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壱 契りなす処女(おとめ)
《一》契りの儀──そなたにこれを拒否することは叶わぬ。【前】
しおりを挟む耳をつんざく金属音。
身体に受ける、いままでに感じたことのない衝撃と痛み───に、備え、咲耶は、身体を縮めていたのだが、一向にその気配がやってこない。
(助かった、の……?)
いや、それにしては静か過ぎる。そう……静か過ぎるのだ……。
ゆっくりと、咲耶は身を起こした。ぎゅっとつむった目を開け───そして、気づく───自分がいる場所が……車のなかでないことに……!
(なに、コレ……なに、ここ……)
三畳ほどあるかないかの板の間に咲耶は突っ伏していたようだった。
出入り口は、月明かりが射し込んでくる透かし組まれた戸口がひとつ。室内には、神棚のようなものがある以外、何もない。
影が自分の顔にかかるのを感じ、びくりとそちらを見やった───視線が一瞬、交わり、咲耶は硬直してしまう。冴え冴えとした冷たい色をなす瞳は、眼差しだけで射すくめられるほどだった。
格子戸ごしにも分かる美しい面にはなんの感情もなく、その者は、ただ、じっと咲耶を見つめていた。
咲耶は、思いきって声をかける。
「あの……ここ、どこ……ですか?」
本当は、居場所うんぬんの問題ではないことは、重々承知していた。だが、他に言葉が浮かばなかったのだ。
「ここは下総ノ国。今は尊臣様が国司を務めておられる」
「…………は?」
(なに言ってるのよ、この人)
むろん、歴史的知識のなかに『国司』はあるし、『下総』も地名のようなものだとは分かる。
分かるが、いまは二十一世紀。旧制度や旧国名を用いての返答は、咲耶の理解の範疇を越えていた。
(あ、でも……)
目の前にいる人物が、男だということは解った。全体的に涼しげな美貌はいわゆる中性的な顔立ちで、放たれた低い声音により、ようやく男だと判断がついたのだ。
「今、着替えを持ってくる。しばし待て」
言って、男は姿を消した。咲耶は男の背中を見送りかけたものの、何もここで待つ必要はないだろうと思い、格子戸に手をかける。
(だってさ、なんか監禁されてるみたいなんだもん、ここ……)
しかし、簡単に開きそうだった戸は、押しても引いても、横に引いても、開くことはなかった。
(みたいじゃなくて、ひょっとして私、監禁されてんの……?)
どうあっても開かない戸は、外側から鍵がかかっているとしか思えない。咲耶は仕方なく、その場に腰を下ろした。
ややして、布の載った漆塗りの盆を手に、男が戻ってきた。
「よびてきたりしハクコのついなるは、これここにあらんとす。ちぎりしものをほっするわがみにおりてたまわらんことを。
カイジョウ」
すらすらと、咲耶には意味の通じない文言を言い連ね、男はなんなく戸を開けた。呆然としている咲耶の前に、持っていた盆を置く。
「着替えたら、声をかけろ」
「えっ。……あの。……なんでか、訊いてもいいですか?だって私、わけ分かんないし──」
「必要だからだ。早くしろ。刻限までに、時がない」
取りつく島もなく言いきられ、咲耶は二の句が継げなくなった。しかし、これは咲耶の悪癖だろうが、高圧的な態度をとられると、つい、従ってしまうのだ……。
渡された『着替え』は、着物一式だった。が、咲耶の知っているそれと、微妙に違っている気が、しないでもなかった。
下着にあたる襦袢はともかく、その上に着るのだろう物は、飾り気もない白無垢。飾り帯のようなものはなく、ただ着物をはだけさせないための細い帯も、やはり白い。
唯一、一番上に羽織るのであろう打ち掛けに、白地に金の刺しゅうが施されていた。
(着物専用のブラとかショーツ……は、ない、よね……?)
下着の線が出てしまう問題よりもここで下着まで脱ぐこと自体に、かなりの抵抗を覚える。咲耶は、下着は身につけたまま、それらに着替えた。
「───終えたか。では、ついて来い」
今度は、なんの抵抗もなく開いた戸を不思議に思ったものの、外で待っていた男に、ためらいながら声をかける。
「あの……ええと。私、松元咲耶っていいます。それで、あなたは?」
「……私に名はない」
予想しなかった返答に驚き、咲耶はしどろもどろになった。
「え? 名前がないって……え? あの……じゃ、みんなは……えーと、あなたの周りの人は、あなたのことを、なんて呼んでいるの?」
「私を呼ぶ者など、たかが知れている。それは……名ではないのだ」
淡々と答えながら、そこで一瞬、男はわずかに眉をひそめた。
「……物を指し示す便宜上の名なら、ある。ハクコだ」
「はくこ……?」
それが名字なのか名前なのか。いや、便宜上と断りを入れるあたり、正式名でないことは確かだろう。
咲耶が閉じ込められていた場所は木々が周囲を覆っていた。一見して、村外れにひっそりとありそうな、何かを祀ってある社のように見える。
ハクコ、と、とりあえずの名乗りをした男は、色素の薄い髪を腰近くまで伸ばし、後ろで一つに結んでいた。
男の身を包むのは、その昔、公家の者が着ていたとされる狩衣の一種である水干。だが、その下からのぞく衣服は、指貫と呼ばれる袴ではなく、細身の筒袴だった。
着丈の短い白い水干に黒の筒袴と、なんとも奇妙な取り合わせだが、すらりとした長身に、その姿はよく似合っていた。
(私も、こういうカッコのほうが動きやすいのに……)
ハクコの後ろを黙って歩きながら咲耶はそんなことを思った。
何しろ普段、大股で歩くことになれているせいか、動きの制限される着物は、歩きづらくて適わない。そして、用意されていた履き慣れない下駄にも、指の付け根が痛み始めていた。
「あの……まだ歩きます?」
「もうすぐそこだ」
言って、ハクコが指し示す向こうには、松明の灯りらしきものが見える。ひそひそと人の話し声も聞こえてきて、そこが目的地なのも解ったのだが───急に咲耶は、不安にかられた。
(どうしよう……。なんか、怖い……)
先ほどまで感じなかった恐怖が、堰をきったように咲耶を襲う。
自分はなぜ、言われるがままに、この男のあとを付いてきてしまったのだろう? いや、それよりもなぜ、車に乗って家路についていたはずが、こんな見知らぬ山奥を、歩かされているのだろう……?
(夢をみてる……とか?)
その可能性は高い。あの瞬間、事故に遭い意識を失って───。
「何をしている。ついて来い」
立ち止まって考えていると、ハクコが抑揚のない口調で呼びかけてきた。条件反射のように言葉に従ってしまい、咲耶はふたたび歩きだす。
「───ほう。今度の娘御は、なかなかしっかりしてそうじゃな」
頭の上のほうからした声は、古めかしい言い回しに不つり合いな、少年と思わしきものだった。
咲耶は、びっくりして足を止めてしまう。
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