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第1章
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第1章 【矢式灯火】
弓月星夜との出会いを語るにあたってまず話さなければならないもの、それは『才能』だ。
俺は3歳になる直前の夏からスイミングスクールに通っていた。初めは夏休み期間中に行われていた、会員じゃなくても受けられる短期教室に参加した。
どうして短期教室に参加したのかは覚えていない。俺が両親に水泳を始めたいと申し出たのかもしれないし、両親が習わせたいと思ったのかもしれない。
他に誰も知り合いがいない未知の空間に放り出され、やたらと愛想笑いを振りまいてくるインストラクターを目の前にして一抹の不安を覚えていたのは事実だ。
でも、そんなものは広大なプールを目にしたことで瞬時に吹き飛んだ。
スイミングスクールに行くまでは、プールとは円形のビニールを空気で膨らませるものという認識しかなかった。当時はまだ体が小さかったからその広さで十分だったが、父親は足を折らなければプールの枠に収まらなかった。
しかし、25メール×7コースのプールを見て、俺はひどく興奮した。
大人でも何百人と収容してしまいそうな巨大な器に、俺はなぜか自然の雄大さに感動したような感覚に陥った。そもそもプールという時点で立派な人工物だし、水だって大量の消毒薬が混ぜられているのだから自然とはかけ離れているのだけど、まあ幼心が訴えてきたのだからしょうがない。
大量の水に不安は吸い込まれ、俺は泳げもしないのにインストラクターの制止を振り切って無心でプールに飛び込んだ。
体が自分の支配下から離れた。足が床に着かなかった。目に急激な痛みが走った。鼻の奥が鋭く軋んだ。呼吸ができなくなった。
つまりは溺れたのである。当然の結果だった。
慌てて飛び込んできたインストラクターが俺を救い出したのだが、その時の俺の顔を見て驚いていた。
笑っていた。死にそうなほどの苦しみと恐怖に襲われたのに、俺は歓喜していたのである。
水の中は普段生きている地上と違って全くの別世界だった。もうひとつの世界がそこには広がっていた。この世界を当時の俺は、自分のものにしたいという、幼くも野望にも似た衝動に駆られたのだった。
短期教室5日間にわたって行われるもので、通常の会員が受けている練習と違って駆け足で技術を学ばせるものだ。フォームの形は最低限しか教えず、形は悪くてもとにかく泳げるようにする。要は「うちに通えば立派に泳げるようになりますよ」というアピールだった。これで保護者の信頼を勝ち取り、通常の会員として入会させるのが目的である。
ただし、2歳という年齢では水に浮くことすらなかなか難しい。巨大なプールに怖れて入水すらできない子どもだって少なくない。親と離れた不安と寂しさで泣き喚く子どもも多い。だから初日はまず水に慣れるのが目的であった。
しかし、前述のように俺はプールに対して恐怖心などまるで抱いていなかった。親と離れた不安などとっくに吹き飛んでいる。
早く泳げるようになりたい。そんな気持ちが頭の中を染め上げていた。
1回あたりの練習時間は50分。他の子どもがぐずついて入水すらできていない間、俺は業を煮やして再度プールに飛び込んだ。やはり溺れ、すぐにインストラクターに救い出された。
またも俺は歓喜した。水中は凄い。ゴーグルなんてしていなかったから視界はものすごく悪かったが、それでも水中に居るという自覚が俺の心を激しく躍らせた。
インストラクターからすれば問題児以外の何物でもない子どもだっただろうが、そう思わせるのも目的のひとつだった。
俺は水なんか怖くない。顔をつけることも、水中で目を開くことも既にできる。こんな冴えない連中と同じ班なんて嫌だ。
とりあえず初日だけはその班で過ごしたが、翌日からひとつ上のレベルに異動という異例の措置がとられる運びとなった。
練習後、ギャラリーから見学していた母親にインストラクターがその旨を伝えたとき、こんな言葉を添えていた。
「灯火くんは水を全く怖がっていません。泳げないのに自分から飛び込んで、溺れたのに楽しさのあまり笑っているのです。こんな子、見たことありません。一種の才能ですよ」
これが『才能』という単語を初めて耳にした瞬間である。
俺、矢式灯火はこの後の人生において、この『才能』に翻弄されることになる。
ただ、当たり前ではあるけれど。
この時の俺に、そんなことは知る由もなかった。
2歳児にして、俺はたった5日間でクロールを完璧にマスターした。短期教室の最終日、母親がインストラクターから熱烈な勧誘を受けていた。
初日から確信はしていたが、やはり彼の才能は本物だ。どうかうちに入会して欲しい。泳げるようにするためではなく、競泳選手として育て上げたい。責任を持って育成し、いずれは必ず日本を代表する選手にしてしてみせる。彼の才能を埋もれさせるにはあまりにももったいない。どうか――。
そんな言葉を並べ立てられて親が悪い気持ちになるはずがない。母親はその場で入会申請書を受け取って家に持ち帰った。夜に父親が仕事から帰宅してその話をすると、父親も諸手を挙げて入会に賛成した。
短期教室に参加させた理由は未だにわからない。けれど俺が持ち帰った僥倖は両親を狂喜させるには十分すぎるほどのものだった。
父親は俺の小さな頭をがしがしと乱暴に撫でながら言った。
「まさか灯火にこんな才能があったなんてな!」
この頃からよく耳にするようになった『才能』の2文字。母親も何度も口にしていた。
『才能』の意味をまだよくわかっていなかった俺だが、どうやらこれを持っていると周りは喜ぶものなのだとは理解できた。
俺は才能を持っているから、両親が喜ぶ。両親が喜ぶと俺も嬉しい。
いいものだ。ならば、この才能を、おもちゃよりも大切にしよう。
そう、思った。
俺は3歳になったばかりの9月からスイミングスクールに通い始めた。
通常、スイミングスクールの会員を指導するインストラクターは一定の周期でローテーションする。固定されるのは選手コースと呼ばれる、いわゆる競泳選手として育成しているコースのコーチだけだ。
だが俺には異例中の異例として、入会した時点で専属のコーチがついた。選手コースで指導している白田元志コーチである。
身長は170センチ程度だが体重が100キロを越える、良く言えば巨漢な、悪く言えば脂肪を大量に纏った人だった。
元々は競泳選手で、現役時代は全国レベルの大会でも上位に食い込む選手だったらしい。今の体型からはとても想像できないが。
性格は生粋の体育会系で、豪快なファイター気質な人だった。戦乱の世に生まれていたら将軍として兵士を指揮していそうなタイプだ。
相手が3歳児ながら配慮はあっても遠慮はなく、練習は厳しかった。そもそもまだ保育園にも通っていなかったのだ、親以外の大人と接する機会はほとんどなかった。水泳の練習よりも白田コーチとの接し方の方が最初は苦労した。
しかし、さすがは選手コースで指導しているだけあって、水泳の指導は一級品だったのだろう。練習は週に3回だったのだが、俺は入会した9月からわずか3ヶ月足らずでクロール、背泳ぎ、平泳ぎ、バタフライの4泳法をマスターしたのである。
この3ヶ月間もかなり苦しい日々だったのだが、これは、これから始まる競技生活の序章に過ぎなかった。
「お前の才能は本物だ。これからは競泳選手として育てる。歯を食いしばってついてこい」
年が明けた2002年1月。俺は一般会員から選手コースに移った。
今までは昼過ぎから50分だけの練習だった。しかし選手コースは18時四45分から21時まで、約2時間の練習を毎日するようになった。
そこは軍隊のような場所だった。年齢層は、上は高校生、一番下でも6歳だった。
このスイミングスクールは7コースあるわけだが、数字が増えていくにつれて選手のレベルが上がっていった。7コースは中高生ばかりで、まだ3歳だった俺は当然、1コースからのスタートとなった。
思い上がりがあったことは否めない。辛い練習を乗り越え、とんとん拍子で上達してきたのだ。選手コースに行っても誰にも負けないのだと思っていた。
誰にも勝てなかった。俺よりも遅い奴などひとりもいなかった。
その現実を受け止められなかった俺に白田コーチは言った。
「当たり前だ。こいつらは今まで『速くなる練習』をしてきている。お前のように『泳げるようになる練習』はとっくの昔に卒業しているんだ」
今となっては至極もっともな言葉なのだが、当時の俺は納得できなかった。
泣きながら強く訴えた。速くなりたい。誰にも負けたくない。いちばんになりたい。
「わかっている。その気持ちを忘れず練習についてこい。とりあえずは、お前が保育園に上がるまで2コースに上げてやる」
それまで白田コーチには『怖い人』という印象しか受けていなかったのだが、これを契機に『頼もしい大人』へと変化する。
実際、白田コーチの言葉は事実となった。全身が張り裂けそうなほどに厳しい練習を耐え抜き、俺は平均年齢が9歳の2コースへと昇格した。
2002年3月の末日のことだった。
そして、翌月の4月。
俺は保育園に入園して、出会う。
『才能』と同様に、俺の人生を語る上で絶対に欠かせない人物。
弓月星夜。
彼女もまた、俺とは別の才能を生まれ持った少女だった。
保育園の年少組で、明らかにひとりだけ異質な雰囲気を醸している少女。
その外見を一言で表せば、綺麗な少女だった。腰まで届く栗色の髪は毛先までピンと伸びていて、それを覆っている驚くほど線の細い背筋は、生身のものとは思えないほどに凛と伸びきっている。万物を射抜いてしまいそうな切れ長の瞳は、絵に描いたように美しい珠だった。
しかし、生まれつきなのか、3歳にして常に眉根にしわを寄せていた。目つきが悪く、常に不機嫌そうに見える。
ここにいる子どもたちのほとんどが、家族を除けば初めての集団生活だ。まだ勝手がわからず、多くの子どもがどぎまぎしている。
対して俺はスイミングスクールに通っているから、保育園よりも一足先に集団の中に身を置いている。入園したてとはいえ特に戸惑いはなかった。
それは弓月星夜も一緒だった。周囲からの干渉を金輪際拒否していそうな奴だったので誰も近寄らなかったが、物怖じしている様子は全くない。
いつもあんなにむっつりしていて、いったい何を考えているのだろう。単純に興味が湧いた。彼女の考えていることを知りたい。俺は他の子どもたちには目もくれず、初めて話しかける相手に彼女を選んだ。
机に頬杖をついて座っている彼女に声をかける。
「ねえ」
彼女は眉にしわを寄せたまま視線を俺に向けた。
「なに?」
胸が高鳴った。
彼女は綺麗な声の持ち主だった。山間を流れる清流のように澄んだソプラノ。
「なんでいつもこわいかおしてるの?」
今となってはいささか失礼な質問だったと思うが、そこは無知で無垢な子どもの言うことだ、許して欲しい。
「はあ?」
彼女は不機嫌そうな表情をさらに歪めた。なにか変なことでも言っただろうか、俺は小首を傾げていると、彼女は怪訝そうに俺の目を見ながら言った。
「あんたにいわれたくない」
言葉の意味をよく理解できなかった。
「どういうこと?」
「そのまま」
「だから、それがわからないんだってば」
食い下がると、彼女は眉根のしわを少しだけ緩めて、不思議そうに尋ねてきた。
「ほんとにわからないの?」
「うん」
即答する。本当に、彼女の言ってることがわからなかった。
やがて彼女は観念したように息を吐いて、答えを求める俺に、言った。
「あんただって、いつもだるそうなかおしてるじゃん」
「……ああ」
なるほど、と思った。そういうことか。
彼女の言う「だるそう」な顔をしているのは、きっとふたつの理由が起因している。
ひとつは、毎日の練習で疲れが溜まっているためだ。21時まで練習をしているのだから、就寝する時間は必然的に遅くなる。それに2コースに上がったばかりで、練習の内容もさらに厳しいものになった。それにまだ体が慣れていなかった。
もうひとつの理由は――
「なんていうか、すごくつまらなさそう」
どうやら彼女はこちらの意味で捉えていたらしい。正解だ。
退屈なのだ。保育園に入る前から競泳の世界に飛び込んで、選手として練習を始めている。あの稲妻のような激しい時間と比べれば、保育園はぬるま湯に浸かっているようで、物足りなさを覚えていた。
確かに練習は辛いけど、それでも俺はあの時間を求めている。だからだろう、明るい時間帯はどうも気が抜けているのだ。
とそこで、ふと気付く。
「ってことは、きみもつまらないの?」
