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不思議なカメレオン団と"私"について

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男はスクランブル交差点を歩いている。くたびれたスーツに、ビジネスバッグをぶら下げていた。左のポケットにはショートホープとライターが、右のポケットには名刺入れが入っている。すれ違う人たちの足元だけを見ながらぶつからないように歩を進める。
彼の頭の中にはもはや、破壊衝動すらも無かった。疲労だけが漂っている。
首を垂れながら、それでも歩く彼は、人々の靴を見ながら、いつもと少しだけ違うことが起こっているのに気がついた。
人々の足が時々、こちらを向いているような気がしたのだ。
それは、男の気のせいではなかった。ゆっくりと顔を上げると、何人かが、歩きながらたしかに男の顔を見ていたのだ。
何事かと、自分の顔を触ってみる。だが何も変わったことはない。彼は名刺入れをポケットから取り出して、自分の前に掲げた。彼の名刺入れは鏡面磨きしたみたいにピカピカだったので、鏡としても使えたのだ。自分の顔を見ると、そこには少しやつれた男が映っているばかりで、何もない。
そう思って名刺入れをしまおうとした時、彼は自分の肩の辺りから、何やらヒモのようなものが垂直に伸びているのを発見した。名刺入れの角度を変えてヒモの繋がっている先を辿ってみると、そこには真っ赤な風船が一つ浮かんでいた。
男はついに交差点の真ん中で立ち止まり、困惑した様子で肩に手を伸ばした。

みんな、これを見ていたのか。

恥ずかしくなった男は、さっさと取ってしまおうとヒモを引っ張ったが、どうやら、ヒモの先が釣り針のようになっていて、スーツに食い込んでいるらしく、中々外す事が出来なかった。今度は慎重に根本の針を外そうとするが、毎日デスクに座ってパソコンと向かい合っているので、うまく腕が後ろに回らない。

困ったな。

その瞬間、男の背後を何か素早いものが走り去った。男が振り向くと、そこには何もいなかったが、驚いた事に左の方の肩にも、黄色い風船がつけられていた。

誰のイタズラだ。

男は少々苛立った様子で周囲を見渡したが、人通りが多い交差点なので犯人らしき人物を特定する事はできなかった。それどころか、男を見る人の数が先程よりも増えてきて、中には立ち止まってジロジロと見てくる人も現れ始めた。
男はここから早く立ち去ってしまった方が早いと考えた。
さっさと渡りきって、あとはタクシーに乗って帰ろう。奥さんからは、節約するように言われていたけれど、こんな状況じゃ仕方ないだろう。そう決めて歩き出そうとすると、後ろから何者かに強く肩を掴まれた。

振り向くとそこには、片手に風船を持った青年が立っていた。月を眺めるカメレオンの姿が描かれた黒いTシャツを着ている。
男はその姿を見るなり青年を叱った。

「君かい。私に風船をつけていたのは。今すぐ取り外して、私に謝罪しなさい。このスーツは上等なんだ。」

「まあ、待ってください。そんなに怒らないで。」

「私が何をしたって言うんだ。ただ歩いていただけなのに。こんな姿を人に見られて、私は恥をかいたのだよ。馬鹿にしているのか。」

男は携帯電話を取り出して、ボタンを押し、青年に画面を見せつけた。

「警察を呼ぶからね。」

青年は、落胆した様子だった。

「やっぱりこうなるか。これは、慈善活動でやってるんですがね。あなたは、かなり弱っているように見えたので。」

「これが何の慈善活動になるのかね。とにかく、君の名前と、保護者の連絡先を聞かせてもらうよ。いいね。」

だが青年の返事は、男の予想とは全く異なるものだった。

「みんな、もうそろそろ良い頃合いじゃないかな。」

それは明らかに男に向けられた言葉ではないように見えたので、まさかと思って再び振り返ると、そこには十人程の、青年と同じTシャツを着た、年齢層も性別もバラバラの人々が立っていて、その時男の背中には既に無数のヒモが付けられていた。
言葉を失ったまま上を見ると、大きな気球のようにまで成長した風船の塊が空に浮かんでいた。
もはや、交差点の通行人達はみんな足を止めて男の様子を見ていた。

「君達は、何者なんだ、なんで、こんな、」

と言い始めた時、ゆっくりと男の踵が浮き上がり始めた。信じがたい事実に直面した男は狼狽えて、どうして良いかわからない様子だった。

既に男の革靴は地を離れ、どんどんと浮き上がっている。

「今すぐ下ろしてくれ、おい!」

そう言う男の主張はまるで聞こえていないかのように、カメレオンTシャツの男女はにこやかに、大きく手を振って、男を見送っている。

しばらく風船のヒモを外そうと空中でもがいていたが、下から誰かの声で、「動くと危ないぞお。」と聞こえて来た。
それが聞こえたからか、やがてもがく事をやめ、されるがままの状態になった。

