上 下
30 / 33

~天狗と忍者と忍術と~

しおりを挟む
 昭和の時代、夏になるとよく貰ったりする物と言えば、銀行や商店の名前が入った手ぬぐいや団扇があった。お中元を贈るほどの間柄ではないが、夏の御挨拶としての粗品の類である。手ぬぐいの代わりに薄手のタオルというパターンもあったが、暑い季節に活躍するものだったので、各家庭に必ずあると言っても過言ではないおなじみの物だった。
「今日も暑いね…」
 大き目の団扇を手にした布袋さんが小料理屋に現れたのは、連日、寝苦しい夜が続くようになった夏の夕暮れ時だった。
「今日のおすすめは鱧の照り焼きだけど、どうします?」
 席に着いた布袋さんに冷えたお手拭きを差し出しながら女将が訊ねる。
「…そうだな、じゃあ、おすすめと冷酒」
 お通しのタコときゅうりの酢の物の小鉢に目を細めながら布袋さんが注文を出す。
「——珍しいですね、名前が入った団扇なんて」
 いつものように店の奥に陣取っていた天狗さんが、布袋さんが持ってきた団扇を目にして声を掛けた。
「今年のご挨拶に差し上げる為に作ったやつでして」
 屋号が印字された団扇を天狗さんに見せながら布袋さんが笑う。
「昔はよく貰ったけれど、最近は貰わなくなったね」
「うちは毎年団扇と手ぬぐいをご挨拶に配りますが、確かに最近は貰う事が無くなりましたね」
 その原因は景気などの関係もあるのかもしれないが、エアコンの普及の影響も大きいのかもしれない。
「酢飯を作る時に団扇で扇いで冷ますから必需品なんだけど、みんなどうしているのかしら?」
「扇風機を使うんじゃないですか? 酢飯を家で作る家自体が少なくなっているのかもしれませんが…」
「酢飯を冷ます時にはただ冷やせばいいってものではなく、風の揺らぎが大切なんだけど、扇風機じゃ…」
 布袋さんの言葉に唸る様に女将がぶつぶつ言っていると、天狗さんが「今の扇風機には揺らぎ運転モードがありますから」と笑う。
「そんな機能が最近の奴には付いているの?」
 意外そうな表情で女将が天狗さんを見る。
「昔の扇風機は風の強弱と首振り機能しかありませんでしたが、今の奴には冷暖房の両方の機能をもっているやつとか、高機能ですからね」
「ああ、羽が無い扇風機とかあるものね」
 家電量販店で不思議に思って立ち止まって覗き込んだと笑う。
「私は扇子派ですね…折りたたんで持ち歩けるので」
 懐から天狗さんが紳士用のお洒落な扇子を出して見せる。
「扇子は粋でいいですよね…最近の若い子はハンディファンとかいう、手持ちの小さい扇風機を電車なんかで使っているのをよく見かけるけど」
 ハンディファンは便利かもしれないが、女将的には無粋だと感じるらしい。
「団扇も扇子も電池切れの心配がないからなぁ…夏には手ぬぐいを首に巻いて、団扇で扇いで涼むってのが毎年の定番スタイル」
 布袋さんは昭和の親父ファション派らしかった。
「団扇と言えば、昔は八手がよく商店の入り口とか庭先に植えられてましたよね」
「ああ、天狗のうちわって言われてるやつね」
 女将の話に天狗さんが相鎚とうつ。
「八手は魔よけ効果があるとか、金運を呼び寄せるって言われているね」
「子供の頃は八手を見ると天狗を連想したけど、あれ何だったんだろう?」
 布袋さんが首を傾げていると、天狗さんが「大天狗が持っていると言われている羽団扇に形が似ているからだと思う」と言う。
「確かに絵本や日本昔話なんかで見る天狗は必ず持っていたもんなぁ」
 三つ子の魂百までではないが、絵本やアニメを見た幼い頃の記憶は刷り込みにも似た思考回路を形成するのかもしれない。
「子供の頃は八手の葉で空を飛ぶことが出来るって思っていたよ」と、天狗さんが懐かしそうに語ると、布袋さんが「あ、僕もやりました。親父の高下駄を履いて生け垣の上から八手を持って飛んで…落ちました」と言ったので天狗さんは声をたてて笑う。
 特撮ヒーローなどいなかった時代、不思議な神通力を持ち、自在に空を飛ぶ事が出来た天狗は子供たちのスーパーヒーローみたいなものだったのかもしれない。
「天狗は中国発祥と聞くけれど、日本の天狗とは全く別物よね」
「中国の天狗は吉凶を告げる流星の化身で、日本の天狗は修験道者がモデルだとか…僕みたいに顔の彫が深いから漂着した外国人だったって説もあるね」
 そう言って天狗さんは自分の顔を指さす。
 修験道は日本古来の自然信仰の神道と仏教、山岳信仰を融合させた一種の宗教で、役小角が開祖と言われるものである。厳しい修行を積み重ねた修験道者は神通力を持つとか険しい山々を素早く移動すると言われている事から、同じような能力を持つ天狗と同一視されていったのではないかと推測する研究者も多い。
「鞍馬山の天狗が好きだったなぁ」
「ああ、牛若丸に剣術を教えたと言われる大天狗ですね」
 牛若丸の弁慶の攻撃をひらひらと身をかわしたという描写があり、大天狗直伝の秘術というのも興味深い話である。
「身軽だったり不思議な技を使うと言えば、忍者も似たような技を使いますよね」
「忍術は修験道の思想を取り込んだものなんだからそれが当然だろうね」
 天狗さんの言葉に女将と布袋さんは意外そうな表情を浮かべた。
歴史小説が好きなのが高じて、忍者や修験道について若い頃に興味を持って調べたことがあるんだと天狗さんが笑う。
「忍者も子供の頃の憧れだったけれど、そういう共通点があったのか」
 常人では考えられない様な身体能力や不思議な力を持つ存在という者は、いつの時代も人を惹きつける魅力があるのだろう。
「海外でも忍者は人気がありますよね」
「昭和の海外での日本のイメージは富士山、侍、寿司、芸者とハイテク技術が共存する不思議の国だったし、忍者もまた不思議な技を駆使するから、興味を持つ人も多かったんじゃないかな?」
 最近ではアニメーションや漫画などのサブカルチャーが海外で人気なので、日本に興味を持って旅行にやってくる外国人も増えたのは嬉しい事であるが、来日して想像していた日本とかなり違う事にショックを受ける者もいると言うから笑えない話でもある。
 そんな話をしていると、天狗さんが「仲良くなった外国人に得意の忍術を見せてくれって言われる事が一番困るんだよな」と苦笑いを浮かべた。
「忍術⁈」
 びっくりした様子で布袋さんが訊き返すと、「日本人の男はみんな侍か忍者だと思われてる」と笑う。
「忍術かぁ…僕が使える忍術は狸寝入りぐらいかな?」
「狸寝入りって忍術だったの?」
 布袋さんのボケに女将が笑う。
「狸寝入りをして、嫁のお小言を忍ぶ術なので…」
 かかあ天下の家庭では、夫が自然に身に付けている忍術なのかもしれない。

――そんな無駄話で盛り上がる日本の夜は、今日も平和に更けてゆく。

しおりを挟む

処理中です...