「つまらない」
臆面もなくそう口にして、彼女は再び眉根にしわを寄せた。
「こんなやつらといっしょにいたらダメになっちゃう」
とんでもない物言いだなと思いながらも、確かに共感できる部分もあった。
この保育園は平和で、平穏で、居れば居るほど、夜の時間が恋しくなる。
「うん、そうだよね。おれも水泳をやってるから、ちょっとわかる」
紛れもない本音だったのだが、そう言った瞬間、彼女に強く睨みつけられた。
「バカいわないで」
怒りだった。いつものような不機嫌ではなく、確かな嫌悪感。
俺の背筋がぞわりと粟立った。
「どうせあんたはたいしたレベルじゃないんでしょ。わたしといっしょにしないで」
鋭い眼差しと強い口調で言われ、俺は何も言い返せなかった。
彼女の言うとおり、俺のレベルは全然大したものじゃない。ようやく最低ランクの1コースを抜け出したばかりで、7コースまでまだまだ遠い。
「ごめん」
俺は素直に謝った。彼女の言うことが正しいのだ、反論する余地がない。
彼女はふん、と鼻を鳴らして、俺から視線を外した。
もうあんたと話すことはない。無言の拒絶を幼心なりに察して、俺は悔しさと虚しさを噛みしめながら引き下がった。
初めて興味が湧いた異性にあっさりと追い払われてしまったこと。水泳のレベルの低さを指摘されてしまったこと。
一粒で二度苦い体験をした俺はその夜、いつも以上に練習に精が出た。感情が練習のパフォーマンスに影響を及ぼすという真実を初めて知ったのまた、この日だった。
俺も彼女もまだ3歳で、これからふたりがどういう人生を歩んでいくなんて、予想できるはずがない。
でも、俺たちは出会った。それだけは揺るぎない事実だった。
2002年、4月のことである。
俺の人生と、彼女の人生が確かに交錯して。
誰に気付かれるでもなく、俺たちの物語は始まったのだった。
彼女の才能が大々的に披露されたのは5月だった。
4月は園児たちの顔合わせの意味合いが強かったが、5月からはいよいよ保育園らしい時間が設けられていく。
年少組だけで、個人競技としてのかけっこではなく、チームを組んでのリレーが行われることになった。
チームは前日のうちに保育士によって決められた。年少組は男女合わせて16人。1チーム4人とし、女子が固まらないよう均等に分けられた。
俺のチームは男女ふたりずつで、弓月星夜も一緒だった。
俺は当時から自分が負けず嫌いだと自覚していたが、正直、このチームでは勝つのが難しいんじゃないかと思っていた。
保育園では朝と夕方に自由に遊べる時間が設けられており、多くの子どもが外で遊ぶ。おにごっこやかくれんぼ、ドッチボールが大半だ。もちろん、運動が不得意な子どもは室内で絵本を読んだり積み木で遊んだりしている。弓月星夜は後者だった。
保育園児くらいの幼い女の子は体がぷっくりと丸みを帯びているのが一般的だが、彼女は心配してしまうほどに線の細い子どもだった。ちゃんと栄養のある食事をとっているのかと疑いたくなるほどである。
そういった外見的な印象と、外で遊んでいるところを見たことがないことから、彼女は運動があまり得意ではないのかと思った。他のふたりも同様、あまり外で遊ばない子どもで、頻繁に外で遊んでいるのは俺だけだった。
負けるのは嫌だが、他のチームと比べて見劣りするのも事実。俺はどうしてもやる気が湧き出て来なかった。
そんな俺に対して彼女は言い放った。
「あんた、やるきないならやすんで」
「え?」
「わたし、まけるのきらいだから」
不意の叱責に戸惑った。
普段から鋭い眼差しが、より一層の迫力を醸していた。
「おれだってまけたくない。でもこのチームじゃむりだよ」
「だからやすんでっていってるの」
「おれがやすめばかてるの?」
「そう。わたしがあんたのかわりに2回はしるから」
「うそだ。おれのほうがはやいよ」
「うそついてるのはあんたでしょ。おにごっこしてるところみてるもん」
どうやら口から出任せを言っているわけではないようで、俺が実際に走っている姿を見た上での発言らしい。
だからこそ腹が立った。俺は水泳の才能があったが、走るのは速くはない。それでも女子に負ける気はさらさらなかったし、幼心なりにプライドがあった。
いまいち火付きの悪かった心がみるみる燃えていく。
「わかった。ちゃんとほんきだすよ。それでいいんでしょ?」
やる気が出てきたのは彼女にも伝わったようで、不満顔は崩さなかったがとりあえずは俺の参加を認めた。
続いて走る順番を決めることになったのだが、真っ先に手を上げたのは彼女だった。
「アンカーはわたしね」
俺たちは首を傾げた。
「あんかーってなに?」
「いちばんさいごにはしるひとのことよ。そんなこともしらないの?」
いちいち癪な物言いをする彼女に苛立ちが募ったが、特にアンカーにこだわりはなかったので申し出を飲むことにする。
俺は第一走者を務めることになった。
翌日。よく晴れた気持ちの良い日和だった。
みんなで準備体操をした後、早速レースが開始される。
園庭に石灰で描かれたレーンをひとり1周走る。距離は1周あたり約50メートル。3歳児にとっては決して短くない長さだ。
第1走者である俺は保育士の合図に従ってスタートラインに向かう。
その直前、弓月星夜が俺に声をかけてきた。
「ドベだったらゆるさないから。ぶっちぎりできて」
相変わらず小癪な態度である。言われるまでもない。
それにしても、彼女が勝ち気な性格なのはわかっていたが、こういった行事にやる気を出しているのが意外だった。普段から誰ともしゃべらないような奴だったし、外で遊んでいる姿を見かけたことがない。だからチームでの勝負事なんて無関心なのかと思っていたのだけれど。
ともあれ、彼女のおかげで火はついている。最初こそ彼女を綺麗な子だと思ったが、あまりにも無愛想で小生意気な実態を知って、今ではむしろマイナスの印象しかない。そんな奴にバカにされて、俺の負けじ魂は存分に奮い立っていた。
レースがスタート。
気持ちの乗った俺の体は普段以上の力を出せた。最初から先頭に立ち、僅差ではあったが1位を維持したままふたり目の男の子へとバトンを渡した。
「どうだ!」
息を切らせながら彼女に威勢よく言い放ったが、反応はなかった。右手を腰に当て、チームの戦況を相変わらず眉にしわを寄せて見守っている。
無視されたことに苛立ちを覚えたが、とりあえずは俺も戦況に目を移した。
第2走者の男の子はあっさりとひとりに抜かれてしまったが、どうにか2位で3人目の女の子へとバトントス。元々運動が得意じゃなかったわりには健闘したと言える。
しかし、3人目の女の子は明らかに遅かった。先頭チームとの差がどんどん開いていき、後続の走者にもぐんぐん追いつかれている。
さすがに少し焦り始めた俺は彼女に言った。
「おまえ、ぜったいにぬいてこいよ!」
やはり返事はなかったのだが、彼女は至って冷静だった。今もこうしているうちに3位になり、残り四分の一のところに差しかかったところで――
「あっ!」
思わず声を出したのは俺だけじゃない。他のチームの奴や、保育士も同時に声を上げた。
俺のチームの子が転倒した。普段から運動をほとんどしないのだろう、その女の子は不慣れな全力疾走をしたものだから足がもつれたのだ。
女の子はその場で泣き出してしまい、すぐに立ち上がれなかった。心配した保育士が駆け寄っていく。
もう勝負はついた。完敗だ。
完全に諦念が頭を支配した。
「はやく!」
しかし、そんなものは一瞬で吹き飛んだ。誰かの怒声が耳をつんざいた。
声の主はすぐにはわからなかった。
「はやくきて!」
2回目でようやく認識する。
弓月星夜だった。
「なくのはそれからにしてっ!」
彼女は手を伸ばしていた。その先には倒れている女の子の、右手に握られているバトン。
その場にいた全員が面食らっていた。普段は無愛想で誰とも話そうとしない彼女が大声を出している。バトンをよこせと叫んでいる。
「はやくってば!」
その鬼気迫る形相に、倒れている女の子は恐怖が痛みを上回ったのだろう。まるでライオンを目前にしたネズミのような素早い動きだった。逃げ出すのではなく駆け寄っていったので行動自体は真逆だが。
それでも、先頭チームとの差は半周以上開いていた。
勝利は絶望的だった。誰もがそう思っていた。
ようやくバトンが弓月星夜に渡る。
次の瞬間、俺は自分の目を疑った。度肝を抜かれた。
端的に言って、彼女は足が速かった。そのスピードが尋常じゃなかった。言葉を失った。頭が真っ白になった。
普通、保育園児の全力疾走なんて、がむしゃらに両手を振って、とにかく足を早く動かすものだ。
だが彼女は違った。細い背筋はまっすぐに伸び、すらりと伸びた手足がまるで機械の歯車のように規則正しく前後している。
時を刻んでいるようだった。彼女の手足が、世界の時を刻む振り子のように見えた。
長い栗色の髪は一切上下しない。風が強い日に掲げられた旗のように一定の形状を保たれていた。エンジンでも隠されているのではないかと疑う。
彼女は俺と同い年だ。3歳児だ。
でも、彼女が同じ人間だとは思えなかった。人間の姿をした風なんじゃないかと思った。
だって、そうだろう?
あっという間に3位、2位へと順位を上げ、30メートルくらいあった先頭との差が、残り5メートルのところでゼロになったのだ。
そして彼女がゴールしたときには、2位との差が3メートルはあったのだ。
こんなのおかしい。速いなんてものじゃない。
本当に、おかしかった。
「ふん」
最下位から一気に逆転優勝してみせた彼女は、普段と何ら変わらぬ不機嫌そうな表情で徐々にスピードを緩めていく。
やがて彼女が止まると、瞬間的に歓声が沸き起こった。みんな彼女に詰め寄っていった。あっという間に見えなくなった。
それはそうだろう。今まで「なんかいつも怖い顔してる人」という印象しかなかった彼女が、実はジェット機のように速い足の持ち主だったのだ。
いったいどうやってあの速さを身につけたのか、どうして今まで黙っていたのか。
矢継ぎ早に質問が飛び交う。同時に賞賛の嵐も吹き荒れる。
一瞬だけ、ちらりと彼女の姿が見えた。戸惑うわけでも、誇らしげにしているわけでもなく。
ただいつも通り、不機嫌そうに口をつぐんでいる。
彼女のそんな佇まいがとても印象的で。
俺はひとり、呆然と立ち尽くしていた。
その夜、俺は珍しく寝付きが悪かった。
厳しい練習を毎日しているのだから、普段は布団に入った途端に眠りに落ちる。それなのに、頭の中で今日の出来事がぐるぐると回っていた。
弓月星夜。彼女は陸上の才能を生まれ持っていた。
種類は違えど、自分以外にも才能を持った者がいた。
言葉では形容しがたい気分だった。少なくとも、3歳児の俺にはこの気持ちが何という名前の感情なのかわからなかった。
嬉しいような、悔しいような。
苛つくような、悲しいような。
彼女の走る姿が、写真を現像したかのように頭に張り付いてしまった。
離れない。彼女が50メートルを走り抜けたほんの数秒と。その後、みんなに囲まれてもなお平静な態度が。
幾度も、幾度も頭の中でリピートされ続けた。
いったいどれだけ繰り返したかはわからない。しかし何十回、何百回とリピートしても、飽きは全く訪れなかった。
結局、俺はいつの間にか眠りに落ちたのだが、その夢の中でも彼女の走る姿が繰り返され続けたのだった。
次の日になっても彼女は年少組全員の子どもに囲まれていた。すっかり年少組のスターとなっていた。もちろん、彼女の性格を考えると不本意以外の何物でもないだろう。
元々が負けず嫌いな性格なんだろうが、彼女は陸上の才能を持っていた。だからリレーとは言え、陸上競技で負けるわけにはいかなかったのだ。
その結果がこれだ。本人はものすごく嫌がっており、強い口調で群がってくる子どもたちを追い払おうとしている。
しかし子どもたちは引き下がらなかった。どうやら「しんえいたい」として彼女を護衛するとかなんとか口々に申し出ている。もはやスターというかアイドルに近い扱いだ。
そんな光景を、俺だけは遠目で眺めていた。
黙って、彼女を眺めていた。
何も考えていなかった。無心で眺めていた。
ただ、なんとなく、面白くない気分だったのは覚えている。胸がもやもやしているような、どうにもスッキリしない感覚。
そんな風に第三者の視点から見ていたためか、彼女がだんだんと我慢の限界に近づいているのを察した。普段から不機嫌そうにしているくせに、堪忍袋の緒が切れるのを我慢しているのが少し疑問だった。
やがて観念したのか、彼女は大きくため息を吐くと、いつものように机に頬杖をついて座った。相変わらず眉根にしわを寄せているのだが、そのしわが1本増えたように感じたのは俺の気のせいだっただろうか。
