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第4章

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第4章 【細原木実ほそはらこのみ


「いまさらだけど、木実も大概変わってるよね。あんな奴のどこが気に入ったんだか。こういう時につくづく思うよ」
 あたしの唯一にして随一の親友、星夜が呆れ口調でそうこぼしたのは入学式の直後のことだった。体育館から出ると、校庭で各部活ごとにブースを作って待ち構えていた先輩たちが、一斉に部活動の勧誘を始めた。
 スポーツ特待生として入学しているあたしたちは既に入部先が決まっている。けれど辰也くんはサッカー部、野球部、果ては吹奏楽部、料理研究部など、声をかけてきたブースに顔を出しては愛想を振りまいていた。
「どこがだなんて、そんな一部分だけを好きになったんじゃないよ! あたしは辰也くんの全部が好きなんだからっ」
 答えると、星夜は再度嘆息した。
 あたしたちは小学生からの付き合いで、中学、そしてこのたび入学した高校も一緒だ。他の――辰也くんたち曰く『凡人』の友達はいない。だからあたしたちはずっと一緒だった。それなのに辰也くんは、本当の意味で仲良くなれないとわかっていても『凡人』と笑って話をする。
 人懐っこい笑顔で先輩たちと話す辰也くんを、星夜が親指で指す。
「あんなぺらっぺらの愛想笑いも?」
「そうだよ!」
「木実は裏表ないけど、あいつはむしろ裏がメインでしょ」
「それが良いんだよっ。あたしはあんな器用にできないもん」
「何を考えてるかわかったものじゃないよ?」
「うん。だからあたしは、何も考えないよ」
「は?」
 理解しかねる星夜は首を傾げる。
 あたしは自信満々に笑って、補足した。
「あたしはね、何を考えてるかわからない辰也くんが好きなんだよ。だから辰也くんが何を考えてるのかは、考えないの!」
 星夜は呆れていたけれど、こればかりは仕方がない。誰かが誰かに恋をするのは珍しい話じゃないし、その中身は十人十色だ。
 あたし、細原木実は氷山辰也に恋をしている。
 初めてあたしに芽生えた恋心は未だ一方通行だ。辰也くんは友達としては認めてくれているけれど、彼女の域には全く及ばない。
 辰也くんと出会って7年。星夜と灯火くんと友達になって6年。
 あたしたちは高校生になった。



 あたしたちが入学した高校は、県内の公立校では唯一体育科が存在する。普通科と異なるのは、音楽や美術の授業が無く、代わりに体育の授業が毎日あること、そして運動部への入部が義務付けられていること。一般教養の授業は比較的低レベルであり、いわゆるスポーツバカが集まるクラスだった。
 そんなクラスに身を置いてもあたしたちの交友関係に変化はなかった。
 確かにスポーツにおける秀才は多かった。けれど天才はいなかった。『才能』を持っていても、それにあぐらをかいて磨ききれていない連中ばかりだった。
 とは言え、サッカー部はインターハイで表彰台に立ったことがあったり、野球部は私立の強豪を押さえて甲子園に出場した経験があったり、また毎年のように卒業後はプロのアスリートとして送り出したりと、運動部に関しては伝統あるクラスなのである。
 中学時代に運動部で優秀な成績を収めた生徒はスポーツ特待生として迎えられる。特待生と言っても学費が免除されるわけではない。1クラスしかない体育科は、普通科の生徒からすれば憧れの対象である。その中でも特待生は、言わば英雄的ポジションに就くわけだ。
 今年入学した特待生は、あたしを含めて5人。
「木実さん、おはようございます」
「ん? おはよう、カルナっ」
「今日は暖かいですね。日差しが眩しいです」
「そだねー。おとといの入学式は肌寒かったもんね」
「とってもサッカー日和です!」
「あんた水泳部じゃん!」
「サッカーはブラジルの国技です!」
「あー、そっか。もうすぐワールドカップだもんね!」
「はい! きっと国中がお祭り騒ぎです!」
「でも、開催反対のデモすごいじゃん」
「バレてました!」
「超ビッグなニュースになってるよっ」
 他愛もない会話の相手はカルナ。フルネームはヴィエラ・コモン・カルナック。
 中学1年生の春に転校してきて、今では日本語もほぼマスターしている。なぜ丁寧な口調なのかはわからないけれど。
「で、部活はどう?」
「順調です。この学校、屋内の温水プールです。すごいです!」
「私立顔負けの設備だよねー。道場も柔道と空手がちゃんと分けられてるんだよ。感動しちゃった」
 あたしたちはおととい入学したばかりだが、体育科は3月終盤から部活動に参加していた。
「灯火くんの様子はどんな感じ?」
「すごく頑張ってます。朝練と昼休みは学校で、夕方はスイミングで練習してます」
「え、昼休みも練習してるの?」
「はい。顧問の先生にお願いして、特別に使わせてもらってます」
「へえ……」
 それで昨日の昼休みに姿が見当たらなかったのか。
 あたしたちは全員が体育科であることから、当然ながら同じクラスである。けれど昼休みに姿がなかったから、「どこに行ったんだろうね?」と辰也くんと話していた。
「本当に、すごく頑張ってますよ。先輩も感心してました。えっと……なんて言うんでしたっけ。鬼気迫る? 感じです」
「ふーん。鬼気迫る感じねぇ」
「はい、すごいです」
「カルナは頑張ってないの?」
 からかうように尋ねると、カルナは苦笑いを浮かべた。
「私は朝練と夕練でへとへとです。この学校の部活、スイミングと同じくらいきついです」
「カルナはもうスイミングには行ってないんだ?」
「はい。コーチから『お前はもう形は完成したから、あとはひたすら泳ぎ込むだけだ』って言われましたので」
「灯火くんは?」
「同じです。でも、灯火さんはスイミングで練習してます」
「なんでだろうね」
「わからないです。灯火さんも教えてくれません」
 寂しそうに俯くカルナ。
 カルナはイケメンで性格も良くて、勉強も出来てスポーツも超がつくほど万能だ。そんなカルナが転校してきたとき、それはもうあっさりとスーパースターの位置に座した。
 けれど、カルナにはカルナのスーパースターがいる。
 矢式灯火。今年のスポーツ特待生のひとり。競泳の世界で、幼少期から常に全国トップの地位を守っていた。そんな彼が昨年の夏、初めて同年齢の選手に敗れた。
 ヴィエラ・コモン・カルナック。当時はまだ水泳歴2年だったのに、灯火くんが歴史的敗北を喫したブラジル人。言うまでもなく、今年のスポーツ特待生のひとりだった。


