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一.勃興
虎は果報を臥せて待つ ― 後編 ―
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浦へ着くと、三人はまっすぐ刀祢の館に通された。
さらに浦の主だった者たちも集まってきた。新之助がもたらした報せは、たしかに鶴姫が必要としていた報せであったし、多烏の浦人たちにとっても、良い報せではなかったが、災いを除くための大事な報せだった。
「よくしらせてくれた。感謝致す」
多烏浦を代表して、刀祢の新大夫が感謝の言葉とともにあたまを下げた。
「そんでその総攻撃ってのはいつなんでぇ?」
ここにいる全員が気になっていることを、ケン次郎の兄貴分の弥太郎大夫が問う。たんに地声が大きいだけだろうが、集まった皆の耳にとどく声で訊いてきた。
この弥太郎大夫という男、漁撈によるものだろうが、顔は日に焼けて黒く、その中にギョロリとした目が白く光る悪相だが、ケン次郎の兄貴分というだけでなく、浦人の多くがその存在を認めているようだった。
「明確な日時までは分かりませんが、すでに汲部に伝えおよんでいることは間違いありません」
あるいは今、ここでこうしている間に決行されないという保証はない。
「おうおう、そんじゃあ今すぐんでも戦支度じゃねぇか」
と弥太郎が応じると、少なからず呼応する声が周囲からあがった。
「そう急ぐな」
と、それを冷静に窘める鶴姫。
皆の前だからということもあるだろうが、西津で会ったときの動揺は、今の鶴姫にはみられない。
「正面から総攻撃を仕掛けるというのは、やはり海側から舟で向かってくると解釈するべきでしょうか?」
と、牛太が鶴姫に問うと、よこから虎臥が口をはさみ、
「ならば見張り台から丸見えじゃ。奴らが海に漕ぎ出せば即座にわかる」
と、万全の備えであることを皆に知らしめた。
刀祢と並び、鶴姫の隣に腰を下ろしている虎臥。弥太郎のように大声で話すわけではないが、集まっている者たちは虎臥の言葉には耳を傾け、そして納得する。弥太郎大夫を助けた功から、もはや名誉浦人だった。
「海からの総攻撃の意図は何でしょう? 汲部に利がある何かがあるのでしょうか?」
牛太の気がかりはそこだった。新之助が言っていたとおり、汲部と鳥羽の関係が一枚岩ではなく、互いに己の損得で敵味方にわかれる関係であるということは、大いにあり得る。しかし、いや、であるなら猶更、鳥羽からの指示で正面突破せよと言われた汲部が、あきらかに被害の大きくなる策に応じるとは思えない。
牛太の問いに、鶴姫と刀祢はしばし思案してみたが、これと思うものには至らなかったようで、
「特には……」
と、鶴姫が言葉を詰まらせて答えるのみだった。
「我ら浦人はそなたらのように弓の扱いに長けた者はおりません。刀を持つ者はありますが、所詮、我らにとってはただの交易品。戦の道具として心得のある者はおりません」
鶴姫の言葉に虎臥が、
「それではどのようにして戦うのじゃ?」
と問うが、
「投石と長竿での打ち合い。つまるところ、いまの陸での小競り合いが海に移るだけで、戦い方が変わることはないでしょう」
と返した鶴姫の言葉に、集まった者たちの中からため息がもれた。
双方に手負いの者は増えるだけで、それによって決着するわけでもない。怪我人が増える以外なにも変わらないとなれば、意気消沈も仕方がないことだろう。
「事の発端はたしか、網を断ち切ったことじゃろう?」
会話が途絶え、静まり返った屋内。
誰に問うたのかは分からないが、虎臥の問いに反応したのは弥太郎だった。
「ありゃあ奴らがウチの網口の前に網を立てたのが悪ぃんだっ! 大体、須那浦は多烏の網場だっ! 奴らが網を立てたいい理由なんてひとっつもねぇ!」
他の者たちも異口同音に呼応する。多烏の者たちにとってこの話題は禁忌であるようだ。
「ならばそれが発端じゃ。何故、多烏の網場に勝手に網を立てた? まさか知らなかったわけではあるまい。そんなことをすれば喧嘩になることくらいわかるじゃろうに」
まったく怯む素振りもなく、虎臥はさらにその話題を掘り下げていく。
発端から探っていこうというつもりだろうか。
「須那浦は良い網場ですから」
と、これには鶴姫が冷静に返した。
その時、以前聞いた須那浦の場所の話が、牛太の頭をよぎった。
「もしや……」
小さく呟いただけだったが、答えを求めていた者たちの視線が一斉に牛太に向かい、牛太は動揺した。虎臥とは違い、これだけの眼に一斉に晒されることなど滅多にない。怯むのが正常な反応だろう。
「あ、いや、初めてここを訪れたとき、須那浦が何処にあるのか分からず訊ねたことを思い出しました。須那浦は汲部浦よりも更に北に位置します。つまり多烏の者が須那の網場へ行くには、必ず汲部の前を通らなければなりません。たとえば向こうの狙いが、海から多烏を攻めるのではなく、多烏の舟が北上して須那へ向かうことを妨害することにあるとすればどうでしょう? それによって汲部は、須那の網場を独占しようと目論んでいるのではないでしょうか?」
――海上封鎖。
閃いた時はここまで詳細ではなかった考えも、口に出して一つひとつ整理してみると、筋書きとしてはかなり現実味があると、牛太は思った。汲部の利で考えれば、総攻撃は得策ではないはずだ。鳥羽氏を利用して須那浦の網場を独占できればそれだけでいい。そう考えると、理にかなった策である気がしてきて、そうに違いないと思うに至った。
「ナメた真似しやがってっ!」
これには皆いきり立った。平静を保っている鶴姫だったが、眉根には皺を寄せている。刀祢は腕組みをして目をつぶった。
「たしかに足止めのために浦の口を塞ぐというのであれば、数に勝る汲部に分があるでしょう。ただそうなれば、もはや須那浦の網場の占有だけの話ではなくなります。浦にとって海は口と同じ。ここを塞がれては飲み食いはおろか、息をすることさえできなくなります」
いまの鶴姫の言葉が、ここにいる者たち全員の怒りの核心だろう。
浦人にとって海は生活のすべてなのだ。
「どう対処すべきか……」
と、ついに鶴姫も、ため息交じりに天を仰いだ。
しかし、こういう停滞した空気に一矢を放つのは決まって虎臥だった。
「向こうの思惑に乗らねばよいのじゃ」
自由奔放に語りだす虎臥をとめるられるのは自分しかいないと感じている牛太は、ほかに先んじて、これに問い返した。
「どういうことだ?」
牛太の問いに虎臥は、海に集中させないようにすればよいと言った。
「岬の向こうはもう汲部じゃろ? 少数で陸から奇襲を仕掛ければ、戦力を分散させることができるのではないじゃろうか?」
なるほど。数で勝る汲部の、その優位な部分を崩そうというわけか。
汲部にしてみれば、正面きって戦うつもりがなかったところを、陸から直接、村を攻められたとなれば応戦しないわけにはいかない。とうぜん網場よりも村を守ることの方が大事だ。そうなれば海に出ている者たちを陸へあげなければならなくなる。封鎖の網目が大きくなるのは必然。そこを多烏の者が抜けて須那へ向かう。
むこうの目的が、多烏浦人を須那の網場へ向かわせないことなら、こっちはそれを突破して網場へ着くことができれば、むこうの目論みは外れたことになる。策が通用しないとわかれば、少なくとも海上封鎖は諦めることになるだろう。
この奇策に、沈んでいた空気が一転、正気を取り戻した。
虎臥の案は、力ずくで取り返そうとする者たちに、直ちに受け入れられた。
――そらぁいい考えだっ!
