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13 まどうひと 五

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 到着したときから、この客室のクローゼットには、侯爵家から持参した多くのドレスや宝飾品がきちんと収納されていた。丁寧な扱いをされていることはよくわかる。けれど、馬車十台のうち、ミリアンネの個人の品が、八台分。その二割にも満たない量だ。出立時に確認した、幾つもの品が、見当たらない。そして、ミリアンネにとってはドレスよりも大切かもしれない、テラリウム関連の品々が、一つとして見当たらないのだ。
 婚姻時の取り決めによってミリアンネの個人の品は、セーヴィル家に入った後もミリアンネの個人資産となる。当然、その所在を確認する権利はあるのだが。
 ミリアンネがマーズにその話をするのを躊躇う理由は、レーヌにもわかる。
 セーヴィル家は、まだ、ミリアンネが安穏と思うままに過ごしてよい場所ではない。

「ウェイが一度は確認しているものを、蒸し返すのもよくないし。婚姻の贈り物として受け取られてしまうような品ではないし。捨てられてる……なんてことは、ない、と思うし。ここが客間で、収納の部屋が足りなかったのかとは思うけど、何日も案内すらされないなんて……。もしかして、クラーク様はいいっておっしゃったけれど、ここでは、テラリウムなんて、認められないのかも。そう、だって、だって、王都とは違うし。自然は溢れているし、わざわざ箱庭なんか、いらないって思うのかも。辺境伯夫人として相応しくないと思われて、封印されちゃったのかも——」

 めそめそ。
 どうやら、行方知れずのドレスやアクセサリーよりなにより、テラリウムのことが気にかかるらしい。
 ぐずぐずと暗い顔をする主人は気の毒だが、レーヌからは救い様がない。それに、あり得ないのではないだろうか。王都では、ミリアンネの作るテラリウムは、同じ重さの宝石と交換する、とまで申し出られる代物だ。しかも、こぞって貴族位の高い顧客がミリアンネを尊重するので、無理強いはご法度とされ、もはや、幻のような扱いをされている。
 たとえ、王都と距離があって、価値観や考え方に差異があろうと、この国の貴族として在る家で、その重要性が認められないはずはない。
 のだが。
 価値がわかっていない最たるものが作者だということに、レーヌは気が抜ける思いだった。

「美味しいお茶を入れましょう。厨房の方達は、王都からのお土産をとても気に入ってくれたようですよ。今日も、食べ応えのありそうなお菓子をいただきましたよ」
「レーヌの入れてくれるお茶は、美味しいわ」
「ありがとうございます。暗い顔をしていては、美味しさは半減です。少しでも楽しいことを考えましょう。……そう、クラーク様から、お手紙が来ていたではないですか」

 気を取り直したミリアンネは、窓際の書卓から、今朝方、執事が届けてくれた手紙を取った。父侯爵からの、もはや抱えなければならなそうな分厚い手紙と、もう一つ。

「お返事をいただいたけれど、よくわからなくて」
「放置する謝罪とか、待っていてくれとか、ないのですか?」
「あまり書けない内容のようね。とてもお忙しいようよ。あとどれほどで帰れるかも、わからないみたい。護衛の方達から離れず、何かあればお義母さまのご判断に従うように、って、二度ほど書いてあるわ。急なことで説明もできず、すまない、とも」
「さようですか。会いたい、とか、甘い言葉なないのですか?」