 昨日まで1日のほとんどがオリエンテーションだったけれど、今日から授業が開始される。中学を卒業して以来、久しぶりに机に座って教科書を眺めていたので肩が凝ってしまった。
 それは辰也くんも同じのようだった。午前の授業が終わり、昼休みを告げるチャイムが鳴ると、辰也くんは気だるそうに肩を回しながらあたしの席に歩み寄ってきた。
「おつかれー。食堂行こうぜ」
「うんっ。行こ行こ!」
 とそこで、教室からさっさと出て行く灯火くんの姿が視界の隅に映った。
 今朝のカルナとの会話を思い出す。
「灯火くん、泳ぎに行ったのかな」
「ん? ああ、なんか昼も練習してるみたいだな」
 独り言のつもりだったけれど、辰也くんはその言葉を拾ってくれた。
「知ってたんだ?」
「ん……」
 尋ねると、辰也くんは口をつぐみ、わずかに眉をひそめた。
 でも、それはすぐに修正される。
「あたぼうよ! 灯火のことで知らないことなんかないぜっ」
 自信に満ちた表情で、クラス中に聞こえるくらいの大声で言った。続いて、あたしにだけわかるように、星夜にちらりと一瞬だけ視線を移した。
 辰也くんの意図を汲んだあたしは、負けじと声を張ってみせる。
「そうなの? 辰也くんはなんでも知ってるんだっ?」
「おうっ。あいつのことなら何でも聞いてくれ!」
「じゃあじゃあ、灯火くんと星夜はどこまで進んでるのかなっ?」
 その瞬間、クラスの視線を一斉に引き寄せた。
「バカだなー、木実は。あのふたりは保育園児の時に婚約してるんだぜ? ってことは、それから既に10年以上も経ってるわけだ。想像つくだろ?」
「え? え? でもでもっ、あたしたちまだ高校生だよっ?」
「こらこら、木実ちゃん。あなたはいつの時代のお人だ? 結婚まで純潔を守るという伝統なんか、とうの昔に廃れてるぜ」
「そんな! じゃあ、星夜と灯火くんは既に……!」
「もちもちっ! 灯火と星夜ちゃんは既に……!」
 あたしと辰也くんは揃って大仰に両手を振りかぶった。
 視線だけを動かす。目標は星夜の席。
 本人の姿はなかった。
「あれ?」
 揃って首を傾げた。
 クラスメイトの女子生徒が教えてくれた。
「弓月さんならとっくに教室出たよ?」
「さっすが灯火の彼女! 高校に上がっても相変わらずクールだな! いやもう、クールを通り越してルークだな! 一瞬でいなくなっちまったぜ!」
 辰也くんの叫びが教室に虚しく響き渡る。というか、こうもあっさりと無視を決め込める星夜の胆力はさすがだと思う。
 ちなみにルークとはチェスの駒で、将棋で言う飛車と同じ動きができる駒である。
「辰也くん、落ち着いて! 諦めちゃダメだよっ! 星夜ちゃんはきっと、食堂にいるよっ。だって星夜ちゃん、お弁当持ってきてなかったもん」
「そ、そうだな。よしっ、行くぜ、木実!」
「うんっ」