――それでいこうぜぇ!
と、賛同する者たちの威勢のいい声が飛び交った。
「よっしゃあ! 決まりだなっ! 俺んとこに最近手に入れた太刀が一振りあんだ。ついに活躍の時が来たってもんだっ!」
弥太郎が立ち上がって皆を振り返り、太刀を抜いた仕草をして、その握った拳を高々と天に突き上げると、瞬く間に歓声に包まれた。
――ならんっ!
歓声に沸いていた屋内は、刀祢の一喝で時が止まったように静まり返った。
「何が気に食わねぇってんですか。いい策じゃあねぇですか。ちっと脅かしてやりゃあ、奴らも舟を出していられなくなる。その間に須那浦に舟を出しゃあいいんだ」
刀祢の一喝に怯んだ弥太郎が、柄にもなく媚びた調子で刀祢を説得しようとした。しかし刀祢は、
「策そのものは由としよう。ただし、刀を持ち出すことはならぬ」
と、虎臥の案自体は否定しなかったが、
「別に刀で切りかかろうってわけじゃねぇんだ。ただの脅しだ」
「弥太郎も他の者も、刀の心得など無かろう。間違いがあっては困る」
と、武器の使用を許そうとはしなかった。
しかしその物言いが、弥太郎の癇に障ったのだろう。
「聞き捨てならねぇな。なんだっ! 間違いってのはっ! だいたい刀祢が手ぇこまねいてっから、奴らがつけあがってんだろうがっ! 間違いってんなら刀祢の采配の方じゃねぇんですかぁ?」
と、刀祢の一喝で一度は怯んだ弥太郎だったが、これまでのやり方の手ぬるさを指摘して食ってかかった。
弥太郎には刀祢と鶴姫のやり方が、単に敵を恐れて弱腰になっていると見えているのだろうし、おそらくそう感じているのは他の浦人も同じなのだろう。弥太郎が刀祢に啖呵を切ると、よくぞ言ってくれたと言わんばかりに、堰を切ったように皆の不満が一気に噴出し始め、座は紛糾した。
向けられた非難の声を刀祢は身動ぎひとつせず受け止めている。
毅然とした態度はさすがに刀祢職を負うだけの大器であるが、こうなってしまっては止めることはできないだろうと牛太は思った。
声が声をかき消し、誰が何を叫んでいるのかも分からない。
嵐の只中にいるようで、身を固くして、ただただ嵐が過ぎ去るのを待つしかない心境だった。
「……まれ。……しず……」
――静まれーーーーーっ!!!
嵐のような怒号が野太い男たちの声ばかりだからだろうか。鶴姫の放ったおなごの声は、嵐の中にあっても皆の耳にはっきりと届いた。
鶴の一声が嵐を退けると、屋内はまた、嵐の前の静けさが戻った。
「なにもそんなでっけぇ声出さなくてもよぉ、姫様」
おずおずと弥太郎が鶴姫に声をかけると、鶴姫はまたもとの静かな声で語り出した。
「我らの采配に落度がなかったとは申さぬ。しかし我らにも考えがあってのことだ」
しかしそうして語られた言葉はこれまでの繰り返しでしかなく、ここに集まっている者たちが納得する言葉ではないように思えた。
「どのような考えあってか、この場で話してみてはどうじゃろうか?」
虎臥から出された提案に、鶴姫は「よいでしょう」と応じ、弥太郎も「そいつぁいい」と受け入れた。
対立する両者が面目を失わずに矛を収めることができたのは、この提案が、両者に一目置かれる虎臥の口から出たからだろう。
下手な言葉で仲裁しようとすれば火に油を注ぐことになりかねないが、上手くとりなさなければ、もとより劣勢の多烏には後がなくなってしまう。内輪揉めをしている場合ではない。
「なんも俺らだってただ文句を言いてぇわけじゃねぇんだ。俺らはあんまり頭が良くねぇから、刀祢や姫様の考えってのが分かってねぇ。網場を奪われても黙ってろ、仕返しはならんと言われちゃあ、俺らはどうして暮らしていったらいい?」
さっそく弥太郎が問う。
心なしか声が和らげなのは、おそらく本人としては丁寧な言葉で話しているつもりなのだろう。
「刀祢、我が語ってもよいでしょうか?」
鶴姫が父でもある刀祢に問うと、刀祢は黙って頷いた。
多烏浦を預かる刀祢職に代わって語るのだという宣言だろう。
「皆に考えを伝えきれないまま時が過ぎてしまった。世の移ろいが早く、それに対応するだけで精一杯になっていた。すまなかった」
そう言うと、両の拳を床について、鶴姫が頭を下げた。
屋内には、言葉にならない声で、僅かにどよめきが広がった。
それには構わず、顔を上げた鶴姫は話を続ける。
「勝手に我らの網場に網を立てられたうえ、仕返しを許さぬとあっては、皆の心中、穏やかでないのも無理はない。ただそれは我も同じだ」
「そんなら、打って出るしかねぇじゃねぇか」
鶴姫の言葉に、弥太郎はすぐにそう返したが、
「それでは相手の思うつぼだ」
と、鶴姫はそれを否定した。
「思うつぼだから黙って見過ごせってのか?」
弥太郎はまたすぐに訊き返したが、この問答では意味がないと思ったのか、鶴姫は「順を追って話そう」と切り出した。
「ここにいるものは皆、永仁四年の和与の中身について覚えていますね?」
「あったりめぇだ。古くから支配してきた山と海の根本知行はそれぞれの浦に認めると決着してる。須那浦は古くから俺らが網を曳いてきた網場だ。根本知行は多烏にあって、汲部が割って入る余地はねぇ」
鶴姫の問いに弥太郎が答えると、ほかの者たちもそれに相槌を打った。浦人なら知っていて当然のことなのだろう。
「弥太郎の申す通りだ。それは汲部側も理解していたことで、だからこそ、ここ数年の間は汲部も今回のような暴挙に打って出ることはなかった」
自分の意見が肯定されたことに拍子抜けしたのか、弥太郎の声が調子を外して「おっ? おう」と、鶴姫の言葉を聞いた。
「汲部浦刀祢からの書状により、汲部を裏で操っているのは鳥羽荘下司、鳥羽国親であることが確かになった。汲部とて我らとの争いを望んでいるわけではない。それでも、鳥羽氏の愚策に乗じなければならない事情があってのことだろうと我は考えている」
