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肆 癒やしの接吻(くちづけ)

《一》月からの迎えも天に帰る羽衣も、ないからではなくてか?【前】

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 神力を得た咲耶への追捕の令は、即日中に撤回された。

 また、“治天ちてんきみ”と呼ばれる陽ノ元の統治者より『正式に国獣ハクコの花嫁として認める』との“宣旨せんじ”が下った。

「認めるも認めないも、アンタがハクの花嫁である事実は変えようがないんだけどね。形式にこだわって権勢を振るいたいだけだから、黙って受け取っておきなさい?
 拒んで面倒なことになることはあっても、受けて損することはないから」

 と、“宣旨”の使者が来る数日前に、セキコ・茜が教えてくれた。

 咲耶は、花子である椿に使者を持て成す礼儀作法を習い、丁重に“宣下せんげ”を受けたのだった。





「───犬朗、調子はどう?」

 西日が差し込む部屋の障子を開け咲耶はためらいがちに声をかける。陽が落ちるのが早くなり、日中でもかなり肌寒くなってきていた。

 咲耶とハクコの眷属のうち、追捕の者らを引き寄せるおとりとなった転々と たぬ吉は、うまく逃げられ無傷であった。

 しかし、神獣であるコクコ・闘十郎と、その花嫁・百合子を留めおくために力を奮った犬朗と犬貴は、無傷というわけにはいかなかった。
 犬貴は全身傷だらけの血まみれ姿でいて、咲耶は卒倒しかけたが、すぐに自らの神力によって助けられることをさとり、力を尽くした。
 だが、次に向かった犬朗のもとにたどり着いたときには貧血に似たような症状に見舞われてしまい、瀕死ひんしの重傷を負っていた犬朗に対し、充分な治癒をほどこせなかったのだ。

「もう大分いいぜ、咲耶サマ? だから、そんな顔しないでくれよ」

 屋敷の一室をあてがわれた犬朗は、居心地が悪いといわんばかりに部屋の隅で壁に身体を預けたまま、隻眼で咲耶を見上げた。

 部屋の中央には椿が整えたであろう布団が、使われた様子もなく敷かれている。咲耶は眷属たちの習性のようなものをすべて知り得ていないため分からないが、ひょっとしたら床に就くことはないのかもしれない。

「……やっぱり、こっそり治しとくってのは、駄目かな?」
「勘弁してくれよ、咲耶サマ。それじゃ、せっかく治してもらっても意味ないぜ。ハクの旦那に殺されちまう」

 苦笑いの咲耶に、言葉通り大分よくなったと見える右の前足を上げ、犬朗は冗談っぽく自らの首をちょんと叩く。このひと月ほどのあいだ、幾度となく交わされた会話だった。

「でも……神力が遣えるようになったのに、なんか歯がゆいっていうか……」

 犬朗が負傷したのは、もとはといえば、咲耶を逃がすためである。それを思えば、咲耶が犬朗の身体を元の状態に戻してやるのが筋ではないかと、咲耶は考えた。

「───勘違い……しちゃ、いけねぇよ、……咲耶サマ?」

 犬朗が、思うようにならない身体の位置を変えようとしているのを見てとり、咲耶は手を貸してやる。軽く礼を言って、犬朗が続けた。

「あんたの神力は、本来はこの下総ノ国の民のものだ。
 俺たち眷属が、あんたや旦那のために力を尽くすことはあっても、その逆は、ねぇんだよ。……あっちゃ、なんねぇのさ。
 ほどこすべき相手を、間違えちゃいけねーよ?」

 やんわりとした口調で犬朗が咲耶をたしなめる。

 ハクコ──和彰かずあきは、犬朗に治癒を行う最中めまいを伴った咲耶を見て、
「お前の身体に害を為す神力なら、扱うな」
 と、めずらしく顔をこわばらせて止めた。

 直前に治癒をほどこした犬貴には、
「咲耶様。私のようなモノのために、稀有けうなお力を、二度とお遣いになりませぬよう。どうか、これより先は、捨て置きくださいませ。放っておいても時が経てば己の力で治せるのですから」
 と、困ったように諭されてしまった。

 もちろん、双方、咲耶の身体を心配した言葉であるのは、尋ねずとも分かる。彼らなりの咲耶に対する気遣いが違う形で出ただけだろう。

 だが犬朗が言ったのは、そういった部分を切り離した、咲耶の“役割”の真を問う話だった。咲耶は和彰と犬貴の態度に、釈然としないものを感じていたのだが……その正体が、これだったのかもしれない。

(確かに……勘違い、してた)

 咲耶の身のうちに宿った神力は、本来は『白い神の獣』であるハクコ・和彰が象徴する力だ。咲耶は、それを代行する存在にすぎない。
 つまり───私欲で扱ってはならない力なのだ。それがたとえ、大切な存在を救うという、純粋な想いからなるものだとしても。

(公の……公平にほどこすべき力だってことなんだよね、きっと)

 考えだすと、かなりややこしい立場になってしまったようで、咲耶は大きな溜息をついた。そんな咲耶の耳に、犬朗のかすれた声が響く。

「でもって、もひとつ勘違いしちゃなんねーのはさ」

 咲耶の目の前で、犬朗が前足の指を一本立て、いたずらっぽく振ってみせた。

「俺も犬貴も、咲耶サマが必要以上に気にかけてくれているのは、すげー嬉しいんだって、コト。
 ───知ってるか?
 俺ら眷属には、その『想い』だけで、かなりの『力』が与えられているんだ。だから、何もしてやれないだなんて、自分を責めっこナシだぜ?」

 咲耶は思わず、犬朗のひざ上に顔を伏せた。こらえてきたものがあふれて、止まらなかった。頭上から、犬朗のぼやき声が聞こえてくる。

「───やべぇよ、咲耶サマ。ソレ反則。旦那に、なんて言い訳すっかなー……」

 “証”のある右手が、犬朗の、まだ完全にえぬ身体に触れて。咲耶は犬朗の言葉通り、その想い・・によって、彼の身体を治してしまったのだった……。





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