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第5章

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第5章 【矢式灯火】


 星夜に振られてからの高校生活はあっという間だった。
 星夜との絆は断たれてしまったけれども、俺が水泳を辞める理由にはならない。ヴィエラにもまだリベンジを果たせていなかった。引き続き世界最速を目指した。
 ただ、あれだけリベンジに燃えていた心はすっかり冷めてしまっていた。
 機械的に練習する日々。人が無意識に呼吸するように、俺は気付けば練習に没頭していた。ただ、どれだけ体を動かしても、心は微動だにしていなかった。
 そんな情熱の希薄化に呼応するように、成長が著しく遅くなった。自己ベストがなかなか更新できなくなっていった。対してヴィエラは順調に実力を伸ばしていった。
 それでも、なぜか自信に満ちていた。きっとヴィエラに勝てると思っていた。
 迎えた高校最後の夏。去年も負け、中学3年からヴィエラにはもう3年間も勝てていない。今年こそは勝ってやると意気込んでいた。
 予選を勝ち抜き、決勝に、ヴィエラに挑んだ。
 敗北した。元から自己ベストは大きく負けていたから、あくまで予想通りの結果ではあった。俺が負けたことに誰も驚いていなかった。皆ヴィエラの快挙を祝福した。
 ヴィエラは2年生、3年生とインターハイで連覇を達成した。俺は2年生が4位、三年生ではヴィエラに次いで2位だった。順位だけ見れば僅差だが、タイムでは大敗と言っても良いほどの差があった。

 俺の、水泳部としての高校生活は終わった。結局、ヴィエラには一度も勝てなかった。
 あんなに練習したのに。ヴィエラよりも3倍以上練習していたのに。
 俺は、ヴィエラ・コモン・カルナックに屈した。
 けれど。
 不思議と悲しみも悔しさもなかった。自分でも信じられないくらいに晴れやかな気分だった。
 あぁ、そうか、とその頃になってようやく気付く。
 ヴィエラに勝ちたいとずっと思っていた。そのためにプライベートの時間をかなぐり捨てて練習してきた。
 でも、心の奥底ではもう、ヴィエラに勝つことを諦めていたのだ。



 夏が終わり、クラスの皆の進路が次々に決まっていく。さすがは伝統ある我が校の体育科と言うべきか、ほとんどの奴がスポーツ系の大学に進学する。次に多いのはプロの実業団に就職。鍛え抜いた体格を活かし、警察官や消防士に就職する奴もいた。
 3年間も同じメンツだったのだ、それなりに皆別れを惜しんでいる。それぞれの道で活躍できるよう、健闘を祈り合っている。
 星夜は陸上の国内トップクラスの名門大学への進学が決まっていた。
 俺は地元の小さな大学に進学が決まっていた。
 水泳はもう辞めた。



 両親は黙って俺の意志を汲んでくれた。
 たくさんの労いと、感謝と、なぜか謝罪の言葉まで口にしていた。
 これからどうするのか、と聞かれ、俺はわからない、と答えた。自分から水泳を取ってしまえば何も残らない。未来が暗闇になってしまった。将来像がまったく見えない。
 ずっとそばで支えてくれてきた両親だ、きっと両親も理解してくれたのだろう。優しく「好きにするといい」と言ってくれた。母親も同意見のようだったけれど、瞳を潤ませていた意味はわからなかった。


 15年間お世話になった白田コーチへ挨拶に向かった。俺を2歳の頃から面倒を見、今まで『才能』の研鑽に大きく貢献してくれた恩師だ。水泳を辞めた以上、顔を合わすこともおそらくはない。これが今生の別れになるかもしれない。
 感謝の気持ちを告げると、白田コーチはそうか、と淡々と送り出してくれた。
 ヴィエラは越えさせてやれなくて申し訳ない、とも謝ってくれた。
 俺にとっては第2の親のような存在だ。別れは惜しいけれども、俺自身が決めた道でもある。
 コーチが謝る必要はありません。俺の実力不足です、と言って、白田コーチに背を向けた時。
 背後から言葉を投げかけられた。
「矢式には俺たちの夢も押しつけてしまったな。悪かった、とは言わないが、今までありがとう。ご苦労さん」
 両親と似たようなことを言っていたが、やはりその意味がよくわからなくて。
 俺は一度だけ振り返り、黙礼をして、コーチ室を出ていった。



 2017年4月。俺は大学生になった。
 家から1時間程度で通える距離の大学で、学部は経済学部だ。総生徒数500人程度の、標準偏差値は40にも届かない最底辺の大学である。
 高校の教師からはもっとマシなレベルの大学への推薦入試を勧められたが、俺はこの大学に一般入試で受験した。俺の水泳の実績を武器にすれば、もっと学力の高い大学に合格できただろう。しかし、俺は自ら水泳を辞めたのだ。その水泳を武器にするのは強い抵抗があった。他の受験者と同様に、一般入試で受けるのが筋だと思った。
 経済学なんてまるで興味なかった。この学部を選んだ理由は、単に俺でも入れる学力レベルだったからに過ぎない。今後の人生のことなんて、何も考えていない。
 もう、何でもよかった。



 初めての、水泳のない生活。
 プールに入らない日々がとても新鮮で、ひどく鬱屈だった。
 講義の内容なんて全く頭に入って来なかった。単位を落とすことだけはしないよう、プロジェクターに投影されたパワーポイントをひたすらノートに書き写していくだけの毎日だった。まるで無気力だった。
 特に授業後の時間は暇を持て余して仕方がなかった。3歳児の頃から毎日スイミングスクールに通っていたのだ、家にいても何をすれば良いのかわからなかった。
 今まで、だらだらと惰性で生きている奴らを何人も見てきた。別段興味は抱いていなかったが、今思えば、そんな奴らを見ていたときの俺はきっと、冷めた視線を送っていたのだろう。
 今ならあいつらの気持ちがよくわかる。
 目標を持っていない人間は、こんなにも毎日が空虚だったとは……。


 5月になり、親の勧めでアルバイトを始めた。生きがいを持っていない俺でも、労働の真似ごとをすれば多少は社会貢献になるし、お小遣いももらえる。さらには退屈も凌げて、一石三鳥だ。
 大学以外では特にやることのない俺は、それなりの日数をバイトに費やした。そうしたら、それなりのバイト代を貰った。でも、特に欲しい物がなかった俺は大した満足感は得られなかった。
 それでも他にすることがないのは事実だったから、一応バイトは続けていった。
 こうして俺は、大学に加え、バイトまで無気力に続けていくことになる。


 こんなことならばいっそ、大学を辞めて就職してしまう選択肢もある。講義を聞いていないのであれば学費も時間も無駄になる。
 だが、今の俺は何に対してもあまりに無気力だ。労働意欲なんて皆無。こんな俺を雇う会社があるとは思えない。仮に、あまりにも人手不足で、それこそ猫の手でも借りたいと思っている会社が雇ってくれたとしても、すぐ解雇されるか、もしくは辞職するとしか思えない。
 そうであれば、フリーターにでもなってしまおうか。責任の少ないバイトだけなら何とかやっていけることだろう。
 学歴が欲しくて大学に行ったわけじゃない。それに、今の最底辺の大学を卒業したところで、就職を有利に運べるとは思えない。
 でも、無気力に働くバイトだけの毎日に、いったい何が見い出せるのだろうか。貯金をしたいわけじゃない。自分の時間が欲しいわけでもない。
 結局俺は、やはり惰性で大学とバイトを続けていくしかないのだろう。
 無気力な日々。明るい未来が想像できない。
 以前は違ったのに。


 6月になる。バイトから帰って来てテレビを点けたら、ちょうどニュース番組のスポーツコーナーが放送されていた。
 俺は目を見張り、息を呑んだ。
 星夜が映っていた。陸上の日本選手権が開催され、初日の100走の予選を全体の2位で通過したらしい。予選ではフォームを確認しながら走ったようで、決勝で本気を出せば優勝の可能性は高いと報じられていた。
 高校の卒業式から約3ヶ月ぶりに見る姿はひどく美しく、強烈に輝いて見えた。元から容姿の整った彼女ではあったが、テレビの中に移る彼女は魔女のように人を魅了していた。
 たった3ヶ月でこんなにも大人びたということだろうか。
 違うだろう。
 俺が、堕ちたのだ。
 以前までは俺も似たような位置にいたから、星夜が特別輝いているとは思えなかった。けれど今となっては、もはや雲の上の存在だ。
 そう、まるで満天の星空のように。
 夜空を見上げればいつだって広がっているのに、決して手が届くことのない。
 だから人は、見た目以上にそれが輝いて見える。
 今の俺は、地上からただ星空を見上げるだけの、ただの『凡人』だ。
 わかってはいた。
 あいつに振られ、水泳を辞めた俺はもう、とっくに地面に堕ちていた。
 もう二度と、彼女の隣に立つことはできない。肩を並べて歩くことはできない。
 だから、星夜が、眩しくて仕方なかった。
 目が灼けるような感覚に襲われて、俺は耐えきれずにチャンネルを変えた。



 そんなある日のことだった。
「なあ、お前ってもしかして、矢式灯火じゃねえ?」
 食堂の片隅でひとりで昼食を食べていると、初めて声をかけられた。1学年100人強の小さな大学だったから、声をかけてきた奴の顔も見覚えはあった。
 俺はもう『凡人』に堕ちているわけだから、友達を作らない理由はもうない。ただ、無気力を極めていた俺に、友達ができるわけがなかった。
「……誰だっけ」
「おぉっ、すっげぇ! マジ奇跡! 超パねぇ!」
 金髪に浅黒い肌。イエローのポロシャツにミリタリー柄のハーフパンツ。そして口調。
 さすがは最底辺の大学と言うべきか、学力レベルに見合った生徒だった。
「おーい、おめぇら! やっぱホンモノだったわ!」
 食堂中の注目を一斉に集めているが本人は全く厭わず、仲間グループと思われる男女がぞろぞろと集まってきた。人数は7人。無数のピアスを着けた男。深海のように深い青に髪を染めた女。他の奴も似たような風貌をしていた。
「マジで矢式灯火? 似てるだけで絶対別人だと思ってたんだけど」
「だべ。オーラ0じゃん」
「つーか、なんでこんなガッコに入ってんの?」
「ねー。全然信じられんかったわ」
 こんな日が来ることはわかっていた。自惚れるわけではないが、小中高と何度かテレビに顔を出してきた身だ。それも地元となればローカルテレビや新聞にも載っている。それなりに顔が割れている自覚はあった。
 入学式からとっくに気付いている奴もいたけれど、今日に至るまで話しかけられることはなかった。理由は、先ほどこいつらがもう述べた。
「ね、ね、矢式クン。いつもひとりでいるじゃん? 良かったらトモダチになんない?」
 最初に話しかけてきた金髪の男にそう言われ、俺は心の中で自嘲した。
 そうか。俺はもう、ここまで堕ちていたのか。
 いくら最底辺の大学だからと言って、こんな奴らばかり居るわけじゃない。むしろこいつらは少数派で、ほとんどは勉強が苦手もしくは嫌いなだけの、至って平凡の奴らだ。確率だけで言えば、そんな平凡な奴らに声をかけられる方が高かったのに、結果はこんな頭の悪そうな連中が最初だった。
 類は友を呼ぶ。つまりはそういうことだろう。
 俺はもう、こんな奴らと同格なのだろう。それが世間が下した評価だ。世間が俺に贈ってくれた、俺に相応しいトモダチ候補というわけだ。
 ということならば、甘んじて頂戴しようじゃないか。
「いいね。お前らと付き合えたら楽しそうだ」
「おほっ。なになに、すげえいい顔してんじゃん! 超悪魔的!」
 これからは、こいつらが俺の隣に立つ人物か。面白い。
 毎日が退屈で仕方なかった。鬱屈とした気持ちが心を蝕んできたようだった。でも、こいつらならきっと、そんな日々を打破してくれるのだろう。今の俺には最適と言えた。
「俺、今まで水泳しかやってこなくてさ、全然遊んだことがないんだ。良かったら教えてくれないか、人生の楽しみ方を」
「よし来た! 任せとけって!」
 そうして俺は、初めての『トモダチ』を得た。
 