事情を知らない者たちが「そうなのか?」とか、「書状があったのか?」などと周りの者と訊きあっている。西津で会ったとき、その場にいたケン次郎も知らなかったのだから、きっとほとんどの浦人はこの事実を知らないだろう。
「望んでねぇと言っても、現に須那浦に網を立てたのは汲部じゃねぇですか。これをこのまんまにしておくわけにはいかねぇじゃねぇですか」
鶴姫は政で考え、話を進めるが、弥太郎たちにとっては目下の生活の糧の保証がもっとも重要なのだ。この溝を埋めるのは容易ではない。
「このまま見過ごすことはせぬ。ただ、敵は汲部ではないと言いたいのだ。多烏と汲部が争うのは同士討ちに等しい。それこそ裏で糸を引く鳥羽の思う壺です」
「そんならどうやって網場を取り戻すんでぇ?」
「話し合いで取り戻す」
「カァーッ、そんなもん無理に決まってんじゃねぇか。それができねぇから、今こんなんなってんだろうがっ!」
ここまで声を荒げることのない穏やかな問答が続いていたが、この答えには、弥太郎が額を打って天を仰いだ。
「それは違う」
「どう違うんでぇ?」
否定する鶴姫に対し、弥太郎は心底理解できないといった風に問い返す。
「汲部とは書状による向こうからの一方的な主張のみで、まだ一度も双方揃っての話し合いの場は持たれていない」
「そんじゃあそれが奴らの答えじゃねぇか。交渉決裂。話し合う余地はねぇってことだ」
「汲部との間で此度のような争いが度々起きるのは何故か。それは偏に、我らが付け入る隙を与えてしまっているからにほかならない。裏を返せば、多烏と汲部が一枚岩であれば起きずに済んだとも言えよう。両浦ともに年を追うごとに賑わいを見せている。されど浦同士の争いに割いてやれるほど人が余っているわけではない。互いに協力し合い、共に発展していくことを考えねば、共倒れになることだろう」
浦が発展し栄えたことが争いの原因とは、なんともやりきれない。
「そんなら、どう話をつけるおつもりで?」
「網場については永仁の和与に従うよう求める。さらに、汲部に我らの考えを伝え、説き伏せます」
「そんなもん無理に決まってんじゃねぇか」
無理と思うのも仕方がない。皆の心が同調しひとつにならないのは、皆それが簡単でないことを理解しているからだろう。しかしどう実現するかは別にして、共栄の道以外は共倒れになる。これは自明の理であるようにも思われた。
「皆も知っての通り、今は年貢の半分ほどは銭で納めている。これをすべて銭で納めるようにしたい」
と、鶴姫の話題は突然、年貢の代銭納の話にかわった。
代銭納とは、公事や年貢、地子などの納入を現物に代わって貨幣で納める制度のことで、宋銭が市場にひろく流通するようになった鎌倉時代後期には、定着していた。
「それでどうなるってんだ?」
「さらに鎌倉夫、京上夫などの公事についても、そのすべてを代銭納とすることを提案したい」
俄かに驚きの声が上がった。
なにかと銭の方が便利な世の中になった。年貢は銭で納めよという領家地頭もあるようだが、労役も含めたすべてを代銭とする話は聞いたことがない。
「まあそうなればそれはありがてぇが、それが汲部の話とどう繋がるで?」
労役についても銭を納めることに代えられるとなれば、わざわざ京や鎌倉へ行かずともよくなる。そうなれば皆の負担は減ることになるのだから、それはそれで歓迎ということだろう。弥太郎の返す言葉の調子にもそれはよく現れていたが、それが今起こっている問題とどう関係するのか、弥太郎とおなじく、牛太にも分からなかった。
「此度の暴挙も、汲部が浦の発展と維持のために事を起こしたと考えれば、解決のための策もみえてきます。浦同士で奪い合うことを止め、互いに協力し合う方が浦の発展に利が大きいと分かれば汲部も考えを改める。此度のことも、過去のことも、利の奪い合いが争いの根本だからです」
争いの火種を消しさってしまわなければ、風が吹くたびに、すぐにまた火は大きく燃え上がってしまう。利を奪い合うしか存続と発展を望めないとなれば、隣り合う二つの浦の火種が消えることはない。
「協力つったってどうすりゃいい? ちっと前までは永仁の和与に倣って、網を立てる位置は寄合で決めてたじゃねぇか。曳き網だって一緒になって曳いた。それを反故にしたのは奴らの方じゃねぇか」
と、弥太郎は訴えるが、鶴姫はそこにさきの話を繋げたいらしく、
「漁撈のことも塩木山のことも、これまで通り永仁の和与に倣う。しかしそれだけでは限られた海と山。遅かれ早かれまた奪い合うことになるでしょう。そこで提案したいのが廻船による商いの振興です」
と言って、商業による浦の発展を謳った。
「両浦が持つ海と山には限りがある。それはつまり、そこに必要となる人手も限定されるということです。協力することで廻船にまわせる人手を増やす。さらに労役を銭に代えれば、また人手が空く。人手があればさらに廻船を増やすことができる。廻船の数が増えれば利も増える。銭を稼ぐことで浦は発展していく。これが我の考える最良の解決策です」
牛太は最初に多烏を訪れたときのことを思い出した。また西津で再会したときの鶴姫の言葉も思い出した。多烏浦は商いを求めていた。その真意を知って、単に銭を稼ぐということではない、銭の価値とは別の、商いの価値に身震いした。
多烏汲部のふたつの浦を多汲一浦として考える壮大な思想は衝撃的だったが、結果的に鶴姫の語ったこの解決策に異論はでず、多烏浦全体の方針は、ここに固まった。
労役の代銭納のように、自分たちの損得が分かり易いというのが効いたのかもしれないし、単にあまりに話が突飛すぎて、異論も湧かなかっただけかもしれない。また、単にということであれば、そもそも争いを望んではいなということもあるだろう。隣り合う浦同士の争いは、庭先で争うことになる。その庭先にひろがる海には、浦に恵みをもたらすすべてがある。そこを戦場にしたいと考える浦人はひとりもいないということだろう。