 というわけで、一目散に食堂に駆けつけた辰也くんとあたし。
 予想通り、星夜はひとりで定食を食べていた。あたしたちも定食を買って、星夜と同じテーブルに着いた。
「早かったね。コントはもう終わったの?」
 視線をこちらに向けることなく尋ねてくる。
「星夜ちゃんこそ早かったな! 危うく入学早々イタイ奴らだと思われるところだったぜ!」
「もう思われたんじゃないの? とは言わないでおいてあげる」
「ひゅう、その優しさに見せかけた厳しさがやっぱクールだぜ!」
「言ってあげるのが本当の優しさ、ってやつだね!」
 いつも通りのやりとりを一通りやったところで、あたしたちはようやく一息ついた。
 辰也くんが真顔で切り出す。
「最近、灯火はどうなんだ?」
「どうも何も、いつも通りよ。教室では普通に話すし」
「何も違和感はないの?」
「別に。水泳の方も、今まで以上に練習に励んでるし」
 あたしはその話題に反応する。
「今朝、カルナと話してたんだけどね、なんか鬼気迫る勢いで練習してるんだってね」
「……ふん」
 星夜はなにか思うことがあったみたいだけど、その感情を表に出さなかった。
 元々クールな性格ではあったけれど、ここまで表情を出さなくなったのはいつからだっただろう。
 星夜が無表情のまま言う。
「約束を守れなかったのが悔しいんでしょ。使命感が強くて人一倍自分に厳しい奴だから」
 中学3年生の夏。あたしたちは、全員が全国大会で優勝することを約束した。守れなかったのは灯火くんだけだった。
 星夜と灯火くんは、辰也くんとあたし以上に『才能』による繋がりが大きい。そのスタイルはとても難しいけれど、その上で成り立つ絆も存在する。
 どう答えれば良いものかと考えていると、食べ終わった辰也くんが口を開いた。
「しかも自分を負かしたのが水泳歴2年の、すげえ身近な奴なんだもんな。気分が良いわけないだろうに」
 辰也くんは頬杖をついて、どこか遠い目で続ける。
「俺だったら辞めちまうかもな、テニス」
「えっ?」
 あたしは思わず声を上げてしまった。
 星夜もぴくり、と反応していた。
「そんなのおかしいよ。たった一度負けたくらいで」
「それだよ」
 反論すると、辰也くんは「やれやれ」とでも言いたげに小さくため息を吐いた。
「星夜ちゃんもだけどさ、灯火は俺や木実と違って、それまで同年齢の奴に負けたことがなかったんだよ。普通、スポーツの才能って負けた悔しさを糧にして磨いていくもんだろう? 灯火はそういう挫折の経験がないのに、ずっと全国トップに君臨していたんだ」
 そういえば、そうだ。中学3年生になるまで、同年齢の人には一度も負けたことがないってとんでもないことだ。
「それがさ、それまでラケットを握ったこともなかったような奴が、たった2年で自分の上に立つんだぜ? しかもその『自分の上』ってのは日本一だ。挙句の果てに、そいつを鍛えたのが自分のコーチ、と。なんかもう、ふて腐れても全然おかしくないよな」
「それは……確かにそうかもだけど」
 理解はできる。でも、何か腑に落ちない。
「なんて言えばいいかわからないけど……うー」
「氷山は何のために才能を磨いてるの?」
「ん?」
 あたしが言葉に困っていると、星夜が口を挟んだ。
 彼女に目を向ける。
「っ」
 その面持ちにどくん、と胸が震えた。恐怖を覚えたのだ。
「そりゃ、勝つためだけど」
「どうして勝ちたいの?」
「負けると悔しいじゃん」
「どうして悔しいの?」
「どうしてって……」
「あんたの言った通り、わたしは同年齢の子に負けたことがない。挫折という挫折をしたこともない。でも、悔しい思いは何度もしてる。灯火も一緒だと思う」
 口調は至って落ち着いている。表情にも感情は出ていない。
 けれど、有無を言わさぬ威圧感が滲み出ていた。辰也くんもあたしも圧倒されて、口を動かすことができない。
「多分、あんたはひとつ勘違いをしている。灯火はそんな小さな奴じゃない」
 星夜が立ち上がる、お盆を持って、あたしたちを見下ろした。
 まるで侮蔑するような視線を向け、言い放った。
「あんたはどうしてテニスを始めたの? どうして才能を磨いているの? 負けて悔しいのはどうして? 闘争本能とでも言うの?」
 矢継ぎ早に繰り出される質問に、辰也くんは答えられないでいた。まるで蛇に睨まれた蛙のようだ。額にうっすらと汗が浮かび上がっている。
「氷山も木実も立派なアスリートなのはわかってる。でも、わたしと灯火は、あんたたちとは根本的に違う部分がある。良くも悪くも、ね」
 その言葉には、わずかな怒りと、嘆きが含まれていた。
 わからない。辰也くんもあたしも、彼女の言葉を理解できない。
 星夜は長くて綺麗な髪を翻す。モデルのように細い星夜の背中が、まるで壁のように大きく感じた。
「灯火は、目的と手段を履き違えるようなことはしない」
 遠ざかっていく背中に、辰也くんもあたしも、声をかけることはできなかった。