 
 頭の悪い連中ではあった。中学レベルの漢字が読めなかったり、今の総理大臣の名前も知らなかったり、かけ算すらできない奴もいた。
 しかし、こんな奴らでも堂々と胸を張って生きているのは、奴らなりに確固たる信念を持っているからだった。
「人生、楽しんだモン勝ちっしょ!」
 実に明快で痛快だった。
 こいつらは何かとつけてやたらと騒ぎたてる。大声を上げて笑い立てる。わかりやすい限りだ。
 いつも楽しんでいるから、いつも笑っている。……そう思っていたのだが、俺の考えは否定されてしまった。
「ちがうちがう。違うよ、灯火ちゃん。楽しいから笑ってるんじゃなくて、楽しくなるために笑ってんの。だから色んなところに遊び行くの。幸せは笑ってる人に来んだからね? そこんとこ間違えないでね。……あれ、今あたし、なんか名言言ったっぽくないっ?」
 初めてのカラオケ。初めての煙草。初めての居酒屋。初めてのゲーセン。初めてのパチンコ。初めての競馬場。初めてのクラブ。
 あらゆる初体験の支援を通じて、最初は連中を下に見ていた節があった俺だったが、やがて幸せそうなこいつらの生き方を肯定的に捉えるようになっていった。
 遊んで楽しむのではなく、楽しむために遊ぶ。幸せを呼ぶために笑う。
 聞けば、こいつらは遊ぶために大学に入ったのだという。大人からは反感を買いそうな言い分だが、何の目的も持たず惰性で入学した俺よりは遥かにマシだろう。むしろ、幸せを呼ぶために、という明確な目的があるのは立派とすら言える。
 眩しい、とさえ思える。俺が、とてつもなくつらまない人間に思えてくる。
 俺や星夜がいたスポーツの世界は華があった。全国区の大会で優勝すれば祝福を受けた。『凡人』には成せられない快挙を達成して喝采を浴びた。尊敬された。
 俺がこいつらを眩しいと思うのは必然だった。こいつらはこいつらの華を持っていて、今の俺には何も残っていない。
 今まで水泳の『才能』をひたすらに磨いてきた。その甲斐があり、ヴィエラに負けるまでは常に全国大会でトップ争いを繰り返してきた。
 そんな生き方をしてきた俺は、果たして幸せだったのだろうか。
 世界最速という大きな目標に目を奪われ、数多の幸せを見逃して来てしまったのではないだろうか。
 しっかり意識して目を見張っていなければ、人はいとも簡単に幸せを見逃してしまう。
 小さな幸せはいくらでも転がっているのに、そのほとんどを俺は素通りしてきた。
 ただ速くなるためだけに、生きてきた。当時の学生時代は良かった。でも、今になって疑問を覚えるのは、昔の自分にいささか失礼だろうか。
 特に高校時代の自分に訊きたい。
 お前は今、幸せか? と。
 もちろん、そんな願いは叶うはずもなく。
 俺は無気力に講義を受け、バイトをし、自分とは違う人種の眩しい連中と遊び続けた。
 春は花見という名のバーベキューで騒いで。
 夏は毎週のように海に行ってははしゃいで。
 秋は紅葉狩りという名の飲み会でどんちゃん騒ぎをして。
 冬はスノボーで雪と戯れて。
 本気で楽しんでいた。心の底から楽しみ、笑っていた。
 あんなにも絶望と虚無感に支配されていたのに。
 こんなにも人生を楽しめているのはきっと、俺は、誤魔化したいのだろう。
 かつての婚約者を忘れたいのだろう。
 馬鹿だな、とは思う。同時に、これが『凡人』なのだ、とも思う。
 こいつらと付き合ってよくわかった。
『才能』を生まれ持ったから友達ができなかったわけじゃない。『才能』を全力で磨いていたから、凡人との価値観の食い違いが大きかった。住む世界が違った。
 だから『才能』を磨くのをやめた俺の世界は、きっとここなのだろう。
 込み上げる感情を抑えつけるように生きていって。
 気付けば大学4年生になっていた。
 2020年。東京オリンピックの年である。



 梅雨入りまでカウントダウンが始まっていた6月の土曜日。クラブで浴びるほど酒を飲み、手足が痺れるほど騒ぎ狂って店を出た。
 すっかり泥酔していた。頭がぐるぐると回っていて、足元も覚束ない。視界がぼんやりとモザイク状に霞んでいる。吐き気も喉元まで迫っていた。
 しかし、そんな最悪な状態の俺ですら、その二人組を『懐かしい』と認識できていた。
「矢式……?」
 疑問形で名を呼んできたのは辰也だった。その隣では細原が目を見開いていた。
 5年ぶりの再会だった。
「こんなところで何をしてるんだ?」
 かなり酒が回っていた俺だったが、質問を頭で処理できるほどの理性はまだ残っていた。
「クラブの帰りだよ」
 その後も質問は続いたが、ろくに考えず、直感で返していった。
「水泳はもう辞めたのか?」
「うん。高校できっぱりと」
「東京オリンピックは延期になったな」
「知ってるよ。来年だろ」
「ヴィエラは出るそうだ」
「あぁ、やっぱりそうなのか。まぁあいつなら出られるとは思っていたけど」
「あいつが出られるんだから、お前も出られると思ってたよ」
「どうだろうな。高校ではずっと伸び悩んでいたからな、俺」
 自分の体重を支えきれない。ただ立っているだけなのに、どうも足元がふらついてしまう。宙に浮いている気さえした。
 まるで俺の身体から魂が分離しようとしているのかと思う。心身がうまく噛み合っていない。
 外れかかっている歯車ほど危険は物はない。たったひとつのズレがすべてを崩壊へと導いてしまう。
「その様子だとお前、スポーツニュースは全然見てないんだろうな」
 だからだろうか。
「星夜ちゃんも決定してるぞ。この前、テレビでインタビューを受けてたんだけどさ」
 俺はその続きを聞くことに、ひどく怯えていて。
「幼少からずっとトップを走り続けて来ましたが、その原動力は何ですか? って聞かれてたんだ」
 言うな、喋るな、と心の中で懸命に訴える。
「俺も木実も、その答えに注目してたんだ。そしたらな、星夜ちゃん、本音か建前かわからないけど、こんな風に答えたんだよ」
 けれど、なぜか言葉にできなくて。喉元まで出かかっているのに、どうしてか、声として発せられなくて。
「『才能』は間違いなくあった。でも、それだけじゃ日本代表にまでなれなかったと思う」
 喋っているのは辰也だ。
 それなのに、なぜか俺は、星夜の声を聞いた気がした。
『一緒に才能を磨いてくれる最高のパートナーがいました。清々しいくらいに世界最速という無謀な夢を目指していて、常にわたしを引っ張ってくれました』
『だからわたしも、目標に世界最速を据えて、練習第一の日々を送ってきました。がむしゃらに世界最速を目指してきました。その成果がやっと、こうして日の丸を背負えることに繋がったんだと思います』
 その言葉を聞いた途端、俺の意識が瞬時に暗転して、世界があっという間に遠のいた。
 どう形容すれば良いだろう。不意に隕石が頭に直撃したような。背後から心臓を一突きされたような。目を覚ましたら断頭台に拘束されていて、一瞬で首を切り落とされたような。
 名前を呼ばれていた。しかし、誰の声かはもうわからない。
 必死に体を支えていた両足の負担が感じられない。倒れたのだろうか。
 頭がぐるぐる回っている。目の前は真っ暗だ。世界の音が遠い。
 まるで闇に誘われるように、俺は、俺から引き離された。



 ずっと目を逸らし続けてきたけれど。
 ずっと逃げ続けてきたけれど。
 本当はわかっていた。俺と星夜は愚直に世界最速を目指してきたが、途中から、そもそも根本から異なる道を進むようになった。
 俺は弓月星夜に恋をした。その想いはかさぶたのように全身を包み込んで、痛みとむず痒さを俺に与え続けてきた。
 蘇る記憶。
 初めて思い浮かぶ星夜の表情は仏頂面だった。いつも退屈そうで、俺を含めた周囲の子どもを常に冷めた目で眺めていた。
 次に思い浮かぶのは怒りの表情。忘れもしない。徒競争のリレーであいつと同じチームになったとき、やる気がいまいちだった俺に彼女は激怒した。やる気がないなら当日は休め、と敵意にも似た叱咤を受けた。
 次は涙。水泳の時間に、あいつは俺と同じチームのリレーに先頭を泳いだ。けれど途中で水を飲んでしまい、勝利は絶望的な状況を自ら作ってしまった。その悔しさを隠すことなく、彼女はプライドを押し殺して、泣きながら謝ってきた。
 次に、笑顔。初めて俺の水泳の『才能』を披露し、星夜の失敗を帳消しにした後のこと。あいつは俺の『才能』に驚嘆し、感嘆し、笑顔を弾けさせた。
 そして取り付けたのは結婚の約束。あいつは喜びを爆発させ、希望に充ち満ちた眼差しを爛々と輝かせていた。
 大好きだった。
 弓月星夜が、大好きだった。
 彼女の笑顔が、泣き顔が、凛とした表情が、走っている姿が、どうしようもなく大好きだった。彼女との永遠を手に入れることだけを夢見ていた。
 彼女もまた、俺を好きだと言ってくれていた。自分と同じ『才能』を持っていて、常に上を目指している俺を、大好きだと言ってくれた。
 ーーそうして俺は、道を間違える。
 中学3年生の夏、俺は初めて同年齢の人物に負けた。
 俺は星夜が大好きだった。だから、彼女の大好きな『俺』であろうとした。
 世界最速を目指し続けた。こんなところで同年齢の奴に負けている場合ではなかった……そう思ったのが間違いだった。俺は星夜と同じように、ただ愚直に世界最速を目指せば良かったのだ。周りの状況に囚われてはいけなかったのだ。
 世界最速の称号を手に入れるために『才能』を磨き続けてきた俺は、いつしか星夜との絆を繋ぎとめるために研鑽するようになっていた。彼女は、『才能』を持った俺を褒めてくれたから。惚れてくれたから。
 目的を見誤った瞬間であり、夢を見失った瞬間でもあった。
 時間が一気に飛んでいって。
 再びの涙。高校1年生の頃に見せた、星夜の泣き顔。
 あいつは俺にいくつかの質問をした。
 当時の俺は、星夜に嫌われたくないという一心で、必死に『星夜の好きな俺』を演じた。
 自分自身をも騙して、本心ではない言葉を口にした。
 今ならきっと、嘘偽りのない答えを言える。

