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滴り落ちる

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 ガゼオを艶々にして満足したユーラが気がついた時には、すっかり自分も花蜜まみれだった。髪の毛の先や衣服の袖先は絞れそうなほどだ。慣れ親しんだものよりも濃く甘い匂いに、酔いそうになる。
 このままケールトナの部屋に戻るとあちこちの床を汚してしまいそうだと、湖まで下りて髪を洗って。きっとこの時には、花蜜に酔っていた。
 匂いは微かなものになった。だが髪の毛からはぼとぼとと水が垂れるので、結局、あちこちの床を水浸しにしてしまうだろう。そこでしまったと思っても、まあ遅い。ケールトナに叱られるなあ、とぽやん、と考えた。
 だが、やってしまったものはいたしかたない。時間も限られているから、叱られることは気にしないことにした。

 できるだけ袖と髪を絞ってみた。花蜜の効果か、解いた髪が絡まることもなく、驚くほどしっとりと柔らかくい。これはいい、と簡単に捻って肩にかけただけで部屋へと向かった。
 一応、人目を避けようという意識があって、灌木の影に隠れながら歩く。なんとなく、ふわふわと足元が頼りない。警戒しようと思っても、端から意識が散漫になり、ケールトナの滞在する部屋が見えた時には、すっかりぼんやりとしていた。
 だから、気配を感じた時には、すでにその人は目の前の木の影から出てきて、こちらを凝視していた。

「ユーラ?」

 蒼い目が、自分を見ている。自分だけを。
 真白く険しい山の頂に、孤独に誇り高く在る雄鹿の霊獣と、目が、合った!
 鮮烈なその衝撃で、ユーラは返事もろくに出来ずに、立ち竦んでしまった。

「ユーラ、どうした?」
「え、あ、何か出て」

 リューセドルクが気遣ってくれたのは、ユーラの目から涙が溢れたからだろう。
 目から涙。涙? 何故涙?
 ちぐはぐした思考しかできずに、おかしな返答をしたユーラを笑うでもなく、不思議そうに見つめてきていたリューセドルクは、ふと周りを気にする素振りをしてから、自分の上着を脱いで掛けてくれた。それから、頬を柔らかなもので撫でられた。
 家族の誰にも、そんな羽根を撫でるように触れられたことはない。

「あ、りがとう」
「森ではそれは、涙とは言わないのか? 濡れた髪で外を出歩くのも、森ではきっと自由なんだろうな」
「うん」

 上着には温もりと、初めて感じる香りが残っていた。少しだけ霧立つ森の匂いと似ているだろうか。けれどもずっと、甘く感じる。それがじわりと体を取り巻くので、ユーラは会話が耳に入ってこない。ただただ反射的に返事をしていたので。

「香りが……」

 呟きを聞いた時、ユーラは自分の心の声かと錯覚した。
 一瞬遅れて、目の前でリューセドルクの口が動いたのを見たのを思い出した。では、香りが、と言ったのはリューセドルクで、香りの正体は? 自分だろうか。

「あ……花蜜がまだ残ってるのかな」
「花蜜? 森の? とてもよい匂いだ」
「あ、うん。森の花蜜。塗るとその人やもの自身の匂いの効果を高め……」

 ユーラが口をつぐんで。
 二人は目を見合わせたまま、じわじわと顔を赤らめた。特にユーラの白い肌には、胸元から耳の先まで鮮やかに強く、赤みが差した。それこそ、リューセドルクの視線を惹きつけてしまうほどに。
 蒼い目が逸れたので、なんとなく詰めていた息を吸って吐いて。ようやくユーラは、髪を濡らしたままの姿は、人に見せる格好ではない、と人の国では考えられていることを思い出した。掛けてもらった上着は大きく、腰回りまで覆われていた。ただ前合わせは開いていて、自分の長い髪をかき寄せるようにしてそこを隠したのは、何故だろう。
 森では気にすることは何もなかったから、ユーラにはその理由は、しかとはわからなかった。

「失礼」

 何故かリューセドルクが謝罪をしてきたので、ユーラは二、三度瞬いてから、いいえ、ととりあえず返事をした。
 そう、なにも問題はないはずだ。なにしろ、彼は対の星であるのだから。ユーラが彼に明け渡せないものは、何ひとつないのだ。
 幾度か、二人を風が吹いて。
 沈黙が、ユーラを少しだけ落ち着かせてくれた。

「……眠れた? 今は、忙しくない?」
「ああ、とてもすっきりした。今日は令嬢方との面談も中止になって、時間ができたから、今ガゼオの様子も見てきた」
「艶々してた?」
「とても。自信にも満ちていた。ユーラとケールトナには、感謝しきれないな。ありがとう」

 嬉しそうに笑ってくれて、誇らしいし、満足だし、何より幸せだった。
 そのはずなのに、ユーラの気持ちに、いつの間にか重石が乗っている。

「うん。よかった。じゃあ、王子はこれから宴の準備?」
「ああ、気は進まないが」
「宴って、何をするの?」
「挨拶ばかりだ。いつもと変わらない」
「そうなの? でも」

 なんともない言葉のはずなのに、少し喉が詰まって、間が空いてしまったのは、何故だろうか。

「王子のお妃選びの宴だって聞いたけど」

 返事がない。
 なんとなく今は蒼い目を見たくなかったから、ユーラは俯いていたのに。あまりに沈黙が長いのでユーラが見上げると、それに釣られたように、リューセドルクは片手でくしゃりと前髪を乱して眉を下げた。目元が少し赤いだろうか。泣きそう、いや、恥ずかしそうな?