どうやら無視を決め込むことにしたらしい。それから彼女は何度話しかけられようと、絶対に返事をしなかった。
今までも、話しかけられてもまともに取り合わなかったが、それでも「いらない」とか「別に」などと言った素っ気ない返事はしていた。しかし今は完全に無視している。質問も、世間話も、遊びの誘いも、彼女はまるで銅像のように無反応だった。
子どもは無邪気な生き物だから、無視されようとお構いなしに接し続けた。
しかし、彼女の辛抱強さは3歳児とは思えないほどに1級品だった。
とにかく無視し続けた。誰に何と言われようと反応はしない。そのスタンスを来る日も来る日も貫いた。
それが功を奏してきたのは6月の終盤。梅雨の時期に入った頃からだ。いくら無邪気な子どもでも、1ヶ月以上も反応がなければ飽きが来たのだろう。
ひとり、またひとりと離れていく子どもたち。何日間も雨天が続き、外で遊べない日々が続く。じめじめとした湿度の高い気候が助長したのか、子どもたちの彼女に対する熱は冷めていった。
そして彼女にとって待ち侘びた瞬間が訪れる。7月中旬、ついに彼女の周りには誰もいなくなった。これでようやく彼女も少しは気が楽になるのだろう。ずっと傍観者の立場を維持していた俺でさえ奇妙な達成感があった。
鬱陶しいことこの上ない連中が去っていき、ひとりの時間を取り戻した彼女。
だが、そのタイミングで予想外の行動を彼女はとる。夕方の自由時間に差しかかり、いつものように屋外へ出ようとしたとき。彼女は待ち侘びた安寧を自ら手放すように、あろうことか、なんと俺に話しかけてきたのだ。
「ねえ、ちょっと」
「なに?」
「ひとつききたいの」
2002年、7月。梅雨明けまであと少し。
保育園に入園して初めて、本格的な夏が始まる時期だった。
「どうしてみてるだけだったの?」
責めるような口調と怒りの滲んだ視線に、しかし俺は逃げずに答えた。
「なにが?」
「とぼけないでよ」
「いつもいろいろみてるよ」
「だからとぼけないで!」
ヒステリックな声に室内で過ごしていた子どもたちの注目が集める。ところが彼女は一切気にする様子はない。
「じゃまくさいこたちがわたしのところにうじゃうじゃきてたとき、あんたはみてただけだった」
「それがなに?」
「わたしになにかいいたいことあったんでしょ」
図星だったために俺は口をつぐんでしまう。まだ3歳児だった俺にはとぼけ通す術を心得ていなかった。
仕方なく、適当に答える。
「あいつってあしはやいんだなーっておもってただけだよ。すげえなーって」
「それだけじゃないでしょ」
「なんでわかるの」
「ほんとうにそれだけなら、あんたもうっとうしいこたちといっしょにきてたはずだもん」
「なんだそりゃ」
とは言ったものの、まあ確かにそうだな、とも思っていた。でも俺は見ていただけだった。だから俺が気になった。あるいは、気に入らなかった。
「どっちにしても、べつにいいでしょ」
少なくとも彼女の言う『うっとうしいしいこたち』には該当しないはずだ。
けれど彼女の目つきがどんどん険しくなっていく。
「なんかむかついたの」
「むかついたって、なにが」
「わたしのさいのうをなんともおもってないかとおもうと、なんかむかつく」
どきっとした。まさか彼女の口から『才能』が出てくるとは思っていなかった。
「おとうさんもおかあさんも、りくじょうクラブのコーチも、みんなはじめてわたしがはしってるところをみたら、ぜったいによろこんでくれた。なのにあんたは、びっくりしただけで、そのあとはみてるだけだった」
怒りに加え悔しさを滲ませた眼差しでそう言われ、俺はようやく得心がいった。
彼女の足は異常に速い。陸上クラブに通っていることから練習の賜物でもあるのだろうが、それでも生まれつき群を抜いていたに違いない。両親もクラブのコーチも、初めて彼女の足の速さを知ったときはさぞ驚いただろう。賞賛しただろう。「この子には才能がある」と口にしたのだろう。
そんな反応が、彼女にとっては当たり前だった。うじゃうじゃ寄ってこられるのは鬱陶しい。でも、賞賛されないのも、彼女曰く「むかつく」。
「ふふっ」
俺は思わず吹き出してしまった。
「はっ? なんでわらうの!」
彼女の憤りはもっともだ。失礼極まりない態度だと自覚していた。
でも笑いが止まらなかった。こらえられなかった。
安堵した。曇天のようにもやもやしていた気分が晴れ渡っていった。
「いやー、よかったよ」
「なにがよかったのよ」
わけがわからず苛立ちを隠せない彼女に、俺は言った。
「おまえ、すましてただけなのな」
『澄ます』の意味がわからなかった彼女はその場では不可解そうに眉根をひそめるに留まったが、後に保育士に意味を教えてもらうなり怒りをぶつけてきた。どういう意味だと詰問された。
俺はいい加減な態度で受け流した。答えられるはずがなかった。俺の気持ちを悟られるわけにいかなかった。
嫉妬していたのだ。彼女の生まれ持った『才能』に、ではなくて。それを鼻にかけず、さもそれが当たり前のように平然としている彼女に、だ。
まるで別次元の住人のように思えた。とても同い年とは思えなかった。
でも、彼女はちゃんと子どもだった。等身大の3歳児だった。ほっとした。
そんな、恥ずかしくて情けない俺の気持ちなど、絶対に知られたくなかった。
翌日、俺の住んでいた地域の梅雨明けが気象庁から発表された。
いよいよ夏が始まった。
彼女の本心を知って、俺は彼女に対して急速に親しみを覚えるようになった。逆に彼女は俺に対し不信感を募らせていた。元々無愛想で誰とも話そうとしない彼女だが、俺の気持ちを知られるわけにはいかなかったし、これは仕方のないものだと思っていた。
話をしたいわけでも仲良くしたいわけでもない。ただ、彼女とは近しい存在でありたかった。
どうしたら叶えられるのか、毎日のように考えてみるが全く思いつかない。
時間だけはどんどん過ぎていき、外を歩いているだけで汗が噴き出してくる7月下旬。保育園で水泳の時間が設けられた。
周りの子どもたちは大層喜んでいたが、水泳はもはや競技としか思えない俺にとっては大した感慨はなかった。正直、面倒くさいとすら思っていた。
ところがその日の夜、スイミングスクールでの練習中に右耳に鋭い痛みが走った。練習を途中で切り上げ、翌朝に母親に連れられ耳鼻科で診察を受けた。
軽度の中耳炎と診断された。激しい水泳の練習をしていると、どうしても誤ってプールの水を飲んでしまうことがある。それが原因で咽頭が炎症を起こし、耳へと影響が波及したようだ。医師からは最低でも1週間はプールに入るなとの厳命を受けた。
俺は嫌がった。1週間も練習を休んでしまえば体が訛ってしまうことを、俺は3歳にして理解していた。以前、高熱を出して練習を休んだときに身をもって痛感した。
しかし、他ならぬ白田コーチから練習の禁止令を受けてしまった。無理に練習をして症状を悪化させるなんて愚の骨頂だと、極めて正論な言葉を受け入れるしかなかった。
俺は泣く泣くスイミングスクールを休むことにした。
当然、保育園での水泳の時間も見学に回った。しかし、これはこれで、むしろ見学で良かったと思った。予想はしていたが、水泳というよりかはただ単にプールではしゃぐだけの時間だった。はっきり言ってしまえば、つまらない。
ただスイミングスクールの練習に参加できなかったのは悔しかった。我慢の日々を過ごし、悠久とも思えるほど長い1週間が過ぎた。
中耳炎は完治しドクターストップが解かれ、俺は心の奥底から喜んだ。高熱を出したときもそうだったが、泳げないことが俺にとっては最大の苦痛だと痛感する。
俺は初めて水着を持って保育園に登園した。こっちの水泳の時間はむしろ億劫だったのだが、保育士がこんなことを言った。
「今日はチームを組んで競争をしましょう」
つまりはリレーだ。泳げる子は泳ぎ、泳げない子は水中を走るという、いかにも保育園らしい競争だ。
俺の気持ちは一転、瞬時にしてやる気に充ち満ちた。リレーは勝負だ。競泳だ。
弓月星夜が初めて陸上の才能をお披露目したあの日、彼女もきっとこんな気持ちだったのだろう。
負けるのは嫌いだ。それが水泳となれば尚更だ。沸々と闘争心が滾る。
まずはチームが組まれる運びとなった。あの時と同様、4人ずつの4チームという編成だ。
ただしチームの決め方が今回はクジだった。前回は保育士で決めたのに、どうして今回はクジなのだろうか。そんな疑問を抱えながら俺はクジを引き、チームが決まった。
いったい何の因果律か。
またも弓月星夜と同じチームとなったのだった。
嬉しい気持ちがあった反面、気まずい気持ちも少しあった。1週間以上前から俺に不信感を抱いている彼女が、果たしてチームメイトとして勝利に協力してくれるだろうか。
「やるからにはかつのよ。あんたはプールならってるんだからアンカーね。てかげんなんてなしだよ」
杞憂だった。彼女のこういった勝利への執着心はとても清々しい。
一流のアスリートなら、勝負事に私情を挟むことは絶対にないと白田コーチから聞かされたことがある。例えばサッカーのようなチームスポーツはチームワークが非常に重要となる。たとえチームメイトに気に入らない奴がいようとも、勝利のためならパスを出すしフォローだって惜しまない。
当たり前のような話だが、感情に生きるのが人間だ、難しい場面だってあるだろう。つい先ほど、俺は彼女と同じチームだと知って『気まずい』と感じてしまった。この時点で勝利への執着が薄れてしまっている。
対して彼女は勝利を第一に位置づけた。俺とは勝負に対する姿勢がまるで違う。同じアスリートの卵として、感心せざるを得なかった。
レース本番直前。入念に準備を体操を行っている彼女に尋ねた。
「おまえ、あしはメチャクチャはやいけどおよげるの?」
この1週間、プールサイドからみんながはしゃぐ光景を眺めていた。しかし彼女は誰とも絡もうとせず、プールの隅っこでぶすっとしているだけだった。予想通りの行動だったので特に驚かなかったが、おかげで彼女の水泳の実力は未だわからないままだ。
両肩の関節をぐるぐる回してほぐしていた彼女は、相変わらず眉根にしわを寄せたまま俺を見て答えた。
「カエルおよぎならできる。じぶんがちょっとおよげるからってバカにしてるの?」
立場が逆になっても癪な物言いは変わらないのが彼女らしいと思った。あと、平泳ぎをカエル泳ぎと言っているのが彼女らしくなくて少しおかしかった。
「なんでわらってるの! やっぱりバカにしてるんでしょっ」
「ん、ごめん」
決してバカにしたわけではなかったが彼女にとっては同じだ。俺は素直に謝った。
それがかえって彼女の怒りに油を注いだ。
「ほんっとむかつく!」
考えてみれば当然だ、俺は彼女をバカにしたことを認めたのだから。
「いや! ちがうよ!」
「もういい! あんたはさっさと向こう行って!」
今更試みた言い訳など受け入れられるはずもなく、俺は少し落ち込みながらプールサイドの反対側へと歩いた。
このプールは全長が15メートルあり、現在はリレー用にコースロープで4コースに区切られている。ひとりが片道の15メートルを泳ぎ、次の泳者にバトンタッチする方式だ。
円形のビニールプールしか知らない子どもにとっては大きなプールだと感じるだろうが、25メートルに慣れている俺にとってはかなり小さく感じる。
それでも、まあ半分の7メートルくらいの差なら負けていても追い抜ける自信はあった。
保育士の合図で第1泳者がプールに入る。やがてレースが開始され、4人が一斉に壁を蹴って体を押し出した。
俺のチームの第1泳者は弓月星夜だった。自分で言っていたように、確かに平泳ぎの形になっている。4人の中でもトップだ。
スイミングスクールの選手コースに身を置く俺からすればあまりにも刺激の少ないレースだが、それでもやるからには勝ちたい気持ちが強かった。5月に彼女が初めて陸上の才能を披露したときもこんな気持ちだったのだろうか。
その彼女は2位に2メートルほどの差をつけて真ん中を通過した。断トツ1位だ。
「あいつ、すいえいもふつうにできるのか」
にわかに悔しさを覚え、無意識のうちに独り言がこぼれ落ちた。あれだけ足が速いのに泳ぎもできるのか。
とは言ったものの、不慣れな水泳には変わりない。後半から目に見えて減速した。それを自覚しているのだろう、焦りが泳ぎに表れた。明らかに力んでいる。
水泳はただ力を込めればいいわけじゃない。力の加減が重要な水泳だ、あんながむしゃらな泳ぎでは危険なだけだ。俺自身も経験があるからよくわかる。足をつったり水を飲んだりしなければいいけれど。
「あっ」