※※※
「おぉー、本当によく見えるなぁ」
虎臥の案内で立った見張り台の上から見える景色は見事なものだった。
両浦が一望できる。この穏やかで美しい景色が、今まさに渦中の中心であるとは思えなかった。
「どうじゃ、岬ひとつ隔てておるだけで、まるでひとつの浦のようじゃろ?」
と、何故か虎臥が得意げに語ってみせる。
「ここがひとつの浦になれば、西津や小浜にも劣らない大きな浦になるだろうな」
間違いなくそうなるだろうと思った。
間に僅かなでっぱりひとつあるだけで、ここがひとつの浦でないことの方が、牛太には不思議に思えた。
「そうなれば、商いももっと大きくなるじゃろうの」
「そんときゃあ、俺の出番ってわけだ」
「新之助の出番なんぞあるかのう? 京で宜しくやっておるのじゃろう?」
「上手い商いをするためには京で顔が利かねぇとな。俺は多烏と鶴姫様に縁を感じてんだ。ここに俺の出番が無くてどうするよ」
相変わらず舌戦を始める虎臥と新之助だが、言葉に棘が無い。鶴姫の思いを共有する者どうし、ひとまず休戦といったところだろうか。
「ならばその前に、良い結果を持ち帰らねばならぬの。残念ながらそれはわらわの得意とするところではない。不本意ながら任せるより他ないの」
この争いを鎮めたあと、両浦が豊かになって漸く、本当に平穏な海が戻ってくる。商いはもちろん上手くやるが、そのためにまずやらねばならないことがある。
西津荘給主へ目通り、事の次第を伝え、争いの仲裁と永仁四年の和与に従うよう下知状を賜ることだ。
「トラも無茶はしてくれるな。時を稼いでくれればあとは我らが何とかする」
虎臥が気負いしすぎて暴走せぬようにと思って言ってはみたものの、牛太にもこれといって策があるわけではなかった。明確になっているのは給主から下知を賜ることだけ。そこから逆算して答えをみちびくために、これからあたまを悩ませることになる。
「心配せずともなにもせぬ。どうもウシは、目を離すとわらわが無謀な行動に出ると考えておる節があるの」
と、両手を腰にあてて虎臥が言う。
虎臥にこうして仁王立ちで正面に立たれると、門前の邪鬼のように、縮み上がってしまう。
「そ、そういうわけではないが……」
(余計な一言だったな)
牛太が返事に窮していると、
「ウシは本物の虎を見たことはあるかの?」
と、虎臥はいつもの調子で突拍子もないことを問うてきた。
「本物? あるわけ無かろう。日本に生きた虎はおらぬからな」
絵図で姿形は知っている。唐にいるらしいということも知っていたが、そんなことより、なんの話が始まったのかと牛太は思った。そんな牛太をよそに、虎臥は話を続ける。
「わらわも見たことはないがの。体が大きく、力も強い虎じゃが、獲物を狩る時の虎は、力任せに獲物めがけて突進していくようなことはせぬそうじゃ。獲物に気付かれぬよう息を潜め、茂みに身を臥せ、機が来るのをジッと待つ。わらわも同じじゃ。狩りは攻めではなく守り。忍耐じゃ。むやみに襲いかかったりはせぬ」
己の名にかけて、むやみに攻撃を仕掛けたりせず、辛抱強く待っていると言いたいのだろうか? それとも何か、ほかの謎掛けだろうかと、牛太は勘繰ってみようと思ったがやめた。
「虎の狩りの仕方のことはよく知らんが、トラの性分は理解しているつもりだ。トラが、せぬと申すのであれば、せぬのであろう。寝て待てとは申さぬが、あとのことは我らに任せてくれ」
いつ汲部が攻めてくるか分からない状況に、いつまでも虎臥を置いておくわけにはいかない。話し合いでの解決は鶴姫の思いであり、多烏浦刀祢がまとめた浦の総意だ。無策だろうがなんだろうが、なんとしても下知を持ち帰らなければならない。
「果報は寝て待てと申すからの。悠長に構えておれる状況ではないが、気だけ急いでもどうにもならぬ。臥せた虎は臨戦態勢じゃ。寝ているわけではない」
臥せた虎は臨戦態勢か。なるほど、名は体を表すだ。
「虎は果報を臥せて待つ。だな」
「虎は果報を臥せて待つ。フフッ、面白いの」
寝首を掻かれても困る。踏み入った者に噛みつくというなら仕方が無いだろう。虎穴に入る方が悪いのだ。
さらに浦の主だった者たちも集まってきた。新之助がもたらした報せは、たしかに鶴姫が必要としていた報せであったし、多烏の浦人たちにとっても、良い報せではなかったが、災いを除くための大事な報せだった。
「よくしらせてくれた。感謝致す」
多烏浦を代表して、刀祢の新大夫が感謝の言葉とともにあたまを下げた。
「そんでその総攻撃ってのはいつなんでぇ?」
ここにいる全員が気になっていることを、ケン次郎の兄貴分の弥太郎大夫が問う。たんに地声が大きいだけだろうが、集まった皆の耳にとどく声で訊いてきた。
この弥太郎大夫という男、漁撈によるものだろうが、顔は日に焼けて黒く、その中にギョロリとした目が白く光る悪相だが、ケン次郎の兄貴分というだけでなく、浦人の多くがその存在を認めているようだった。
「明確な日時までは分かりませんが、すでに汲部に伝えおよんでいることは間違いありません」
あるいは今、ここでこうしている間に決行されないという保証はない。
「おうおう、そんじゃあ今すぐんでも戦支度じゃねぇか」
と弥太郎が応じると、少なからず呼応する声が周囲からあがった。
「そう急ぐな」
と、それを冷静に窘める鶴姫。
皆の前だからということもあるだろうが、西津で会ったときの動揺は、今の鶴姫にはみられない。
「正面から総攻撃を仕掛けるというのは、やはり海側から舟で向かってくると解釈するべきでしょうか?」
と、牛太が鶴姫に問うと、よこから虎臥が口をはさみ、