「まあそうだな。王妃が勝手に招いただけの令嬢たちからは選ばないつもりだったんだが、もしかして、と思うと、やりたいことはあるな」
「そうなの。やりたいこと?」
「そう……」

 リューセドルクがもう一歩近づいてきて、ユーラは少し、緊張した。ケールトナがいるから、長身の人には慣れているはずなのに。ただ、ケールトナはこんなに丁寧に、ユーラの手をすくい上げたりはしない。だから、きっと自然なことだ。

「こうやって手をとって、挨拶をして、それから」

 リューセドルクのもう片手が、ユーラを閉じ込めるように回されて、背中の下の方にそっとあてられた。その手にばかり気を取られていたら、いつのまにか、目の前には布地一枚の体が迫っていて。そのまま、魔法のように軽やかに、ユーラはくるりとリューセドルクと位置を交換していた。

「これを音楽に合わせて何回も繰り返して、踊る。それから——」

 見上げると、とても近いところに蒼い目があって、いつもは冬の空のようにきりりと澄んでいる目が、どうしてか、溶けて自分に滴り落ちてきそうで。

「ユーラ、いい匂いがする」

 囁きが、まず落ちてきた。
 囁きをこぼしたその唇も落ちてきたのに、ユーラは吸い込まれたように蒼い目ばかり見ていて、気がつかなかった。
 蒼い色が視界いっぱいに広がった、と思ったら、ふと逸れたので、つい追いかけて顔を横に向けた。すると、頬に、ほぼ唇よりの頬に、暖かくて柔らかなものが押し当てられて。
 驚いたユーラがそちらに顔を動かした瞬間、ガツリ、と鈍い音がした。

「え、なに……?」

 よくわからずに、呆ける。リューセドルクが素早く離れて、口元を押さえているのが気になった。

「なんでもないよ、ごめん。ユーラは、なんともないだろうか?」
「う、うん、なにも……、え、王子はどうしたの? 何か、私が当たった?」
「大丈夫。問題ない」

 言葉通り、手をどけても、特に変わりがないように見えた。けれど、ユーラにだって、徐々にわかってくる。先ほどのは、もしかして、口付けだろうか。夫婦や恋人がする親愛の表現だと、森のおばばが騒いでいた、あの。
 なんとなく、歯に何か当たったようにも思う。まさか。

「ユーラは、宴には興味があるだろうか。もし」

 口付けに意識を奪われていたユーラは、耳に届いた宴という言葉に、弾かれたように飛び上がった。

「ユーラ?」

 訝しんでいるリューセドルクは、先ほどのようには距離を詰めてはこなかった。蒼い目も、もういつもの通り。静かで、晴れ渡っている。もう、あの溶けるような、心を騒つかせるおかしな気配は失われていた。
 もしかしたら、もう見られないのかもしれない。
 だって彼は、宴でやりたいことがあると言っていた。誰か令嬢を相手に、さっきのように手をとって、挨拶をして、近寄って、踊って、そして、見つめ合って口付けを、してみたいと。

「王妃さまに、招待はしてもらった」
「王妃に? 本当か? 何故だろう」
「わからない。でも招待してもらったから、参加する」

 沸き起こる、敵対心のような、負けん気のような。誰よりも大切な対の星なのに、ひどく傷付けてしまいたいような。ユーラには全く理解できないユーラの燃え立つ心が、参加の意向を叩きつけるように宣言して。
 すぐに気持ちは裏返って、今すぐにここから、リューセドルクの蒼い目から、逃げたくなった。宴からも。

「あの、でもやっぱり、やめるかも」

 参加して、もし、リューセドルクが他の女性に口付けているのを見てしまったら。それが妃となる女性だったとしたら。想像した途端に、怖かった。ケールトナを追いかけて、見知らぬ魔境と化した森を走り続けた時のように。とても大事な繋がりを、断たれてしまうかもしれないと、恐れたあの時の心細さは、忘れられない。
 対の星であるリューセドルクとの繋がりは、一生、失われないはずなのに。
 夫婦の絆とはまるで別のものだから平気だと、問題だとすら思っていなかったのに。
 独占欲というものなのだろうか。
 これほど激しく、身の内を暴れ回る強い気持ちがあるのだと、ユーラは今初めて感じて、慄いた。

「なぜ。やめるなどと言わず、どうか来てほしい。今も、気の進まない宴に参加したくなくて、せめて少しユーラの顔を見たくて、ここに来たのだ」

 真剣な顔で言われても、今は無理だった。
 自分のものとも思えない、暴風のように荒れ狂うどろどろとした苦しみが、そんなことを言われたら、急に端から花吹雪のように舞い散って視界を埋め尽くす。地に引き摺り込まれるほどの重たい心が、突然雲の上に放り上げられたようになって、付いていけない。しかも、その雲からいつ何時地面に向かって落ち始めるか、予想もつかないような、心許のなさ。

「うん、あの、準備があるから」

 結局。
 ユーラは脱兎の如く茂みに走り込み、リューセドルクも、身を潜めていたその護衛たちも反応できずにいる間に、さっとケールトナの部屋へと飛び込んで、ばたり、と窓を閉めたのだった。
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