そんな俺の悪い予感は的中した。彼女が急に立ったと思ったら、口を押さえながら激しく咳き込んだのだ。左手でコースロープに掴まり、顔を大きく歪め、何度も何度も咳き入っている。
元々、泳げない子どもは走って進む形式のレースなのだ、失格にはならない。しかし、いくら時間が経っても彼女は泳ぎを再開しなかった。できなかった。
ようやく咳が収まっても、激しく咳き込めば吐き気を催すものだ、今度はひどく苦しそうな表情でえづいている。辛うじて嘔吐を我慢しているようにも見えた。
「うわ、はなみずたらしてる!」
「きったねー!」
聞こえるのは心ない嘲笑。うるさい、と口にしようとして、どうにか押し留める。
3歳児がこれだけ呻吟しているというのに、保育士は助けにいこうとしなかった。
それもそのはず。彼女は苦しみに喘ぎながらも、鋭い視線に揺らぎが見られなかったのだ。勝負を途中で諦めるわけにはいかない。リタイアなんて絶対に嫌だ。何が何でも次の人にバトンを渡す。そんな思いがはっきりと見て取れた。
入園して3ヶ月も経てば保育士は園児の性格を掴んでくる。ここで助けに向かったところで、彼女が拒絶するのは火を見るよりも明らかだった。
しかし当然、順位はとうに最下位まで落ちている。残り5メートルのところでうずくまっている間に、他の3チームは第2泳者に移っていた。
実に2分近くの時間を費やして彼女がレースを再開したときには、先頭チームの第2泳者は既に真ん中を通過していた。
彼女が15メートルを泳ぎ切り、自チームの第2泳者がスタート。
泳ぎ終わった子どもはすぐにプールサイドに上がることになっているのだが、彼女はなかなか上がってこなかった。俯いていた。額を壁に押し付けていた。拳を強く握りしめていた。肩が、小刻みに震えていた。
「はやくあがっておいでよ」
俺が手を差し伸べると、彼女はそれを一瞥しただけで自力で上がってきた。ずっと俯いたままだったから顔は見えなかった。依然として肩が震えていたから、怒っているようにも見えたし、泣いているようにも見えた。多分、両方なのだろうと思う。
それはともかく、レースは続いていた。先頭チームはアンカーがスタートしたところだ。俺のチームは第3泳者が五メートル地点を通過したところだ。
彼女が大差をつけられたが、それでも第2泳者と第3泳者は諦めずに必死に泳いでくれた。順位は変わらないが差が縮まっていた。それでもトップとの差は現時点でおよそ10メートル。逆転するには絶望的な差だ。
「もうあそこのチームはドベだね」
「しょうがないよ、はなみずおんながおぼれたんだもん」
子どもはときに残酷だ。容赦なく真実を突きつけてくる。
ともあれいよいよ自分の出番だ。雑音は無視してゴーグルを装着し、軽くストレッチをしていた。
そのときである。
「ごめん、なさい」
耳を疑った。一瞬、自分の耳がおかしくなったのか思った。中耳炎が悪化したのか、と。
「わたしのせいで……!」
背後から聞こえる、山間を流れる清流のように澄んだソプラノは、少しだけしゃがれていた。いつもの凛とした声音は影を潜めていた。
俺は後頭部を思いっきり殴られたような感覚に陥った。当時の俺は3歳で、彼女も3歳だ。同じ年に生まれ、同じ時間を生きてきた。
でも、同じアスリートの卵として、ここまで差があるのかと思い知った。
俺は負けず嫌いだ。勝ちにこだわるし、負けたらものすごく悔しい。だからドッチボールで負けたら敗因の根を糾弾する。「お前のせいで負けた」と責任転嫁する。八つ当たりをする。たとえ敗北の原因が俺にあったとしても、だ。
彼女は違った。素直に自分が敗因と認め、謝ってくる。自ら悪者になろうとしている。本当は悔しいはずなのに。負けず嫌いな彼女が、他ならぬ自分のせいで負けようとしているのが、たまらなく許せないはずなのに。
俺に謝ってくるなんて、屈辱以外の何物でもないはずなのに。
俺も彼女も3歳児だ。けれど、とても同い年とは思えなかった。惨めな思いをしている彼女を見て、俺自身がより惨めったらしく思えた。自分の器の小ささを思い知った。
震え上がった。全身が粟立った。
「ほんとに、ごめんなさ――」
「ばーか」
背後からの声を遮った。彼女が驚いたのを感じた。
「さは10メートル……ううん、9メートルくらいになってるじゃん」
「だから、もうかてないって――」
「うるさいな。きがちるからはなしかけないでよ」
「なっ」
「なんで9メートルのさがあるとかてないの? なんであきらめちゃうの?」
「だって!」
「だってじゃないよ」
彼女の怒りを背に受けながらプールに入った。第3泳者が残り2メートルまで迫っていた。
バトンタッチを受ける直前、振り返らずに言う。
「これくらいのさ、よゆうだよ」
第3泳者のバトンタッチを受け、俺は壁を思いっきり蹴った。
クロールを泳ぎながら、俺はかつてないほどのやる気が自分の中で躍っているのを感じた。まるで妖精が力を貸してくれているような、自分以外の何かが俺の体に宿ったような。
今なら他の誰にも負けないような気がした。ベストタイムを更新できること間違いなかった。
5月の、彼女と同じチームでリレーをやったときのことを思い出す。俺は第1走者として走り、1位で第2走者にバトンを渡した。ところが第2走者が抜かれ、第3走者が転倒してどんどん先頭と離されていった。
そのときの俺の言葉。
『おまえ、ぜったいにぬいてこいよ!』
違うだろう? と、あのときの自分に言ってやりたい。
第2走者が抜かれた? 第3走者が遅かった? 関係ない。
自分がもっと速く走れば良かったのだ。彼女の要求通りぶっちぎりの1位で帰ってきて、もっと余裕を持って次にバトンを渡せば良かったのだ。それなのに俺は、あたかも自分は何も悪くないとでも言うように、責任を他のメンバーに押し付けた。俺は1位で帰ってきたんだから、俺にはなにも責任はないだろう、と。
そして、第3走者が転倒したとき。俺は諦めた。勝利を諦めた。転んだあいつが悪いんだと他人のせいにして、敗北を受け入れようとした。
結果として優勝したわけだが、今にして思うと有り得ない。俺がもっと速く走っていれば、あそこまで絶望的な差は開かなかったはずだ。
俺は彼女に救われた。彼女の類稀な才能に助けられてしまった。今更になって、恥ずかしく思う。
『もうあそこのチームはドベだね』
『しょうがないよ、はなみずおんながおぼれたんだもん』
ここで負けたら、その鼻水女は大きな傷を負うのだろう。救われぬまま、今後の保育園生活を送っていくのだろう。
気の強い彼女のことだ、それくらいの批難は物ともせず生きていけるのかもしれない。
それでも、屈辱だろう。悔しいだろう。自分が情けないだろう。
俺は一度救われた。だったら、俺はその恩を返さずにはいられない。
全力で泳ぐ。久々に泳いだものだから、フォームが少し崩れているのがわかる。掌がうまく水を掴めていない。どうも足が空回っている。
でも、速く泳げた。今まで一番、速く泳げている自信があった。
負けたくない。彼女を、負かしたくない。
自分のためではなく、チームのために負けたくないと思えたのは初めてだった。
とにかく自分の泳ぎに集中した。隣のコースなど眼中になかった。自分の泳ぎに集中さえすれば抜ける自信があったからだ。
無我夢中で泳ぎ切り、壁にタッチ。
水面から顔を出す。呼吸を整える。ゴーグルを外す。
しんと静まり返っていた。この世から音が消えたのかと思った。無音の世界だった。
しかし次の瞬間、大喝采が沸き起こる。怒濤の歓声が俺の鼓膜を囲い込む。
その歓声の矛先が俺に向けられていると気付くまで、数秒の時間を要した。
当然だが、男子と女子は着替える場所が違う。男子は年少組の保育室で着替えていた。一躍ヒーローに成り上がった俺の周りにはたくさんの人だかりができており、鬱陶しいことこの上ない。優越感なんてまるで湧かなかった。
そんなときである。急に、勢いよくドアが開かれた。
「やしきひび!」
振り替えると、そこには鬼のような形相をした、しかし整った容姿の少女が目に入った。
弓月星夜だった。大急ぎで着替えたのだろう、腰まで届く長い髪がほとんど拭かれていない。
彼女はまだ男子が着替え真っ最中だというのにずかずかと保育室に入ってきて、俺の目の前で立ち止まる。
「ちょっときて!」
言って、俺の腕を掴んで強引に部屋の外まで引っ張られ、それでも足を止めずにずんずんと廊下を進んでいく。途中で抗議をしたが当然の如く受け入れられず、問答無用で下駄箱まで連れられてしまった。
「どういうこと!」
唐突にそんなことを言われたのだが、何を指しているかはわかっていた。
「だから、すいえいならってるっていってたでしょ。おまえもしってたじゃん」
「ひびがあんなにはやいなんてきいてない!」
「はやくなんかないよ。おれよりもはやいひとなんていっぱいいるもん」
もちろん、みんな年上ではあったけれど。
「それに、おまえもあしがはやいじゃんか」
「その『おまえ』ってよびかたいやだ!」
「は?」
いきなり呼び方の指摘を受け、思わず間抜けな声を出してしまった。
「わたしはあんたをなまえでよんだよ!」
言われて気付く。確かに、彼女から名前で呼ばれたのは初めてだった。
「だからひびもなまえでよんで!」
「わかったよ。せいやでいい?」
彼女は頷き、話を元に戻した。
「それで、なんであんなにはやいの?」
「なんでっていわれても」
「プールにかよってるんでしょ?」
「そうだよ」
「まいにちれんしゅうしてるの?」
「うん。にちようびいがい」
とそこで、彼女は考えるように少し俯いた。
「まいにちなんだよね?」
「うん。まいにち」
「れんしゅうはきつくないの?」
「そりゃ、きついよ」
「きついのに、なんでがんばれるの?」
このとき、彼女がどういうつもりでそんな質問をしたのかはわからない。
けれど、彼女の目は真剣そのもので。
だからだろうか、俺の口からは本音がこぼれ落ちた。
「だって、まけるとくやしいもん。かつとうれしいもん」
彼女は無表情で聞いていた。
「おれ、『さいのう』があるんだって。これがあるとね、すごくはやくなれるんだって。おとうさんもおかあさんもさ、すげえよろこんでくれる。だから、まだおれよりいっぱいはやいひとがいるけど、みんなよりはやくなりたいんだ」
実に単純な言葉だった。当然だろう、当時の俺は3歳児だった。純粋で、無垢な精神の持ち主だった。
それが起因したのかはわからない。しかし、言い終えたとき、俺は目を疑った。胸が打ち震えた。
目の前の、弓月星夜の表情が、初めてみせるもので。
太陽を直視できないのと同じように。視界に入れるにはいささか光が痛くて。
「すごい!」
魂の穢れをたちまち浄化してしまいそうな、思わず目を背けてしまうほどに眩しい笑顔。普段のむっつりとした表情とは正反対だった。
何が、と尋ねる暇もなく彼女は続けた。
「わたしといっしょ! ひびも『さいのう』があって、だれにもまけたくないんだ!」
喜色満面とはまさに今の彼女のためにある言葉だった。
「すごい! ほんとにすごいよ! いっしょだよっ!」
彼女が俺の手を取った。
どきっと胸が高鳴った。鼓動が聞こえてしまうのではないかと心配になるくらいに、胸の奥がうるさかった。
はっきり言って、惚れてしまった。
「まさかおなじひとがいたなんて!」
傍から聞けば意味不明だろう。はっきり言って言葉足らずだ。
けれど、俺には通じた。何を喜んでいるのかを、俺は理解できた。
「うん、いっしょだね」
だからそうやって答えると、彼女ははち切れんばかりの笑顔を湛えた。
「ねえひび!」
「なに?」
「けっこんしようよっ!」
さすがに目を丸くした。でも、それもほんの3秒ほどだ。
俺は笑顔で答えた。
「いいよ」
「ほんと? ほんとにいいの!」
「うん」
「やった! やったあ!」
俺の手を握ったまま激しく上下させる。
正直、結婚という言葉の重みを理解しきれていなかったのは否めない。何せ3歳児である。でも、漠然とは理解していたつもりだ。
好きな人と一生、一緒にいること。
それが結婚。あながち間違っていなかったのではないかと思う。
綺麗で、俺と同じように『才能』を持っていて、普段は不機嫌そうでも笑うととても眩しい女の子。そんな彼女と一緒にいられるなんて、この上ない幸せだと思ったのだ。
その申し出を承諾された彼女は喜びを爆発させていた。とにもかくにも、笑顔だった。どこまでも笑顔だった。
「ぜったいだからね! 30さいまでけっこんするんだからね! 30さいをすぎたらけっこんしないからね!」
「なんで30さいなの?」
「いくらすきな人でも、30さいをすぎるとすきってきもちがわからなくなるっておかあさんがいってたもん」
「ふーん?」
好きなのに、好きじゃなくなる?