 ーー今年もヴィエラに負けてどう感じたか。
 仕方がない、と思った。悔しさの奥底には諦念が潜んでいた。
 ーー氷山と木実が退学すると聞いたとき、どう感じたか。
 強烈に寂しかった。あいつらと『友達』になり、時間を共にしていく中で、あいつらへの情は大きく膨らんでいった。
 ーー中3の夏に負けて以降、どうしてあんなにも必死に練習していたのか。
 星夜のことが、大好きだから。星夜の大好きな俺であるために、俺はこんなところで立ち往生などしている場合ではない、と本気で焦ったから。
 ーーどうしてヴィエラに負けたと思うか。
 生まれ持った体格差。学習能力の差。吸収力の差。それはつまり、『才能』の差でもある。才能の差は、努力では到底覆せない絶対的な差で、俺には勝てる理由がなかった。
 ーーどうして全国大会で優勝したかったのか。
 星夜の好きな俺であり続けるため、だ。気兼ねなく星夜の隣に並び立つためには、相応の結果を残す必要があった。星夜に相応しい男でいなければならなかった。
 ーー灯火は何のために『才能』を磨いているのか。
 誰よりも速い、世界最速を目指しているからーーという理由はいつの間にか廃れ。
 弓月星夜。彼女の心が、いつまでも傍に在って欲しかった。
 大好きだった。
 弓月星夜が、どうしようもなく好きだった。

 恋心を発奮材料にするのは何も悪いことじゃないけれど。
 俺は目的と手段を履き違えてしまった。
 だから俺は、星夜に振られた途端に落ちぶれてしまった。目標を見失ったからだ。
 星夜は違った。
 彼女はしっかりと、目的に世界最速を据えていた。俺が傍からいなくなっても、自分の追い求めている未来を見失わなかった。
 それが今の俺と、今の彼女の立ち位置の差だ。
 もし、俺が愚直に世界最速を目指していれば、今でもヴィエラと競っていられたかもしれない。抜いたり抜かれたりを繰り返せたかもしれない。
 だが、もはや後悔することすらおこがましいくらいに、俺は堕落してしまった。
 星夜にはもう二度と、俺の手は届かないのだ。



 目を覚ますと、酷い頭痛と吐き気を覚えた。昨日飲み過ぎたな、と思いながら体を起こすと、ここが自分の部屋じゃないことに気付く。
 六畳一間の小さな部屋だが、綺麗に整理されていた。カーテンやチェストなどは若い女の子が好きそうな柄だ。
「お、起きたね」
 懐かしい声が聞こえた。
 声の方に振り向くと、掃除機を持った細原の姿があった
「ちょうど良かったよ。もう昼過ぎだから掃除しようと思ってたんだけど、飲み過ぎでぶっ倒れた人を叩き起こすのもちょっと怖いなーって思ったからさ」
 6年ぶりに見る細原からは、どこか女性らしさを感じられた。なぜだろう、と少しだけ観察して、すぐに気が付いた。
 幼少期から鍛錬を重ねて身につけていた筋肉がすっかりなくなっている。
 かつて空手の中学王者だった細原はもう、すっかり『凡人』となっていた。
「こんな狭い部屋だから掃除なんてすぐに終わっちゃうんだ。シャワーでも浴びてきなよ。あたしはクラブって行ったことないんだけど、なんかいっぱい騒ぐから汗かくんでしょ?」
「それよりも、俺ーー」
「まあまあ。まずはシャワー浴びてすっきりしてきなって。辰也くんはサービス業だから今日も仕事なんだけど、早めに帰ってくるって言ってたからさ。話はそれからでもいいでしょ?」
 俺の言葉を遮って笑顔で話す細原の表情は、昔から何も変わっていなかった。
「……わかった。お言葉に甘える」
「うんっ。行ってらっしゃい!」
 まるで仕事に行く夫を送り出すような言葉に、俺は思わず笑ってしまった。
 心に芽生えるのは奇妙な安心感。頭痛と吐き気は相変わらずまとわりついていたが、妙に体は軽くて、俺は案内された浴室に向かった。


 シャワーを借り終えると、細原は昼食を作っていた。野菜を切る包丁さばきはすっかり手慣れているようだった。エプロン姿も様になっている。
 出来上がったのは野菜がたっぷり入った豚汁だった。
「昼から豚汁……?」
「二日酔いにはこれが効くんだよっ。ほんとは焼きそばにしようと思ってたんだけど、今の灯火くんのお腹には入らないでしょ?」
 確かに、今の俺の胃は容赦なくもたれている。炭水化物を受け付けるとは到底思えなかった。
 俺は細原の心遣いに感謝しながら豚汁を啜る。芳しい香りと優しい風味が体の中いっぱいに広がった。
「あ……うま。普通にうまいな、これ」
「でしょ!」
 細原は満面の笑みを浮かべ、自身も豚汁を口に運ぶ。
「うんっ、いい出来だ! さすが主婦歴4年のあたし!」
「…………あぁ」
 そうか。
「結婚したのか、お前ら」
「うんっ。辰也くんが18歳になったときに入籍したんだ。だからあたし、もう『氷山木実』なんだよっ」
 氷山と細原が高校を辞めたときから予感はあったけれど、こうして本人から直接聞かされると感慨深い気持ちになる。
「そっか。じゃあこれからは氷山って呼ばなきゃいけないな」
 あはは、と細原は笑う。
「いいよいいよ、旧姓で。灯火くんは辰也くんのことも氷山って呼ぶでしょ? ごっちゃになっちゃう」
 幸せそうな笑みだった。
 高校生活はあんな幕切れになってしまったわけだけど。才能を磨く道からは脱落したけれど。
    大好きな相手と一生を誓い合って、本当に幸せなんだろうなぁ、とつくづく思う。
「じゃ、今まで通り細原って呼ぶな」
「うんっ。さ、食べよ食べよっ!」
 言って、細原は再び豚汁に手を伸ばす。
 細原にとっても会心の出来だったらしく、しきりに自画自賛の言葉を口にしていた。
 決してがさつな印象があったわけではないが、やはり細原と料理はどうしても結びつかない。何せ空手の中学王者で、最強のメスゴリラだ。きっと、氷山のために必死に料理の腕を磨いたのだろう。
「本当にうまいよ、これ。なんというか、すごく優しい味がする」
「そおー? んもー、そんな素直に言われたらいくらあたしでも照れちゃうよー。でもでもっ、夕飯はもっと腕によりをかけて作るからねっ。期待してて!」
 それでも、裏表のない無邪気な笑顔は二十歳を超えても変わっていなくて。
 本当は、仕事から帰ってくる氷山と話をするのに少し構えていたのだけれど。
 なんだか背中を押してもらえたような気分だった。


