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第五章 発端   高倉有隆・2019年4月8日

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「では説明は以上になります。まずこのページのバックエンドの処理を、高倉さんにお願いします」

 高倉はミーティングルームの椅子に座り、目の前の大きなモニターに映った、webデザイナーの作成したページを見つめていた。そのページはマウスの動きに合わせてキャラクターや背景が動く予定になるデザインで、福祉施設の新しいホームページだった。

「かしこまりました」高倉は今指示を出してきた女性ディレクターに返事をした。
 目の前の机に置いてある自身の業務用ノートパソコンに視線を落とした。ノートパソコンに表示している、スケジュールとタスクの記載されたエクセルシートを見た。

 女性ディレクターは席に座った状態で、ミーティングルームに座っている他の五人に向かって業務分担の話を始めた。

 高倉は基本在宅勤務だが、毎週月曜日の午前中だけ札幌大通にある本社でミーティングに参加するため、出社していた。今は新しく始まるプロジェクトの話をしているが、基本は仕事の進捗を報告し合うだけの会なので、毎週月曜日だけ出社をしなければならない事が高倉は嫌だった。なるべく自宅から出たくなかった。嫌がらせの影響だ。前職を思い出した。進捗報告も、今話している業務分担もどうせ後でメールやシートで共有するのだ。高倉は出社をする意味が分からなかった。

 高倉は、大学卒業後はセキュリティエンジニアとして勤務をしていた。その後転職し別の会社でエンジニアをし、その後はブラック企業のような会社でプログラマーとして身を削った後、今の勤務している会社にプログラマーとして転職をしていた。今の仕事はたまたま求人を見つけて飛びついた仕事だった。前職に嫌がらせの電話が始終鳴り、クビになった際は本気で将来が不安になった。高倉はセキュリティの仕事が好きだったので新卒で入社した職場が恋しかったが、今の状況では文句は言えない。仕事が見つかっただけ有難かった。

 高倉の職場は私服勤務の職場なので、高倉は今日無難に淡いブルーのワイシャツを白いTシャツの上に羽織って、黒いパンツを履いていた。このワイシャツは笠木が選んでくれた服だった。高倉は今まで暗い色の服しか持っていなかったので、春らしく明るい色のワイシャツを笠木が選んでくれたのだ。このワイシャツは今日初めて着たのだが、明るい色の服を着る事に慣れず、高倉は少し気まずかった。

 高倉は目元にかけた眼鏡を右手で上げた。シンプルなシルバーのスクエア型の眼鏡だ。この眼鏡の前に使用していた眼鏡は、被害者遺族の自宅を訪れた際に壊れてしまった。ミーティングの為に外し顎にかけたマスクの紐が眼鏡に引っ掛かっていたので、直した。マスクは外出時に必須で、この時期でも高倉は常時マスクを持ち歩いていた。

 ふと、高倉はワイシャツのポケットに入れたスマートフォンのバイブレーションが振動した事に気付いた。だが今はミーティング中だ。

「すみません」高倉は他のミーティングルームに居る人間に謝ると、鳴り響くバイブレーションを止めようとポケットからスマートフォンを取り出した。スマートフォンの画面をちらりと見る。

 “笠木創也“この文字がスマートフォンには映し出されていた。

 笠木は平日十時から工場で仕事をしている。今は出勤中のはずだ。この時間帯に連絡が入る事は滅多にない。何かあったのだろうか。高倉はまだ鳴り続けるスマートフォンに不安を覚え、スマートフォンを持ったまま女性ディレクターに話しかけた。

「すみません、少し席を外しても大丈夫でしょうか」

「急用ですか?」女性ディレクターは聞いてきた。

「はい。すぐに終わらせますので」高倉がそう言うと、女性ディレクターは頷き、そのまま業務分担の話を続けた。

 高倉は席を立ってミーティングルームから出ると、オフィスビルの廊下に出て電話に出た。

「創也?どうした?」高倉は聞いた。

「有隆君、仕事中にごめんね」笠木は申し訳なさそうに言った。「僕今病院に居るんだけどさ」

「病院?何で?」高倉は驚いた。

「僕さっき誰かに背中押されて線路に落ちたんだよ。近くに居た男の人が助けてくれたんだ。で、多分捻挫しちゃって近くの病院に連れて来てもらったんだけど、もし大丈夫だったら仕事が終わった後に車で迎えに来てくれないかなって…足が痛くて歩けなくて。タクシーだと結構距離があるから」笠木は言った。

