっ‼ 殺してやる‼」

 また実際に、叫んでもいた。

「糞があっ‼」

 男が尻のポケットからナイフを取り出した。どうやら長財布の外側ポケットに差し込む形にしていたようだ。男が思考で語っていた通りのコンパクトな折り畳みナイフが目の前で刃を現す。

「なあお前ぇ……なんで邪魔すんだよぉ……邪魔だよぉ……死ねよぉ……」

【何で何で何で何で渡さないやらないお前のじゃないおれのおれのおれのおれの‼】

 男の言葉と思考が同時に聞こえた。どちらも意味は解しておらず、ただの単語の羅列でしかない。

 だけど幸いなのは、男の矛先が完全に俺に向いたことだった。

 男は俺に向けてナイフを構えている。タネちゃんはまだその場から動いていない。ナイフを見て完全に怯えきっていた。無理もない。ないが、早く逃げて欲しかった。

「に、げ、ろおおお‼」

 三度目に叫びながら俺は男に向かい地を蹴った。男がナイフの切っ先を俺に向けている。それを右腕を犠牲にして庇った。手首より数十センチ下にナイフが刺さる。痛え。だけどどうにか、耐えられるレベルだ。

 俺は刺された腕を軸にして、反対の左手で男のシャツを掴み思い切り逆方向へと引っ張った。ぐるん、と回転して俺と男の位置が入れ替わる。

 俺がタネちゃん側、男が俺達二人の前だ。俺の腕からナイフが引き抜かれた。男が俺から距離を取る、細い眼は血走っていて、口がわなわなと歪に震えている。怒りで思考は血の海みたいに真っ赤だ。実際に血が噴き出しているのは俺のほうだが。

 腕が痛い。焼けるように痛いってのはこれか、とか思うほどには痛い。

 あまりの痛さに涙が出た。だけど、膝は曲げなかった。

「つぎ、絶対逃げろよ」

 俺は顔だけ傾けて、タネちゃんに告げた。呆然としていたタネちゃんが、はっとした表情をする。俺が笑っているのが意外だったらしい。まあ、思惑は成功したようなのでほっとした。

【おにいちゃん、こわい】

「ああこわいな。でも逃げろ。逃げて、誰かに警察を呼んでもらってくれ」

 タネちゃんの心の声に返事をすると、黒い瞳が驚愕に大きく見開かれた。小さな手が胸元できゅっと握りしめられる。

【もうはしれない】

「駄目だ走れ。走って助けを呼ぶんだ」

 恐怖で思考が片言になっているタネちゃんに言い聞かせる。男は俺達が何をしているのかわからないから不審も露わに警戒していた。助かる。おかげで時間が稼げている。

「行け‼」

 言うと同時に、俺はまた男に向かっていった。距離はさほど離れていなかったから、突っ込んでいけばタックルをお見舞いできる。だけど男がナイフを振りかぶって俺の上半身を狙うのがわかったので、身体を捻って横側から刺された右腕で拳を入れようとした。威力なんて大して無いだろうとはわかっていた。だけどそうするしかなかった。喧嘩なんてほとんどしたことがない。だけど、今だけは、俺なんかでも戦わなきゃいけなかった。

俺の拳が男のあばらに当たる。男はよろめかない。それどころか、俺の肩にナイフをまた刺し込んでくる。

「っぎゃ⁉」

「糞が! くそがあああっっっ‼」

 悲鳴は俺のだ。肩に刺さったナイフがかなり深い。それを、男がまだ押し込もうとしてくる。

 痛い。痛い痛い痛い痛えええええええ‼

「ひゃ、ひゃしへえええええ‼」

 俺の言葉になっていない逃げろという叫びにタネちゃんが反応した。だっと勢いよくその場から走り出す。

 そうだ。それでいい。どうやら俺は、ようやくあの子に信用されたようだ。きっとその理由は今この場に頼れるのが俺しかいなかったからだろう。でも、それで十分だった。

 恐怖で涙が出た。頭のおかしい理解もしたくない怪物みたいなのを敵に回している。

肩が痛い。身体に異物が刺さっている。熱い。痛い。熱い。殺される。

 涙で視界が揺れる。俺は殴りつけたままの拳で男のシャツを握りしめていた。そっちの腕も刺されているから血が噴き出しているのがわかる。俺の鼻から垂れた鼻水が風で飛び散り頬に当たった。額に掻いた汗がだらだら顎に流れてくる。だけど、唾を飛ばしながら必死に叫んだ。