 氷山が仕事から帰ってきたのは午後6時過ぎだった。パン屋で働いているため朝が早いが、帰りも比較的早いのだという。
 改めて顔を合わせた氷山と俺だったが、軽く挨拶を済ますに留め、氷山は真っ先に浴室に向かった。話は腰を据えてじっくりしよう、という意思表示だった。
 意を汲んだ俺はその間に細原の夕食の準備を手伝った。
 六畳の小さな部屋にテーブルを置く。3人分の食器を並べていく。中心に鎮座するのはカセットコンロ。それを尻に敷くのは土鍋。
 すき焼きだった。
 夕飯は腕によりをかけて作るんじゃなかったのか? と疑問を投げかけようとしたが、浴室から出てきた氷山の反応を見て思い留まった。
 飛び跳ねらんばかりに大喜びしていた。子どものように目を輝かせていた。
 鍋に肉と野菜を放り込む。食べ頃の肉を取り出す。溶いた卵に浸す。口に運ぶ。
 何も言わなかった。言葉を失っていた。無言の咀嚼が続く。段々と目が潤んでいった。すき焼きで感涙している奴を初めて見た瞬間だった。
 こんな狭い部屋に暮らしているのだ。経済的に厳しいのは想像に難くない。それにしても、氷山の喜びようは見ているこっちが恥ずかしくなるほどだった。正直、少し戸惑った。
 果たして俺が肉を食べても良いのだろうか、と躊躇していたのだが、氷山の「矢式のおかげでこんな超ご馳走が実現したんだ。遠慮せずに食え!」という言葉を受け、意を決して肉を頂戴した。
 すごく旨かった。思えば、すき焼きなんて何年ぶりだろうか。最後に食べたのは中学生くらいだった気がする。
 最初に一歩を踏み出してしまえば、後は敷かれたレールをひたすら進むだけだった。肉、米、肉、米、野菜、肉、米……。図々しいくらいにかき込んだと思う。3人が満腹感を覚えた頃には、鍋から具の姿はすっかりなくなっていた。
 細原が食後にお茶を淹れてくれた。満腹の胃に安らぎが浸透していくのを感じる。
 身も心も一息入れて。
 3人とも、準備が整った。
「で、さ」
 最初に口を開いたのは氷山だった。
「最近どうなの?」
 ぴしゃり、と。
 一瞬で空気に緊張が走った。
 久々に知り合いと会ったときの常套句である。しかしその質問は、俺たちにとってはあまりにも大きな意味を持つ。
「それは星夜と、か?」
「もちろん」
 念のために確認してみたが、やはり氷山はいきなり核心を突いてきた。
 俺と星夜の現状を尋ねること。それはつまり、俺の人生そのものを尋ねると同義だ。
 氷山はもう、回りくどいやりとりは省きたいのだろう。ならば俺も氷山と同様に、回りくどい返答はせず、直球で返す選択をする。
「とっくに振られたよ。高1の夏にな」
 氷山と細原は昨夜、俺の堕落ぶりを目にしている。だからふたりにとっては予想できているはずの答えだったはずだ。
 しかし、ふたりは意外にも本気で驚いていた。
 不安げな表情で言葉を発したのは細原だった。
「それって、あたしたちが退学してすぐのことじゃないの?」
 得心する。特に細原の場合、俺たちとの約束を破った上に、事件後は一度も顔を合わせずに今に至っている。きっと不安と罪悪感を抱え続けてきたのだろう。
「それはそうだけど、お前らは何も悪くないよ。俺が不甲斐なかっただけだ」
 とは言ったものの、これで細原の懸念が払拭されるはずがないのはわかっていた。
 細原が食い下がる。
「でも、絶対にきっかけにはなってる!」
「まあ、そりゃなってるよ。でも根本的に悪いのは俺だ。それに、仮にお前が悪かったとしても、お前はお前なりの意志をもって約束を破ったんだろう? そのときの自分を否定するのか?」
「っ……。それは、ないけど」
「だろうな。そのおかげで今のお前らがあるんだ。細原が過去の自分を否定してしまったら、今のふたりの幸せは紛い物ってことになっちまうもんな」
 細原は何も答えない。答えられない。悔しそうに歯を食いしばり、それでも俺の言葉が正論だから、納得はできないけれど、理解してしまっている。
「それはともかくさ、灯火」
 これ以上細原に苦い思いをさせないためか、氷山が俺たちの会話に割り込んできた。
「星夜ちゃんに振られたのはわかったよ。想像はついていたけど、まさかそんなに早く別れたのは予想外だった」
「そうか」
「おう。まあ、灯火の言った通り、木実が気に病むことじゃないよ」
 辰也が細原の肩に手を伸ばす。マッサージをするように軽く揉んで、
「俺はお前に感謝してるんだからな。ちょっと想定外の道になっちまったけど、こうして結婚もできたし、今となっては良かったと思ってるよ」
 そう言いながら、辰也は微笑んだ。
 優しい微笑みだった。昔のような空っぽの愛想笑いではなく、相手を本気で思いやり、マイナスの感情をたちまち中和してしまいそうな、慈愛に満ちた微笑み。
 現に細原の表情から力が抜けていく。
「……うん。ありがと」
 俺は内心で驚いていた。氷山の愛想笑いは、言うなれば氷山の象徴とも言えた。他人とコミュニケーションを図る際、幼少期からそれを頼りに高校生までやり過ごしてきたのだ。それは矯正できないほどに氷山の根底に根付き、死ぬまで付き合っていくものだったはずだ。
 ふたりが高校を退学してから6年。そのたった6年の間に、15年間の軌跡を覆したというのか。
「でさ、灯火」
 お前、笑い方変わったな。そう言おうと思ったけれど、話題が移ろうとしたのでやめた。話を遮ってまで言う必要はない。
「振られた理由は訊いてもいいか?」
「構わないよ。大した理由じゃないけどな」
「あ、あ、待って、辰也くん、灯火くん」
 細原が制止に入ってくる。
「それよりもさ、先に水泳を辞めた理由から訊いちゃダメ?」
 質問の順番に意味があるのかわからなかったが、断る理由はない。
 了承すると、細原はばつが悪そうに俯いて、おそるおそる言った。
「あたし、多分わかると思うんだ。……その、灯火くんが振られた理由」
 え、と思わず声が漏れた。すかさずどういう意味か問おうと思ったが、ここで焦っても仕方がない。
「俺が水泳を辞めたのは自分の限界を感じたからだ」
 間髪をいれずに氷山が突っ込んでくる。
「限界って。まだ18歳だったんだろ? 早すぎねぇか」
「いや、確かにあの頃は限界だったよ。あれ以上タイムが伸びるとは思えなかった」
「あの頃は、と言うと、今なら違うってこと?」
 細原の問いに頷く。
「少なくとも、まだ可能性はあったと思う。当時の俺は、ヴィエラに勝つことだけを考えていたからな」
「それじゃダメなのか?」
「全然ダメだ」
 首を横に振って断言する。
「俺の目標は誰よりも速くなることだったからな。ヴィエラなんかに構ってちゃダメだったんだよ」
「でも、カルナに勝たないと世界一になれないでしょ?」
「俺もそうやって考えていた……と、思う。そもそもそれが間違いだったんだけどな」
 そう気付かせてくれたのは、星夜だった。
 俺は目線を下げ、拳を握って続ける。
「星夜ががむしゃらに世界最速を目指していたように、俺もそうするべきだったんだよ。でも俺は、功を焦っちまって、ついヴィエラにばかり目が行ってしまっていた。星夜に嫌われたくない一心でさ。ほんと、馬鹿だったよ。星夜もヴィエラも無視して、ただひたすら練習していれば良かったのにな」
 俺は自然と沸き起こる自嘲を感じながら、顔を上げた。
「まあ、あいつの言葉を教えてくれたのはお前らな……」
 気付いた。
 細原が笑っていた。穏やかな笑みを浮かべ、優しい眼差しをしていた。
「うん。多分だけど、正解」
 そう言われ、俺は再度自嘲を浮かべる。
「お前、その感じだとだいぶ前から気付いていたな」
「確信はなかったけどね」
「それを俺に伝えようとは思わなかったのか?」
 尋ねると、今度は細原が自嘲にも似た苦笑を浮かべる。
 答えたのは氷山だった。
「実はさ、木実がそれに気付いたのは6年前の5月2日だったんだよ」
「え……?」
「ご存知、こいつが『約束』を破った日だ」
「……マジか」
 驚きを隠せなかった。
 氷山が俺に共感するように頷く。
「俺もあの日からだいぶ後に聞いたときはぶったまげたよ。妙にぼーっとしていたと思ったら、そんなことを考えていたなんてさ」
 細原が申し訳なさそうに、けれど笑う。
「んー、それについてはホントに悪く思ってるよ。でもね、そう気付きかけたときはすごく衝撃的だったんだ。ほら、あの頃って灯火くんも星夜もなんかおかしかったじゃん? もしかしたら元に戻せるかも! って思っててさ」
 胸がちくりと痛む。確かに俺は道を誤っていたが、星夜まで様子がおかしかったのは初耳だ。気付きもしなかった。
 高校に入学したばかりの頃、俺以外の3人が妙に不穏な様子だったのは気付いていたが、やはり俺が原因だったのだ。
「だけど、あたしがあんな事件起こしちゃって、言うタイミングも無くなっちゃってさ。あたしは『約束』を破ったわけだから、あたしにそんなことを言う資格は無くなった。『凡人』になって、灯火くんと話す機会すらなくなって」
 約束を破るのは大きな罪だから、と細原は笑いながら、泣きそうになっていた。
 が、細原は泣きそうになりながらも、やはり笑う。
「今日灯火くんが目を覚ましたとき、ちゃんと話をしてくれるかなって、実はちょっと不安だったんだよ? もしかしたら話をしてくれないかもって思ってたんだ。だから、さ」
 そして細原は笑いながら、泣いた。
「ちゃんと話してくれて、嬉しかった。あたしと会話して、お昼ごはんも一緒に食べて、今もこうして向き合ってくれてるでしょ? すごく、嬉しいんだよ」
 泣きながら、それでも心から嬉しそうに、笑う。
 約束を破るのは大罪だ。周りに大きな迷惑をかけるし、良いことなんて何ひとつない。それに、約束を交わすのは相手から信頼されているからだ。その信頼を裏切るというのは、裏切られるよりもよっぽど悔しい。
 自分自身が体験しているからよくわかる。
 細原のことだ。最愛の氷山と一緒になって、永遠の幸せを手に入れても、ずっと不安を抱えていたのだろう。
 俺が細原に言えることは少ない。
「俺だってとっくに『凡人』に堕ちている。……ありがとな、細原」
 だから、それだけに留める。余計なことが言えなかった。
 でも、細原ににとっては十分だったようだ。泣きながら満面の笑みを浮かべて、
「こちらこそっ」
 と頷いた。
 この瞬間、細原の胸にずっと残っていたわだかまりが消えたのだろう。彼女の笑顔はどこまでも清々しくて、心から満足しているようだった。
 そしてゆっくりと、視線を氷山に送った。
「話がちょっと逸れたけどさ。矢式が星夜ちゃんに振られたのは、つまりはそういうことなんだろ?」
 俺たちのやりとりを黙って見守っていた氷山の発言は、答えなどとっくに知っていたようだった。
「まあ、そうだな。そうだと思う。目標を見誤った俺に何の価値もないからな」
 肯定すると、氷山はふーっと息を吐いた。木実も、なぜかくすくすと笑っていて。
 まるで小動物を見るような目で俺を見ていた。
「なんだよ?」
 ふたりが何を考えているのかわからなかった。
 星夜に振られることが、俺にとってどれだけな大きな意味を持つか。こいつらが知らないはずがない。
「いや、悪い。でもさ、やっぱりお前らはすげえよ。生来のアスリート気質っていうかさ」
「なに?」
 唐突に称賛され、ますます意味がわからなくなる。
「矢式と星夜ちゃんほど、純粋に世界最速を目指す奴ってなかなか少ないと思うぜ」
 意味はわかるが、意図がわからない。
 俺の疑問を感じ取ったのか、細原が口を開いた。
「いつか灯火くんが話してくれたけどさ、灯火くんはいつの間にか水泳を始めていて、初めてプールに入ったときの快感が忘れられなくて、気付いたら世界最速を目指していたんでしょ?」
「まあ、そうだな」
「星夜もそんな感じだったの。初めて雪山に行ったときにね、ソリで山を下ったのが忘れられない体験なんだって。それがきっかけで陸上を始めて、いつの間にか世界最速を目指していた」
 それは俺も聞いたことがある。風を肌で感じたのが最高に気持ち良くて、でもなかなかスキー場に行く機会なんてないから、代わりに速く走ろうとしたとか。
「で、それがどうしたんだ?」
 ふたりの言いたいことがわからず尋ねると、ふたり揃って苦笑する。
「本当にわかんないんだね。灯火くんに星夜、辰也くんにあたしと、4人はそれぞれ『才能』を生まれ持って、中学で4人とも全国大会で優勝してるけどさ。灯火くんと星夜のふたりと、辰也くんとあたしのふたりは全然違うんだよ」
 細原は少しだけ間を置いて、言った。
「例えば、辰也くんはアテネオリンピックをテレビで観て、出場しているテニス選手に憧れてテニスを始めた。あたしも、特撮ヒーローものの番組を観て空手を始めたんだよ」
「うん。知ってるよ」
「でも、灯火くんと星夜は違うでしょ。灯火くんはプール、星夜は雪山で実際に体感して、そこから自らを高めようと思ったわけでしょ? これって、ものすごく大きな差だと思うんだ」
「そうか?」
 大した違いがわからず首を傾げると、氷山も細原に同感の意を示す。
「俺と木実はテレビの中のヒーローに憧れた。つまり、他人を自分の将来に重ねて、偽物の自分を目指したんだ。でもお前らは、漠然と『世界最速の自分』を目指したわけじゃん? 俺たちとお前らはさ、そもそも根底から違ったんだよ。だから矢式も星夜ちゃんも、俺たちが話しかけるまで、俺たちのことなんて眼中になかっただろ?」
 氷山と細原が眼中になかったのは本当だった。
 だが、結局のところ、ふたりが何を言いたいのか相変わらずわからない。
「だからね、あたしたちは生来の『凡人』だったんだよ」
「そんなことないだろう。中3で中学王者になったお前らだ。高校も辞めてなければ、もしかしたら東京オリンピックに出られたかもしれない」
「それはねぇよ」
 あっさりと氷山に否定される。
「俺たちは『凡人』だよ。中学レベルではトップに立てても、矢式のような本当のアスリートに絶対抜かれる。他人に憧れて始めただけのアスリートなんて、所詮はその程度だ」
「でも、灯火くんは違う」
 気付けば、ふたりとも神妙な表情になっていた。普段とは打って変わった様子に、反論する気になれない。
「灯火くんの『才能』は本物で、生粋のアスリートだった」
「だけど、お前は色恋沙汰に目が眩んで、生まれ持った本物の『才能』をかなぐり捨てた、と。そういうことだろ?」
 遠慮なく言い放った氷山は再び深く息を吐いて、不意に穏やかに破顔した。
「良いと思うよ。すげえとも思う」
「は……?」
「あたしも同意見だよ。ぶっちゃけ、星夜が羨ましいもんっ」
 まさか褒め言葉を与るとは思っておらず、俺はどう返せば良いのかわからなかった。
「灯火くんはカルナに負けてから、星夜に嫌われたくない一心で練習してたんでしょ? それってさ、無自覚だったとは言え、本物の『才能』よりも星夜を取ったってことじゃない? それだけ星夜が好きで、失いたくなかったってことでしょ?」
「そう、だな。まあ、それがあいつの足枷になっていたわけだけど」
「それは違うよ!」
「え?」
 唐突に恫喝され、戸惑う。
「ものすごく誤解を招きそうに言い方になっちゃうけど、それは自己中な考えだよ!」
 細原は穏やかな笑みを崩し、声に力を込める。
「確かに灯火くんは辛いかもしれない。大好きだった星夜ちゃんに振られて、人生が嫌になったと思うよ」
 その眼差しは至って真剣で、俺の心に深く刺さる。
 細原は俺から目を逸らさず、まるで俺を試すように、言った。