 高倉は一瞬目の前が真っ暗になった。

「落ちた?線路に?」高倉は壁に手をつけ自身の体を支えながら言った。

「うん。生きてるから大丈夫だよ」笠木はふざけた内容を言ったが、声は震えていた。

 高倉は一瞬何も言えずに黙り込んだ。

「分かった。迎えに行くから場所チャットで送って。怪我は?捻挫だけ?」高倉は聞いた。

「うん。骨折ではないと思う。捻挫と、擦り傷くらいかな。あ、今診察に呼ばれたから行って来るね。後でチャットで場所送るね。ごめんね」笠木はそう言うと通話を切った。

 高倉は笠木が通話を切った後、スマートフォンを左手に持ったまま廊下の壁で自身を支えていた右手を握りしめた。高倉は歯ぎしりし、拳を固く握り締め、怒りに身を震わせた。また嫌がらせの延長だろうか。だがさすがにこれはやり過ぎだ。

 高倉は張りつめていた糸が切れる感覚を覚えた。

 何故自分ではなく笠木にも当たるのだろうか。自分だけではなく笠木にも嫌がらせの手紙は届くし、ネットでは高倉と付き合っている笠木の存在が分かった瞬間、同性愛者をネタに叩く記事もあった。笠木はそのせいで以前勤めていた書店の接客業を辞めて、人と関わらない工場での仕事を選んでいた。

 高倉は、自分は笠木と別れた方が良いのだろうかと思った。

 高倉は気が付いたら右手の親指の指先に痛みを感じた。右手を見る。親指の爪が割れ、血が出ていた。どうやら拳を握りしめた際に、右手の薬指にはめた指輪に親指の爪が引っ掛かり、割れたようだ。

 高倉はスマートフォンをパンツのポケットに入れると、右手を握ったままミーティングルームへ戻った。

「高倉さん、どうしたんですか、手」高倉がミーティングルームに戻り自身の席に向かうと、隣の席に座っていた同僚が高倉の右手を見て驚いて聞いてきた。右手でノートパソコンを閉じようとした際に見られた。

「怪我されたんですか?」女性ディレクターも高倉の右手を見て言った。

「なんでもないですよ。すみませんが、急用が出来たので早退させてもらってもよろしいでしょうか。知人が倒れたと連絡が入りまして」高倉は困ったような作り笑顔をして言った。

「倒れた?大丈夫なんですか」女性ディレクターは心配して聞いてきた。

「病院に行かないとどの程度の状態か分からなくて」高倉はノートパソコンを閉じ、横に置いてあった資料をクリアファイルに入れて片付けながら言った。

「では後で議事録共有します。夕方のweb会議は無理でしたら連絡ください」女性ディレクターは言った。

「分かりました。すみません、お先に失礼します」高倉はリュックにノートパソコンや資料を入れ終えると、口元をマスクで覆い、会釈してミーティングルームから出た。

 高倉はリュックを背負うと、俯きながらオフィスビルの廊下へ出た。ビルの玄関に出たところで、退勤カードを押す事を忘れていた事に気付いたが、今はそんな事はどうでもよかった。

 高倉はスマートフォンの画面を確認した。右手で触ったので、スマートフォンの画面に血が付いた。高倉は苛立った。チャットで笠木から今居る病院の名前と、病院のマップのURLが届いていた。

 高倉は一旦自宅に戻り車で迎えに行こうかと悩んだが、すぐに考え直しタクシーで帰ろうと思い、ビルの外に出て地下鉄に向かった。遠くから選挙の車の音がし、高倉は不快に思った。今日は風が強い。もう四月前半だが、雲がかかりまだ午前中なのに外は薄暗く、少し肌寒かった。