「ならば見張り台から丸見えじゃ。奴らが海に漕ぎ出せば即座にわかる」
と、万全の備えであることを皆に知らしめた。
刀祢と並び、鶴姫の隣に腰を下ろしている虎臥。弥太郎のように大声で話すわけではないが、集まっている者たちは虎臥の言葉には耳を傾け、そして納得する。弥太郎大夫を助けた功から、もはや名誉浦人だった。
「海からの総攻撃の意図は何でしょう? 汲部に利がある何かがあるのでしょうか?」
牛太の気がかりはそこだった。新之助が言っていたとおり、汲部と鳥羽の関係が一枚岩ではなく、互いに己の損得で敵味方にわかれる関係であるということは、大いにあり得る。しかし、いや、であるなら猶更、鳥羽からの指示で正面突破せよと言われた汲部が、あきらかに被害の大きくなる策に応じるとは思えない。
牛太の問いに、鶴姫と刀祢はしばし思案してみたが、これと思うものには至らなかったようで、
「特には……」
と、鶴姫が言葉を詰まらせて答えるのみだった。
「我ら浦人はそなたらのように弓の扱いに長けた者はおりません。刀を持つ者はありますが、所詮、我らにとってはただの交易品。戦の道具として心得のある者はおりません」
鶴姫の言葉に虎臥が、
「それではどのようにして戦うのじゃ?」
と問うが、
「投石と長竿での打ち合い。つまるところ、いまの陸での小競り合いが海に移るだけで、戦い方が変わることはないでしょう」
と返した鶴姫の言葉に、集まった者たちの中からため息がもれた。
双方に手負いの者は増えるだけで、それによって決着するわけでもない。怪我人が増える以外なにも変わらないとなれば、意気消沈も仕方がないことだろう。
「事の発端はたしか、網を断ち切ったことじゃろう?」
会話が途絶え、静まり返った屋内。
誰に問うたのかは分からないが、虎臥の問いに反応したのは弥太郎だった。
「ありゃあ奴らがウチの網口の前に網を立てたのが悪ぃんだっ! 大体、須那浦は多烏の網場だっ! 奴らが網を立てたいい理由なんてひとっつもねぇ!」
他の者たちも異口同音に呼応する。多烏の者たちにとってこの話題は禁忌であるようだ。
「ならばそれが発端じゃ。何故、多烏の網場に勝手に網を立てた? まさか知らなかったわけではあるまい。そんなことをすれば喧嘩になることくらいわかるじゃろうに」
まったく怯む素振りもなく、虎臥はさらにその話題を掘り下げていく。
発端から探っていこうというつもりだろうか。
「須那浦は良い網場ですから」
と、これには鶴姫が冷静に返した。
その時、以前聞いた須那浦の場所の話が、牛太の頭をよぎった。
「もしや……」
小さく呟いただけだったが、答えを求めていた者たちの視線が一斉に牛太に向かい、牛太は動揺した。虎臥とは違い、これだけの眼に一斉に晒されることなど滅多にない。怯むのが正常な反応だろう。
「あ、いや、初めてここを訪れたとき、須那浦が何処にあるのか分からず訊ねたことを思い出しました。須那浦は汲部浦よりも更に北に位置します。つまり多烏の者が須那の網場へ行くには、必ず汲部の前を通らなければなりません。たとえば向こうの狙いが、海から多烏を攻めるのではなく、多烏の舟が北上して須那へ向かうことを妨害することにあるとすればどうでしょう? それによって汲部は、須那の網場を独占しようと目論んでいるのではないでしょうか?」
――海上封鎖。
閃いた時はここまで詳細ではなかった考えも、口に出して一つひとつ整理してみると、筋書きとしてはかなり現実味があると、牛太は思った。汲部の利で考えれば、総攻撃は得策ではないはずだ。鳥羽氏を利用して須那浦の網場を独占できればそれだけでいい。そう考えると、理にかなった策である気がしてきて、そうに違いないと思うに至った。
「ナメた真似しやがってっ!」
これには皆いきり立った。平静を保っている鶴姫だったが、眉根には皺を寄せている。刀祢は腕組みをして目をつぶった。
「たしかに足止めのために浦の口を塞ぐというのであれば、数に勝る汲部に分があるでしょう。ただそうなれば、もはや須那浦の網場の占有だけの話ではなくなります。浦にとって海は口と同じ。ここを塞がれては飲み食いはおろか、息をすることさえできなくなります」
いまの鶴姫の言葉が、ここにいる者たち全員の怒りの核心だろう。
浦人にとって海は生活のすべてなのだ。
「どう対処すべきか……」
と、ついに鶴姫も、ため息交じりに天を仰いだ。
しかし、こういう停滞した空気に一矢を放つのは決まって虎臥だった。
「向こうの思惑に乗らねばよいのじゃ」
自由奔放に語りだす虎臥をとめるられるのは自分しかいないと感じている牛太は、ほかに先んじて、これに問い返した。
「どういうことだ?」
牛太の問いに虎臥は、海に集中させないようにすればよいと言った。
「岬の向こうはもう汲部じゃろ? 少数で陸から奇襲を仕掛ければ、戦力を分散させることができるのではないじゃろうか?」
なるほど。数で勝る汲部の、その優位な部分を崩そうというわけか。
汲部にしてみれば、正面きって戦うつもりがなかったところを、陸から直接、村を攻められたとなれば応戦しないわけにはいかない。とうぜん網場よりも村を守ることの方が大事だ。そうなれば海に出ている者たちを陸へあげなければならなくなる。封鎖の網目が大きくなるのは必然。そこを多烏の者が抜けて須那へ向かう。
むこうの目的が、多烏浦人を須那の網場へ向かわせないことなら、こっちはそれを突破して網場へ着くことができれば、むこうの目論みは外れたことになる。策が通用しないとわかれば、少なくとも海上封鎖は諦めることになるだろう。
この奇策に、沈んでいた空気が一転、正気を取り戻した。
虎臥の案は、力ずくで取り返そうとする者たちに、直ちに受け入れられた。
――そらぁいい考えだっ!