「でもさ、大好きな灯火くんに別れを告げた星夜は、どんな気持ちだったと思う?」

 心の奥底で、大切なものが軋んだ気がした。
「ふたりは3歳の頃から相思相愛だった。たとえ灯火くんがカルナに負けても、星夜は灯火くんへの態度を変えなかったでしょ? 変わったのは灯火くんの気持ちだけで、星夜はずっと灯火くんだけを見ていたよ」
 細原の言葉が、心の脆い部分にまで染み込んでいく。
「星夜が灯火くんと別れよう思ったとき、きっとものすごい決断をしたんだと思う。だって大好きな人と別れるなんて、あたしには絶対に真似できないもん」
「俺にもできないな。というか、できなかった」
 氷山の言葉には説得力があった。
 事実、氷山は自ら高校中退という、世間的にはどうしてもネガティブな印象を与えてしまう選択を取ってまで、細原と一生を共にする決断を下した。
「木実を手放してまでテニスを続けたいなんて微塵も思わないな。ましてその相手が3歳の頃からずっと好きだった奴なら尚更だ」
「それなのに、星夜は灯火くんと別れる決断をした。これって、きっと気が狂いそうになるくらい、苦しい決断だったんじゃないかな」
 瞬間、俺の視界にノイズが走った気がした。思い出すのは星夜との別れの日。
 彼女は泣いていた。泣きながら、謝った。俺の人生を台無しにした、と何度も謝ってきた。
 ……そして最後は、泣きながら、笑顔で、俺に別れを告げた。
 今更になって思う。星夜はあのとき、いったいどんな気持ちでいたのだろう。もし立場が逆だったら、と仮定して考えることもできるけれど、俺は星夜じゃないから、正解には辿りつけないだろうし、思い違いで誤解を生む可能性もある。
 だからそれ以上は考えない。
 ーー考えないけれど。
「細原の言う通りだよ。俺は本当に自己中な人間だ」
「え、ちょっと。灯火くん?」
「矢式……」
 あのときの星夜の気持ちなど、一度たりとも考えたことがなかった。自分のことばかり考えていた。なんて自分勝手な人間だろう、と今更になって自分が憎くなる。しかも細原に言われて初めて気付かされる体たらく。
 本当に、馬鹿みたいだ。
「泣くな、とは言わないけどさ。でも、お前の泣いてる姿を見るのは結構辛いぜ」
「……お前の嫁に泣かされたんだよ」
「ま、そうだよな。こんな嫁で悪かったよ」
「えっ。そ、そんなあたしが100%悪いみたいな言い方しなくてもいいじゃん」
「いや、そうは言ってねえよ。俺も木実に加勢したしな。まあ98%ってとこじゃね?」
「ほぼ全部じゃん! 微妙な優しさがかえって辛いよっ!」
「でも、木実は矢式を泣かせたかったんだろ?」
「違うよ! あ、いや、違わないけど……。でも、違うの!」
 細原は慌てながら、大きな瞳を俺に向けて、弁解するように言った。
「あたしはただ、灯火くんが星夜に振られたことが、必ずしもマイナスだけじゃないって伝えたかったんだよ!」
 細原は裏表のない真っ直ぐな奴だ。氷山の本性を誰よりも早く見抜き、いつだってストレートな言葉をぶつけてくる。
「ちょっと生意気かもしれないけどさ。ほら、人生って結局は結果論でしかないじゃん? あの時、あの選択をしたから今がある、みたいにさ」
「そうだな」
「星夜が灯火くんよりも陸上を優先したのは、純粋に世界最速を目指したからだよね。それは星夜が選んだ道だし、一番の願望だったんだと思う。大好きな灯火くんと別れるのも、それは星夜自身の願望を叶えるための必要なステップだったんだよ!」
「うん」
「その結果、星夜は東京オリンピックの切符を掴んだよ。これってすごいことだよ! 星夜は灯火くんを振ったことで、スポーツの祭典に出場できるようになったんだよ!」
「うん。本当にすごいことだよな」
 多分だけど、細原の言葉は正しいと思う。
 辛い思いをしたのは俺だけじゃなくて、おそらくは俺以上に辛い思いをしたのは、星夜だ。
「だから灯火くんは、悲観ばかりしてちゃダメだと思う。足枷だなんてもってのほか。昨日の夜に辰也くんから聞いたでしょ? 星夜は灯火くんを『最高のパートナー』って言ってたんだよ。灯火くん自身も星夜のステップアップに貢献したんだよ。だからーー」
「わかった。……十分、わかったよ」
 弓月星夜。俺の最愛の人。それ以外の表現が思い浮かばない。
 俺は才能よりも星夜を選んだ。星夜は俺よりも才能を選んだ。
 本当に、凄い奴だ。元アスリートとして、心から尊敬する。
 星夜の進む道の先に、きっと俺はいない。けれど、彼女の後ろには俺がいる。彼女の隣には、常に俺がいた。絶対に消えることのない歴史。ただ彼女は、振り返ることも、戻ることもしないだろう。前だけを見据えて、ただひとり、歩き続けるのだろう。
 星夜は偉大だ。そんな偉大な奴の、かつてのパートナーになれたことを、誇りに思う。
「あいつが自分で選んだ道だ。俺はそれを、本気で応援するよ」


 気分が雨上がりの青空のように清々しくなっていた。
 氷山たちと話ができてよかったと、心から思う。
 高校を卒業し、水泳を辞めて3年。星夜に振られた日から数えると6年。目標を失い、進むべき道が見えなくなって、俺は順当に堕落していった。無気力で惰性の日々を、怠惰を極めるように生きてきた。
 どんな生物にも平等に与えられた時間を、空虚で非生産的な日常に費やしてきた。
 息を吸う度に闇が取り込まれるようだった。息を吐く度に生気が抜け出ていくようだった。
 しかし、出会いがあった。
『灯火ちゃーん! ちゃんと生きてるかい?』
『二日酔いには追酒がオススメだぜ! 目には目を、酔いには酔いを、だ!』
『灯火ちゃんが飲み過ぎで倒れるなんて珍しかったね。大丈夫? 急性アル中で死んだら昨日行ったクラブにも迷惑かかるから、ちゃんと酔いを醒ましてから死んでね?』
 細原に預かってもらっていたスマートフォンに届いていたメールを見て、自然と笑みがこぼれた。
 思えば俺は、こいつらに救われていたのだろう。頭の悪い連中だったけれど、おかげで空虚な日々にも刺激を見い出すことができた。
 無論、世間はそんな肯定的に捉えてくれない。
 花見の席で騒ぎ倒す俺たちを、大人は冷めた目で見ていただろう。
 毎週のように海で遊ぶ俺たちを、大人は蔑んでいただろう。
 紅葉狩りの名を借りて飲み明かす俺たちを、大人は白けた気分で眺めていただろう。
 取り憑かれたようにスノボーに明け暮れる俺たちを、大人は卑しんでいただろう。
 だがその一方で、そんな日々は俺に麻酔を打ったのだ。傷を修復する治療には麻酔が必要だ。一時的に痛覚を麻痺させれば、その間に傷を塞ぐことができる。
 こいつらが麻酔を打ってくれたおかげで、俺は氷山、細原と再会を果たすまで生き延びることができた。もしこいつらとの交流がなければ、俺の生きる気力は底をついてかもしれない。そもそも夜のクラブに行く機会はなく、氷山たちとの再会は叶わなかったかもしれない。
 数奇な巡り合わせを経て、俺は氷山と木実に傷を修復してもらった。麻酔が効いている間に傷口を塞いでもらえた。
 治療期間はもう十分だろう。今まで無心に堕ちて来たから、そろそろ登っていく頃合いだ。
 もう大学4年生になった。来年からは社会人生活が待っている。傷口が塞がったのだから、もう立ち止まっていても良い理由はなくなった。両親にも随分と心配をかけたのだ、これからは『凡人』として真っ当な人生を歩んでいかなければならない。
 もはや俺に、かつて『才能』を懸命に磨いていた頃の面影は残っていない。誰がどう見ても『凡人』以外の何物でもない。俺にはもう、何もない。
 ただ、ひとつだけ残ったものはある。
 傷痕だ。
 今までずっと、弓月星夜が大好きだった。
 そして今でも、弓月星夜が大好きだ。誰よりも愛している。
 傷口は塞がれても、痕まで綺麗に消すことは、さすがに氷山と細原でも無理だった。
 この感情は決して消えることなく、俺の魂に刻み込まれたままでいるのだろう。
 それも仕方ない。罰なのか、呪いなのか、あるいは遺産なのかわからないけれど。
 俺が星夜以外の女性を愛せるとは思えない。たとえそれが、絶対に叶うはずのない願いだとしても、俺は彼女を愛し続ける。
 星夜だっていつかは誰かと結婚するだろう。俺以外の誰かを愛する時が来るだろう。その相手と一生を共にする誓いを立てるだろう。
 一向に構わない。俺は星夜を愛し続けるけれど、彼女が誰かを愛するのであれば、それを俺は全力で祝福しよう。俺の傷痕に塩を塗られても、その先に彼女の幸せがあるのなら、俺はどんな痛みも受け入れよう。
 俺は、弓月星夜の人生を、全力で応援する。
 そう、決めたのだ。