「創也」高倉は笠木が待っている札幌駅内にある病院に入ると、待合室の椅子に笠木が座っているのを見て、急いで近寄り声を掛けた。

「有隆君、ごめんね」笠木は顔や腕に擦り傷があり、左腕にはガーゼが貼られ、右手首には包帯を巻いていた。足はジーンズを履いているので怪我の様子が見えない。「もしかして早退したの?ごめんね、来てくれるの早くて驚いた」

「ごめんね」高倉は座っている笠木の側で跪いて謝った。「俺のせいだ」

「有隆君のせいじゃないよ」笠木は高倉を見て言った。

「無事…じゃないけど、生きててよかった」高倉は言った。笠木を抱き締めたかったが、周囲に人が居るので出来なかった。「警察に通報はした?」

「言ってない」笠木は俯いて言った。

「何で」高倉は聞いた。

「なんか、後ろめたくて」笠木は高倉を見ないで言った。

 高倉は何も言えなくなった。笠木の顔を見る。幼い顔立ちに、擦り傷や火傷の古傷がある。笠木のウェーブがかった黒髪が今は乱れていた。

「ごめん」高倉はそれしか言えなかった。「帰ろう」高倉は立って笠木に左手を差し出した。

 笠木は高倉の手を掴み立ち上がろうとしたが、右足を庇って「いたっ」と呟いた。

「大丈夫?」高倉は笠木を心配して右足を見た。笠木は靴を履いているが、よく見ると足は靴下ではなく包帯を巻いていた。「捻挫?」

「捻挫だって。あと爪が割れて出血があって」笠木はそう言うと、ふと高倉の右手を見た。「手、血が出てるよ。どうしたの」

「同じく爪が割れて」高倉は右手を握って隠した。止まっていた血が手を握った拍子にまた出血したようだ。「俺の事はどうでもいい。肩貸すから捕まれる?歩ける?」

 高倉は右腕で笠木を支えると、右足を引きずる笠木を連れて病院から出て、タクシーに乗った。笠木は車で来なかった事に驚いていたが、高倉は無視した。





「創也、もう在宅のイラストレーターの仕事一本にしたら」高倉はタクシーの中で笠木に言った。笠木は高倉の方を見た。高倉も笠木の方を見た。

「俺が稼ぐから工場の仕事は辞めて、しばらく自宅に居たら」高倉は言った。

「でも…僕のイラストの仕事なんてスマホ代くらいにしかならないよ。それに」笠木は言い辛そうに口を開いたまま止まった。

「何?」高倉は聞いた。

「いや、僕も一応働いてた方がいいでしょ。何かあった時のために」笠木は苦笑いした。

「俺がまた仕事クビにならないか気にしてるの」高倉は聞き辛かったが、笠木に聞いた。

「それだけじゃなくて僕もそれなりに稼がないとって思って。今やっと正社員の仕事に就けたわけだし」

「それは」高倉は反論しようとしたが止まった。高倉は笠木に自宅に居て欲しかった。

「僕もう正社員になれないんじゃないかって思ってたから、今の仕事受かって嬉しかったんだ」笠木は言った。

 高倉は笠木を見ながら考えた。笠木は美術系専門学校を卒業後、イラスト関連の企業に就職したが、職場の環境が悪くすぐに退職しており、その後はアルバイトで生計を立てていた。以前勤務していた書店も、非正規の仕事だった。

「でも今の状況は危ないよ」高倉は笠木の顔の擦り傷を見て言った。右手を笠木の頬に近付けたが、触らなかった。高倉は自身の右手をふと見た。血がまだ出ていたので、高倉はリュックからハンカチを取り出し、拭いた。

「大丈夫?なんで爪割れたの」笠木は心配そうに高倉の右手を見た。「痛そう」

「何かに引っ掛かって割れたみたいでね。痛みはそんなにないから大丈夫」高倉はハンカチで右手の親指の出血を抑えながら言った。笠木の怪我に比べたらこんなもの大した事じゃないと高倉は思った。