「は、し、れええええっっ‼」

 離して堪るかと渾身の力で男のシャツを握った。俺の足を男が蹴り上げる。俺はなんとか踏ん張ったが、すねを蹴られてあまりの痛さに踵が浮いた。男が俺の肩からナイフを抜き、振り払おうとするのを必死に爪が肉に食い込むくらい力を込めてしがみ付く。

 だけど男はナイフで何度も俺の背中や肩を刺した。首の後ろも刺した。コンパクトナイフだからか傷口も深さもそこまで無いが、回数刺されれば流石に段々意識が遠くなってきて、気付けば俺はまるで男に縋るような格好になっていた。

 離さない。絶対に。

 タネちゃんのところになんて、行かせない。

 それだけを考え腰にしがみ付く俺を、男が瞳孔の開いた狂った目で睨んでいる。口から何か怒鳴っているようだが聞き取れない。思考は激怒のあまり単語を読み取れないくらいに燃え盛っていて、まるで火事の現場のようなイメージしかわからなかった。

 俺は何度刺されただろうか。タネちゃんは逃げられたのだろうか。助けを呼んでくれただろうか。たとえ呼んでくれてなくても、あの子が助かればべつに良いが、呼んでくれていたら嬉しいと思う。俺を助けたいと思ってくれていたなら、それできっとお釣りが来る。

 俺は、子供の思考が好きだ。

 単純で、でも純粋で、優しくて癒やされる。時々は違う子もいて、そういう子は俺はしかるべき場所に連絡をしている。

 だけど総じて子供達は、俺に人間への希望をくれる。

 大人の思考ばかりが流れ込んでくる毎日は、正直言ってかなり辛い。

 優しい人もいないわけじゃない。他人の境遇に同情する人もいれば、善意が強い人だっているにはいる。

 だけど、人間の根底なんて哲学的なことを考えてしまうくらいには、酷いものが圧倒的に多いのだ。

 今の時代は、心に余裕が無い人が多いからだろうか。見ているのは下ばかり。小さなスマホの画面ばかり。だから思考も狭くなる。見えて住んでいる世界が狭くなれば、心は次第に窮屈さに限界を迎えていく。

 それでも、子供だけは心が自由だ。

 俺はそれが、すごく好きだった。だからたぶん、この歳まで生きてこられたんだと思う。

 二十五歳のフリーター。人が密集する場所では働けないこんな俺でも、ただバイトしてアパートの一室でゲームをするのが楽しみなだけでも、なんとか死なずにこれている。

 俺が走馬灯みたいにそう考えていた時、ずっと男にしがみ付いているつもりだったのに、ふいにその時が来た。

 ずるりと地面に身体が落ちていく。顔面がコンクリートに正面からぶつかった。

 流れ出す血と一緒に手足の先が冷えていくのがわかった。思考がやけに澄んでいる。走馬灯っていうより今までの人生の教訓みたいな感じだったな俺は、なんて場違いな事を思った。