 2016年のリオデジャネイロオリンピックに星夜が出られなかったのは、100メートル走において彼女は日本で3番目の選手だったからだ。陸上でも競泳でも、日本人は基本的に短距離は弱い。少なくとも国内最速にならなければオリンピックに出るのは難しい。現に2008年の北京オリンピック、2012年のロンドンオリンピックでは、200メートル走以下のトラック競技では当時国内最速だった福島千里しか出場できていない。
 加えてカーブにもあまり強くないため、リレーのメンバーにも選ばれなかった。
 今年の東京オリンピックは、ホスト国である日本は予選が免除される。だから必ずしも国内最速である必要はないのだが、星夜はその位置を確立していた。
 学生時代から期待され、満を持してのオリンピック初出場。整った容姿が拍車をかけ、大会が近付くにつれてテレビで見ない日はなくなっていった。
 感染症で開催と中止の葛藤にもまれながら、結果として自国開催に大いに沸く日本。夏休みの予定はバイトでほぼ埋まったが、星夜が出場する時間帯だけはテレビの近くにいるようにした。
 迎えた女子100メートル走予選。無観客のため歓声こそないものの、星夜を液晶越しに見たときは、あらゆる感情が胸の中で渦を巻き、魂が震えた気がした。
 レース本番。本大会のために建て替えられた新国立競技場で、星夜はこれまでの陸上競技人生のすべてを出し切った。
 結果は予選敗退。
 不思議な気分だった。思えば、俺がいつも見ていた星夜は誰よりも速くて、学校での体力テストや体育祭ではぶっちぎりの1位の姿しか見たことがなかった。
 しかしテレビの中の彼女は、むしろ並の選手にしか見えなかった。南米やアフリカ大陸の選手に囲まれてしまえば、彼女が普段から放っている威圧感が鳴りを潜めてしまう。
 日本はこれまでも世界の壁に何度も衝突し、乗り越えられたためしはない。今回も駄目だった。テレビの実況アナウンサーや解説者がそう嘆いていたけれど。
 画面に映る星夜は飄々としていたのが印象的だった。
 星夜は既に先を見据えていた。彼女はまだ22歳だ。この大会は通過点でしかないのだと、彼女の凛然とした佇まいから明確に読み取れた。

 そうして2週間の夢の祭典が終わり、星夜をテレビで観る頻度は確実に減っていった。
 彼女が東京オリンピックで走る姿を見られてよかったと思う。世界の壁に阻まれてしまったけれど、やはり星夜の『才能』は本物で、まだまだ研鑽の余地が残されている。
 俺は陸上に関しては素人だ。でも、星夜はさらなる飛躍を遂げるだろう。彼女は、彼女の道を邁進していくのだろう。
 だから俺も、俺の道を行く。『凡人』として、平々凡々に生きていく。
 人生は選択の連続であるけれど、人生の岐路と呼ばれる分岐点はきっとそう多くない。かてて加えて、どの選択肢が正解だなんてわからない。
 細原は俺たちとの約束を破り、二度と空手界に立ち入れなくなった。氷山はそんな細原を追い、自ら高校を辞めた。その選択が、今のふたりの幸せに繋がった。まるでブラックボックスの中に作られた迷宮だ。どこに、どんな幸せが、もしくは災厄が潜んでいるのかわからない。
 堕落しきっていた俺の性根は氷山と細原が持ち直してくれた。俺にはもう『凡人』としての道しか残されていないけれど、自ら選んできた道の結果なのだから後悔はないし、これ以上の堕落をせずに済んだ。
 真夏の夜に広がる満天の星の海原。美しく、けれど決して届かない高みに星夜はいて。
 彼女はさらなる高見を目指していく。どんどん地上から離れていって、それでも、どの星よりも強い輝きを放つ一番星になっていく。
 それを俺は、地上から見上げて生きていくのだ。

 2021年。俺は建設機械のレンタル事業を行う地元の中小企業に就職していた。
 この世に生まれて22年。俺はサラリーマンになっていた。
 
 
 
 社会人になって気付かされたことがある。俺は22#年間の人生で、いかに水泳の『才能』に胡坐をかいていたかを痛感した。大学生の頃にも薄々気付いてはいたが、俺から水泳を取ってしまえば何も残らなかった。
 言語能力に長けているわけじゃない。機械に強いわけでもない。学習能力も低い。要領も悪い。最底辺の大学にしか入れないほど基礎教養が乏しい。何より、コミュニケーション能力が著しく低かった。自分では良かれと思っての言動が上司や取引先の逆鱗に触れてしまう。『上から目線』、『生意気』、『空気が読めない奴』などと頻繁に咎められた。
 それもそのはずだ。俺は高校時代まで『凡人』との友好関係を一切築かなかった。星夜、氷山、細原以外の人物とまともに意思の疎通を図ろうとしなかった。『才能』を生まれ持った俺はいつだって羨望の眼差しを受けていた。俺が何もしなくても、周りの奴らは勝手に近寄ってきた。大学でもバイト先と例の連中としか交流を持っていない。
 これは俺の致命的な欠陥とも言えた。
 会社は、俺には基礎教養が備わっていないことを承知の上で雇ってくれている。業務上で必要な知識は経験と一緒に積んでいけば良いのだろう。しかし、コミュニケーションは社会人として絶対に必要で、本来ならば学生のうちに身につけておかなければならなかったものだ。
 愕然とした。水泳から離れ、学生という枠から出た自分は、こんなにも無能で、弱い。
 怒られてばかりの毎日。最初は優しかった先輩も、半月が経った頃には同期の中でも俺にだけ厳しい言葉を突きつけてくるようになった。誰にでもできるような、けれど面倒な仕事を一手に押し付けられた。教育という名の嫌がらせだった。周りは午後8時から10時に退勤していく中、俺だけが日付を跨ぐ毎日だった。
 無茶な仕打ちを毎日受け、入社して1ヶ月が経った頃には会社を辞めたいという気持ちも芽生えていた。どうしてこんなに辛酸を舐めなければならないのか。
 だが、その理由は自分でも分かりきっていた。『才能』に胡座をかいて生きてきた代償だ。生まれて初めて『才能』が仇になった格好だ。
 屈辱だった。俺は『凡人』にすらなれない。自分に腹が立った。自分が憎くて仕方がなかった。

 しかし、辛い時に必ず思い浮かぶのは星夜の涙だ。高校1年の夏、俺は星夜を泣かせた。俺が道を見誤ったばかりに、あいつにはすごく辛い思いをさせてしまった。辛い決断をさせてしまった。あの時の彼女の苦しみに比べたら、この程度の苦しみなどどうってことない。俺のような罪深い人間に苦しむ権利などない。
 歯を食いしばる。両足に力を込める。倒れてなんかいられない。踏ん張らなければならない。
 どんなに俺の能力が低くても、上司からどんな仕打ちを受けても、やるべき仕事は絶対にやり遂げようとした。仕事が終わらなければ寝ずに朝まで残って続けた。休日にこっそりと出勤する日も珍しくなかった。寝る時間を削って勉強した。水泳しかやってこなかった俺に建設機械の知識など皆無だ。うちの会社はドリルのような小さな物から、10tクレーン車のような大型重機まで多数の商品を取り扱う。それらをすべて整備できるほどの知識や資格が必要になる。覚えるべき知識は山ほどあった。
 身体的に辛いのは事実だった。だが現役時代の水泳の練習に比べたらまだマシな方だ。辛い時こそ歯を食いしばり、耐え抜いた先に成長があることを、俺は経験的に知っている。幼少時代から幾度なく繰り返してきた。
 ミスを犯し、上司に叱責を受ければ躊躇なく頭を下げた。相手が取引先の場合は土下座だってした。同期から「お前にプライドはないのかよ」と嘲笑された。言われなくてもプライドはあった。同期に負けている事実が悔しかった。無能な自分が憎かった。生来負けず嫌いな俺のプライドが許さなかった。だからこそ、必要に応じてプライドを捨てた。
 何度も失敗を繰り返し、その度に原因と対策を考えていった。しかし失敗の回数は一向に減らなかった。取り扱う商品の数が膨大だから、ひとつの失敗をクリアしても、また次の失敗が一歩先に待っているのだ。一歩踏み出す度に立ち止まって、知識を身につけていかなければならない。
 そう簡単に一人前になれるとは思っていなかったけれど、先の見えない道に目眩すら覚えそうだった。
 別段この仕事をやりかったわけじゃない。最底辺の大学に通っていた俺でも内定がもらえたから入社したに過ぎない。もしかしたら俺には不向きな業種だったのかもしれない。
 だが日数を重ねることで、会社を辞めたい気持ちは逆に薄れていった。俺の学習能力の低さや要領の悪さ、コミュニケーション能力の低さでは、どこの会社に行っても扱いは変わらないと思ったからだ。何より、やり切る前に逃げるのは癪だった。逃げるくらいなら負けた方がマシだし、それ以前に負けたくない。
 耐えるしかないのだ。歯を食いしばり、両足に力を込めて、愚直に進むしかないのだ。
 
 とにもかくにも、俺はひたすらに『凡人』を目指した。まずは凡人にならなければ、俺は星夜を見上げることさえ許されなくなってしまう。
 それだけは絶対に嫌だった。俺はもう、二度と星夜の隣に立つことはできないけれど、彼女を見上げてさえいられない人生に、いったいどうやって生きる意味を見い出せと言うのか。
 そこでふと、思う。
 俺は星夜との絆を保つために水泳を続けてきた。初めて星夜と異なる道を進んだ大学では、星夜を忘れるために遊び倒した。そして今では、星夜を見上げる免罪符を得るために歯を食いしばる日々を送っている。
 俺の人生ではどの瞬間を思い起こしても、その行動原理は必ず星夜に帰結する。星夜に振られてもう何年も経つけれど、俺の人生はいつだって星夜の色に染まっている。
 彼女の存在は俺の人生と同化している。そう考えるのは驕りだろうか。星夜は才能の研鑽だけを見据え、俺の存在などとっくに眼中から排している。俺が今どこで、どうやって生きているかなんて、微塵も考えていないだろう。
 それでも思うのは自由だ。おかげで、今の俺には安らぎはなくても救いがある。

 なあ、星夜。お前と出会ったことで、俺の人生は鮮やかに彩られたし、随分と苦痛にうなされもした。でも、俺の人生の指針はいつもお前に向いている。お前が向けてくれている。星夜あっての俺の人生だ。星夜と出会わなかった俺の人生など想像もつかない。
 俺が道を見誤ったことで、血を吐きそうなほどに後悔もしたけれど。
 お前と出会わなければよかった、なんて思ったことは一度もない。一度たりともないんだよ。
 高校1年の夏、星夜に別れを告げられたときは、ただ立ち尽くすことしかできなかったけれど。
 願わくは、お前に感謝の気持ちを伝えたい。そう、心から思う。