よく意味がわからなかったが、まあ彼女がそう言うのなら断る理由がなかった。
「わかった。じゃあ30さいまでにけっこんしようね」
「うんっ! ありがとう!」
「こちらこそ、ありがとうだよ」
「あ、ひびのたんじょうびっていつなの? おしえて!」
「おれは8がつ25にちだよ」
「うそ! わたしといっしょ!」
「ほんとに? すごいじゃん!」
「すごい! すごいよっ! わたし、すごくすごくしあわせ! ありがとね、ひびっ!」
心の隅々まで幸せがいっぱいに広がって、俺たちは笑い合った。
彼女は俺が好き。俺も彼女が好き。
それ以上でもそれ以下でもなく。
この気持ちだけは紛れもなく真実で、俺たちのすべてだった。
幼く、他愛もない約束。
生まれて間もない3歳児が交わし合った愛の契りは、見渡す限りに真っ白で。
これから俺たちが世界に馴染んでいくにつれて、様々な色が塗られていくわけだけど。真っ白なままではいられないけれど。
願わくは、鮮やかな色彩に彩られていきたいと、ふたりは揃って願う。
矢式灯火と弓月星夜の物語は、ここから始まる。
弓月星夜との出会いを語るにあたってまず話さなければならないもの、それは『才能』だ。
俺は3歳になる直前の夏からスイミングスクールに通っていた。初めは夏休み期間中に行われていた、会員じゃなくても受けられる短期教室に参加した。
どうして短期教室に参加したのかは覚えていない。俺が両親に水泳を始めたいと申し出たのかもしれないし、両親が習わせたいと思ったのかもしれない。
他に誰も知り合いがいない未知の空間に放り出され、やたらと愛想笑いを振りまいてくるインストラクターを目の前にして一抹の不安を覚えていたのは事実だ。
でも、そんなものは広大なプールを目にしたことで瞬時に吹き飛んだ。
スイミングスクールに行くまでは、プールとは円形のビニールを空気で膨らませるものという認識しかなかった。当時はまだ体が小さかったからその広さで十分だったが、父親は足を折らなければプールの枠に収まらなかった。
しかし、25メール×7コースのプールを見て、俺はひどく興奮した。
大人でも何百人と収容してしまいそうな巨大な器に、俺はなぜか自然の雄大さに感動したような感覚に陥った。そもそもプールという時点で立派な人工物だし、水だって大量の消毒薬が混ぜられているのだから自然とはかけ離れているのだけど、まあ幼心が訴えてきたのだからしょうがない。
大量の水に不安は吸い込まれ、俺は泳げもしないのにインストラクターの制止を振り切って無心でプールに飛び込んだ。
体が自分の支配下から離れた。足が床に着かなかった。目に急激な痛みが走った。鼻の奥が鋭く軋んだ。呼吸ができなくなった。
つまりは溺れたのである。当然の結果だった。
慌てて飛び込んできたインストラクターが俺を救い出したのだが、その時の俺の顔を見て驚いていた。
笑っていた。死にそうなほどの苦しみと恐怖に襲われたのに、俺は歓喜していたのである。
水の中は普段生きている地上と違って全くの別世界だった。もうひとつの世界がそこには広がっていた。この世界を当時の俺は、自分のものにしたいという、幼くも野望にも似た衝動に駆られたのだった。
短期教室5日間にわたって行われるもので、通常の会員が受けている練習と違って駆け足で技術を学ばせるものだ。フォームの形は最低限しか教えず、形は悪くてもとにかく泳げるようにする。要は「うちに通えば立派に泳げるようになりますよ」というアピールだった。これで保護者の信頼を勝ち取り、通常の会員として入会させるのが目的である。
ただし、2歳という年齢では水に浮くことすらなかなか難しい。巨大なプールに怖れて入水すらできない子どもだって少なくない。親と離れた不安と寂しさで泣き喚く子どもも多い。だから初日はまず水に慣れるのが目的であった。
しかし、前述のように俺はプールに対して恐怖心などまるで抱いていなかった。親と離れた不安などとっくに吹き飛んでいる。
早く泳げるようになりたい。そんな気持ちが頭の中を染め上げていた。
1回あたりの練習時間は50分。他の子どもがぐずついて入水すらできていない間、俺は業を煮やして再度プールに飛び込んだ。やはり溺れ、すぐにインストラクターに救い出された。
またも俺は歓喜した。水中は凄い。ゴーグルなんてしていなかったから視界はものすごく悪かったが、それでも水中に居るという自覚が俺の心を激しく躍らせた。
インストラクターからすれば問題児以外の何物でもない子どもだっただろうが、そう思わせるのも目的のひとつだった。
俺は水なんか怖くない。顔をつけることも、水中で目を開くことも既にできる。こんな冴えない連中と同じ班なんて嫌だ。
とりあえず初日だけはその班で過ごしたが、翌日からひとつ上のレベルに異動という異例の措置がとられる運びとなった。
練習後、ギャラリーから見学していた母親にインストラクターがその旨を伝えたとき、こんな言葉を添えていた。
「灯火くんは水を全く怖がっていません。泳げないのに自分から飛び込んで、溺れたのに楽しさのあまり笑っているのです。こんな子、見たことありません。一種の才能ですよ」
これが『才能』という単語を初めて耳にした瞬間である。
俺、矢式灯火はこの後の人生において、この『才能』に翻弄されることになる。
ただ、当たり前ではあるけれど。
この時の俺に、そんなことは知る由もなかった。
2歳児にして、俺はたった5日間でクロールを完璧にマスターした。短期教室の最終日、母親がインストラクターから熱烈な勧誘を受けていた。
初日から確信はしていたが、やはり彼の才能は本物だ。どうかうちに入会して欲しい。泳げるようにするためではなく、競泳選手として育て上げたい。責任を持って育成し、いずれは必ず日本を代表する選手にしてしてみせる。彼の才能を埋もれさせるにはあまりにももったいない。どうか――。
そんな言葉を並べ立てられて親が悪い気持ちになるはずがない。母親はその場で入会申請書を受け取って家に持ち帰った。夜に父親が仕事から帰宅してその話をすると、父親も諸手を挙げて入会に賛成した。
短期教室に参加させた理由は未だにわからない。けれど俺が持ち帰った僥倖は両親を狂喜させるには十分すぎるほどのものだった。
父親は俺の小さな頭をがしがしと乱暴に撫でながら言った。
「まさか灯火にこんな才能があったなんてな!」
この頃からよく耳にするようになった『才能』の2文字。母親も何度も口にしていた。
『才能』の意味をまだよくわかっていなかった俺だが、どうやらこれを持っていると周りは喜ぶものなのだとは理解できた。
俺は才能を持っているから、両親が喜ぶ。両親が喜ぶと俺も嬉しい。
いいものだ。ならば、この才能を、おもちゃよりも大切にしよう。
そう、思った。
俺は3歳になったばかりの9月からスイミングスクールに通い始めた。
通常、スイミングスクールの会員を指導するインストラクターは一定の周期でローテーションする。固定されるのは選手コースと呼ばれる、いわゆる競泳選手として育成しているコースのコーチだけだ。
だが俺には異例中の異例として、入会した時点で専属のコーチがついた。選手コースで指導している白田元志コーチである。
身長は170センチ程度だが体重が100キロを越える、良く言えば巨漢な、悪く言えば脂肪を大量に纏った人だった。
元々は競泳選手で、現役時代は全国レベルの大会でも上位に食い込む選手だったらしい。今の体型からはとても想像できないが。
性格は生粋の体育会系で、豪快なファイター気質な人だった。戦乱の世に生まれていたら将軍として兵士を指揮していそうなタイプだ。
相手が3歳児ながら配慮はあっても遠慮はなく、練習は厳しかった。そもそもまだ保育園にも通っていなかったのだ、親以外の大人と接する機会はほとんどなかった。水泳の練習よりも白田コーチとの接し方の方が最初は苦労した。
しかし、さすがは選手コースで指導しているだけあって、水泳の指導は一級品だったのだろう。練習は週に3回だったのだが、俺は入会した9月からわずか3ヶ月足らずでクロール、背泳ぎ、平泳ぎ、バタフライの4泳法をマスターしたのである。
この3ヶ月間もかなり苦しい日々だったのだが、これは、これから始まる競技生活の序章に過ぎなかった。
「お前の才能は本物だ。これからは競泳選手として育てる。歯を食いしばってついてこい」
年が明けた2002年1月。俺は一般会員から選手コースに移った。
今までは昼過ぎから50分だけの練習だった。しかし選手コースは18時四45分から21時まで、約2時間の練習を毎日するようになった。
そこは軍隊のような場所だった。年齢層は、上は高校生、一番下でも6歳だった。
このスイミングスクールは7コースあるわけだが、数字が増えていくにつれて選手のレベルが上がっていった。7コースは中高生ばかりで、まだ3歳だった俺は当然、1コースからのスタートとなった。
思い上がりがあったことは否めない。辛い練習を乗り越え、とんとん拍子で上達してきたのだ。選手コースに行っても誰にも負けないのだと思っていた。
誰にも勝てなかった。俺よりも遅い奴などひとりもいなかった。
その現実を受け止められなかった俺に白田コーチは言った。
「当たり前だ。こいつらは今まで『速くなる練習』をしてきている。お前のように『泳げるようになる練習』はとっくの昔に卒業しているんだ」
今となっては至極もっともな言葉なのだが、当時の俺は納得できなかった。
泣きながら強く訴えた。速くなりたい。誰にも負けたくない。いちばんになりたい。
「わかっている。その気持ちを忘れず練習についてこい。とりあえずは、お前が保育園に上がるまで2コースに上げてやる」
それまで白田コーチには『怖い人』という印象しか受けていなかったのだが、これを契機に『頼もしい大人』へと変化する。
実際、白田コーチの言葉は事実となった。全身が張り裂けそうなほどに厳しい練習を耐え抜き、俺は平均年齢が9歳の2コースへと昇格した。
2002年3月の末日のことだった。
そして、翌月の4月。
俺は保育園に入園して、出会う。
『才能』と同様に、俺の人生を語る上で絶対に欠かせない人物。
弓月星夜。
彼女もまた、俺とは別の才能を生まれ持った少女だった。
保育園の年少組で、明らかにひとりだけ異質な雰囲気を醸している少女。
その外見を一言で表せば、綺麗な少女だった。腰まで届く栗色の髪は毛先までピンと伸びていて、それを覆っている驚くほど線の細い背筋は、生身のものとは思えないほどに凛と伸びきっている。万物を射抜いてしまいそうな切れ長の瞳は、絵に描いたように美しい珠だった。
しかし、生まれつきなのか、3歳にして常に眉根にしわを寄せていた。目つきが悪く、常に不機嫌そうに見える。
ここにいる子どもたちのほとんどが、家族を除けば初めての集団生活だ。まだ勝手がわからず、多くの子どもがどぎまぎしている。
対して俺はスイミングスクールに通っているから、保育園よりも一足先に集団の中に身を置いている。入園したてとはいえ特に戸惑いはなかった。
それは弓月星夜も一緒だった。周囲からの干渉を金輪際拒否していそうな奴だったので誰も近寄らなかったが、物怖じしている様子は全くない。
いつもあんなにむっつりしていて、いったい何を考えているのだろう。単純に興味が湧いた。彼女の考えていることを知りたい。俺は他の子どもたちには目もくれず、初めて話しかける相手に彼女を選んだ。
机に頬杖をついて座っている彼女に声をかける。
「ねえ」
彼女は眉にしわを寄せたまま視線を俺に向けた。
「なに?」
胸が高鳴った。
彼女は綺麗な声の持ち主だった。山間を流れる清流のように澄んだソプラノ。
「なんでいつもこわいかおしてるの?」
今となってはいささか失礼な質問だったと思うが、そこは無知で無垢な子どもの言うことだ、許して欲しい。
「はあ?」
彼女は不機嫌そうな表情をさらに歪めた。なにか変なことでも言っただろうか、俺は小首を傾げていると、彼女は怪訝そうに俺の目を見ながら言った。
「あんたにいわれたくない」
言葉の意味をよく理解できなかった。
「どういうこと?」
「そのまま」
「だから、それがわからないんだってば」
食い下がると、彼女は眉根のしわを少しだけ緩めて、不思議そうに尋ねてきた。
「ほんとにわからないの?」
「うん」
即答する。本当に、彼女の言ってることがわからなかった。
やがて彼女は観念したように息を吐いて、答えを求める俺に、言った。
「あんただって、いつもだるそうなかおしてるじゃん」
「……ああ」
なるほど、と思った。そういうことか。
彼女の言う「だるそう」な顔をしているのは、きっとふたつの理由が起因している。
ひとつは、毎日の練習で疲れが溜まっているためだ。21時まで練習をしているのだから、就寝する時間は必然的に遅くなる。それに2コースに上がったばかりで、練習の内容もさらに厳しいものになった。それにまだ体が慣れていなかった。
もうひとつの理由は――
「なんていうか、すごくつまらなさそう」
どうやら彼女はこちらの意味で捉えていたらしい。正解だ。
退屈なのだ。保育園に入る前から競泳の世界に飛び込んで、選手として練習を始めている。あの稲妻のような激しい時間と比べれば、保育園はぬるま湯に浸かっているようで、物足りなさを覚えていた。