 あたしの両親は共に内向的な性格の持ち主だ。争い事を好まず、他人が嫌がることを率先して引き受けるような、いわゆる『良い人』たちだ。『良い人』とは本人たちが気分を害さないよう上手に表現されているだけであって、言い換えれば『都合の良い人』である。
 小学校でトイレ掃除を誰もやりたがらず、当番を押しつけ合って言い争いに発展しそうになれば「じゃあ僕(私)が……」と手を上げるような人だ。
 とても心優しい、けれど場合によっては損をするような両親である。
 そんな平和主義者の両親のもとに生まれたあたしだったけれど、どうも物心がつく前から手が早い子供だったらしい。両親があたしを躾けると、逆上して突っかかっていったとか。
 そのあたしが空手を始めた理由は至極簡単なものだ。
 幼少期に特撮ヒーローものの番組をテレビで観て、凛とした正義のヒーローが『悪』をばたばたなぎ倒していく姿がとても格好良かった。
 弱者はいつだって善良だ。なぜなら、力がないと『悪』になれないから。『悪』が悪巧みをするのは力があるからであって、力のない『悪』なんかあっという間に『正義』に潰される。
 同様に『正義』もまた、力を持つ者のみが呼称されることを許される。悪を撃ち滅ぼせない正義など、果たしてその存在に意義などあるはずもない。
 そして、物語の中で支持されるのはほとんどが『正義』だ。『悪』を倒せば善良な弱者から感謝され、また苦戦を強いられれば激励されたり支援を受けることもある。
 生来好戦的だったあたしが『正義』に惹かれたのは、自分の両親が『善良』だったからだろう。『悪』に虐げられる弱者に自分の両親を重ねたのかもしれない。
 強くなれば弱者を、もとい優しくて弱い両親を守れる。それに付随するように称賛も受けられる。『正義』はまさにあたしの理想像だった。
 だから強くなるために5歳で空手を習い始めた。数ある武術から空手を選んだ理由は特にない。両親に「強くなりたい!」と申し出たら通わされたのが空手の道場だっただけだ。両親の中で強者=空手家だっただけに過ぎない。
 あたしはみるみる強くなっていった。2年が経って小学生になった頃には、同世代の男の子にも引けを取らないようになっていた。もちろん、それはあくまで道場に通っている人が相手の場合であって、素人相手の純粋な喧嘩なら高学年の男の子ですらあたしに敵う人はいなかった。
 けれど、あたしが強くなって喜んだのは道場の師範だけだった。両親は不安がっているようだった。力を持った者は『悪』になりうるからだ。
 あたしは笑った。そんなバカな話があるはずない。だってあたしが強くなりたいと思ったのは『正義』に憧れたからだ。正義になって、悪を成敗して、善良な弱者を守りたかったからだ。
 本来の目的を達成すべく、あたしは手に入れた力をいかんなく発揮した。
 例えば、下級生をいじめる体の大きい上級生に天誅を下した。
 例えば、理不尽な指導をする学校の先生に反攻した。
 例えば、正論を言っている先生のことを裏で「うざい」だの「死ね」だの陰口をたたいていた女子を律した。
 武力を道場以外で行使してはならない。道場でそう教えられていたけれど、あたしは平然と破った。破ることに抵抗感も罪悪感もなかった。
 当たり前だ。悪を倒すために必要なのは力だ。必要な力を必要なタイミングで使う。いったい何が悪いと言うのだ。
 良い証拠に、あたしが力を奮えば相手は謝ってくるのだ。「もうしないから」と許しを乞うのだ。謝るのは悪いことをしていた自覚があるからだ。そして彼らは、二度と同じ過ちを繰り返さなくなった。悪が正されたのだ。
 気分が良かった。悪が倒れ、善良な弱者が救われていく。あたしが追い求めていたヒーローに近付いているのだと、信じて疑わなかった。
 それなのに。
 小学生になって1年が経って2年生になったある日、あたしはふと気付く。悪を倒し続けてきたのに、あたしはいつまで経っても『正義』になれていなかった。
 友達ができなかった。いつもひとりだった。
 悲しみや虚しさはなかった。でも、単純に疑問だった。
 どうしてあたしは『正義』になれないのだろう。どうして『暴力女』だなんて言われなければならないのだろう。暴力は『悪』じゃないか。悪を倒しているあたしの力は、歴とした『正義』のはずなのに。
 決して称賛を浴びたかったわけじゃない。善良な弱者から感謝されたかったわけでもない。けれど、善良な弱者を守るべく正義の力を奮い続けていれば、結果としてそういったものがついてくると思っていた。
 かつてテレビで観ていた正義のヒーローのようになれるのだと思っていた。みんなから支持を受ける、人気者になれるのだと思っていた。
 だからだろうか。同じクラスの、本当の人気者に強烈な違和感を覚えた。
 氷山辰也。
 とても優しくて、誰とでも気軽に接する愛想の良い彼は、実は心から笑っていないのだとすぐに気が付いた。星夜の言う「ぺらっぺらの愛想笑い」を若干7歳で完璧に使いこなしていた。
 そんな辰也くんが初めて話しかけてきたのは、新年度が始まって半月が経った頃だ。
 その第一声は、永久凍土で保存されたかのように、今でも心の中にはっきりと残っている。
「よっ、細原。おまえっていつもひとりだよな。俺と友達になろうぜ!」
 おそらく、辰也くんは気軽に話しかけてきたつもりなのだろう。もしかしたらこんなセリフを発したことは覚えていないのかもしれない。
 けれど、あたしにとってどんな意味を持っていたのかなんて、きっと彼は知らない。
『悪』だった。愚弄されたと感じた。正義の力を行使するタイミングだった。
 普通ならば、だ。
 このときの辰也くんは、あたしが正義をかざすべき対象ではなかった。
「なんで楽しくもないのに笑ってるの?」
 いつも通り「ぺらっぺらの愛想笑い」を顔に貼り付けていた辰也くんに尋ねた。
「辰也くんっていつも笑ってるよね。ねえなんで?」
 決して責めているわけではなかった。単純に純粋な疑問をぶつけただけだった。当時7歳だったあたしにデリカシーを求めるのは酷だろう。それにお互い様だ。
 辰也くんは一瞬、ひどく動揺した。虚を突かれたように焦燥している素振りを見せた。
 でも、すぐに心を立ち直らせて、辰也くんは笑った。
「お前の言う通りだよ。俺はいつも笑ってるけど、いつも笑ってないんだ」
 違和感の正体は何てことのないものだった。つまるところ、辰也くんは気持ちと言動が一致しない、腹黒い少年なだけだった。あたしにとっては悪口じゃない。ある意味では『正義』でもある。
 世の中を上手に立ち回るということは、すなわち争い事を忌避していることを意味する。
 集団の中に身を置く限り、諍いは必ず生じる。それを避けて回るのは、言わば両親のように『善良』なのだ。
 それなのに、辰也くんは弱者ではなかった。成績優秀でスポーツ万能の彼は、むしろ強者に部類される少年だった。
 あたしのような武力はない。けれど善良で、それでいて正義だった。人気者だった。
 あたしが追い求めていた正義のヒーローが、こんなにも近くにいた。
 おもしろい、と思った。小学校に入学して、初めて仲良くしたいと思える男子と出会えた。友達になりたいと思った。
 辰也くんは受け入れてくれて、あたしを友達だと認めてくれた。
 そして彼は、あたしの正義の力の正体を気付かせてくれることになる。
 それは、もう少し先の話だ。
 