 思わず、ミリアンネはレーヌから目を逸らして、そっぽを向いた。

「会いたい、とは書いてあったわ」
「一応」
「一応って言わないでよ、レーヌ。クラーク様にしては、言葉を尽くされていると思うわ」

 ふふ、っと笑ったミリアンネに、レーヌは呆れたよう息をついた。

「それはようございました。では、お茶を入れましたので」
「ありがとう。レーヌも座ってね」
「はい、ご相伴いたします」

 退屈を持て余しながらも、その日は静かに過ぎたのだった。
 状況が少し変わったのは、その翌日、よく晴れて風も落ち着いた日。
 部屋に備え付けられていたたしなみ程度の刺繍の道具で、白布にひたすら室内のタペストリーの縮小版を刺して、暇を紛らわせるのも限界に近づいていた頃だ。
 食事は食堂でとるようになっているが、ロジエンヌは部屋にいることが多く、マーズは忙しそうで、食堂で顔を合わすことは二日に一度程度だ。
 そういえば、と思い立って、うろ覚えながら、ロジエンヌの抱えていたウサギのぬいぐるみに似せた指に乗るくらいのぬいぐるみを作って、贈り物として使用人に言付けたが、特に反応も返ってこなかった。
 マーズの手伝いなりできないかとやんわり尋ねてみたが、クラークが帰ってからで良い、と慈愛に満ちた顔で言われてしまった。
 そんな昼下がり、食後にサンルームでぼんやりとしていると、珍しくマーズが急ぎ足で近づいて来た。

「ミリアンネさん、見せたいものがあるの」

 やや興奮しているマーズに連れられて、ミリアンネは厩にやって来た。
 案内してもらった時に、厩役をはじめ、馬丁や調教師、その見習いの少年たちのことは見知っている。かれらがずらりと並び、マーズと同じようにきらきらした目でミリアンネを待っていたので、なんだか緊張した。

「今朝、ようやく到着したのよ。会ってちょうだい。貴女の馬よ」

 あなたの、馬よ。
 馬。

「は……い……?」

 戸惑うミリアンネの前に、厩の中から、美しい黒馬がひかれてきた。
 圧倒される体躯は、同時にとても優美だった。濡れたように艶のある体、豊かな黒鬣、強健そうな脚。尾は豊かで長く、ゆっくりと振れて地面を擦りそうだ。
 惚けて見ていたミリアンネを呼ぶかのように、ブルブル、と馬が低く鳴いた。はっとして顔を見れば、両耳をひたりとこちらに向け、ミリアンネを見ている。
 落ち着いている馬の様子を見て、馬丁が、ゆっくりと馬を引いて寄って来た。
 近づくとさらに際立つ、大きさ、重量感、そして、匂いと熱量。
 ガツ、と蹄で土を蹴って立ち止まった馬は、驚くほどたくさんの長いまつ毛の奥から、黒曜のような目にミリアンネを写していた。
 ミリアンネとて、侯爵家で最低限の乗馬の訓練は受けている。だから、馬がそっとその鼻面を近づけて来たときも、落ち着いて、顎の下をそっと撫でながら、自分の匂いを教えてやった。
「一昨年の春に生まれた牡馬なのですよ。名前はベラ。ねえ、クラークより格好いいでしょう?」

 マーズが冗談を飛ばす。
 確かに、ミリアンネは、ベラにごっそりと心を持って行かれたような気持ちがした。

「本当に、綺麗な子です。……こんな立派な馬に私が乗っていいのでしょうか。ほかに、ふさわしい乗り手がおられませんか?」

 後半は、あまりにベラが見事であるために、聞かずにはおられないことだった。
 絶対に、自分には過ぎた馬だ。

「ミリアンネさん、まだ実感はないかもしれないけれど、貴女はすでにこのセーヴィル家の女主人なのですから、貴女以上にふさわしい乗り手はいないのよ。それに、ここでは皆、それぞれに愛馬を持っているから。
 ーーベラは、貴女が、大事にしてあげてほしいのです」
「ーーはい」

 ミリアンネは、ベラを見る。
 ベラは、こたえてミリアンネに注目する。機嫌はよさそうだ。

「ベラ、私はミリアンネよ。よろしくね」

 そっと鼻面を撫でると、ベラは鼻を伸ばし、ぶるぶると低い声を出した。

「お互い、気に入ったみたいね。甲斐があったわ! ではミリアンネさん、女主人のお仕事は、クラークが戻ったら順々に引き継いでいきます。それまでは、毎日、ベラに乗ってお庭を一周しましょうね」

 にこり。
 何を言われたのか、一瞬分からない嫁に向かって、義母は高らかに宣言した。

「何事も、まずは体力からよ」


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