 学生と社会人では時の流れ方が全然違うとよく言うが、それは紛れもなく事実だった。
 桜が咲いたかと思えば猛暑が押し寄せ、紅葉が広がったと思えば雪が降る。目まぐるしく巡る季節の移ろいを横目に、俺は『凡人』を目指し続けていた。
 特に仕事のできない俺は、会社の戦力になるには人並み以上の努力が求められる。残業や資格試験の勉強に休日も返上してばかりで、年がら年中仕事のことばかり考えていた。
 サービス業であるため盆休みや年末年始でも会社は稼働している。まともな長期休みはない。
 ただ、年に一度か二度は氷山、細原と会っていた。向こうからたまに休みの予定を聞かれ、合えば彼らの家に招かれたり3人で食事に出かけている。氷山もサービス業のためなかなか休みがないのに、貴重な休日に俺を誘ってくれるのは素直に嬉しかった。原則仕事のことしか頭にない俺にとっては唯一の息抜きとなっていた。
 しかし、ある日を境にふたりとしばらく会えない日々が続いた。
 子どもが産まれたのだ。男の子で、『七海ひろみ』と名付けられた。優しさと雄々しさが感じられる良い名だと思った。たまに少々の時間だけ会えたときに話をすると、親になった苦労や子どもの成長の喜びを嬉しそうに語っていた。
 能動的に生きようが惰性に任せて生きようが、世界は誰にでも平等に回る。俺にとっては何の変哲もない日常でも、世界のどこかでは誰かが誕生日を迎えて幸福を感じていたり、飢餓や病気によって絶望している人もいるのだろう。

    終わりの見えない辛い日々だと思っていたが、転機は唐突に訪れる。
 いつまで経っても成長を実感できないまま会社の後輩が増え、徐々にひとりで仕事を任されるようになっていく。自分ではまだまだ半人前だと思っていたのだけど、気付けば上司から罵られることはなくなり、同期の誰よりも功績を残すようになっていた。
 功績は実績となり、実績は評価となる。俺を雇ってくれた社長が定年を迎えて退職する年度末、役職者がひとつずつ繰り上げられ、空いた一番下の役職のポストに上司を差し置いて満場一致で俺が推された。
 何の冗談だと思って固辞したが、
「矢式の並々ならぬ努力はみんな認めている。どんなに失敗を繰り返しても腐らず、ひたむきに勉強する姿には私も心を打たれたよ。若い社員には君の背中を見て育って欲しいんだ」
 自分が認められていたのだと初めて知って、涙が出そうになった。自分は無能なのだとずっと思っていたけれど、ようやく人並みに『凡人』を自称できるようにはなったのだろうか。
 満点の星空を見上げる度に星夜を思い出す。いつ見上げても輝きは不変で、それは俺にとって進むべき道を照らしてくれる希望の光だった。
 これで俺も人の上に立つ立場に来てしまった。星夜とは違って、誰でも手が届くような、ほんの少し高いだけの高さではあるけれど。この仕事が好きだとは思っていないし、やりがいだってこれっぽっちも感じていないけれど。
    ただ、仕事をひとつ覚えるごとに、お客から感謝の言葉をかけられるようになった。ありがとう、助かったよ。そんなささいな言葉で、仕事が楽しいと思える瞬間が出るようになった。
 今の俺が在るのは間違いなく星夜のおかげだ。俺の仕事でお客を助けられるならば、その場所で最善を尽くすのが俺にできる唯一の贖罪だろう。大好きな星夜に報いるためにも、俺はこの役目を全うしよう。

 やはり今回も星夜に起因する生きる意味を見出し、新たな決意を胸に仕事に没頭していた。残酷だと思えるほど瞬く間に春が過ぎ去り、今年も暑い夏が訪れる。
 そんなある日、氷山から一通の電話が入った。
「七海も3歳になってようやく手がかからなくなってきたし、久々にどっか遊びに行こうぜ! できれば海に行きてぇ! 今なら人もそう多くないだろうしさ。な、いいだろっ?」
 そうか。七海ももう3歳になったのか。会う度に大きくなったなぁと思っていたが、もう俺が水泳を始めた年齢に達していた。
 そして、俺と星夜が出会った年齢でもある。
 あれから26年の歳月が流れている。
 今は2028年8月。34回目の夏季オリンピックの真っ最中だ。
 次に氷山と休日が重なるのは8月24日。
 俺と星夜の30歳の誕生日を翌日に控えた日だった。
 
 
 特に感慨はない。星夜に振られてから、約束は絶対に果たされないと理解していた。
 その瞬間が目前に迫っていたとしても、予想通りの未来が訪れようとしているだけだ。
 あいつは果てしない高みにいて、俺は地にいる。その途方もない距離はどうあがいたところで縮まることはない。天地がひっくり返ることはあっても、くっつくことは絶対にない。
 30歳を間近に控えているのだ。有り得ない未来を夢想できるほどもう若くない。俺は現実を見ているし、受け入れている。
 それに、今の俺には氷山と細原と、七海がいる。過去の願いを引きずり続けている俺なんかにも友人がいて、その家族がいる。これ以上、いったい何を望むというのか。
 叶わぬ恋を願うのは自由だ。しかし、欲深な願いは罪だ。
 8月24日。俺は自分を律して、鳴り止まない蝉の鳴き声が震撼させる夏の外気に身を投じた。



 気が遠くなるほど澄みきった青空。地平線まで続く広大な海。呆れるくらいに照りつける真夏の太陽。
 大学時代は毎週来ていたけれど、社会人になってからは初めての海だった。
「どうだ七海! これが海だ! お前の名前でもあるんだぜっ!」
「すごい! 広いね! 青いね!」
 親子揃って大興奮だった。特に七海は初めての海だ。驚きと好奇心を抑えきれず、麦わら帽子を被ったまま海へ全力疾走を敢行しようとして細原に押さえられていた。海の恐ろしさを知らない七海への当然の措置だったが、それを尻目に氷山が父親としての模範を完全に放棄して海に向かって全力疾走をするものだから、七海が「なんでおとうさんはよくてぼくはダメなの!」と憤っていたのが何とも気の毒だった。
 その後氷山は細原に怒られていたが、数分後には3人がビーチバレーに興じていた。もちろん、俺もすぐにその輪に入って幸せの時間を分けてもらう。
 七海がビーチバレーに飽きると、氷山と一緒に砂の城を築き始めた。七海は海に入っている間は外していた麦わら帽子を再度被っていた。どうやらあの子のお気に入りらしい。
 細原は持参したパラソルに休憩に入る。俺も父子の時間を邪魔すまいと4人分の飲み物を買ってパラソルに引き上げた。ひとつを細原に渡し、ふたり一緒に蓋を開ける。
 海ではしゃいでいると異様に喉が渇く。俺たちは一気に飲み干した。
 少し離れた砂浜で氷山と七海が無邪気に笑い合っている。元々ガキっぽい節がある氷山は、七海よりも城作りに集中しているようだった。
 そんな微笑ましい光景を眺めながら、細原が何気なく言った。
「そういえばさ。星夜、また世界の壁を乗り越えられなかったね」
「そうだな」
「やっぱ日本人じゃ無理なのかなー」
「日本記録保持者であの結果なんだから、そう思われても仕方ないよな」
「そうだけど……なんか、悲しいよね」
「そりゃ感傷だろ。あいつが聞いたら怒るぞ」
「うん、そうだよね。ごめん」
 時刻は正午を回っていた。天気予報では午後から崩れると言っていたが、確かに辺りが少し薄暗くなっていた。いつの間にか灰色の雲が散見された。
 後に「どうする?」と氷山に尋ねたら「数年ぶりの海なんだ。嵐なんかで俺の情熱は消えねえよ!」と意気揚々に返された。まあ俺も4人での時間を堪能していたわけだから、氷山の意向を汲むことにした。

 昼食は細原が作ってきた弁当をパラソルの下で食べた。8年前に初めて彼女の手料理を食べてから、年月を重ねるごとに腕前が上達していっているように思う。率直に伝えると「そりゃあもう一児の母だからねっ」と誇らしげに胸を張っていた。本当に、頭が下がる思いだ。
 最初に食べ終えた俺は一足先にパラソルを出る。食休みがてら砂浜を歩いた。天気が悪くなってきたためか、海や砂浜に蔓延っていた人の大群が明らかに減っていた。
 この海水浴場の砂浜は全長600mほどでさほど広くない。数分も歩けば砂浜の端部まで着いてしまう。端部に辿り着いた俺は、座るのにちょうど良いサイズの岩に腰かけた。風が少し出てきたため海にはわずかに波が立っていた。
 空と海の交点、遥かなる世界の奥まで続く地平線に思いを馳せる。
 弓月星夜。彼女との約束が叶わぬものになって13年。あれから俺たちの距離はどんどん離れていった。俺はこの砂浜で、かつての仲間の幸せを眺めている。彼女は遠く離れたオリンピックの開催国で、愚直に磨き続けてきた『才能』をいかんなく発揮している。
 つくづく思う。
 俺が生まれ持った『才能』には、果たしてどんな意味があったのだろう。
 保育園から高校に上がるまでは、星夜の気持ちを引き寄せられていた。しかし、その後は互いに辛酸を舐めさせられた。俺以上に星夜を苦しめてしまった。
『凡人』ならば誰もが羨む才能は、時として人を不幸に導くことを俺は知っている。いや、不幸という表現は不適切かもしれない。不幸という単語には必然性も蓋然性も混在する。
 俺の場合、水泳の才能は恋を呼んだ。一生終わることのない永遠の恋だ。だがこの恋は俺を堕落させた。そしてこの堕落が、氷山たちとの関係修復に結びつけた。
 才能によって始まった俺の物語は終盤に差し掛かっているのだろう。メインエピソードである星夜との恋物語は既に幕を下ろしている。今は氷山、細原、七海と時間を共にしているが、これはあくまで彼らの物語に登場しているに過ぎない。
 明日、30歳になって、俺の物語は完全に終わる。
 その瞬間を迎えた俺は、いったい何を思うのだろう。