 
 
 5月になってGWに入った。国民的連休に観光地が賑わっている中、あたしたちの体育科も部活動で賑わっていた。全運動部は毎日朝7時かや夜19時まで、休憩を挟みながら12時間もの練習に励む。どうやら我が校の伝統らしい。もちろん、ただ闇雲に練習するのではなく、メニューにメリハリをつけて効率よい内容のものとなっている。
「だーっ、つっかれたー!」
「ホントだよー。道場の合宿並みに疲れちゃった」
 暗くなった夜道を辰也くんと肩を並べて帰路についていた。お互いにへとへとだ。
「んでも、灯火はこの後スイミングでまた練習するんだろ? もう人間じゃねえよ」
 高校生になって1ヶ月が経つけれど、灯火くんの練習量は日に日に増えていっている気がする。カルナの話によると、顧問の先生に心配されるほどらしい。
「星夜ちゃんも居残って練習してるんだってな。ふたり揃って練習の鬼だよ」
「ね。星夜とは一緒に帰れると思ったんだけどな」
「んー。良いことだろうけど、今はちょっと微妙だよな。あれ以来」
 苦笑する辰也くんに、あたしも釣られて苦笑した。
 別に喧嘩をしたわけじゃない。普通に話すし、お昼ごはんも毎日いっしょに食べている。ただやっぱり、辰也くんとあたしは、星夜と一緒にいてなんとなく気まずいと思うようになっていた。
 理由はわかっているようで、わからない。こちらが負い目を感じていて、星夜は堂々としているから、きっとあたしたちに何か非があるのだろう。
 その中身がわからない。わからないから、解決の糸口が見つけられない。
 灯火くんに「なにかあったの?」と尋ねられたけれど、「なんでもないよ」と答えるほかない。でも、灯火くんのことだ、きっとあたしたちの小さな軋轢に気付いているだろう。
「根本的に違うとか、手段と目的がどうとか、全然わかんねえよお」
 あの日以来、何度か辰也くんと話をした。星夜が何を言いたくて、何を求めているのかを。
 答えは依然としてわかっていない。答えはきっとあるはずなのに、広大な迷路のように先が全く見えない。
「まあまあ。今は自分のことを考えようよ。来月にはインターハイの予選が始まるんだし、再来年年はリオデジャネイロオリンピックだよ! 辰也くんがテニスを始めたきっかけだよっ」
「……ん、そうだな。再来年はちょっと厳しいけど、2020年の東京オリンピックは絶対出るぜ! 松岡修造にも錦織圭にも為しえなかった偉業を俺がやってやるんだ!」
「その意気だっ、辰也くん!」
 答えを見つけられず悶々としていたあたしたちだったけれど、話をしている過程で、あたしは辰也くんがテニスを始めた理由を初めて知ることができた。
 遡ること10年。2004年8月。あたしたちがまだ6歳の頃、遠く離れたギリシャの地でアテネオリンピックが行われていた。柔道の野村宏忠が前人未踏の三連覇を達成したり、女子マラソンでは高橋尚子の後を継いで野口みずきが優勝したりと盛り上がっていたが、辰也くんは全く別の種目を注目していた。
 男子テニスだった。なぜ男子テニスかというと、この大会ではニコラス・マスーとフェルナンド・ゴンザレスという選手がそれぞれシングルで金メダルと銅メダルを勝ち取った。また、ダブルスでもこのふたりが組んで優勝した。ふたりともチリの選手だったのだが、チリのテニス選手がオリンピックで金メダルを取ったのはこれが初めてであり、ふたりは国内で英雄扱いされたのだ。
 そんな特集をテレビで見た彼の目にはふたりがものすごく格好良く映り、そしてテニスという競技に強く興味を持った。
 テレビの特集はやがて日本のテニスの歴史に移った。近代において、当時はまだ松岡修造くらいしかまともに選手は出ていないとのことだった。その松岡修造は3大会連続でオリンピックに出場したり、ウィンブルドン大会でベスト8に残るなど、その道においていは輝かしい功績を残しているが、引退するまでに世界の壁は打ち破れなかった。
 また、その頃から錦織圭という選手が頭角を現し、松岡修造の後継者として国中から期待を寄せられていたが、当時はまだ世界のトップレベルには達していなかった。
 しかし、実は日本にとってテニスとは特別な種目なのである。
 日本がオリンピックで初めてメダルを獲得したのは1920年のアントワープオリンピック。その種目こそがテニスだった。シングルス、ダブルス共に銀メダルを獲得し、日本に初めてメダルを持ち帰ったのだ。
「日本におけるオリンピック史はテニスから始まったと俺は思っている!」とは辰也くんの持論だ。
 しかし1920年のオリンピック以降、日本はテニスでオリンピックのメダルを手にしていない。初めて日本に持ち帰った種目なのに、だ。
「俺が100年ぶりにテニスでメダルを取ってやるぜ!」
「くううっ。惚れ直すぜ、ミスター氷山!」
 あたしたちと話すとき以外は常に愛想笑いを浮かべている辰也くんだけど、テニスの話をしているときに限り少年のように目を輝かす。
 辰也くんの気持ちは理解できる。幼少期の頃、テレビの登場人物に憧れを抱いたという点ではあたしと共通しているのだ。
 辰也くんとあたしの中には、それぞれヒーローがいる。そのヒーローを必死に追いかけて、いつかは自分がなってやろうと才能を磨き続けている。
「ん?」
 ふと気付いて、あたしの意識は思考の渦に呑み込まれた。
 辰也くんが振り返る。
「どうした?」
「んと、なんか、ちょっと、わかりそう」
「わかりそう? なにが?」
「星夜の言ってたこと」
 灯火くんと星夜。辰也くんとあたし。
 2組とも『才能』を生まれ持ち、それぞれの道を極めようとしている。
 でも、星夜は言った。
『わたしと灯火は、あんたたちとは根本的に違う部分がある』
 そして、こうも言った。
『灯火は、目的と手段を履き違えるようなことはしない』
 どくん、と胸が跳ねた。
「ああ、そっか……」
「木実ちゃーん? おーい?」
 星夜はああやって言っていたけれど。
 今の灯火くんを見て、きっと、気付いている。
