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零ノ参 喫茶店にて

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 チリンチリン……。
 ドアを開けるとベルの音がした。
 ――こんな喫茶店、前からここにあったっけ?
 そんな疑問と出来心から、僕はその店に入ったのだ。大学からの帰り道、いつもここを通る。しかし、今まで気づかなかった。
 店に入ると、店員らしき若い女性が僕に微笑んだ。見渡してみると、彼女以外誰もいない。
彩斗さいとくん、いらっしゃい」
 なぜこの人は僕の名前を知っている?
 この店には1度も来たことがないし、この人とも会ったことがない。ただ、懐かしい匂いがした。ラベンダーの仄かな香り。
「……さあ、なんで知っているのかしらね」
 僕が声に出してもいないのに、彼女は答えた。曖昧に、だが。そしてそれはつまり、答えられない、踏み込むなということなのか。
 僕はそう思い、それ以上は訊かなかった。席に着き、とりあえずコーヒーとホットケーキを頼む。それが彼女の手に乗って運ばれてきて、僕は彼女に話しかけた。
「……あの」
「何?」
 彼女は、僕の向かいに座った。その時見えた名札には、“早女はやめ”と書かれている。
「この喫茶店の名前……どういう意味ですか?」
Rilascioリラッシオ……イタリア語で“解放”っていう意味よ」
 解放? そりゃまた一風変わった名前だな。
「あはは、やっぱりそう思うわよね」
 私もよ、と彼女は苦笑した。
 ……まただ。また、僕の考えが読まれた。
「私はまぁ、人の心の声が聞こえるからね」
 えっ、と僕は驚く。
「そのせいで随分苦労したのよ。まぁ、それも昔のことだけれど」
 そう言った彼女の顔に浮かんだのは、哀しみに満ちた笑みだった。
「……」
 僕が何も言えないでいると、彼女は両手で僕の頬を、顔を包んだ。その手は、――異様に冷たかった。
「ねえ、彩斗くん」
 意地悪そうに、彼女は微笑む。
「なん、ですか……?」
「後で苦しみながら死ぬのと、今ここで楽に死ぬのと……どっちがいい?」
 ――この人は、僕の過去を知っていてこう言っているのだろうか?
「ええ。私はあなたの過去を知ってるわ。自殺したいと思ってることも含めて、全てね」
 なら、と僕は声を上げた。
「今ここで……殺してください」
 自殺するのは、苦しいから嫌だった。だから今まで生きてきたのだ。その苦しみを、味わいたくないがために。
 でも、楽に死ねる方法があるなら、どうしてそうしないでいられるだろう?
「よく言ったわね。じゃあお望み通り、おやすみなさい。永遠に、ね……」
 その声の後、僕は少しずつ眠くなっていった。
 ああ、本当に苦しくないな……。
 僕は軽く感動を覚えた。
 その時に気づく。いつしか五感も薄れていたことに。
 ……僕が最後に見たのは、彼女の笑い顔なきがおだった――。

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