確かに練習は辛いけど、それでも俺はあの時間を求めている。だからだろう、明るい時間帯はどうも気が抜けているのだ。
とそこで、ふと気付く。
「ってことは、きみもつまらないの?」
「つまらない」
臆面もなくそう口にして、彼女は再び眉根にしわを寄せた。
「こんなやつらといっしょにいたらダメになっちゃう」
とんでもない物言いだなと思いながらも、確かに共感できる部分もあった。
この保育園は平和で、平穏で、居れば居るほど、夜の時間が恋しくなる。
「うん、そうだよね。おれも水泳をやってるから、ちょっとわかる」
紛れもない本音だったのだが、そう言った瞬間、彼女に強く睨みつけられた。
「バカいわないで」
怒りだった。いつものような不機嫌ではなく、確かな嫌悪感。
俺の背筋がぞわりと粟立った。
「どうせあんたはたいしたレベルじゃないんでしょ。わたしといっしょにしないで」
鋭い眼差しと強い口調で言われ、俺は何も言い返せなかった。
彼女の言うとおり、俺のレベルは全然大したものじゃない。ようやく最低ランクの1コースを抜け出したばかりで、7コースまでまだまだ遠い。
「ごめん」
俺は素直に謝った。彼女の言うことが正しいのだ、反論する余地がない。
彼女はふん、と鼻を鳴らして、俺から視線を外した。
もうあんたと話すことはない。無言の拒絶を幼心なりに察して、俺は悔しさと虚しさを噛みしめながら引き下がった。
初めて興味が湧いた異性にあっさりと追い払われてしまったこと。水泳のレベルの低さを指摘されてしまったこと。
一粒で二度苦い体験をした俺はその夜、いつも以上に練習に精が出た。感情が練習のパフォーマンスに影響を及ぼすという真実を初めて知ったのまた、この日だった。
俺も彼女もまだ3歳で、これからふたりがどういう人生を歩んでいくなんて、予想できるはずがない。
でも、俺たちは出会った。それだけは揺るぎない事実だった。
2002年、4月のことである。
俺の人生と、彼女の人生が確かに交錯して。
誰に気付かれるでもなく、俺たちの物語は始まったのだった。
彼女の才能が大々的に披露されたのは5月だった。
4月は園児たちの顔合わせの意味合いが強かったが、5月からはいよいよ保育園らしい時間が設けられていく。
年少組だけで、個人競技としてのかけっこではなく、チームを組んでのリレーが行われることになった。
チームは前日のうちに保育士によって決められた。年少組は男女合わせて16人。1チーム4人とし、女子が固まらないよう均等に分けられた。
俺のチームは男女ふたりずつで、弓月星夜も一緒だった。
俺は当時から自分が負けず嫌いだと自覚していたが、正直、このチームでは勝つのが難しいんじゃないかと思っていた。
保育園では朝と夕方に自由に遊べる時間が設けられており、多くの子どもが外で遊ぶ。おにごっこやかくれんぼ、ドッチボールが大半だ。もちろん、運動が不得意な子どもは室内で絵本を読んだり積み木で遊んだりしている。弓月星夜は後者だった。
保育園児くらいの幼い女の子は体がぷっくりと丸みを帯びているのが一般的だが、彼女は心配してしまうほどに線の細い子どもだった。ちゃんと栄養のある食事をとっているのかと疑いたくなるほどである。
そういった外見的な印象と、外で遊んでいるところを見たことがないことから、彼女は運動があまり得意ではないのかと思った。他のふたりも同様、あまり外で遊ばない子どもで、頻繁に外で遊んでいるのは俺だけだった。
負けるのは嫌だが、他のチームと比べて見劣りするのも事実。俺はどうしてもやる気が湧き出て来なかった。
そんな俺に対して彼女は言い放った。
「あんた、やるきないならやすんで」
「え?」
「わたし、まけるのきらいだから」
不意の叱責に戸惑った。
普段から鋭い眼差しが、より一層の迫力を醸していた。
「おれだってまけたくない。でもこのチームじゃむりだよ」
「だからやすんでっていってるの」
「おれがやすめばかてるの?」
「そう。わたしがあんたのかわりに2回はしるから」
「うそだ。おれのほうがはやいよ」
「うそついてるのはあんたでしょ。おにごっこしてるところみてるもん」
どうやら口から出任せを言っているわけではないようで、俺が実際に走っている姿を見た上での発言らしい。
だからこそ腹が立った。俺は水泳の才能があったが、走るのは速くはない。それでも女子に負ける気はさらさらなかったし、幼心なりにプライドがあった。
いまいち火付きの悪かった心がみるみる燃えていく。
「わかった。ちゃんとほんきだすよ。それでいいんでしょ?」
やる気が出てきたのは彼女にも伝わったようで、不満顔は崩さなかったがとりあえずは俺の参加を認めた。
続いて走る順番を決めることになったのだが、真っ先に手を上げたのは彼女だった。
「アンカーはわたしね」
俺たちは首を傾げた。
「あんかーってなに?」
「いちばんさいごにはしるひとのことよ。そんなこともしらないの?」
いちいち癪な物言いをする彼女に苛立ちが募ったが、特にアンカーにこだわりはなかったので申し出を飲むことにする。
俺は第一走者を務めることになった。
翌日。よく晴れた気持ちの良い日和だった。
みんなで準備体操をした後、早速レースが開始される。
園庭に石灰で描かれたレーンをひとり1周走る。距離は1周あたり約50メートル。3歳児にとっては決して短くない長さだ。
第1走者である俺は保育士の合図に従ってスタートラインに向かう。
その直前、弓月星夜が俺に声をかけてきた。
「ドベだったらゆるさないから。ぶっちぎりできて」
相変わらず小癪な態度である。言われるまでもない。
それにしても、彼女が勝ち気な性格なのはわかっていたが、こういった行事にやる気を出しているのが意外だった。普段から誰ともしゃべらないような奴だったし、外で遊んでいる姿を見かけたことがない。だからチームでの勝負事なんて無関心なのかと思っていたのだけれど。
ともあれ、彼女のおかげで火はついている。最初こそ彼女を綺麗な子だと思ったが、あまりにも無愛想で小生意気な実態を知って、今ではむしろマイナスの印象しかない。そんな奴にバカにされて、俺の負けじ魂は存分に奮い立っていた。
レースがスタート。
気持ちの乗った俺の体は普段以上の力を出せた。最初から先頭に立ち、僅差ではあったが1位を維持したままふたり目の男の子へとバトンを渡した。
「どうだ!」
息を切らせながら彼女に威勢よく言い放ったが、反応はなかった。右手を腰に当て、チームの戦況を相変わらず眉にしわを寄せて見守っている。
無視されたことに苛立ちを覚えたが、とりあえずは俺も戦況に目を移した。
第2走者の男の子はあっさりとひとりに抜かれてしまったが、どうにか2位で3人目の女の子へとバトントス。元々運動が得意じゃなかったわりには健闘したと言える。
しかし、3人目の女の子は明らかに遅かった。先頭チームとの差がどんどん開いていき、後続の走者にもぐんぐん追いつかれている。
さすがに少し焦り始めた俺は彼女に言った。
「おまえ、ぜったいにぬいてこいよ!」
やはり返事はなかったのだが、彼女は至って冷静だった。今もこうしているうちに3位になり、残り四分の一のところに差しかかったところで――
「あっ!」
思わず声を出したのは俺だけじゃない。他のチームの奴や、保育士も同時に声を上げた。
俺のチームの子が転倒した。普段から運動をほとんどしないのだろう、その女の子は不慣れな全力疾走をしたものだから足がもつれたのだ。
女の子はその場で泣き出してしまい、すぐに立ち上がれなかった。心配した保育士が駆け寄っていく。
もう勝負はついた。完敗だ。
完全に諦念が頭を支配した。
「はやく!」
しかし、そんなものは一瞬で吹き飛んだ。誰かの怒声が耳をつんざいた。
声の主はすぐにはわからなかった。
「はやくきて!」
2回目でようやく認識する。
弓月星夜だった。
「なくのはそれからにしてっ!」
彼女は手を伸ばしていた。その先には倒れている女の子の、右手に握られているバトン。
その場にいた全員が面食らっていた。普段は無愛想で誰とも話そうとしない彼女が大声を出している。バトンをよこせと叫んでいる。
「はやくってば!」
その鬼気迫る形相に、倒れている女の子は恐怖が痛みを上回ったのだろう。まるでライオンを目前にしたネズミのような素早い動きだった。逃げ出すのではなく駆け寄っていったので行動自体は真逆だが。
それでも、先頭チームとの差は半周以上開いていた。
勝利は絶望的だった。誰もがそう思っていた。
ようやくバトンが弓月星夜に渡る。
次の瞬間、俺は自分の目を疑った。度肝を抜かれた。
端的に言って、彼女は足が速かった。そのスピードが尋常じゃなかった。言葉を失った。頭が真っ白になった。
普通、保育園児の全力疾走なんて、がむしゃらに両手を振って、とにかく足を早く動かすものだ。
だが彼女は違った。細い背筋はまっすぐに伸び、すらりと伸びた手足がまるで機械の歯車のように規則正しく前後している。
時を刻んでいるようだった。彼女の手足が、世界の時を刻む振り子のように見えた。
長い栗色の髪は一切上下しない。風が強い日に掲げられた旗のように一定の形状を保たれていた。エンジンでも隠されているのではないかと疑う。
彼女は俺と同い年だ。3歳児だ。
でも、彼女が同じ人間だとは思えなかった。人間の姿をした風なんじゃないかと思った。
だって、そうだろう?
あっという間に3位、2位へと順位を上げ、30メートルくらいあった先頭との差が、残り5メートルのところでゼロになったのだ。
そして彼女がゴールしたときには、2位との差が3メートルはあったのだ。
こんなのおかしい。速いなんてものじゃない。
本当に、おかしかった。
「ふん」
最下位から一気に逆転優勝してみせた彼女は、普段と何ら変わらぬ不機嫌そうな表情で徐々にスピードを緩めていく。
やがて彼女が止まると、瞬間的に歓声が沸き起こった。みんな彼女に詰め寄っていった。あっという間に見えなくなった。
それはそうだろう。今まで「なんかいつも怖い顔してる人」という印象しかなかった彼女が、実はジェット機のように速い足の持ち主だったのだ。
いったいどうやってあの速さを身につけたのか、どうして今まで黙っていたのか。
矢継ぎ早に質問が飛び交う。同時に賞賛の嵐も吹き荒れる。
一瞬だけ、ちらりと彼女の姿が見えた。戸惑うわけでも、誇らしげにしているわけでもなく。
ただいつも通り、不機嫌そうに口をつぐんでいる。
彼女のそんな佇まいがとても印象的で。
俺はひとり、呆然と立ち尽くしていた。
その夜、俺は珍しく寝付きが悪かった。
厳しい練習を毎日しているのだから、普段は布団に入った途端に眠りに落ちる。それなのに、頭の中で今日の出来事がぐるぐると回っていた。
弓月星夜。彼女は陸上の才能を生まれ持っていた。
種類は違えど、自分以外にも才能を持った者がいた。
言葉では形容しがたい気分だった。少なくとも、3歳児の俺にはこの気持ちが何という名前の感情なのかわからなかった。
嬉しいような、悔しいような。
苛つくような、悲しいような。
彼女の走る姿が、写真を現像したかのように頭に張り付いてしまった。
離れない。彼女が50メートルを走り抜けたほんの数秒と。その後、みんなに囲まれてもなお平静な態度が。
幾度も、幾度も頭の中でリピートされ続けた。
いったいどれだけ繰り返したかはわからない。しかし何十回、何百回とリピートしても、飽きは全く訪れなかった。
結局、俺はいつの間にか眠りに落ちたのだが、その夢の中でも彼女の走る姿が繰り返され続けたのだった。
次の日になっても彼女は年少組全員の子どもに囲まれていた。すっかり年少組のスターとなっていた。もちろん、彼女の性格を考えると不本意以外の何物でもないだろう。
元々が負けず嫌いな性格なんだろうが、彼女は陸上の才能を持っていた。だからリレーとは言え、陸上競技で負けるわけにはいかなかったのだ。
その結果がこれだ。本人はものすごく嫌がっており、強い口調で群がってくる子どもたちを追い払おうとしている。
しかし子どもたちは引き下がらなかった。どうやら「しんえいたい」として彼女を護衛するとかなんとか口々に申し出ている。もはやスターというかアイドルに近い扱いだ。
そんな光景を、俺だけは遠目で眺めていた。
黙って、彼女を眺めていた。
何も考えていなかった。無心で眺めていた。
ただ、なんとなく、面白くない気分だったのは覚えている。胸がもやもやしているような、どうにもスッキリしない感覚。
そんな風に第三者の視点から見ていたためか、彼女がだんだんと我慢の限界に近づいているのを察した。普段から不機嫌そうにしているくせに、堪忍袋の緒が切れるのを我慢しているのが少し疑問だった。
やがて観念したのか、彼女は大きくため息を吐くと、いつものように机に頬杖をついて座った。相変わらず眉根にしわを寄せているのだが、そのしわが1本増えたように感じたのは俺の気のせいだっただろうか。
どうやら無視を決め込むことにしたらしい。それから彼女は何度話しかけられようと、絶対に返事をしなかった。