 砂浜にサイレンが響き渡った。緊急避難指示だった。
 気付けば、風がかなり強くなっていた。波もだいぶ荒れてきている。南国ほどではないが、日本でも太平洋沿いの海辺では天気が急変することもあるという。
 氷山たちのもとへ戻ると、氷山と細原がパラソルを畳んでいる最中だった。
「お、矢式。どこ行ってたんだよ。雨はともかく風がこんなに強けりゃさすがに無理だわ。ぼちぼち帰ろうぜ。パラソルも飛ばされそうだったしな」
 断る理由はない。俺も片付けに加勢する。
「やだー! もっと遊ぶー!」
 七海だけが早めの撤収に反対していた。強風や荒れた海には全く怯えておらず、お気に入りなのであろう麦わら帽子を両手で押さえながら、海に向かって走り出す。辛うじて海水に足が付かない地点で細原に捕まるが、頑なにもっと遊ぼうと訴えている。初めての海が大いに気に入ったようだ。
 そんな七海に細原が必死に説得を試みるものの、一向に納得する気配はない。
「もうっ。言うこと聞きなさい!」
「いやだー!」
 とうとう細原が怒鳴りつけるも、七海も負けじと食い下がる。強風が吹き荒れる中での親子喧嘩は、不謹慎にも微笑ましいと思ってしまった。
「わがままな子だな。お前に似たんじゃないか?」
「バカ野郎。俺ほど大人にいい子ぶってきた子どもはそういねえよ」
「微妙に威張れるものじゃないな」
「木実に似たんだろ。あいつは思ったことは何でも口にするタイプだからな」
「子どもはそれが普通なんだよ。お前の幼少時代が薄気味悪かったんだろ」
「薄気味悪いとか言うなよ! いつもニコニコしてる超いい子だったぜ!」
「……やっぱ薄気味悪いよ、それ」
 細原は麦わら帽子を押さえている七海の腕を掴んで引っ張ろうとするが、本気になった子どもの力は意外と強い。どうしても加減してしまう大人と拮抗した力比べが続いていた。
 そういえば、と思って氷山に尋ねる。
「七海、随分とあの帽子が気に入っているみたいだけど、何か思い入れがあるのか?」
「ああ。あれは七海が産まれたとき、細原のお母さんがあの子にあげた物なんだよ」
「へえ?」
「木実が俺たちとの約束を破った時、親から勘当されたのは知ってるだろ?」
 頷くと、氷山は穏やかな笑みを浮かべて続けた。
「結婚する時にも挨拶に行ったんだけど、やっぱりまだ木実は許されてなかったんだよ。でも七海が産まれてさ、七海を抱いて報告に行ったら、あいつの両親が泣いて喜んでさ」
 俺には想像しかできないけれど。
 七海が産まれたのは3年前。つまり、細原が勘当されてから実に10年が経過している。
「長い間溝があったからな。七海のおかげで和解できて、木実も感極まって泣きじゃくってさ。いやー、感動的なシーンだったわ。俺まで泣けてきちゃったし」
「で、その時に贈られたのがあの麦わら帽子、と」
「そういうこと。何せ木実にとっては親子の絆の象徴だからな。あいつにちょっと嫌なことがあっても、あの帽子を見ると元気を取り戻すんだ。そんな感じですげえ大切にしてきたのは七海も見てきたからな。自然とあの子も大切にするようになったんだろ」
「うん。確かにいい話だな。納得もした」
 細原と七海の揉み合いは依然続いている。本当なら、さっさと終わらせることも可能だ。
 麦わら帽子を奪い取れば良いのだ。非道かもしれないが、あれだけ七海が大切にしているのだ、麦わら帽子を人質に取れば七海はあっさりと従うだろう。しかし、氷山からさっきの話を聞いてしまえば、細原がそんな手段を選ばないのは火を見るよりも明らかだ。
 所詮は大人と子どもの我慢比べだ。子どもの方が先に体力が尽きるのは目に見えている。そう時間がかからないうちに終戦するだろう。
 俺も氷山もそう高を括っていた。細原もおそらくはそうなのだろう。
 ーーその時だった。
 突風が俺たちを襲った。台風をも連想させる強風だった。
 背中に激烈な痛みが走った。大人ほど背丈のある看板だった。脚から力が抜け、俺は砂浜に伏した。
 同時に、その風は細原の手から七海の腕を引き離した。その風は七海の手から麦わら帽子を引き離した。
 その風は麦わら帽子を海上に運んだ。
 七海の反応は素早かった。一瞬で帽子が飛んでいった方向に体を向ける。最小限の動きで砂を蹴る。上半身を屈める。伸びた細原の手をかわす。恐怖心などまるで見せずに海に突っ込む。
 テニスで磨いた氷山の反射神経を垣間見た。正義に憧れていた細原の勇猛心を垣間見た。
 そんなものが大自然の脅威に敵うはずがなかった。

 七海が、たちまち荒れる海に呑み込まれた。

「七海いいいい!」
 慟哭にも似た絶叫。細原が本能の赴くままに海に飛び込もうとする。
 今度は氷山がテニスコート上で見せる現役さながらの動きを見せる。海水が細原の腰まで浸かったところで彼女の腕を掴んだ。
「放してよっ!」
「んなわけいくか! お前まで死にに行くのか!」
「七海がもう死んだみたいに言わないでよっ!」
「そうは言ってねえ! でも俺たちにはどうもできねえだろ! 係の人が騒ぎに気付いている。すぐに救助に出てくれるから待つしかねえんだ!」
「そんなのじゃ間に合わないよ! こんなに波が強いんだよっ!」
「んなことはわかってるよ! でもしょうがねえだろ!」
 本音じゃないのはすぐにわかった。確かに救助の準備が始まったようだが、本心では一秒でも早く七海を助けに行きたいだろう。自分の手で救い出したいだろう。
 だが、氷山の言葉は正論だ。こんなに荒れた波で素人が飛び込んでも巻き込まれるだけだ。
 一方で、細原の気持ちにも同感だ。愛する我が子が海に呑み込まれたのだ、なりふり構わず追いかけるのが、究極的には親の使命でもあるのだろう。

 ーーでもな。

「落ち着けよ、細原」
 細原は、こんなところで死んじゃいけない。
 まだまだ七海を育てなきゃいけない。氷山を支えてやらなきゃいけない。
 細原を愛して、必要としている人がいるのだ。
 俺なんかとは、違うのだ。
「ちょっとだけ、待ってろよ……」
 声を出すだけで背中が軋むような痛みが走った。それでも歯を食いしばって立ち上がろうとして、立ち上がれなかった。背中が痛かった。背骨がやられたのだろうか。でも、そんなものは大した問題じゃなかった。俺は再度立ち上がろうとして、やはり立てなかった。
 今度こそ、と全身全霊の力を込める。立ち上がれた。立ち上がるのがやっとだった。産まれたての小鹿のように全身が震える。体が棒になったようだった。
 ふたりは驚愕の表情で目を見張っていた。俺はそれをスルーして海面に入る。一歩、一歩と、牛歩のように足を進めていく。その度に背中を鉄パイプで殴られているような痛みが襲う。一向に構わない。歩かせてくれるのであれば、痛みなどいくらでも受け入れよう。
「すぐ、連れ帰って来るからな……」
 不思議と落ち着いていた。死地に向かうようなものなのに、心が全く乱れていない。この先に七海が溺れていて、必死に助けを呼んでいると思うと、むしろ早く行かなければと気持ちが奮い立つ。
「矢式!」「灯火くんっ!」
 背後からは制止の叫び。
 構いやしない。俺は、お前らが思っている以上に、お前らに感謝しているんだよ。
 堕落の一途を辿っていた俺を救い、優しさに満ちた幸せを分けてくれた。
 恩返しというわけではないけれど。
 たまにはふたりの力になってやりたい。そんな程度の気持ちは、しかし俺の背を押すには十分すぎる理由で。
 まるで月の引力に吸い寄せられるように、俺は海に入った。


 予想を遥かに超える激痛を伴った。背骨が何度も折れていくような感覚。命そのものを削られているような気がした。しかし俺に、それを苦しむ暇はなかった。
「ぬぁ、あぁぁああああ!」
 声を出す。声を絞り出すことで、限界以上の力を引き出そうとする。今こそ限界を越えなければ、七海を助けてやれない。
 海水が頻繁に目に入る。そのたびに染みて目をこすりたくなったが、そんな余裕はなかった。両手とも泳ぐために使っている。痛みを庇いながら泳いでいるのだ、他の役目に回そうものならあっという間に波に呑まれてしまう。それに目だけではない。鼻にも、口にも海水が浸入を繰り返す。鼻の奥が軋む。喉だって悲鳴を上げている。それでも俺は、手と足を動かす。
 海面は波が暴れているが海中の視界は比較的クリアだ。波の動きから七海が流されたであろう方向を想定し、痛みを堪えながら向かっていく。
 見つけた。砂地の底に沈んでいた。俺はすぐに泳ぎ寄って七海を抱える。当然ながら意識はないが、ひとまず発見できたことに安堵する。
 すぐに気持ちを切り替える。最大の困難は陸に戻ることだ。海の波は陸から沖に向かう。つまり、ここから先は波に逆らい続けなければならない。それも七海を抱えたまま、だ。
 できない、ではなく、やらなければならない。やらなければふたり揃って死ぬのだ。
 手足が痺れる。体が鉛のように重い。頭が割れそうだ。背中が破裂しそうだ。血が煮え滾っているのがわかる。心臓はとっくに限界を超えている。死がすぐそこに迫っている。だが俺は、目の前の死に目を向けない。
    俺が見据えるのは、その先にあるもの。
 氷山と細原が、笑い合う未来。俺を救ってくれた恩人の、幸せな日常。その日常に七海は不可欠なのだ。七海がいなければ成り立たないのだ。
 俺は彼らの幸せを、心の底から願っている。
 それなのに、
「星夜……」
 この期に及んでも尚、口をつくのはその名前だった。
 ここは海だ。プールと違って波があり、まして今の海は荒れている。救命ボートを出しても思うように操作できないだろう。
 だが俺は、荒れた海で泳ぐ術を知っている。これまでも荒れた海で泳いだ経験があった。
 大学生の時だ。堕落していた俺は遊び倒していた。夏は毎週のように海に行っていた。中には台風の日もあった。海水浴場は閉鎖していたが、馬鹿だった俺たちは構わず海に入った。他の連中には無理だったが、水泳を経験していた俺はすぐにコツを掴んだ。もちろん、いつ死んでもおかしくなかった。もし死のうものなら、世間から盛大に罵倒を浴びただろう。
 しかし、どうだ。今ではその経験が活きている。
 活きているよ、星夜……!
 お前に振られて以降、俺の人生はどんどん狂っていった。才能が錆びつき、水泳を辞めて、生きる希望を見失って、惰性で生きて、堕落して。
 それでも、意味はあった。後付けになってしまうけれど。失恋して、堕落していた日々は、こんなにも大事なタイミングで活きる時が来たのだ。
 人生に無意味な瞬間などないーーかつての偉人がそう残しているが、今ならわかる。
 星夜に振られて、堕落したのは、きっとこの瞬間のためにあったのだろう。お前あっての俺の人生は、こんなにも出来過ぎた形で終わろうとしている。
 そう、終わるのだ。今日、8月24日を以て、俺の物語が終わる。
 明日に迫った、俺と星夜の30歳の誕生日。
 俺にとっての最初の恋は、最後の恋として終わる。星夜以外の女性を好きになる時なんて来ないことを、俺は確信している。
 30歳になり、星夜との約束が正式に果たせなかった瞬間を経て、俺の物語は終わる。そこから先は虚無の日々だ。俺と星夜を結びつけている『約束』が消失すれば、星夜を想う度に、俺は惨めになっていく。叶わなかった恋の痛みが傷痕を鋭利に抉る。
 でもーーだからこそ、俺は生を実感して生きていけるのだろう。痛みほど自分の存在を自覚できるものはない。その痛みが、こんな俺でも人間らしく恋をしてきた事実を思い出させてくれる。
 結局のところ、やはり俺は星夜によって生かされるのだ。彼女と出会った瞬間から、俺はもう星夜なしでは生きられない体になっていたのだ。
 俺の恋は、もうすぐ完全に終わるけれど。
 叶わぬ恋から、叶わなかった恋になるけれど。
『才能』がもたらしてくれた星夜との出会いに悔いはない。

 彼女に出会えて、本当に良かった。


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