 多分、焦っている。多分、苦しんでいる。
 星夜は、灯火くんを疑えないから。信じることしかできないから。
 星夜にとっては、灯火くんこそが世界のすべてだから。
 だから、ああいう風にしか言えなかった。けれど。
 星夜は、きっと――
「おいっ、危ねえ!」
 耳障りな轟音が耳をつんざいたかと思うと、まるで地球の重力が暴走したかのようにあたしの体が宙に投げ飛ばされた。
 思考の渦から我に返った直後で状況がすぐに飲み込めなかった。
 あたしは辰也くんに抱きかかえられて地面に倒れていた。視界の端にバイクが倒れていた。そのすぐそばに倒れている人影があった。
 その人影が蝋燭の火のようにゆらりと立ち上がる。
 首が勢いよく振り向いた。
「このガキどもおお!」
 鼻ピアスを着けた、20代前半の男が鬼の形相をしていた。ヘルメットは被っておらず、額から2筋の血が滴っている。
「木実……マジで頼むわ、お前。赤信号に突っ込んでいくとか何考えてんだよ……」
「うそ……あたし、そんな……」
「目の前の怖いお兄ちゃんこそが現実だよ。よりによって、まあ……」
 辰也くんは苦虫を噛み潰したような表情をしていた。
 あたしはいきなりの出来事に全身が震えていた。辰也くんがあたしの体から手を離して立ち上がっても。あたしは力が入らなくて立ち上がれずにいた。
 鼻ピアスの男はどう見てもろくでもなさそうな人だ。
「ど、どうするの……?」
「落ち度は100%こっちにあるんだし、謝るしかないでしょ」
 謝っても許してくれそうな人ではないのは火を見るより明らかだ。
 けれど辰也くんは、それを承知で男に歩み寄っていく。お得意の、あの愛想笑いを浮かべて。
 ダメだよ、辰也くん。こんな状況で、ああいう人にその表情を浮かべたら……。
「ぐぁっ」
 わかりきっていた応酬を左頬に受けた。白くて小さな欠片が口から飛び出していく。
「辰也くん!」
「いいから。木実はそこにいろよ。『約束』だろ」
 辰也くんは笑みを絶やさない。表情を変えないまま鼻ピアスに再度向かう。
 争い事を忌避して、今まで上手に世渡りをしてきた彼の、唯一の武器を顔に貼り付けて。
「ごばっ」
 再度受ける応酬。でも彼はきっと、あの戦法しかとらない。とれない。
 そうなのだ。辰也くんは上手に世の中を渡り歩いてきた。たとえ友達がいなくても、たとえ本当の好意を向けられなくても、自分だけは周りに偽物の好意を振りまいてきた。そうすることによって争いを阻止してきた。
 でも今回のケースでは通用しない。辰也くんの武器は、闘牛に対する赤いマントにしかならない。
「ぶっ」
 鼻ピアスから次々と繰り出される暴力。けれどその暴力は必ずしも『悪』とは言い切れない。
 あの人はただバイクを運転していただけだ。信号無視をして横断歩道を渡ろうとする女子高生を避けて、自らが痛い目に遭うとわかっていながらもハンドルを切って、転倒した。頭から血を流す羽目になった。
 ヘルメットを被っていなかったのは確かに悪いけれど、そもそもの原因はあたしにある。考え事に没頭して、周りが見えていなかったあたしが悪いのだ。
「がふっ」
 止まらない暴力に、あたしは既視感を覚えた。
 思い出すのは5年前の出来事。
 小学5年生の野外教育活動の際、辰也くんは心ない女子大生から理不尽な暴力を受けた。平和的に解決しようと前に出たのだけれど、辰也くんの偽物の笑顔は相手の逆鱗に触れた。
 あたしの頭は瞬時に沸騰した。辰也くんを痛めつける輩は、あたしが正義の力をもって成敗しようとした。
 でも、この時、あたしは初めて知った。
 あたしの正義の力は、道場以外では暴力なのだと。『悪』なのだと。
 この事件後、あたしは3人と約束を交わした。
『もう二度と暴れない』
 あたしが、自分自身が『悪』だったと認めること。自戒すること。
 それは幼少期のあたしの夢が潰えた瞬間だった。
 あたしは『正義』になれないのだと、思い知ったのだ。
 そう、あたしの夢は、叶わなかった。
 ――でも。
 同時に思い知ったことが、もうひとつある。
 あたしは自分が思っていたよりもずっと、辰也くんが好きだった。
 自分の夢が潰えたと知ったことよりも、辰也くんに嫌われてしまうことのが方がずっと悲しくて、怖かった。
 そして、あの時と同じような光景を目の前にして。
 暴力に虐げられている辰也くんを見て。
「辰也くん……」
 あたしの心臓が、まるで鷲掴みにされているようにきつく縮んだ。
 胸が苦しい。呼吸すらままならない。頭がかーっと熱くなっている。
 思い出す。5年前にもこんな感覚に陥った。
 燃えるような怒りと……恋。激流の如く激烈な恋心。
 殴られ続けている辰也くんを見て恋愛感情が沸くなんて、本当にどうかしている。
 もしかしたら、あたしにはとんでもない性癖が隠されているのかもしれない。
 でも、好きな気持ちはしょうがない。恋心は理屈じゃない。
「ごめん、辰也くん」
 独り言のように呟いたのだけど、なぜか辰也くんの耳に届いたようだった。尚も殴られながら、必死に叫んでいる。
 やめろ。来るな。大人しくしていろ。もうガキじゃないんだぞ。大会が近いんだぞ。俺は大丈夫だから。
 約束を、破るな。
「だからさっき、ごめんって言ったんだよ」
 正義のヒーローになりたかった。善良な弱者を、悪から守りたかった。好きな人を、守りたかった。
 あたしは正義を振りかざした。誰にも評価してもらえなかった。結果として、自己満足だった。評価は他人がするものだから。自己評価なんてただの自己満足だから。
 自己満足だから、自分の好きなようにすればいい。
 約束なんて知らない。
 辰也くんの気持ちなんて、知らない。
 正義はあたしだ。
 自分の気持ちに嘘はつかない。
 大好きです。
 大好きです、辰也くん。
 大好きな辰也くんは、あたしが守ります。
 だから。
 あたしは今一度、自己満足の正義を振りかざそう。
 
