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参 呼びかける真名(なまえ)
《二》ほんとうの名前を教えてあげたい【前】
しおりを挟む「気遣いは無用」と言われてはいても、そうはいかないとばかりに黒虎へのもてなしの準備をしている椿に、咲耶は一応、声をかけてきた。
コクコの眷属・雉草が椿の足もとにまとわりついて小言を言っていたが、椿は適当にあしらっているようだった。
咲耶の外出に、一瞬、心配そうな素振りを見せたが、ハクコの領域内───咲耶も範囲は把握している───であればとの苦言を呈して咲耶を送りだしてくれた。
「……綺麗な髪ですね。椿油とか使ってます? あれって、手に入れにくい物なんですかね?」
椿の言もあり、咲耶は百合子にハクコの領域内での散歩を提案した。百合子も異論はなかったらしく、二人して森のなかを散策、と、なったのだが。
話があるようなことを言っていたわりに黙々と咲耶の前を歩く百合子に、咲耶は堪り兼ねて他愛もない話題を振ってしまった。
百合子は、ちらりと咲耶を見やっただけで、また前に向き直る。くだらない話をするなと無言で釘を刺されたようで、咲耶はこっそり息をついた。
(やっぱり、この人、苦手だ……)
契りの儀の直前、百合子が咲耶にぴしゃりと言い放った出来事が思い返される。気のせいかもしれないが、咲耶は百合子から嫌われているように思えた。
「咲耶様」
落ち着いた響きの呼びかけは、犬貴のものだ。思わず咲耶は、ホッと息をついた。
「どちらへ行かれるのですか?」
咲耶たちが歩いている道から枝分かれした、ゆるやかに下って行く道を、犬貴は辿って来たようだ。両手には取っ手つきの桶、頭の上には水瓶を載せた、なかなか器用な格好をしていた。
(ああ、ハクの眷属が犬貴で良かった~っ)
猿助といい、雉草といい、無駄口が多かったり出しゃばりだったり。愛嬌はあるが、正直あまり配下として使える気がしない。
咲耶が彼らのことをよく知らないだけで、ひょっとしたら眷属としては、優秀なのかもしれないが。その点犬貴は多少の堅さはあるが、礼儀も振る舞いもわきまえていて、主としては申し分なく鼻が高い眷属だった。
「あのね、百合子さんと……花嫁同士の話をしながらの散歩ってことで、いいんですかね?」
「───ハクの眷属は、お前だけだったな」
同意を求める咲耶を完全に無視して、百合子が犬貴に問うた。桶と瓶を下ろし、犬貴はその場で片ひざをつく。
「左様にございますが」
何か? と、逆に見返された百合子が、ふっと笑った。美しいが、癇にさわる笑みに、咲耶は眉を寄せた。
「それが何を意味するのか、気づかずにいるのか? 主従ともに愚鈍だな」
「なっ……」
玲瓏な声音で告げられたあざけりに、咲耶はカッとなったが、犬貴は毛を逆立てうつむいただけで何も応えなかった。
「ちょっと! いまのは訂正してください! ハクにも犬貴にも、失礼じゃないですか!」
「───何も知らぬ小娘が、知ったふうな口を利くな」
低く押さえつけるように言いおいて、百合子は犬貴に目を向ける。
「よもや、気づかずにいるほどの阿呆ではあるまい。……花嫁がいることを、どう考えているのか。浅い考えのままでは『賜り物』も失うことになると、ハクに提言すべきはお前の役目ではないのか?」
うつむいていた犬貴の眼が、わずかのあいだ咲耶を映す。哀しい色を宿した瞳が伏せられ、やがて苦々しい声が咲耶の耳に届いた。
「……咲耶様。御前を失礼いたします」
言って、犬貴は桶と瓶を持ち上げ屋敷のほうへ足を向けた。垂れ下がった尾が犬貴の心情を表しているようで、咲耶は百合子を振り返った。
「どうして、あんなっ……。犬貴は賢いし、忠実だし……それに何より、ハクコのことを大事に想ってる良い眷属ですよ!? こんな風にバカにされる、意味が解りません!」
何事もなかったかのように、また歩きだした百合子を追いかけ、咲耶はいらだちをぶつけた。
侮辱されたまま、屋敷に戻って行く犬貴の後ろ姿が、やりきれなかった。
犬貴が自身だけでなくハクコを貶める発言をした百合子に対し、なんの反論もしなかったのは、彼女が黒虎の花嫁だからと言葉を控えたのではないことは、なんとなくだが咲耶にも伝わった。
おそらく百合子は、間違ったことを言ってはいないだろう。だが───。
(正論だからって、何を言っても赦されると思うなよっ)
これが自分のことであったなら、咲耶は怒りを覚えなかっただろう。しかし、大事に想う者を傷つけられて、それでも黙っていられるほど咲耶は大人ではなかった。
「百合子さんは、犬貴に『何か』伝えたかったんですよね? 正確には、ハクコに。だけど、それってあんな風に、けなすように言わなきゃならないことなんですか!?」
瞬間、咲耶の身体が、真後ろにあった木の幹に叩きつけられた。衝撃と驚きで、息がつまる。さらには、咲耶ののどに、百合子のひじが突き付けられていた。
一瞬の出来事に理解が追いつくのが遅れたが、咲耶を今の体勢にしたのは、百合子の掌底による突きと、ひじによる押さえこみだった。
「───いずな、捕えろ」
短い語に反応するように、百合子のそで口からスルリと褐色の体毛に覆われた、おそらくイタチが現れた。俊敏な動きで瞬く間に咲耶の手首にまとわりつき、その身でもって無理やり後ろ手に両手首を拘束する。
「……お前は、私を、誰だと思っている?」
咲耶をのぞきこむ百合子の瞳には、怒りにも似た冷たい色の炎が見え隠れしていた。空いた一方の腕を上げ、手のひらを上向かせる。
「自分と同じ花嫁だと、勘違いしているのだろう?」
咲耶は唐突すぎる百合子の行動に、声もあげられなかった。なすがまま、百合子の語る言葉を聞いていた。
ふと、近づいた百合子の首筋にある『黒い痕』が、咲耶の目に入る。契りの儀で神獣から付けられる、証。「黒い神の獣は、破壊と死を」茜の言葉が、咲耶のなかでよみがえった。
「残念ながら、私とお前は同じ存在ではない。私とお前の役割が違うという程度の話ではなく───」
上向いた百合子の手指の爪が、咲耶の見ている前で肉食獣のように伸びて、とがる。
「仮の花嫁と、“神力”の遣える花嫁との、歴然とした違いだ」
咲耶の頬に、熱い痛みが走る。
真新しい紙で、うっかり手を切ってしまった時のような、一瞬のものだ。それは、百合子の爪先が、軽く触れた咲耶の頬を、切った痛みだった。
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