 でもまあ、悪くない、かもしれない。奴がまだ上からナイフを振りかざしているのを除けばだが。

「糞がああああ‼ 死ねっ! 死ね! しねしねしねしねえええっ‼」

 男が俺の上に馬乗りになり、首を押さえたのがわかった。そのまま振り下ろす気だ。
ああこれで、留めになるな。

 なんとなく本能的な部分でそう思った。

 すでに相当な量の出血をしている。放っておけば勝手に死ぬと思うが、男は獲物を逃がす元凶となった俺を殺すと決めていた。

 あと俺ともみ合いここで出血させたことで、自分が逮捕されることが目に見えていたからだ。

 これまでの行いがバレる。男の【コレクション】が奪われるのは全部俺のせいらしい。

 俺は、ざまあみろ、と内心笑った。本当は表情にも声にも出したかったけど、地面にうつ伏せで倒れているから無理だった。

 全力疾走と出血のせいで、もう声なんて出せない。

 なのに男はまだ俺を刺している。何度も。何度も。

 刺され過ぎて最早感覚なんて無くなっていた。びくびくとバウンドする俺の身体はゴム人形みたいだ。

 だけどまあ、本当に、悪くない、かもしれないなと思った。

 心が、思考が読めることで親からも必要とされなかった俺が、最後に女の子を助けたんだ。それも前途有望な少女を。

 願わくば、あの子が将来馬鹿な男に貢いだりする女性にならないことを祈った。

 せめて、死んでいく俺の分くらいはあの子が幸せになってくれたらいいなと、そう思う。

 好きになった男に大切にしてもらってほしい。俺が親にも恋人にも望めなかったことを、あの子が叶えられればいいなと思った。

 男がナイフを下ろす寸前、首の上に風を感じた。

『ああ死ぬんだなぁ俺。でももう痛いのは嫌だ。ってか刺すのいい加減にしろよお前。一番死ぬべきなのはお前だろ』

 そんな風に、俺が自分の脳内で思った時。

 首に刺さると思っていたはずのナイフの感触が―――しなかった。

 ……あれ?

 留めを刺されると思っていた俺の上から重さが消えた。

 何事かと思って起き上がれないまま首を動かす。動かせると思っていなかったけれど、少しだけ動かせた。すると、男の足が見えた。じっと突っ立っているようだ。俺からは顔が見えない。それ以上は首を動かせなかった。

 仕方なくじっと待つ。そもそも動けない。男は俺を殺す瞬間を噛みしめているんだろうか。だとしたら悪趣味だ。

 だがこいつにとっては最後の殺しになるかもしれないのだから、味わおうとするのは当然なのかもしれない。理解はまったく出来ないが。

 そう―――思っていたのに。

 突然、ぶしゅう、と音がした。

 次にぼたぼたと、俺の視界に赤いものが落ちてくる。

 ―――へ⁇

 どう見てもその赤いのは、血液だった。俺の血か?

 だけど違う気がする。感覚なんてもうほとんど無いし身体が冷たいのはわかるが、これほどまでの出血ならもっと早々に意識が飛んでいる気がする。それくらい、血の大雨が上から降ってきていた。

 意味がわからん。

 だけどもう、この血が俺のだろうが何だろうが、もうどうでもいいか。自分的には結構頑張った方だと思う。きっとタネちゃんが逃げられる程度の時間は稼げただろう。それにこれだけ騒いだからか、田舎といえど周囲に人の声が響き始めていた。

 たぶんもう、あの子は大丈夫だ―――そう思うと同時に、俺の意識が遠のいていく。

 これでこの世とおさらばか。まあ、いいや。

 そんな短い感想を最後に、思考が消えた。



 ―――で、目覚めたら病院にいた。

 起きたらタネちゃんが隣に座っていて、タネちゃんのお母さんが号泣しながら看護師さんを呼んでくれた。

 なんだこの状況。

 周囲は真っ白で俺はベッドの上だった。

 包帯だらけでミイラマン状態だ。
 動けん。

 実際傷だらけのボロボロのぐちゃぐちゃで動けないんだが、その後の医者の説明では一週間ほど意識が無かったらしい。

 へー、と無感動に思いながら話を聞いて、バイト先の店長から復帰は回復してからで良いよ、という身も蓋もない見舞いの言葉をもらい、あまり連絡を取っていなかった親元にまで電話されていたと知った俺はちょっと頭を抱えた。

 だがまあ親は、俺が死にかけたと聞いても大して反応を見せなかったらしい。

 それについて店長が少し怒ってくれたので、なんだか嬉しかった。

 その後、医者の次に俺は警察の人と話をした。事情聴取とか色々されて、あの男の顛末も聞いた。

 男は警察が現場に到着した時にはすでに、自分のナイフで首を貫いて死んでいたらしい。

 俺が瀕死で出血も辺り一面証拠だらけだったから、流石に捕まるのを悟って自殺したのだろうと警察の人は言っていた。それには俺は首を傾げたけれど。

 俺はといえば虫の息で地面に転がっていたそうで、あと少し遅ければ出血多量で死んでいたらしかった。

 男の獲物がコンパクトナイフだったからぎりぎり助かったのだと医者が言っていたが、サバイバルナイフだったら確実に死んでいただろう。だが、同じくらい死ぬほど輸血されたようだ。たぶん今俺の身体は、ほとんど他人の血で動いている。