 ーーこれが、あたしが『才能』を生まれ持った意味だ。



 あたしの『正義』は傷害事件として全国にテレビで流された。
 女子空手の中学王者が起こした事件はたちまち注目を集め、多くのマスコミが高校に詰め掛けた。

 あたしは高校から退学処分を受けた。
 空手界からの永久追放処分も言い渡された。
 両親には勘当された。一時的な感情に流されただけだと思うけれど、ろくに荷物の整理もさせてもらえないまま家を追い出された。財布もスマートフォンも持たせてもらえなかった。

 さすがに途方に暮れた。これからどうすれば良いかわからず、一時は人生の路頭に迷いかけてしまった。
 でも、後悔はなかった。
 あたしはあたしの正義を貫いただけだ。空手への未練はない。高校への未練もない。
 ーーそれに。
 色々なものを失ったけれど。

「おっし、これで荷物は全部出したな」

 かけがえのないものを、手に入れた。

「俺は段ボールを縛って捨ててくるから、木実はレイアウトを頼むな」

「任せてっ。辰也くんとあたしの愛の巣だもんねっ、センス良く作り上げてみせるよ!」

 辰也くんはあたしの後を追うように自主退学。男子テニスの中学王者の自主退学はさらなる注目を集め、マスコミ来訪の助長に大いに貢献した。
 もちろん、あたしは強く止めた。辰也くんは被害者なんだから、辰也くんまで辞める必要はない。辰也くんのテニス人生はこれからでしょう? 東京オリンピックでメダルを持ち帰るんでしょう?
 辰也くんは笑みを浮かべて答えた。
「俺は木実と一生一緒にいるって決めたからいいんだよ! お前が俺に人生を捧げてくれたようにさ、俺もお前に人生を捧げるんだ! テニスなんて知らね! これが俺の『正義』だ!」
 涙が出た。情けなく咽び泣いてしまった。
 ろくに声が出せなかったけれど、あたしは彼の言葉に対して、こう返した。
「あたしも、これからずっと、辰也くんの『正義』でいるよ」
 ちゃんと伝わったのかはわからない。
 けれど、その時の辰也くんは、偽物なんかじゃない、とても穏やかな笑顔を浮かべていた。



 そうして、辰也くんとあたしの共同生活が始まる。
 共に18歳未満のふたりがアパートを借りられたのは、辰也くんのお母さんが名義を貸してくれたからだった。
 辰也くんはお母さんを懸命に説き伏せ、名義を貸してもらえるところまでこぎつけた。
 ただし、条件が設けられた。
「自分と自分の好きな女の子のことくらい、自分で守りなさいね」
 それはつまり、名義以外での助力は一切しないという通告だった。
 全く問題なかった。こうして住むところの確保に力を貸してくれただけでも十分過ぎるほどだった。
 辰也くんはすぐにパン屋でアルバイトを始めた。お店の定休日以外は開店から閉店までフル出勤して生活費を稼いできてくれた。さらには売れ残りのパンも持って帰ってきてくれたのは本当に大助かりだった。
 あたしも家事をメインとしながら工場でライン作業のアルバイトを始めた。空手の世界では全国大会優勝の功績を残していても、社会での労働に大して意味は成さないことを知った。
 中学を卒業したばかりの若造ふたりの共同生活はなるほど厳しい日々だった。今までいかに両親に守られていたのかを痛感した。
 だからこそ、辰也くんとあたしは互いに支えあうことの大切さを痛切に学んだ。苦しい環境下での生活はかえってあたしたちの絆を強固なものにした。
 空手しかやってこなかったあたしの料理の腕前は皆無に等しかった。初心者用の料理本を立ち読みしたり、バイト先のパートのおばさんに教えを乞いたりして少しずつレパートリーを広げていった。最初は「うん、おいしいね」と心遣い100%の感想だったのが「うまいなコレ!」と素で褒めてもらえたときは飛び上がるほどに嬉しかった。大好きな人に尽くし、それを認めてもらえて嬉しいだなんて、あたしも女の子だなあ、とちょっと笑ってしまった。
 今までとは180度異なる人生。地獄のように辛い練習の日々とは違う辛さの、生きるための日々。生活は毎月のようにギリギリで、生活家電も必要最低限のものしか揃えられなかった。アパートに冷蔵庫と洗濯機がついていたのはとても有り難かった。テレビやパソコンはずっと欲しいと思っていたけれど、嗜好品に万単位の出費はどうしても手が出せなかった。
 それでも、楽しい日々だった。ケンカもたくさんしたけれど、大好きな人と一緒に過ごしている日々が、たとえどんなに貧しくても、これ以上の幸福なんかないと思った。