今までも、話しかけられてもまともに取り合わなかったが、それでも「いらない」とか「別に」などと言った素っ気ない返事はしていた。しかし今は完全に無視している。質問も、世間話も、遊びの誘いも、彼女はまるで銅像のように無反応だった。
子どもは無邪気な生き物だから、無視されようとお構いなしに接し続けた。
しかし、彼女の辛抱強さは3歳児とは思えないほどに1級品だった。
とにかく無視し続けた。誰に何と言われようと反応はしない。そのスタンスを来る日も来る日も貫いた。
それが功を奏してきたのは6月の終盤。梅雨の時期に入った頃からだ。いくら無邪気な子どもでも、1ヶ月以上も反応がなければ飽きが来たのだろう。
ひとり、またひとりと離れていく子どもたち。何日間も雨天が続き、外で遊べない日々が続く。じめじめとした湿度の高い気候が助長したのか、子どもたちの彼女に対する熱は冷めていった。
そして彼女にとって待ち侘びた瞬間が訪れる。7月中旬、ついに彼女の周りには誰もいなくなった。これでようやく彼女も少しは気が楽になるのだろう。ずっと傍観者の立場を維持していた俺でさえ奇妙な達成感があった。
鬱陶しいことこの上ない連中が去っていき、ひとりの時間を取り戻した彼女。
だが、そのタイミングで予想外の行動を彼女はとる。夕方の自由時間に差しかかり、いつものように屋外へ出ようとしたとき。彼女は待ち侘びた安寧を自ら手放すように、あろうことか、なんと俺に話しかけてきたのだ。
「ねえ、ちょっと」
「なに?」
「ひとつききたいの」
2002年、7月。梅雨明けまであと少し。
保育園に入園して初めて、本格的な夏が始まる時期だった。
「どうしてみてるだけだったの?」
責めるような口調と怒りの滲んだ視線に、しかし俺は逃げずに答えた。
「なにが?」
「とぼけないでよ」
「いつもいろいろみてるよ」
「だからとぼけないで!」
ヒステリックな声に室内で過ごしていた子どもたちの注目が集める。ところが彼女は一切気にする様子はない。
「じゃまくさいこたちがわたしのところにうじゃうじゃきてたとき、あんたはみてただけだった」
「それがなに?」
「わたしになにかいいたいことあったんでしょ」
図星だったために俺は口をつぐんでしまう。まだ3歳児だった俺にはとぼけ通す術を心得ていなかった。
仕方なく、適当に答える。
「あいつってあしはやいんだなーっておもってただけだよ。すげえなーって」
「それだけじゃないでしょ」
「なんでわかるの」
「ほんとうにそれだけなら、あんたもうっとうしいこたちといっしょにきてたはずだもん」
「なんだそりゃ」
とは言ったものの、まあ確かにそうだな、とも思っていた。でも俺は見ていただけだった。だから俺が気になった。あるいは、気に入らなかった。
「どっちにしても、べつにいいでしょ」
少なくとも彼女の言う『うっとうしいしいこたち』には該当しないはずだ。
けれど彼女の目つきがどんどん険しくなっていく。
「なんかむかついたの」
「むかついたって、なにが」
「わたしのさいのうをなんともおもってないかとおもうと、なんかむかつく」
どきっとした。まさか彼女の口から『才能』が出てくるとは思っていなかった。
「おとうさんもおかあさんも、りくじょうクラブのコーチも、みんなはじめてわたしがはしってるところをみたら、ぜったいによろこんでくれた。なのにあんたは、びっくりしただけで、そのあとはみてるだけだった」
怒りに加え悔しさを滲ませた眼差しでそう言われ、俺はようやく得心がいった。
彼女の足は異常に速い。陸上クラブに通っていることから練習の賜物でもあるのだろうが、それでも生まれつき群を抜いていたに違いない。両親もクラブのコーチも、初めて彼女の足の速さを知ったときはさぞ驚いただろう。賞賛しただろう。「この子には才能がある」と口にしたのだろう。
そんな反応が、彼女にとっては当たり前だった。うじゃうじゃ寄ってこられるのは鬱陶しい。でも、賞賛されないのも、彼女曰く「むかつく」。
「ふふっ」
俺は思わず吹き出してしまった。
「はっ? なんでわらうの!」
彼女の憤りはもっともだ。失礼極まりない態度だと自覚していた。
でも笑いが止まらなかった。こらえられなかった。
安堵した。曇天のようにもやもやしていた気分が晴れ渡っていった。
「いやー、よかったよ」
「なにがよかったのよ」
わけがわからず苛立ちを隠せない彼女に、俺は言った。
「おまえ、すましてただけなのな」
『澄ます』の意味がわからなかった彼女はその場では不可解そうに眉根をひそめるに留まったが、後に保育士に意味を教えてもらうなり怒りをぶつけてきた。どういう意味だと詰問された。
俺はいい加減な態度で受け流した。答えられるはずがなかった。俺の気持ちを悟られるわけにいかなかった。
嫉妬していたのだ。彼女の生まれ持った『才能』に、ではなくて。それを鼻にかけず、さもそれが当たり前のように平然としている彼女に、だ。
まるで別次元の住人のように思えた。とても同い年とは思えなかった。
でも、彼女はちゃんと子どもだった。等身大の3歳児だった。ほっとした。
そんな、恥ずかしくて情けない俺の気持ちなど、絶対に知られたくなかった。
翌日、俺の住んでいた地域の梅雨明けが気象庁から発表された。
いよいよ夏が始まった。
彼女の本心を知って、俺は彼女に対して急速に親しみを覚えるようになった。逆に彼女は俺に対し不信感を募らせていた。元々無愛想で誰とも話そうとしない彼女だが、俺の気持ちを知られるわけにはいかなかったし、これは仕方のないものだと思っていた。
話をしたいわけでも仲良くしたいわけでもない。ただ、彼女とは近しい存在でありたかった。
どうしたら叶えられるのか、毎日のように考えてみるが全く思いつかない。
時間だけはどんどん過ぎていき、外を歩いているだけで汗が噴き出してくる7月下旬。保育園で水泳の時間が設けられた。
周りの子どもたちは大層喜んでいたが、水泳はもはや競技としか思えない俺にとっては大した感慨はなかった。正直、面倒くさいとすら思っていた。
ところがその日の夜、スイミングスクールでの練習中に右耳に鋭い痛みが走った。練習を途中で切り上げ、翌朝に母親に連れられ耳鼻科で診察を受けた。
軽度の中耳炎と診断された。激しい水泳の練習をしていると、どうしても誤ってプールの水を飲んでしまうことがある。それが原因で咽頭が炎症を起こし、耳へと影響が波及したようだ。医師からは最低でも1週間はプールに入るなとの厳命を受けた。
俺は嫌がった。1週間も練習を休んでしまえば体が訛ってしまうことを、俺は3歳にして理解していた。以前、高熱を出して練習を休んだときに身をもって痛感した。
しかし、他ならぬ白田コーチから練習の禁止令を受けてしまった。無理に練習をして症状を悪化させるなんて愚の骨頂だと、極めて正論な言葉を受け入れるしかなかった。
俺は泣く泣くスイミングスクールを休むことにした。
当然、保育園での水泳の時間も見学に回った。しかし、これはこれで、むしろ見学で良かったと思った。予想はしていたが、水泳というよりかはただ単にプールではしゃぐだけの時間だった。はっきり言ってしまえば、つまらない。
ただスイミングスクールの練習に参加できなかったのは悔しかった。我慢の日々を過ごし、悠久とも思えるほど長い1週間が過ぎた。
中耳炎は完治しドクターストップが解かれ、俺は心の奥底から喜んだ。高熱を出したときもそうだったが、泳げないことが俺にとっては最大の苦痛だと痛感する。
俺は初めて水着を持って保育園に登園した。こっちの水泳の時間はむしろ億劫だったのだが、保育士がこんなことを言った。
「今日はチームを組んで競争をしましょう」
つまりはリレーだ。泳げる子は泳ぎ、泳げない子は水中を走るという、いかにも保育園らしい競争だ。
俺の気持ちは一転、瞬時にしてやる気に充ち満ちた。リレーは勝負だ。競泳だ。
弓月星夜が初めて陸上の才能をお披露目したあの日、彼女もきっとこんな気持ちだったのだろう。
負けるのは嫌いだ。それが水泳となれば尚更だ。沸々と闘争心が滾る。
まずはチームが組まれる運びとなった。あの時と同様、4人ずつの4チームという編成だ。
ただしチームの決め方が今回はクジだった。前回は保育士で決めたのに、どうして今回はクジなのだろうか。そんな疑問を抱えながら俺はクジを引き、チームが決まった。
いったい何の因果律か。
またも弓月星夜と同じチームとなったのだった。
嬉しい気持ちがあった反面、気まずい気持ちも少しあった。1週間以上前から俺に不信感を抱いている彼女が、果たしてチームメイトとして勝利に協力してくれるだろうか。
「やるからにはかつのよ。あんたはプールならってるんだからアンカーね。てかげんなんてなしだよ」
杞憂だった。彼女のこういった勝利への執着心はとても清々しい。
一流のアスリートなら、勝負事に私情を挟むことは絶対にないと白田コーチから聞かされたことがある。例えばサッカーのようなチームスポーツはチームワークが非常に重要となる。たとえチームメイトに気に入らない奴がいようとも、勝利のためならパスを出すしフォローだって惜しまない。
当たり前のような話だが、感情に生きるのが人間だ、難しい場面だってあるだろう。つい先ほど、俺は彼女と同じチームだと知って『気まずい』と感じてしまった。この時点で勝利への執着が薄れてしまっている。
対して彼女は勝利を第一に位置づけた。俺とは勝負に対する姿勢がまるで違う。同じアスリートの卵として、感心せざるを得なかった。
レース本番直前。入念に準備を体操を行っている彼女に尋ねた。
「おまえ、あしはメチャクチャはやいけどおよげるの?」
この1週間、プールサイドからみんながはしゃぐ光景を眺めていた。しかし彼女は誰とも絡もうとせず、プールの隅っこでぶすっとしているだけだった。予想通りの行動だったので特に驚かなかったが、おかげで彼女の水泳の実力は未だわからないままだ。
両肩の関節をぐるぐる回してほぐしていた彼女は、相変わらず眉根にしわを寄せたまま俺を見て答えた。
「カエルおよぎならできる。じぶんがちょっとおよげるからってバカにしてるの?」
立場が逆になっても癪な物言いは変わらないのが彼女らしいと思った。あと、平泳ぎをカエル泳ぎと言っているのが彼女らしくなくて少しおかしかった。
「なんでわらってるの! やっぱりバカにしてるんでしょっ」
「ん、ごめん」
決してバカにしたわけではなかったが彼女にとっては同じだ。俺は素直に謝った。
それがかえって彼女の怒りに油を注いだ。
「ほんっとむかつく!」
考えてみれば当然だ、俺は彼女をバカにしたことを認めたのだから。
「いや! ちがうよ!」
「もういい! あんたはさっさと向こう行って!」
今更試みた言い訳など受け入れられるはずもなく、俺は少し落ち込みながらプールサイドの反対側へと歩いた。
このプールは全長が15メートルあり、現在はリレー用にコースロープで4コースに区切られている。ひとりが片道の15メートルを泳ぎ、次の泳者にバトンタッチする方式だ。
円形のビニールプールしか知らない子どもにとっては大きなプールだと感じるだろうが、25メートルに慣れている俺にとってはかなり小さく感じる。
それでも、まあ半分の7メートルくらいの差なら負けていても追い抜ける自信はあった。
保育士の合図で第1泳者がプールに入る。やがてレースが開始され、4人が一斉に壁を蹴って体を押し出した。
俺のチームの第1泳者は弓月星夜だった。自分で言っていたように、確かに平泳ぎの形になっている。4人の中でもトップだ。
スイミングスクールの選手コースに身を置く俺からすればあまりにも刺激の少ないレースだが、それでもやるからには勝ちたい気持ちが強かった。5月に彼女が初めて陸上の才能を披露したときもこんな気持ちだったのだろうか。
その彼女は2位に2メートルほどの差をつけて真ん中を通過した。断トツ1位だ。
「あいつ、すいえいもふつうにできるのか」
にわかに悔しさを覚え、無意識のうちに独り言がこぼれ落ちた。あれだけ足が速いのに泳ぎもできるのか。
とは言ったものの、不慣れな水泳には変わりない。後半から目に見えて減速した。それを自覚しているのだろう、焦りが泳ぎに表れた。明らかに力んでいる。
水泳はただ力を込めればいいわけじゃない。力の加減が重要な水泳だ、あんながむしゃらな泳ぎでは危険なだけだ。俺自身も経験があるからよくわかる。足をつったり水を飲んだりしなければいいけれど。
「あっ」
そんな俺の悪い予感は的中した。彼女が急に立ったと思ったら、口を押さえながら激しく咳き込んだのだ。左手でコースロープに掴まり、顔を大きく歪め、何度も何度も咳き入っている。
元々、泳げない子どもは走って進む形式のレースなのだ、失格にはならない。しかし、いくら時間が経っても彼女は泳ぎを再開しなかった。できなかった。
ようやく咳が収まっても、激しく咳き込めば吐き気を催すものだ、今度はひどく苦しそうな表情でえづいている。辛うじて嘔吐を我慢しているようにも見えた。
「うわ、はなみずたらしてる!」
「きったねー!」
聞こえるのは心ない嘲笑。うるさい、と口にしようとして、どうにか押し留める。
3歳児がこれだけ呻吟しているというのに、保育士は助けにいこうとしなかった。