 笠木は左手で笠木の持っていたリュックの中から財布を出すと、財布の中から絆創膏を取り出し、高倉に渡してきた。「これ使って」

「ありがとう」高倉は笠木から絆創膏を受け取ると、出血している親指に貼った。

「僕少しの間仕事休むかも。歩けないし」笠木は足元を見て言った。

「やっぱり警察に言おう。監視カメラを見たら誰が突き落としたのか分かるかも」高倉は言った。

「いいよ。背中押されたって言ったけど、ぶつかっただけかもしれないし」笠木は窓の外に視線を移して言った。

「でも」高倉は警察に通報したかったが、笠木がこちらを向いてくれないので続きを話す事を躊躇った。

「心配しないで」笠木は高倉の方をまた見ると、高倉の頬に左手を添えた。笠木の手は温かかった。

「やっぱり仕事、辞めて欲しい。創也には悪いんだけど」高倉は笠木の左手を自身の左手で掴むと、笠木の顔を見つめて言った。「心配なんだ」

「心配し過ぎだよ」笠木は弱弱しく微笑んで言った。

「本当に、少しの間でいいから自宅に居てくれない?休むんじゃなくて。創也はまだ若いから仕事もきっとすぐに見つかるよ」高倉は言った。

「これから札幌駅に自転車置いて、地下鉄降りたらそこから自転車で通勤しようかな」笠木は高倉を見て苦笑いした。

「自転車で札幌駅から職場までって、どれだけ距離があると思ってるの。それに冬は無理でしょ」高倉は笠木の左手をまだ握ったまま言った。「俺も毎日送り迎え出来たらいいけど」

「有隆君にばかり負担かけちゃってごめんね。朝もいつも僕に気を使ってごみ掃除とかしてくれてるのも、知ってた。ごめんね」笠木は俯いて言った。

「創也は悪くない」高倉は笠木の顔を見て言った。「本当に、仕事しばらく抑えられない?半年か、一年くらいでいいんだ。そしたらさすがに落ち着いてるとは思うんだ」

「今の仕事まだ一年も続いてないよ」笠木は悲しそうな顔で高倉を見て言った。

「ごめん」高倉は笠木の左手を握ったまま、俯いて言った。「俺が支えるよ。仕事もクビにならないように気を付ける。創也が傷つかないように、俺が守るから。お願いだよ。創也が大事なんだ」

「一年後は僕二十七歳だよ。若くないよ」高倉が笠木を見ると笠木は苦笑いしていた。「年取ったら僕を捨てたりしない?」

「しないよ」高倉は一瞬タクシーの運転手を横目で見てから笠木を見て言った。運転手は会話に気付いているだろうとは思ったが、高倉は無視した。「絶対しない」

「本当?」笠木は笑って言った。

「本当なら養子縁組とか申し込みたいけど、俺の今の立場じゃ言えなくて、ごめんね」高倉はまた俯いて言った。

「養子縁組?それってプロポーズ?」高倉が笠木の顔を見ると、目を丸くして高倉を見ていた。

「プロ…プロポーズになるのか分からないけど」高倉は一瞬自分が何を言ったのか改めて考え直し、後悔した。自分が笠木と養子縁組なんて出来るわけがないと高倉は思った。
 養子縁組などしたら、笠木に被害者遺族への慰謝料の借金を担がせてしまう事になる。高倉は自分の境遇を呪った。

「今のは聞かなかった事にして」高倉は笠木から目を背けて言った。

「プロポーズしたよね、今」笠木は引かなかった。

「俺なんかのプロポーズ受けたところで何も残らないよ」高倉は握っていた笠木の左手を離して、タクシーの椅子に置いた。

「有隆君と家族になれるの?」笠木は聞いてきた。

「なっても何の得もないよ。親はいないし親戚には絶縁されてるし、借金しかないんだから」高倉は俯いて自分の足元を見ていた。笠木の顔を見る勇気はなかった。

 笠木は何か言おうとしたようだが、息を吸うと、口をつぐんだ。
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