――それでいこうぜぇ!
と、賛同する者たちの威勢のいい声が飛び交った。
「よっしゃあ! 決まりだなっ! 俺んとこに最近手に入れた太刀が一振りあんだ。ついに活躍の時が来たってもんだっ!」
弥太郎が立ち上がって皆を振り返り、太刀を抜いた仕草をして、その握った拳を高々と天に突き上げると、瞬く間に歓声に包まれた。
――ならんっ!
歓声に沸いていた屋内は、刀祢の一喝で時が止まったように静まり返った。
「何が気に食わねぇってんですか。いい策じゃあねぇですか。ちっと脅かしてやりゃあ、奴らも舟を出していられなくなる。その間に須那浦に舟を出しゃあいいんだ」
刀祢の一喝に怯んだ弥太郎が、柄にもなく媚びた調子で刀祢を説得しようとした。しかし刀祢は、
「策そのものは由としよう。ただし、刀を持ち出すことはならぬ」
と、虎臥の案自体は否定しなかったが、
「別に刀で切りかかろうってわけじゃねぇんだ。ただの脅しだ」
「弥太郎も他の者も、刀の心得など無かろう。間違いがあっては困る」
と、武器の使用を許そうとはしなかった。
しかしその物言いが、弥太郎の癇に障ったのだろう。
「聞き捨てならねぇな。なんだっ! 間違いってのはっ! だいたい刀祢が手ぇこまねいてっから、奴らがつけあがってんだろうがっ! 間違いってんなら刀祢の采配の方じゃねぇんですかぁ?」
と、刀祢の一喝で一度は怯んだ弥太郎だったが、これまでのやり方の手ぬるさを指摘して食ってかかった。
弥太郎には刀祢と鶴姫のやり方が、単に敵を恐れて弱腰になっていると見えているのだろうし、おそらくそう感じているのは他の浦人も同じなのだろう。弥太郎が刀祢に啖呵を切ると、よくぞ言ってくれたと言わんばかりに、堰を切ったように皆の不満が一気に噴出し始め、座は紛糾した。
向けられた非難の声を刀祢は身動ぎひとつせず受け止めている。
毅然とした態度はさすがに刀祢職を負うだけの大器であるが、こうなってしまっては止めることはできないだろうと牛太は思った。
声が声をかき消し、誰が何を叫んでいるのかも分からない。
嵐の只中にいるようで、身を固くして、ただただ嵐が過ぎ去るのを待つしかない心境だった。
「……まれ。……しず……」
――静まれーーーーーっ!!!
嵐のような怒号が野太い男たちの声ばかりだからだろうか。鶴姫の放ったおなごの声は、嵐の中にあっても皆の耳にはっきりと届いた。
鶴の一声が嵐を退けると、屋内はまた、嵐の前の静けさが戻った。
「なにもそんなでっけぇ声出さなくてもよぉ、姫様」
おずおずと弥太郎が鶴姫に声をかけると、鶴姫はまたもとの静かな声で語り出した。
「我らの采配に落度がなかったとは申さぬ。しかし我らにも考えがあってのことだ」
しかしそうして語られた言葉はこれまでの繰り返しでしかなく、ここに集まっている者たちが納得する言葉ではないように思えた。
「どのような考えあってか、この場で話してみてはどうじゃろうか?」
虎臥から出された提案に、鶴姫は「よいでしょう」と応じ、弥太郎も「そいつぁいい」と受け入れた。
対立する両者が面目を失わずに矛を収めることができたのは、この提案が、両者に一目置かれる虎臥の口から出たからだろう。
下手な言葉で仲裁しようとすれば火に油を注ぐことになりかねないが、上手くとりなさなければ、もとより劣勢の多烏には後がなくなってしまう。内輪揉めをしている場合ではない。
「なんも俺らだってただ文句を言いてぇわけじゃねぇんだ。俺らはあんまり頭が良くねぇから、刀祢や姫様の考えってのが分かってねぇ。網場を奪われても黙ってろ、仕返しはならんと言われちゃあ、俺らはどうして暮らしていったらいい?」
さっそく弥太郎が問う。
心なしか声が和らげなのは、おそらく本人としては丁寧な言葉で話しているつもりなのだろう。
「刀祢、我が語ってもよいでしょうか?」
鶴姫が父でもある刀祢に問うと、刀祢は黙って頷いた。
多烏浦を預かる刀祢職に代わって語るのだという宣言だろう。
「皆に考えを伝えきれないまま時が過ぎてしまった。世の移ろいが早く、それに対応するだけで精一杯になっていた。すまなかった」
そう言うと、両の拳を床について、鶴姫が頭を下げた。
屋内には、言葉にならない声で、僅かにどよめきが広がった。
それには構わず、顔を上げた鶴姫は話を続ける。
「勝手に我らの網場に網を立てられたうえ、仕返しを許さぬとあっては、皆の心中、穏やかでないのも無理はない。ただそれは我も同じだ」
「そんなら、打って出るしかねぇじゃねぇか」
鶴姫の言葉に、弥太郎はすぐにそう返したが、
「それでは相手の思うつぼだ」
と、鶴姫はそれを否定した。
「思うつぼだから黙って見過ごせってのか?」
弥太郎はまたすぐに訊き返したが、この問答では意味がないと思ったのか、鶴姫は「順を追って話そう」と切り出した。
「ここにいるものは皆、永仁四年の和与の中身について覚えていますね?」
「あったりめぇだ。古くから支配してきた山と海の根本知行はそれぞれの浦に認めると決着してる。須那浦は古くから俺らが網を曳いてきた網場だ。根本知行は多烏にあって、汲部が割って入る余地はねぇ」
鶴姫の問いに弥太郎が答えると、ほかの者たちもそれに相槌を打った。浦人なら知っていて当然のことなのだろう。
「弥太郎の申す通りだ。それは汲部側も理解していたことで、だからこそ、ここ数年の間は汲部も今回のような暴挙に打って出ることはなかった」
