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10 まどうひと 二

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 エルコートの街は、アンガスよりも明るく目に映った。
 それはようやく旅を終えようとしている高揚のためだけではなく、石材の色のためもあるだろう。乳を入れた紅茶のようなまろやかな色の石が、大通りから建物まで広く使われている。窓辺には格子があるのはアンガスと同じだが、そのどの格子にも、可愛らしい釣り籠がぶら下がっており、鳥の餌場になっているのか小鳥が集まっている。また壁面には落ち着いた色合いで古い土着の紋様が描かれ、華やかだ。
 賑やかに人の行き交う通りと、馬車や馬の通る道は分かれているらしい。ちらちらと垣間見える商店街は、色鮮やかな日除け布が張り巡らされ、老若男女と荷馬と荷車がひっきりなしに往来しているようだった。
 滑らかに走る馬車は、そのまま街を抜け、坂を登る。大きく湾曲した道が、高い塀に遮られたところに、見事な彫り出しの石門があった。扉は開け放たれ、少なくはない人間が出入りをしている。馬車もまた、止められることなく、門を通過した。
 そのまま、領主の館、というよりは城の表へと向かう馬車の中で、レーヌがミリアンネの姿を整えてくれた。ベールは外してある。すでにミリアンネは既婚者であり、ここはすでに旅路ではなく、ミリアンネの居館ともなる地だ。
 色鮮やかに見える世界に、胸が高鳴る。
 クラークと久しぶりに会える期待も、また、常ならぬ緊張をもたらした。
 馬車が止まり。
 ミリアンネは、開いた馬車の扉から、逸る気持ちを抑えるようにして、そっと外をうかがった。

「ようこそエルコートへ。そして、セーヴィル家へ。歓迎しますよ、ミリアンネ」

 初めて会う、大柄な女性が、満面の笑みを浮かべて、そこにいた。
 クラークの母だと紹介を受けて、一瞬、挨拶の口上が消し飛ぶ。
 言い訳をすれば、結婚した妻を迎え入れるときに馬車の扉を開けるのは夫だというのが定番であるし、完全にそう思い込んでいたミリアンネは、どんな表情をしようかとそわそわしながら顔を出した。
 まさか。
 夫の代わりに、義母が、しかも玄関前までどころか、馬車の降り口のすぐそばまで来て、出迎えてくれるとは。想像を超えていた。
 そんな固まったミリアンネを気にする風もなく、マーズは、両の腕を広げて、ミリアンネを抱きおろしてくれた。おそらく、手厚く下車を手助けしてくれたのだろう。ただマーズは男性とも引けを取らないほどの長身で、ミリアンネはその腕の中にすっぽりと入ってしまう。
 結果、初対面の抱擁というには力強く抱きすくめられた。
 お互いに、相手の大きさに、驚きをもったようだった。

「おや、まあ、なんて可愛らしい。クラークったら、果報者ね。こんな可愛らしいお嬢さんを……。なのにまったく、朴念仁なんだから」
「は、はじめまして、お義母様」

 マーズはミリアンネの挨拶ににっこりとし、またもや口の中で息子に対して毒づいていたが、気を取り直して、親しくミリアンネの肩を抱き、屋敷へと誘ってくれた。玄関扉は大きく開け放たれ、ホールには使用人達がずらりと並んでいる。
 誰もが丁寧に頭を下げた。
 しかしやはり、クラークの姿はない。
 主だった者たちを紹介してくれたマーズは、最後に厳つい騎士二人を、ミリアンネに引き合わせた。

「……実は、とても言いにくいのだけど、クラークは昨日、恐ろしい勢いで、王都にむかってしまったの」
「まあ、そうなのですか」
「入れ違いになってしまって、本当に申し訳ないわ。でも、あなたのことをよくよく頼んでいったのよ。彼らもそう。当家の重臣の息子たち。護衛として、側に控えさせてほしい、とのことよ」
「護衛、ですか?」

 クラークが、いない。
 思いがけないことを聞いたミリアンネは、護衛をつけられると聞いて、もう目を丸くするほかはなかった。
 ミリアンネとて、貴族の娘だ。屋敷にはたくさんの私兵が警備を固めていたし、どこかへ出かける時には完全に一人で動くことはなかった。けれど、ミリアンネの専属の護衛という存在はなかったのだが。
 騎士たちは、生真面目な顔で挨拶をし、城から出る時には必ずどちらかに声をかけるよう、丁寧に説明をしてくれた。城内でも、家族のスペースから出る場合は、なるべく側にいたいようだ。
 そこまで、必要なのだろうか。
 考えてもわからないので、ミリアンネは、頷くしかない。

「わかりました。どうぞよろしく」

 護衛を二人従え、マーズの後ろについて城内を歩く。
 城、という呼び名に実にふさわしい。その構造は王都の貴族の屋敷とは大きく異なり、柱も壁も、すべてが紅茶色の石造りな上、要所要所を鉄で補強しているようだった。防御力は砦ほどに高そうである。いかにしてつくったのか、壁には一切の継ぎ目が見えない。
 壁は厚く、そのままではさぞ、上から横からの圧迫感があるだろうのに、感じさせないほどに天井が高い。壁には武具の類や、合間にタペストリーがかかり、重厚な空気を緩和させていた。

「滞在してもらう部屋はここにしたの。自分の部屋だと思って、寛いでちょうだいね」

 案内された先は、三階の角部屋。おそらくは、屋敷でも最上級の部屋だろう。ーー客間としては。
 嫁いできたつもりが、客間に案内され、歓迎されていないのだろうかと少しひやりとしたが、部屋の内装は明らかに新しく、そして、可愛らしい意匠が施された家具も入れられており、ミリアンネのために用意されたのだとわかる。
 もしかして、客間のようでいて、夫婦の部屋なのだろうか。
 しかしマーズは、にこやかにその疑問を潰した。

「クラークや家族の部屋は下の階にあるので、なんでもわからないことがあれば、聞きにきてちょうだい」

 疲れているだろうから、夕食まで、少し休んでね。
 労わる言葉を残してマーズが去り、レーヌと取り残されて。

「え、っと、まだ、私はお試し期間って感じなのかしら?」

 もしかして?
 レーヌは、懸命にも黙したまま、主人を休ませるべく、動き始めた。

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