 もがくように生きていき、あっという間に2年が経過すると、あたしたちの人生は大きな変化を迎える。
 辰也くんがアルバイト先のパン屋で正社員に登用された。愛想が良く、生活がかかっているため労働意欲が高くその頑張りが認められたのだ。また、今年で18歳になるからでもある。
 18歳になったらやりたいと思っていたことがふたつあった。
 ひとつ目は、アパートの名義を正式に辰也くんのものに変更すること。辰也くんが正社員になったのですんなりと手続きは済ませられた。今まで名義を貸してくれていた辰也くんのお母さんには感謝の言葉しか思い浮かばない。
 ふたつ目は、入籍。辰也くんとあたしは夫婦になった。
 辰也くんのご両親は諸手を上げて喜んでくれた。こんな息子が社会人としてやっていけるなんて夢にも思わなかった。あなたのおかげです。ありがとう、となぜか感謝されて、末永く仲良くやりなさい、と祝福してくれた。
 それから、あたしの両親にも挨拶に向かった。あたしは勘当されているわけだから、いったいどんな反応をされるのか不安はあった。まして丸2年も帰っていない。こんな親不孝娘の嫁入りを許してくれるのか、と。
 両親は、静かに結婚を許してくれた。喜ぶことはなく、ただ淡々と辰也くんに、娘をよろしくお願いします、と告げた。それ以上の言葉はなかった。でも、辰也くんの「孫ができたら見せに来ますね」という言葉には、拒否の返答はしなかった。
 高校を退学して以来、あたしは一度も道着に袖を通していない。辰也くんもラケットを握っていない。灯火くんや星夜との接点もなくなってしまった。スマートフォンを手放したあたしはもちろん、まだ持っている辰也くんにも、高校を退学してから一度もふたりから連絡が来たことはないようだった。
 きっと、今でも必死に練習しているのだろう。『才能』を磨いているのだろう。
 辰也くんと話し合った結果、ふたりにはあたしたちの報告はしないことにした。その主たる理由は、あたしたちにはもう、興味を無くしていると思ったから。
 あたしたちは『才能』によって繋がっていた。その研鑽を放棄したあたしたちは『凡人』になり、灯火くんと星夜の友達の範囲から外れたからだ。友達でも何でもない知り合いから結婚の報告を受けたところで、何か思うことがあるとは思えない。
 それに、正直に言うと、あたしはあのふたりに合わせる顔がない。約束を破って、あたしこそが4人の関係をぐちゃぐちゃにした張本人だからだ。
 悲しくて少し酷だけれど、こればかりはしょうがない。灯火くんと星夜には彼らの人生がある。あたしたちにも、あたしたちの人生がある。
 あたしたちがいなくなったところで、彼らの人生には何ら影響はない。
 それぞれの人生を、それぞれで歩もう。
 そう、決めた。

 結果として、星夜と次に再会するのは10年近く先のことになる。けれど、辰也くんとはもっと早くに再会する。
 あたしたちが20歳になって、ようやくテレビを買えたのだけれど、それまでも星夜の名前は巷でよく耳にした。カルナの名前も同じくらい耳にした。
 灯火くんの名前は一向に聞こえなかった。テレビを買った後も全く目にしなかった。

 さらに3年の時が流れ、2021年になった。東京オリンピックの年だ。
    感染症の世界的流行でオリンピックはまさかの延期になったものの、無観客で開催されることになった。
 開催と中止の葛藤の中でにわか世間が盛り上がる中、次々と代表の選手が決まっていった。
 陸上の日本代表に星夜の名前があった。
 競泳の日本代表にカルナの名前があった。
 矢式灯火の名前はなかった。
 やがてテレビは、代表選手のインタビューに移った。
 星夜の番になった。
 彼女はインタビュアーの質問に答えていって。

 ――辰也くんとあたしは、星夜の言葉を、テレビを通じて聞いた。



 本大会を目前に控えた7月。あたしたちは夜の街中で思いがけない人物と再会した。
 灯火くんだった。男女合わせて8人のメンバーのひとりだった。酔っ払っているのか、周囲を気にせずに騒いでいた。皆、あたしと同じ『凡人』だった。
 そして、他ならぬ灯火くんも、かつて見せていた鋭い眼差しや、『凡人』をおののかせる気高さは影を潜めていた。

 辰也くんが尋ねた。
 ここで何をしているのか、と。

 灯火くんは答えた。
 クラブの帰りだ、と。
 
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