それもそのはず。彼女は苦しみに喘ぎながらも、鋭い視線に揺らぎが見られなかったのだ。勝負を途中で諦めるわけにはいかない。リタイアなんて絶対に嫌だ。何が何でも次の人にバトンを渡す。そんな思いがはっきりと見て取れた。
入園して3ヶ月も経てば保育士は園児の性格を掴んでくる。ここで助けに向かったところで、彼女が拒絶するのは火を見るよりも明らかだった。
しかし当然、順位はとうに最下位まで落ちている。残り5メートルのところでうずくまっている間に、他の3チームは第2泳者に移っていた。
実に2分近くの時間を費やして彼女がレースを再開したときには、先頭チームの第2泳者は既に真ん中を通過していた。
彼女が15メートルを泳ぎ切り、自チームの第2泳者がスタート。
泳ぎ終わった子どもはすぐにプールサイドに上がることになっているのだが、彼女はなかなか上がってこなかった。俯いていた。額を壁に押し付けていた。拳を強く握りしめていた。肩が、小刻みに震えていた。
「はやくあがっておいでよ」
俺が手を差し伸べると、彼女はそれを一瞥しただけで自力で上がってきた。ずっと俯いたままだったから顔は見えなかった。依然として肩が震えていたから、怒っているようにも見えたし、泣いているようにも見えた。多分、両方なのだろうと思う。
それはともかく、レースは続いていた。先頭チームはアンカーがスタートしたところだ。俺のチームは第3泳者が五メートル地点を通過したところだ。
彼女が大差をつけられたが、それでも第2泳者と第3泳者は諦めずに必死に泳いでくれた。順位は変わらないが差が縮まっていた。それでもトップとの差は現時点でおよそ10メートル。逆転するには絶望的な差だ。
「もうあそこのチームはドベだね」
「しょうがないよ、はなみずおんながおぼれたんだもん」
子どもはときに残酷だ。容赦なく真実を突きつけてくる。
ともあれいよいよ自分の出番だ。雑音は無視してゴーグルを装着し、軽くストレッチをしていた。
そのときである。
「ごめん、なさい」
耳を疑った。一瞬、自分の耳がおかしくなったのか思った。中耳炎が悪化したのか、と。
「わたしのせいで……!」
背後から聞こえる、山間を流れる清流のように澄んだソプラノは、少しだけしゃがれていた。いつもの凛とした声音は影を潜めていた。
俺は後頭部を思いっきり殴られたような感覚に陥った。当時の俺は3歳で、彼女も3歳だ。同じ年に生まれ、同じ時間を生きてきた。
でも、同じアスリートの卵として、ここまで差があるのかと思い知った。
俺は負けず嫌いだ。勝ちにこだわるし、負けたらものすごく悔しい。だからドッチボールで負けたら敗因の根を糾弾する。「お前のせいで負けた」と責任転嫁する。八つ当たりをする。たとえ敗北の原因が俺にあったとしても、だ。
彼女は違った。素直に自分が敗因と認め、謝ってくる。自ら悪者になろうとしている。本当は悔しいはずなのに。負けず嫌いな彼女が、他ならぬ自分のせいで負けようとしているのが、たまらなく許せないはずなのに。
俺に謝ってくるなんて、屈辱以外の何物でもないはずなのに。
俺も彼女も3歳児だ。けれど、とても同い年とは思えなかった。惨めな思いをしている彼女を見て、俺自身がより惨めったらしく思えた。自分の器の小ささを思い知った。
震え上がった。全身が粟立った。
「ほんとに、ごめんなさ――」
「ばーか」
背後からの声を遮った。彼女が驚いたのを感じた。
「さは10メートル……ううん、9メートルくらいになってるじゃん」
「だから、もうかてないって――」
「うるさいな。きがちるからはなしかけないでよ」
「なっ」
「なんで9メートルのさがあるとかてないの? なんであきらめちゃうの?」
「だって!」
「だってじゃないよ」
彼女の怒りを背に受けながらプールに入った。第3泳者が残り2メートルまで迫っていた。
バトンタッチを受ける直前、振り返らずに言う。
「これくらいのさ、よゆうだよ」
第3泳者のバトンタッチを受け、俺は壁を思いっきり蹴った。
クロールを泳ぎながら、俺はかつてないほどのやる気が自分の中で躍っているのを感じた。まるで妖精が力を貸してくれているような、自分以外の何かが俺の体に宿ったような。
今なら他の誰にも負けないような気がした。ベストタイムを更新できること間違いなかった。
5月の、彼女と同じチームでリレーをやったときのことを思い出す。俺は第1走者として走り、1位で第2走者にバトンを渡した。ところが第2走者が抜かれ、第3走者が転倒してどんどん先頭と離されていった。
そのときの俺の言葉。
『おまえ、ぜったいにぬいてこいよ!』
違うだろう? と、あのときの自分に言ってやりたい。
第2走者が抜かれた? 第3走者が遅かった? 関係ない。
自分がもっと速く走れば良かったのだ。彼女の要求通りぶっちぎりの1位で帰ってきて、もっと余裕を持って次にバトンを渡せば良かったのだ。それなのに俺は、あたかも自分は何も悪くないとでも言うように、責任を他のメンバーに押し付けた。俺は1位で帰ってきたんだから、俺にはなにも責任はないだろう、と。
そして、第3走者が転倒したとき。俺は諦めた。勝利を諦めた。転んだあいつが悪いんだと他人のせいにして、敗北を受け入れようとした。
結果として優勝したわけだが、今にして思うと有り得ない。俺がもっと速く走っていれば、あそこまで絶望的な差は開かなかったはずだ。
俺は彼女に救われた。彼女の類稀な才能に助けられてしまった。今更になって、恥ずかしく思う。
『もうあそこのチームはドベだね』
『しょうがないよ、はなみずおんながおぼれたんだもん』
ここで負けたら、その鼻水女は大きな傷を負うのだろう。救われぬまま、今後の保育園生活を送っていくのだろう。
気の強い彼女のことだ、それくらいの批難は物ともせず生きていけるのかもしれない。
それでも、屈辱だろう。悔しいだろう。自分が情けないだろう。
俺は一度救われた。だったら、俺はその恩を返さずにはいられない。
全力で泳ぐ。久々に泳いだものだから、フォームが少し崩れているのがわかる。掌がうまく水を掴めていない。どうも足が空回っている。
でも、速く泳げた。今まで一番、速く泳げている自信があった。
負けたくない。彼女を、負かしたくない。
自分のためではなく、チームのために負けたくないと思えたのは初めてだった。
とにかく自分の泳ぎに集中した。隣のコースなど眼中になかった。自分の泳ぎに集中さえすれば抜ける自信があったからだ。
無我夢中で泳ぎ切り、壁にタッチ。
水面から顔を出す。呼吸を整える。ゴーグルを外す。
しんと静まり返っていた。この世から音が消えたのかと思った。無音の世界だった。
しかし次の瞬間、大喝采が沸き起こる。怒濤の歓声が俺の鼓膜を囲い込む。
その歓声の矛先が俺に向けられていると気付くまで、数秒の時間を要した。
当然だが、男子と女子は着替える場所が違う。男子は年少組の保育室で着替えていた。一躍ヒーローに成り上がった俺の周りにはたくさんの人だかりができており、鬱陶しいことこの上ない。優越感なんてまるで湧かなかった。
そんなときである。急に、勢いよくドアが開かれた。
「やしきひび!」
振り替えると、そこには鬼のような形相をした、しかし整った容姿の少女が目に入った。
弓月星夜だった。大急ぎで着替えたのだろう、腰まで届く長い髪がほとんど拭かれていない。
彼女はまだ男子が着替え真っ最中だというのにずかずかと保育室に入ってきて、俺の目の前で立ち止まる。
「ちょっときて!」
言って、俺の腕を掴んで強引に部屋の外まで引っ張られ、それでも足を止めずにずんずんと廊下を進んでいく。途中で抗議をしたが当然の如く受け入れられず、問答無用で下駄箱まで連れられてしまった。
「どういうこと!」
唐突にそんなことを言われたのだが、何を指しているかはわかっていた。
「だから、すいえいならってるっていってたでしょ。おまえもしってたじゃん」
「ひびがあんなにはやいなんてきいてない!」
「はやくなんかないよ。おれよりもはやいひとなんていっぱいいるもん」
もちろん、みんな年上ではあったけれど。
「それに、おまえもあしがはやいじゃんか」
「その『おまえ』ってよびかたいやだ!」
「は?」
いきなり呼び方の指摘を受け、思わず間抜けな声を出してしまった。
「わたしはあんたをなまえでよんだよ!」
言われて気付く。確かに、彼女から名前で呼ばれたのは初めてだった。
「だからひびもなまえでよんで!」
「わかったよ。せいやでいい?」
彼女は頷き、話を元に戻した。
「それで、なんであんなにはやいの?」
「なんでっていわれても」
「プールにかよってるんでしょ?」
「そうだよ」
「まいにちれんしゅうしてるの?」
「うん。にちようびいがい」
とそこで、彼女は考えるように少し俯いた。
「まいにちなんだよね?」
「うん。まいにち」
「れんしゅうはきつくないの?」
「そりゃ、きついよ」
「きついのに、なんでがんばれるの?」
このとき、彼女がどういうつもりでそんな質問をしたのかはわからない。
けれど、彼女の目は真剣そのもので。
だからだろうか、俺の口からは本音がこぼれ落ちた。
「だって、まけるとくやしいもん。かつとうれしいもん」
彼女は無表情で聞いていた。
「おれ、『さいのう』があるんだって。これがあるとね、すごくはやくなれるんだって。おとうさんもおかあさんもさ、すげえよろこんでくれる。だから、まだおれよりいっぱいはやいひとがいるけど、みんなよりはやくなりたいんだ」
実に単純な言葉だった。当然だろう、当時の俺は3歳児だった。純粋で、無垢な精神の持ち主だった。
それが起因したのかはわからない。しかし、言い終えたとき、俺は目を疑った。胸が打ち震えた。
目の前の、弓月星夜の表情が、初めてみせるもので。
太陽を直視できないのと同じように。視界に入れるにはいささか光が痛くて。
「すごい!」
魂の穢れをたちまち浄化してしまいそうな、思わず目を背けてしまうほどに眩しい笑顔。普段のむっつりとした表情とは正反対だった。
何が、と尋ねる暇もなく彼女は続けた。
「わたしといっしょ! ひびも『さいのう』があって、だれにもまけたくないんだ!」
喜色満面とはまさに今の彼女のためにある言葉だった。
「すごい! ほんとにすごいよ! いっしょだよっ!」
彼女が俺の手を取った。
どきっと胸が高鳴った。鼓動が聞こえてしまうのではないかと心配になるくらいに、胸の奥がうるさかった。
はっきり言って、惚れてしまった。
「まさかおなじひとがいたなんて!」
傍から聞けば意味不明だろう。はっきり言って言葉足らずだ。
けれど、俺には通じた。何を喜んでいるのかを、俺は理解できた。
「うん、いっしょだね」
だからそうやって答えると、彼女ははち切れんばかりの笑顔を湛えた。
「ねえひび!」
「なに?」
「けっこんしようよっ!」
さすがに目を丸くした。でも、それもほんの3秒ほどだ。
俺は笑顔で答えた。
「いいよ」
「ほんと? ほんとにいいの!」
「うん」
「やった! やったあ!」
俺の手を握ったまま激しく上下させる。
正直、結婚という言葉の重みを理解しきれていなかったのは否めない。何せ3歳児である。でも、漠然とは理解していたつもりだ。
好きな人と一生、一緒にいること。
それが結婚。あながち間違っていなかったのではないかと思う。
綺麗で、俺と同じように『才能』を持っていて、普段は不機嫌そうでも笑うととても眩しい女の子。そんな彼女と一緒にいられるなんて、この上ない幸せだと思ったのだ。
その申し出を承諾された彼女は喜びを爆発させていた。とにもかくにも、笑顔だった。どこまでも笑顔だった。
「ぜったいだからね! 30さいまでけっこんするんだからね! 30さいをすぎたらけっこんしないからね!」
「なんで30さいなの?」
「いくらすきな人でも、30さいをすぎるとすきってきもちがわからなくなるっておかあさんがいってたもん」
「ふーん?」
好きなのに、好きじゃなくなる?
よく意味がわからなかったが、まあ彼女がそう言うのなら断る理由がなかった。
「わかった。じゃあ30さいまでにけっこんしようね」
「うんっ! ありがとう!」
「こちらこそ、ありがとうだよ」
「あ、ひびのたんじょうびっていつなの? おしえて!」
「おれは8がつ25にちだよ」
「うそ! わたしといっしょ!」
「ほんとに? すごいじゃん!」
「すごい! すごいよっ! わたし、すごくすごくしあわせ! ありがとね、ひびっ!」
心の隅々まで幸せがいっぱいに広がって、俺たちは笑い合った。
彼女は俺が好き。俺も彼女が好き。
それ以上でもそれ以下でもなく。
この気持ちだけは紛れもなく真実で、俺たちのすべてだった。
幼く、他愛もない約束。
生まれて間もない3歳児が交わし合った愛の契りは、見渡す限りに真っ白で。
これから俺たちが世界に馴染んでいくにつれて、様々な色が塗られていくわけだけど。真っ白なままではいられないけれど。
願わくは、鮮やかな色彩に彩られていきたいと、ふたりは揃って願う。
矢式灯火と弓月星夜の物語は、ここから始まる。
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