男は、もう、疲れた、と諦めて、手足をぶら下げて、頭上を見た。
赤、青、黄、緑、白、紫、橙、桃、色彩豊かな風船達が、私を連れて行こうとしている。

次に、徐々に遠ざかっていく地上を見た。
カメレオンの一団が、手を振って見ている。
それを中心として、周りにも多くの人だかりができていた。
もう信号は赤に変わっているが、みんな私を見るためにそこにとどまっている。写真を撮っている人もいれば、一団と同じように手を振っている人もおり、ただ呆然と見ているだけの人もいた。
ランニング中のおじさんは走るのをやめ、電話をしているスーツ姿の女性は話すのをやめ、カップルは互いに見つめ合って笑い、自転車の配達員は遅刻する事を忘れ、子供は母の手を握り、飛び跳ねながら指をさしている。

それを、ただ時間が過ぎるのを感じながら、ジッと見つめていた。
そのうちに男は脳内にジワジワと、湧き上がってくるものがあるのを感じた。

ああ、こんな事が、かつて私にあっただろうか。
こんなにも誰かに注目され、やさしく見送られ、声援を受けた事があっただろうか。

脳内に湧き上がった正体不明の感情が、男の目から、鼻から、口から、耳から、溢れ出した。

人前に立つのが苦手だった私は、学校で発表があると声が震え、緊張して涙を流し、馬鹿にされた。友達みんなに遠慮し、陰で見下され、グループの中ではいつも居心地が悪かった。憂鬱な性格をしている事が原因で、恋人にひどい振られ方をした。足が遅く、のろまで、勉強する意味も分からずに勉強し、何の才能も無く、下等で、小さかった私は、そのうちに涙を流す事さえもなくなった。頭の中では醜い事ばかりを考え、みすぼらしかった。ひたすらに金を稼ぎ、人から耐えがたい侮辱を受けても、ただ閉口するばかりで、頭を下げ、自分で見ていられないほど情けなかった。断る事が出来ずに、押し付けられ、あらゆる勝負事に敗北し、役立たずと言われ、遁走し、家の中でもくだらない嘘をつき、理解者もなく、誰にも本音を打ち明けられず、夜にぐっすりと眠れた事はなかった。

ただ死を待つようになったのは、いつからだろうか。

鮮やかに私を浮上させる風船と、地上の人々をもう一度交互に眺めた。
いつかこの風船が割れて、私が交差点へ落ちたなら、きっと私はシンボルになるだろう。
全てに敗北した無様な男のシンボルだ。
それでも、良いかもしれないな。滑稽な私の姿を見て、反面教師にでもしてもらえれば、私には意味があったと思えるかもしれない。

ああ、しかし、妻には、謝っておきたかった。不幸にさせてしまった。私などについて来たせいで。
私達は、もっと笑うべきだった。
貯金をはたいて、旅行をするべきだった。
弱さをさらけ出すべきだった。
私は、いや、俺は、サラリーマンなど、なりたくなかった。諦めずにもっと可能性を見つめるべきだった。歌や、文章や、絵を、作るべきだった。

男がそう気づいた時、カラフルな風船の束は、大きな破裂音と共に弾け飛んだ。
風船の割れた後、大量の紙吹雪が空を舞った。

「風船の中に、入れてあったのか。」

男はそう呟いて、一直線に地上へと落下していった。
目を閉じて、もはや何も考えなかった。


やがて男はボスンと音を立てて、分厚いクッションの上に落ちた。カメレオンの一団が、クッションを用意して待ち構えていたのだ。しばらく呆然としていると、先程の青年がこちらに歩いて来て、手を差し出して来た。
男は真顔のまま涙を流し、青年の手を取った。
やや遅れて、色鮮やかな紙吹雪が、彼らの頭上に降り注いだ。

「高く上がりすぎないように、風船に細工をしてあるんですよ。ちゃんと受け止められるようにね。」

男は「そうかい、そうか」とだけ呟いて青年の手を固く握っていた。

「僕達は、もう撤収させていただきます。長く居すぎると、色々と厄介なので。いいですか、人間は、生きるのであって、生きられるのではないんです。さようなら。」

交差点は再び青信号に変わり、カメレオンの一団は素早くどこかへ去っていった。
男は隣で中年の女性が警察を呼ぼうとしているのを「やめなさい」と言って制止して、ふらふらと交差点の向こう側へ歩き始めた。
この先の自分のあらゆる展望を見つめ直しながら。
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