自分の意見が肯定されたことに拍子抜けしたのか、弥太郎の声が調子を外して「おっ? おう」と、鶴姫の言葉を聞いた。
「汲部浦刀祢からの書状により、汲部を裏で操っているのは鳥羽荘下司、鳥羽国親であることが確かになった。汲部とて我らとの争いを望んでいるわけではない。それでも、鳥羽氏の愚策に乗じなければならない事情があってのことだろうと我は考えている」
事情を知らない者たちが「そうなのか?」とか、「書状があったのか?」などと周りの者と訊きあっている。西津で会ったとき、その場にいたケン次郎も知らなかったのだから、きっとほとんどの浦人はこの事実を知らないだろう。
「望んでねぇと言っても、現に須那浦に網を立てたのは汲部じゃねぇですか。これをこのまんまにしておくわけにはいかねぇじゃねぇですか」
鶴姫は政で考え、話を進めるが、弥太郎たちにとっては目下の生活の糧の保証がもっとも重要なのだ。この溝を埋めるのは容易ではない。
「このまま見過ごすことはせぬ。ただ、敵は汲部ではないと言いたいのだ。多烏と汲部が争うのは同士討ちに等しい。それこそ裏で糸を引く鳥羽の思う壺です」
「そんならどうやって網場を取り戻すんでぇ?」
「話し合いで取り戻す」
「カァーッ、そんなもん無理に決まってんじゃねぇか。それができねぇから、今こんなんなってんだろうがっ!」
ここまで声を荒げることのない穏やかな問答が続いていたが、この答えには、弥太郎が額を打って天を仰いだ。
「それは違う」
「どう違うんでぇ?」
否定する鶴姫に対し、弥太郎は心底理解できないといった風に問い返す。
「汲部とは書状による向こうからの一方的な主張のみで、まだ一度も双方揃っての話し合いの場は持たれていない」
「そんじゃあそれが奴らの答えじゃねぇか。交渉決裂。話し合う余地はねぇってことだ」
「汲部との間で此度のような争いが度々起きるのは何故か。それは偏に、我らが付け入る隙を与えてしまっているからにほかならない。裏を返せば、多烏と汲部が一枚岩であれば起きずに済んだとも言えよう。両浦ともに年を追うごとに賑わいを見せている。されど浦同士の争いに割いてやれるほど人が余っているわけではない。互いに協力し合い、共に発展していくことを考えねば、共倒れになることだろう」
浦が発展し栄えたことが争いの原因とは、なんともやりきれない。
「そんなら、どう話をつけるおつもりで?」
「網場については永仁の和与に従うよう求める。さらに、汲部に我らの考えを伝え、説き伏せます」
「そんなもん無理に決まってんじゃねぇか」
無理と思うのも仕方がない。皆の心が同調しひとつにならないのは、皆それが簡単でないことを理解しているからだろう。しかしどう実現するかは別にして、共栄の道以外は共倒れになる。これは自明の理であるようにも思われた。
「皆も知っての通り、今は年貢の半分ほどは銭で納めている。これをすべて銭で納めるようにしたい」
と、鶴姫の話題は突然、年貢の代銭納の話にかわった。
代銭納とは、公事や年貢、地子などの納入を現物に代わって貨幣で納める制度のことで、宋銭が市場にひろく流通するようになった鎌倉時代後期には、定着していた。
「それでどうなるってんだ?」
「さらに鎌倉夫、京上夫などの公事についても、そのすべてを代銭納とすることを提案したい」
俄かに驚きの声が上がった。
なにかと銭の方が便利な世の中になった。年貢は銭で納めよという領家地頭もあるようだが、労役も含めたすべてを代銭とする話は聞いたことがない。
「まあそうなればそれはありがてぇが、それが汲部の話とどう繋がるで?」
労役についても銭を納めることに代えられるとなれば、わざわざ京や鎌倉へ行かずともよくなる。そうなれば皆の負担は減ることになるのだから、それはそれで歓迎ということだろう。弥太郎の返す言葉の調子にもそれはよく現れていたが、それが今起こっている問題とどう関係するのか、弥太郎とおなじく、牛太にも分からなかった。
「此度の暴挙も、汲部が浦の発展と維持のために事を起こしたと考えれば、解決のための策もみえてきます。浦同士で奪い合うことを止め、互いに協力し合う方が浦の発展に利が大きいと分かれば汲部も考えを改める。此度のことも、過去のことも、利の奪い合いが争いの根本だからです」
争いの火種を消しさってしまわなければ、風が吹くたびに、すぐにまた火は大きく燃え上がってしまう。利を奪い合うしか存続と発展を望めないとなれば、隣り合う二つの浦の火種が消えることはない。
「協力つったってどうすりゃいい? ちっと前までは永仁の和与に倣って、網を立てる位置は寄合で決めてたじゃねぇか。曳き網だって一緒になって曳いた。それを反故にしたのは奴らの方じゃねぇか」
と、弥太郎は訴えるが、鶴姫はそこにさきの話を繋げたいらしく、
「漁撈のことも塩木山のことも、これまで通り永仁の和与に倣う。しかしそれだけでは限られた海と山。遅かれ早かれまた奪い合うことになるでしょう。そこで提案したいのが廻船による商いの振興です」
と言って、商業による浦の発展を謳った。
「両浦が持つ海と山には限りがある。それはつまり、そこに必要となる人手も限定されるということです。協力することで廻船にまわせる人手を増やす。さらに労役を銭に代えれば、また人手が空く。人手があればさらに廻船を増やすことができる。廻船の数が増えれば利も増える。銭を稼ぐことで浦は発展していく。これが我の考える最良の解決策です」