 変な感じだ。

 で、変な感じと言えば、もう一つあった。俺は他人の心が読めたわけだが、なぜかもうひとつ、できるようになっていたのだ。

「おにいちゃん?」

「おー、栞ちゃん。今日も来てくれたんだ」

「うん! 今日はね、このキャラの捕まえ方、教えてほしくて」

「オッケーまかせとけ」

 タネちゃん―――本名、斉藤栞(さいとうしおり)ちゃんが俺のいる病室にひょっこり顔を出した。

 ここは四人部屋だが、重症患者が回復期に入る部屋らしく、今のところ俺一人が残っている。

 栞ちゃんは俺が目覚めた後にあの男から彼女を逃がしたことへのお礼を言ってくれた。もちろん、栞ちゃんの母親も菓子折つきで同じことをしてくれた。離婚したばかりだというのに、治療費まで払うと言われたが丁重に断った。幸い俺は入院保険にはそこそこ良いのに入っている。

 まあ子供の頃から、他人の心が読めるせいで色々あったもんで。と、そこは割愛しておく。

 それから栞ちゃんはほとんど毎日俺の病室に見舞いに来てくれる。

 学校であったことや今好きなことについて心の底から楽しそうに話してくれる彼女との会話は楽しい。

 あの男のせいで男性恐怖症とか、コンビニが怖くなってしまったんじゃないかと心配していたけど、それはどうやら杞憂だった。彼女自身が、俺がいたからコンビニも、俺みたいな男がいるから怖くないと言ってくれた。

 本当はもっと早くに効率よく助けられたはずだったと後悔していたから、この言葉にはかなり救われた。

「おにいちゃん、ばいばい!」

「またね。栞ちゃん」

 手を振って彼女が帰っていくのをベッドの上で見送る。

 彼女のいなくなった一人きりの広い病室で、俺はベッドのすぐ真横にある窓を見た。
 まだ夕暮れには早い時間帯なせいで外は明るい。

夏の太陽を見たのは久方ぶりだ。

 日差しは白く世界を照りつけていて、窓越しに見える桜の葉にもまんべんなく降り注いでいた。

 けたたましい蝉の声が俺の耳にもこれでもかと聞こえている。こんな熱い中見舞いにきてくれた栞ちゃんに心底感謝だ。

 そう思いながら桜の木の枝をふと見ると、雀が一羽とまっていた。

 その雀をじっと見つめて、俺は思考を『広げた』。

『花を一輪、取ってこい』

 短く端的に、雀を見つめたまま思考で念じる。

 雀の心なんてのは読めない。彼らの言葉は俺には理解できないからだろう。
 ただなんとなく感覚は掴めているような気がする。

 今の雀は人間に興味津々で、だから枝にとまってこちらを見ていた感じがした。

 以前は人間の心、つまり思考しか読めなかったけれど、今はなぜか動物の思考らしきものもなんとなくだが感じ取ることが出来るらしい。

 死にかけた効果かと思ったが、それ以上の変化が俺にはあった。

 雀は一度飛び立つと、姿を消した。

 そうして数分も経たないうちに、小さな黄色い花を一輪、口にくわえて戻ってくる。

 色で一瞬ひまわりかと思ったがよく見ると違う。
 あれは胡瓜の花だ。小学校の頃、小さなプランターで苗を育てたから覚えている。
花を持ってこいとは言ったが胡瓜とは。

 やはり俺はどうにも格好がつかないタイプらしい。

 まあだが、これで合点がいった。

 雀をしばらく思い通りに動かした俺は、雀を解放したあとベッドの上で天井に向かって肺の空気を吐き出した。

 元々は、他人の心が読めるだけだった。

 だけど―――たぶん、俺は三途の川を一度渡りかけたのだと思う。

 そのせいで、今度は読めるだけではなく―――操ることも、出来るようになってしまったらしい。

 それがどのくらいで、どの程度の強さなのかはわからない。

 だけど、あの男に俺が最後に思ったこと―――それからあの男が、実行したこと。

 あれほど俺を殺すと決めていたはずの男が死んだことを思えば、かなり恐ろしいレベルな気がした。

「はあ……」

 大きなため息をつきながら肩を竦めると、傷が痛んだ。

 うん。俺、生きてる。

 ……まあ、誰にでも知られざる一面ってのはあるもんだ。

 どうやら俺には少しだけ、追加されたようだが。

 そう結論づけて、明日は栞ちゃんにモンスター集めの極意を教えようと俺は、考えながら目を閉じた。

 五月蠅い蝉の声は、一斉に止んでいた。




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