牛太は最初に多烏を訪れたときのことを思い出した。また西津で再会したときの鶴姫の言葉も思い出した。多烏浦は商いを求めていた。その真意を知って、単に銭を稼ぐということではない、銭の価値とは別の、商いの価値に身震いした。
多烏汲部のふたつの浦を多汲一浦として考える壮大な思想は衝撃的だったが、結果的に鶴姫の語ったこの解決策に異論はでず、多烏浦全体の方針は、ここに固まった。
労役の代銭納のように、自分たちの損得が分かり易いというのが効いたのかもしれないし、単にあまりに話が突飛すぎて、異論も湧かなかっただけかもしれない。また、単にということであれば、そもそも争いを望んではいなということもあるだろう。隣り合う浦同士の争いは、庭先で争うことになる。その庭先にひろがる海には、浦に恵みをもたらすすべてがある。そこを戦場にしたいと考える浦人はひとりもいないということだろう。
※※※
「おぉー、本当によく見えるなぁ」
虎臥の案内で立った見張り台の上から見える景色は見事なものだった。
両浦が一望できる。この穏やかで美しい景色が、今まさに渦中の中心であるとは思えなかった。
「どうじゃ、岬ひとつ隔てておるだけで、まるでひとつの浦のようじゃろ?」
と、何故か虎臥が得意げに語ってみせる。
「ここがひとつの浦になれば、西津や小浜にも劣らない大きな浦になるだろうな」
間違いなくそうなるだろうと思った。
間に僅かなでっぱりひとつあるだけで、ここがひとつの浦でないことの方が、牛太には不思議に思えた。
「そうなれば、商いももっと大きくなるじゃろうの」
「そんときゃあ、俺の出番ってわけだ」
「新之助の出番なんぞあるかのう? 京で宜しくやっておるのじゃろう?」
「上手い商いをするためには京で顔が利かねぇとな。俺は多烏と鶴姫様に縁を感じてんだ。ここに俺の出番が無くてどうするよ」
相変わらず舌戦を始める虎臥と新之助だが、言葉に棘が無い。鶴姫の思いを共有する者どうし、ひとまず休戦といったところだろうか。
「ならばその前に、良い結果を持ち帰らねばならぬの。残念ながらそれはわらわの得意とするところではない。不本意ながら任せるより他ないの」
この争いを鎮めたあと、両浦が豊かになって漸く、本当に平穏な海が戻ってくる。商いはもちろん上手くやるが、そのためにまずやらねばならないことがある。
西津荘給主へ目通り、事の次第を伝え、争いの仲裁と永仁四年の和与に従うよう下知状を賜ることだ。
「トラも無茶はしてくれるな。時を稼いでくれればあとは我らが何とかする」
虎臥が気負いしすぎて暴走せぬようにと思って言ってはみたものの、牛太にもこれといって策があるわけではなかった。明確になっているのは給主から下知を賜ることだけ。そこから逆算して答えをみちびくために、これからあたまを悩ませることになる。
「心配せずともなにもせぬ。どうもウシは、目を離すとわらわが無謀な行動に出ると考えておる節があるの」
と、両手を腰にあてて虎臥が言う。
虎臥にこうして仁王立ちで正面に立たれると、門前の邪鬼のように、縮み上がってしまう。
「そ、そういうわけではないが……」
(余計な一言だったな)
牛太が返事に窮していると、
「ウシは本物の虎を見たことはあるかの?」
と、虎臥はいつもの調子で突拍子もないことを問うてきた。
「本物? あるわけ無かろう。日本に生きた虎はおらぬからな」
絵図で姿形は知っている。唐にいるらしいということも知っていたが、そんなことより、なんの話が始まったのかと牛太は思った。そんな牛太をよそに、虎臥は話を続ける。
「わらわも見たことはないがの。体が大きく、力も強い虎じゃが、獲物を狩る時の虎は、力任せに獲物めがけて突進していくようなことはせぬそうじゃ。獲物に気付かれぬよう息を潜め、茂みに身を臥せ、機が来るのをジッと待つ。わらわも同じじゃ。狩りは攻めではなく守り。忍耐じゃ。むやみに襲いかかったりはせぬ」
己の名にかけて、むやみに攻撃を仕掛けたりせず、辛抱強く待っていると言いたいのだろうか? それとも何か、ほかの謎掛けだろうかと、牛太は勘繰ってみようと思ったがやめた。
「虎の狩りの仕方のことはよく知らんが、トラの性分は理解しているつもりだ。トラが、せぬと申すのであれば、せぬのであろう。寝て待てとは申さぬが、あとのことは我らに任せてくれ」
いつ汲部が攻めてくるか分からない状況に、いつまでも虎臥を置いておくわけにはいかない。話し合いでの解決は鶴姫の思いであり、多烏浦刀祢がまとめた浦の総意だ。無策だろうがなんだろうが、なんとしても下知を持ち帰らなければならない。
「果報は寝て待てと申すからの。悠長に構えておれる状況ではないが、気だけ急いでもどうにもならぬ。臥せた虎は臨戦態勢じゃ。寝ているわけではない」
臥せた虎は臨戦態勢か。なるほど、名は体を表すだ。
「虎は果報を臥せて待つ。だな」
「虎は果報を臥せて待つ。フフッ、面白いの」
寝首を掻かれても困る。踏み入った者に噛みつくというなら仕方が無いだろう。虎穴に入る方が悪いのだ。
応援ありがとうございます!
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